「こんにちは。」
4月の下旬。如月はとある店に入っていった。
「おや、如月の若旦那。ああ、ちょっと待ってな。」
店にいたのは50少し前の男である。如月の姿を見つけると店の奥のほうに向かって『父さん、父さん』と呼びかけた。その声に、奥のほうからは随分としわがれた声で『あいよ』などという返事がある。
「すぐに来るからね。…今日はなんだい?掛け軸かい?茶碗かい?」
「いえ、今日は僕の方が…。」
そう言いかけると、店の奥から紬を着た白髪の男が風呂敷包みを持って現れた。
「若旦那、いらっしゃい。」
そう言ってにこやかに微笑むと店先に立っている如月の前に座って、手にした荷物を畳に置いて風呂敷包みを解いて見せた。如月もそれを合図にしたかのように、店の上がり框に腰掛けてその荷物を検分する。
「どうだい、こんなもんかね?」
「ええ、このくらいだと思います。」
満足そうにうなづく如月に、白髪の男も安心したように微笑み、また元のように荷物をまとめて風呂敷に包み、如月に渡す。
「ああ、それから。」
そう言って、男は如月に風呂敷とは別にしておいた紙袋を渡した。
「これは?」
「私からの気持ち、だよ。」
「しかし…。」
受け取れない、といった顔をする如月に、男は静かに首を振る。
「若旦那にじゃないよ。これは私から、あの子にだよ。いつも、元気良く挨拶をしてくれるし、年寄の話し相手になってくれているからね。」
自分にではないと言われてしまっては、如月も断ることが出来ない。如月は頭を下げると、荷物を抱えて店を出て行った。
家に戻ると如月は自分の部屋に入って荷物を置く。それから箪笥の前でしばらく考え込んでいた。そして、意を決したように一人でうなづくと、箪笥の引出しを上から空けて中を整理し始める。
如月は衣装もちではない。必要最小限の服しか持っていないし、あまり装飾のあるものも苦手である。今は大学に通うため、買い物に出かけるためにジーンズと白のワークシャツでほとんどを過ごしている。従って、箪笥の中は結構すかすかで、整理すれば引き出し1段分は余裕で空いてしまう。一番下の一段をそうやって空にしてしまい、中に敷いていた防カビシートを張り替えて、防虫剤を両面テープで貼り付ける。準備ができると、持ってきた荷物の包みを解いてそれを引き出しに仕舞った。
箪笥の中に収められたものを見て如月はふと思う。こうして、だんだんと龍麻の存在が大きくなる。僕の中で、何時の間にか龍麻はだんだんとその大きさを増していって、そのうちに僕は龍麻をなくしたら空っぽになってしまうのだろう。まるでこの箪笥のように。最初は1段だけの龍麻のものがそのうちにきっと増えていく。そうして龍麻のものがなくなってしまったら何も入っていないに等しいような箪笥になる。それほどに、僕は、龍麻のことばかりを考えている。
悪くはない。
如月はひとりごちた。
今まで陰鬱で、退屈だった毎日が龍麻と出会ってから忙しくも楽しい毎日になる。考えることなどなかった僕は毎日の時間をつぶすのに苦慮していたのに、今ではそんなことさえなくなった。
龍麻は何をしているだろうか、どうしたら喜んでくれるだろうか、どうしたらもっと笑ってくれるだろうか。のめりこむ。きっとこういう状態を言うんだろうなぁなんてぼんやりと考えている。昔だったらきっと、一人の女性のことばかりを考え続けることなど、きっと非難もしただろうし、呆れたに違いないのに、今ではその愚かささえ自分には楽しくて。
きっと、僕のこんな様子を見たらおじい様は怒るに違いないけれど、それでも僕は龍麻のことを考えるのをやめられない。
無であれ、中庸であれと教えたおじい様に、今ならきっと反論ができる。大事なもの、なくしたくないものがあるから、そのためにはなんだってできる、いくらだって強くなれる。僕は、龍麻をなくしたくはない。だから、龍麻のためだったらなんだってできるから。戦うだけじゃない。護るのは龍麻の笑顔。心。それを護るためにどんなことをしたらいいのか、いつも考えてる。
とりあえずは、これ。気に入ってくれると嬉しいけれど。
5月1日、土曜日は朝からいいお天気だった。午前中は学校で、午後から翡翠のおうちに遊びに来た。明日からはゴールデンウィークで、水曜日まで4日連続でお休み。こんなに長い休みは春休み以来だった。
「お店はずっと開店?」
私が如月骨董品店の定休日が日曜であることを知ったのは4月になってからだった。それまではあの事件のことがあったし、なによりも、いつ私が訪れてもいいようにわざわざ店を開けておいてくれたらしい。それは私が気兼ねなく来れるようにとの配慮からだそうだけど、そこまでしてくれる気持ちが嬉しくって、余計に好きになる。
「明日以外はね。でも開店時間は短くするけど。」
お茶菓子を食べながらふぅんとうなづいてカレンダーにちらりと目をやった。やっぱり、そうだよねぇ。自営業だからね。
「悪いね。どこにも遊びにいけなくって。」
そんな私の態度をつまらないと思っていると誤解したようで翡翠はすまなさそうな顔をして謝った。私は慌てて首を振る。
「あ、ううん。いいの。お店に来れば一緒にいられるでしょ?」
「でも、ゴールデンウィークぐらいはどこかに出かけたかったんじゃないのかい?」
