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「まぁ…!うふふふふ。」いつもは静かな病室から、急に母の明るい声が聞こえてきて、一瞬他の人の病室と間違えたかとドアの横にかかっている名前を確認してしまった。
 しかし、そこにはやはり僕の母の名前があったし、いまさっき聞こえてきた声も間違いなく母のもので、だとしたら僕の空耳でない限り、母はとても楽しそうに笑ったのだ。
 そんなことは入院してからあまりなかったことで、あんなに楽しそうに笑ったのはいつだったか、それさえも思い出せないほど久しぶりのことだった。
 それにしても一体、どうしたのだろう。
 誰か旧知の人でも来ているのかと、そっと病室のドアを開けてみると、果たしてそこには悪魔と表現しても差し支えない、いやむしろ同列に扱われた悪魔が嫌がるほどの人物が僕の最も大事な母の病床の横に、いつもの、詐欺師まがいの笑顔を浮かべてちゃっかりと座っていた。
 「たっ…龍麻っ!!!」
 「おう。」
 怒鳴りつけたような僕に対して、龍麻はあっさりと、左手を上げてみせる。
 「なんでここにっ!」
 「ご挨拶だな。かわいい舎弟の御母堂の見舞いに来て何が悪いんだよ。」
 にやにやと、彼の背後に悪魔特有の尻尾が楽しそうに揺れてるのが見えそうなほどに悪質な笑顔でもってそんなことをしらっという。
 「まぁ、紅葉。なんです、お見舞いに来てくださったお友達に。」
 龍麻の横で母はにこにこと笑顔を浮かべてやんわりと僕をたしなめる。
 だめだ、すっかり龍麻の術にかかっている。どうやってその詐欺師まがいの人懐こさが虚構であることを示そうかと考え始めた矢先に。
 「龍麻君、たまに来てくれるのよ。」
 嬉しそうに笑う母の言葉に僕はぴきん、と音がするほどに急速に固まった。
 「い、いつから…。」
 「正月すぎから。…紅葉をあれこれと使っちゃっておばさんに迷惑かけちゃったなぁって思ったし。」
 に、と笑って言うその顔がいかにも何か企んでいます風で。それに迷惑をかけたのは主に僕になのに、僕にはちっともそういった反省の色を見せないところが余計に腹ただしく。
 「それに、おっさんからも、おまえが友達の話をしないっておばさんが心配してるって聞いてさ。病人に心配かけるのはよくないから、俺が心配の種をなくそうかと。」
 龍麻の話に横で頷く母に僕は軽い眩暈を起こしそうだった。
 「母さん…。」
 確かに僕が友達の話をしないことや、誰も連れてきたことがないことで母さんに心配をかけていたことはわかっていたし、それに対してうしろめたい気持ちを持っていたけれど、だけど、よりによって。
 「余計な心配って、紅葉は言うかもしれないけれど。だけどね、やっぱり母さんは…。」
 僕が生活のために苦労をしていることで友達ができないんじゃないかとか、病気の母親を重荷に思っているのではないかといった、自分に起因することで僕に迷惑をかけているといった母の悩みはわかっている。だけどそれをいくら否定したところでやっぱり母という立場上、心配し悩む生き物で、本当だったら友達とやらをここに連れてくればよかったんだけど。
 …そのうちに紫暮さんあたりでも紹介しようかと思っていたのに、先に来たのがこんな悪魔だったなんて、僕はなんて運が悪いのだろう。それだったらまだ霧島のほうがどんなにましだったことか。
 「でも、安心したわ。紅葉、他の学校に沢山のお友達がいるなんて、母さんちっとも知らなかったから。」
 予想外の言葉に僕はおや、と首を傾げる。
 「同じ学校のヤツは師範代の紅葉には一目置いていて、とてもじゃないけど仲良く、なんて雰囲気じゃないからね。どうしても友達って言うと学校外になるのは仕方ないよ。」
 にこにこと人のよさそうな笑顔を浮かべて龍麻は母さんに告げる。
 「おっさんも紅葉だけは大事に手元に置いておきたかったみたいだからな。…友達ができにくかった件に関してはちっとは反省しているみたいだけど。」
 にや、と今度は僕の方に振り返る。
 どうやら、龍麻は学校内にこれといって仲良くしている友達がいない理由をそんな風に母に説明していたらしい。
 なるほど、それなら母も納得する。相変わらずのでまかせの上手さに今回ばかりはひっそりと感謝する。
 「でも校外にお友達がいるのなら早くそう言ってくれればよかったのに。」
 少し膨れてみせる少女じみた母の仕草が、どんなに今日が上機嫌であるかを物語っている。
 「葛飾区まで足を運ばせるのはどうかと思ってね。…龍麻は館長の愛弟子でもあるからこうやって時々こっちまで来てるけれど。…他の人はそうもいかない。」
 「でも、話ぐらいしてくれたって…。」
 恨みがましい母の視線にどう答えようかと逡巡していると、横から龍麻が苦笑しながら口を出す。
 「まぁ、俺は至極まともだけど、他の奴らときたら、あんまり品があるっていえないからなぁ。それはそれでおばさん、心配するかも。」
 などと龍麻が嘯くから、僕は呆れ返って言葉を失ってしまう。誰に品性があるって?憮然とした僕の顔を龍麻がじろりと睨みつけた。
 「…なんだよ。文句あるのかよ。」
 「…君に品性があるというのなら、チンパンジーは大した紳士ということか。」
