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その日は珍しく俺たちは歌舞伎町で遊んでいた。いつもだったらうちで卓を囲んでいるのに、今日はたまたま用事で京一と歌舞伎町に出かけ、その帰りに偶然にも仕事帰りの紅葉に出会い、さらに村雨にまで会ってしまって現在に至る、というわけだ。
 「それにしても、先生、悠長に遊んでる余裕があるのかい?」
 村雨がじゃらじゃらと牌をかき回しながら言う。
 「大学進学だって言ってたじゃねぇか。入試、もうすぐなんだろう?」
 他人事のように言う村雨は進学も就職もせず、進路は全く決まっていないらしい。
 「ああ。来週ね。」
 俺は軽くうなづいて牌をじゃらじゃらとかき混ぜる。そう、村雨の言うとおり、俺の第一志望は来週の水曜日に試験がある。
 「先生、どこ受けるんだ?」
 「A大。」
 「ええええ?」
 京一と村雨の驚きの視線が飛んでくる。
 「マジかよ…。」
 そういえば京一には志望校の話はしたことがなかったかもしれない。
 A大といえば、私立で、関東地方のみならず日本でも屈指の大学で、そこを出ればほとんど就職に困ることはないと言われている。マリア先生にA大に進みたいといったら笑顔で励ましてくれたのはたった2ヶ月前のことだったというのに、今では酷く遠い過去のような気さえする。
 「マジ。俺さ、A大で考古学やりたいんだ。」
 そういうと、ぴくりと村雨の眉が上がる。
 「先生、それ、如月も知っているのか?」
 「当然。…なんで?」
 質問の意図するところが分からず、首を傾げながら返事をすると、村雨は考え込むような顔をして牌をかき回す手を止めた。
 「なんだよ。なんかあるのかよ?」
 わけがわからない俺に、今度は紅葉が不思議そうに首を傾げて尋ねる。
 「…まさか、何も聞いていない?」
 こいつはこいつで相変わらず単語が少ないから意味が通じにくい。俺はイライラしながら事情を知っていて村雨よりも簡単に口を割りそうな紅葉に目線だけで脅しをかけると、ふ、と短いため息を漏らしてからぽつりと言った。
 「…如月さんのお父さん。…A大の教授なんですよ?」
 A大教授…如月…。俺は少ない紅葉の言葉から俺の最も尊敬している教授をすぐに思い浮かべた。
 如月教授は世界各地の遺跡の発掘と研究に携わっていて、その成果も著しい。大胆な仮説、それを裏付ける発掘品の数々から導き出される新事実は何度世界の遺跡の定説を覆してきたことだろう。それに奢ることなく、地道に研究を続け、今でもほとんど海外で過ごしているという。
 そして、その教授を俺はとても尊敬していて、その教授に師事したいがためにA大を希望しているのだ。
 それがまさか翡翠の父親だったなんて。
 言われてみれば、あの北向きの部屋にある壁面の書架にぎっしりと詰まっているありとあらゆる文献の山も理解できるというもの。
 だけど、なぜ、翡翠はそのことを黙っていたのだろう。
 「…紅葉。…おまえ、なんでそのことを知っているんだ?」
 尋ねると紅葉はしらっと答える。
 「拳武館のファイルで。…館長に言われて、龍麻の仲間となった人間は全部調査したんだ。」
 くっそー、あのじじい。…人の仲間を疑うんじゃねぇよ。俺は額に血管が浮きそうになりながらもどうにか怒りを飲み込んだ。今は鳴瀧のオッサンに怒っている場合じゃない。
 冷静になって、軽く2,3度深呼吸をする。
 「でも…なんで言わなかったんだ?」
 俺は独り言のように呟いて首を傾げる。
 偉大な功績をあげているのに、テレビなどの目に付きやすいメディアにあまり出ないから一般の人は知らないだろう。だけど世界的に有名な学者が自分の父親であるということは自慢すべきことだと思うが、翡翠はずうっと何も言わなかった。
 しかも、俺が如月教授を尊敬していることは知っているはずなのに。
 その理由まではさすがに紅葉も知らなかったようで、右隣で難しい顔をしているのが目に入る。蓬莱寺に至っては全然関係ないといった顔で自分の前に牌を積み上げていた。
 「如月は、今でも親父さんを恨んでいるんだよ。」
 村雨の言葉に俺ははっとして俯きかけた顔を上げる。
 「恨む?…なんかあったのか?」
 すると村雨はにやりと、唇の端を意地の悪く上げて嘲笑う。
 「なんだ、そんなことも知らないのか?」