「どこに行っても混んでるから、かえって東京にいたほうがいいんだよ。」
お茶菓子に出された柏餅を食べてしまうと片付けに台所に入る。お皿を洗いながら、やっぱり、気にしてるかもなんて考えていると、翡翠が何時の間にか後ろに立っていた。
「どしたの?」
「え、と。」
もごもごと何かをいいたげにしていている。やっぱり、さっきの気にしてるんだ。
「その、どこにも連れてってあげられないから、代わりに。」
そう言って翡翠は私の手を取るとゆっくりと歩き出した。廊下を奥のほうに行き、翡翠の部屋に入る。
「ここ。」
そう言って翡翠が指差したのは翡翠の使っている箪笥の一番下の引き出し。
「開けるの?」
「うん。」
滑りのいい引出しをそっと引くと、中には少し明るめの水浅葱色の浴衣が入っていた。それと一緒に青の半幅帯、腰紐が入っている。驚いて浴衣を手にとって見ると、水浅葱の地に流水紋。この生地には見覚えがあった。
「これ…。」
「ご隠居から聞いたんだ。」
如月骨董品店の得意客である近所の呉服屋の隠居のところにおつかいに行った時のこと。店先に飾ってあった浴衣の反物。水浅葱色が綺麗で、それにあわせたような流水紋が、まるで飛水みたいでいいなぁと眺めていたのだった。ただし、それは手書きで、値段もそれなりにしたのである。
「それと、下駄。」
そう言って翡翠が出したのはのめり下駄。黒塗りで蒼くって太い鼻緒がついている。これなら私みたいな下駄を履きなれない人間が履いても足を痛めることなどないだろう。
私は呆然と、目の前のそれらの品物を眺めていた。一体、全部でいくらするんだ、これ?
「ずっと、龍麻が見ていたって言うから。」
「だめだよ、翡翠。」
私の言葉に、翡翠は驚いたような顔をする。
「気にいらなかった、かな?」
悲しそうにきゅっと眉を寄せる翡翠に私は首を振った。
「すっごく欲しかったし、とっても気に入ったし、嬉しいけど。ダメだよ。こんな、高いものなんか買っちゃ。私なんかに、そんなにお金かけなくったっていいんだから。」
「でも…。」
「だって、誕生日でもなんでもないんだよ?なんでもないのに、こんなに高いものなんて貰えないよ。」
そう言うと、翡翠は悲しげにため息をひとつつく。
「僕は、ホワイトデーには忙しくってお返しもできなかったし、いつもお店で、どこにも連れてってあげられないから、せめて、その分を何かにして龍麻にあげたかったんだ。」
「一緒にいてくれるから、それで充分なのに。」
すると今度は翡翠が首を振った。
「もっと龍麻に喜んでもらいたかっただけなんだ。普通の恋人みたいにしてあげられないから、だから…。」
しょんぼりと、悲しそうに肩を落とした翡翠がなんだかかわいそうなのと、可愛いのとで私はこっそりと苦笑した。そこまで想ってくれるのは嬉しいんだけど。
「そんなに、いつも嬉しそうじゃないかな?」
突然の私の質問に翡翠が首をかしげる。
「え?」
「翡翠といるとき、私ってそんなに嬉しくないって顔をしてる?」
そう尋ねると翡翠はしばらく眉間に皺を寄せて考えてからふるふると首を振る。
「でしょ?」
「でもっ。」
言葉をつなげた翡 翠に今度は私が首をかしげる番だった。
「?」
「僕の自己満足かも知れないけど、何か龍麻にしたかったんだ。」
こうなると、もう翡翠は後には絶対に引かない。なにしろ、この人の頑固さは仲間内でも有名なのだ。やれやれ。
翡翠が一生懸命に考えて、それで贈ってくれた初めてのプレゼントだからありがたく貰うことにしよう。
「最初に甘やかすと、あとで苦労するんだから。」
そういうと、ようやく翡翠は笑った。
「あ、それから、こっちはご隠居から龍麻にって。いつも話し相手になってくれるからって。」
「えー?もうっ、ご隠居までっ。甘やかして、後悔したって遅いんだからねっ。」
そう言いながら袋をあけると、中からは帯と合わせた青の巾着がでてきた。
「わぁっ。これで、夏は花火見に行こうねっ。」
そういうと、翡翠はにっこりと笑ってうなづいてくれた。やっぱり私だって翡翠は笑ってくれていたほうがいい。高価なプレゼントは困っちゃうけど、たまにはいいか。そう自分の中で折り合いをつけるとぺこりと頭を下げた。
「ありがと、翡翠。」
「どういたしまして。」
「これね、欲しかったの。色も柄も、なんとなく翡翠に護られてるみたいでしょう?」
その言葉に翡翠の顔が真っ赤になった。
「それにね、ほら、翡翠って和服のときも多いから。夏の間はこれ着てれば、隣にいても大丈夫かなぁって。」
今度は驚いたように目を見開くと、次にはふんわりと優しく笑った。
「じゃあ、秋になったら袷を用意しよう。」
「もうっ!人の話、全然聞いてなーいっ!高価なプレゼント、禁止って言ってるでしょ。」
それでも、きっと翡翠は秋になったら着物を買うだろう。私のために自分で一生懸命に選んで。自分が詳しい分野のプレゼントだから、余計に張り切ることだろう。私は苦笑しながら箪笥の引出しに浴衣を戻す。この引出しが一杯になるのはそう遠いことじゃないかも知れない。
END
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