 「なんだと?喧嘩売ってるのか?」
 だけど龍麻の顔は笑ったままで。おそらく答えに窮した僕に助け舟を出してくれたんだろう。そうは思ってても、普段のストレスから、ここぞとばかりに言い返す。
 「言うに事欠いて、何にも知らない母にそんな最悪の冗談を言うからだ。」
 「じゃあ、おまえ、村雨をここに連れてくる気になるか?」
 そこで僕はうっとつまってしまう。
 無論、村雨さんは嫌いじゃないし、一緒にマージャンだってする。
 だけど。おそらく村雨さんを友達と紹介した時点で龍麻の言うとおり、母さんはまた新たな悩みを抱えることになるだろう。中身は別として、外見には充分に問題のある人だから。
 「あら。どんな子でも母さんは大丈夫よ。紅葉のお友達ですもの。」
 「おばさん、アレは子供じゃない。…つーか、おばさんと夫婦ですって言ってもおかしくない。」
 それは言いすぎだろう、と心の中で突っ込んでおき、僕は上手い具合に話がそれたついでにずっと気にかかっていることを聞くことにした。
 「ところで…龍麻。…君、何か母に頼みごとでもあるんじゃないのかい?」
 龍麻が何の目的もなしに僕の母の見舞いに来るはずがない。母が心配しているのを館長から聞いて、というのはただのきっかけで、こう何度も訪れるということは何かしらの目的があるに違いないのだ。
 努めて冷静に企みを暴こうと尋ねてみると、予想に反して龍麻はあっさりと肯定をする。
 「あ、そうだ。思い出した。そうそう、おばさん、レースの専門店みたいなところ知らないかなぁ?」
 龍麻が尋ねるのに、母は不思議そうに小首を傾げて考える。
 「知っているけれど…どうしたの?」
 「プレゼント。このあいだ、レース編みのショールを見つけたんだけど、次に行ったらもう売れちゃっていて。似たようなのを探しているんだけどさ。」
 「まぁ。彼女?」
 うふふふ、と母が笑いながら尋ねるのに、龍麻は屈託なくうなづいた。
 「うん、彼女って言うか、婚約者なんだけどさ。…俺、そういうの詳しくないし、おばさんなら知ってるかもしれないから聞いてみようと思って。」
 「まぁ、そうなの?いいわね。…でも、レースは高いわよ?模様にもよるけれど、レースのショールなんてかなり…。」
 そういいながら母さんは僕を見る。
 「そういえば、紅葉、あなた作ってあげたら?」
 僕は本当に白羽の矢がぶすりと、頭に突き刺さった気がした。
 まさか、これが狙いだったのか?そっと龍麻の顔を見ると、やはり悪魔の笑顔が浮かんでいて。
 「いや、でも受験前だし悪いよ。受験勉強しなくちゃ、だろ?」
 母さんに見えないように、にやにやと笑ってわざとらしくそんな風に言うから。
 「いつまでにできればいいのかしら?」
 母さんは枕もとのカレンダーを見ながら龍麻に尋ねる。
 「バレンタインデーまでになんとかしようって思ってたんですけど…。」
 「バレンタイン?あら?女の子にプレゼントするのに?」
 母が不思議そうに龍麻に尋ねると、詐欺師度数100%のちょっと恥ずかしそうな笑顔を浮かべて言う。
 「俺、いつも何にもしてやってないから。ホワイトデーだと、いかにもお返しって感じで、お礼にはならないから。」
 確かに、それはそうだ。いつも如月さんに迷惑ばかりかけていて、たまには彼女に誠心誠意何かをやってあげたとしてもバチはあたるまい。
 「じゃあそんなに時間はないわね。…それだったらおばさんが作ってあげるわ。」
 「母さん!!!」
 「あら、だってあなたがお薬を貰ってきてくれるようになってから、体調もいいし、それになにより一日中暇なんですもの。ね、紅葉?」
 「だめだよ!」
 「だって、龍麻君、可哀想じゃない。」
 「あー、うん、気にしないでいいよ、大丈夫。」
 僕と母のやり取りに龍麻が間に入ってきた。
 「受験時期にそんな迷惑をかけられないし。紅葉、ちゃんと勉強しないと春から同じ大学に入れなくなったら困るし。」
 母に見えないように、に、と意地悪く笑って人の神経を逆なでしてくれるようなことを平気で言い放つ。
 自分は勉強しなくても大学に受かるけど、僕は勉強しないと受からない、そういう意味にとれる発言に思わず僕の眉がぴくりと跳ねる。
 「別に、そんなにがりがりやる必要もないけれど。」
 「あら、じゃあ、やっぱり編んであげなさい。」
 しまった!!引っかかった!
 僕は母の言葉にがっくりとうなだれてしまった。
 「ね、そうしなさい。あなただったら編むの早いから、そんなに入り組んだ模様でなければ毎日ちょっとずつ編んでも充分に間に合うでしょう?」
 にこにこと、無邪気に笑う母に罪はないと分かってはいるけれど、ほんの少し、恨みがましい気持ちを持ったとしても誰も文句は言わないだろう。
 悪魔の尻尾を機嫌よさそうにふりふりと振っている龍麻に、僕は半ばやけくそでレース編みを請け負うことになった。
 全く本当に性質が悪い。
 それでもそのレース編みを受け取るのが如月さんだというのが、わずかな救いではあった。
 何かと気遣ってくれる人だから。
 せめてもの恩返しに僕は龍麻のため、ではなく如月さんのためにショールを編むことにした。
 
 
 
 
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