 揶揄するような言い方に思わず黄龍をぶちかましたくなるが、それよりも話を聞くほうが先決だとぐっと堪え、その代わりにありったけの感情を込めてじろりと睨む。すると、剣呑な雰囲気を察したのか、村雨はにやにや笑いながらも、要点をかいつまんで説明してくれた。
 「自分の妻が死にそうな間際に、あの教授はどっかの遺跡を穿り返してたんだとよ。…それも危篤だって分かってたのに。ようやく帰ってきたのは死んで、四十九日もとっくに済んでからだったらしいぜ?」
 そういえば翡翠の母さんは随分と小さい頃に死んでしまっていると言っていた。
 父親は不在がちでずうっと母親が一緒だったらどうしたって母親贔屓になるだろう。
 そう思いながら俺は紅葉を見る。こいつも母親大好きなのは父親がいないし、残されたたった一人の肉親だからだろう。
 「それからも、あまり家には帰ってこずに、最後に会ったのは高校に入学した頃、入学祝を渡しに来ただけだって言っていたな。」
 …つまり、3年前。
 そりゃ、父親が嫌いでも無理はないだろう。
 「でも、教授だろう?日本にだって全く帰ってないわけじゃないだろう?」
 「敷居が高いんだろうよ。…もとはあの店、母方の祖父の店だからな。」
 ああ、そういえば確かにそう言っていた。…まぁ、奥さんが死んでいて、舅に顔を合わせたいかといえばあまりあわせたくないかもしれない。しかも、子供は懐いていないとくれば尚更か。
 「マザコンっていやぁそれまでの話なんだが、まぁ、小さい頃に自分の親に死なれたら、仕方ねぇかもな…。それで坊主憎けりゃ袈裟までもっていうんじゃないが、考古学嫌いになっちまって、考古学好きのヤツの側に寄りたくもないとか言っていたんだが…。これも惚れた弱みってやつかねぇ?」
 にやにやと、村雨は唇の端を上げて笑う。
 …考古学好きの側に寄りたくもない、か。…そういえば、前から考古学の話をしているときは表情が硬かった。家にある本を貸してくれと言った時もあまり乗り気ではなかった気がする。あの時は希少本だからと思っていたが、今考えると、そんなものを読むのかと思っていたのかもしれない。
 俺が考古学をやりたいと思っていることについて、前はそれで食っていくのは大変だとか言っていたが、最近ではもう何も言わなくなった。
 本当はどう思っているのだろう。
 翡翠のことだから、また変に我慢しているんじゃないだろうか。
 自分が嫌いなのに、また俺のために無理をして我慢して、悩んだりしているんだろうか。
 「そういえば、如月さんもA大でしたよね?」
 紅葉が思い出したようにぽつりと言う。
 「あれは…なんつーか、願書出すの失敗したんだよ。センター入試の願書、男で出しちゃったから、受験できなくなったって。」
 「ああ、なるほど…センター入試の願書提出、去年だったな。」
 村雨が笑いながら言うと紅葉も隣で同情するようにうなづき、またぼそりと言う。
 「…如月さん、史学の美術史でしたよね?…美術史なら国立の美大か、あそこの美術史以外は如月さんにとってあまり意味がないでしょうからね。」
 確かに紅葉の言うとおりだ。既に充分な鑑定眼を供えている翡翠にとって、そこらの大学で教える上っ面の美術史などは既に基礎知識として頭に叩き込まれているはずである。少し踏み込んだ分野。それこそ翡翠がやりたい学問であり、それを叶えるのは国立とA大のみといっても過言ではない。
 「そーいや、紅葉。…オマエもA大の史学、受けるんだったな?」
 ふと、正月に鳴瀧のオッサンに会ったときに聞いた話を思い出した。紅葉は宗教学をやりたいようで、進路を国内でも一番濃いカリキュラムを行っているA大に決めたという。ただ、俺と同じ大学、しかも学部も一緒であることがいたくお気に召さないらしく、しばらくやめるべきかどうか悩んでいたらしい。でも結局は同じA大に決めたらしいので入学したら今以上にこき使ってやろうと目論んでいる。
 「僕は哲学ですけどね。」
 あくまで専攻は違うと主張したいらしい。
 3人が3人ともA大になったのはおそらく史学では国内最高峰の大学であることが要因だった。だが、俺は考古学、紅葉は哲学、翡翠は美術史と、同じ史学だけど3人とも違う専攻になる。…しかも、如月教授は考古学だからやっぱ一番俺が関わる可能性が高い。
 翡翠はどんな気持で俺の話を聞いていたのだろう。
 憎んでいる、と村雨は言っていたが、それほど憎い人を尊敬していた俺のことをどう思っているのだろう。
 「ダメだ。」
 俺はがたんと席を立った。
 「悪い、俺、帰るわ。」
 「なんだよ、先生、勝ち逃げかよ。」
 村雨がにやにやと笑いながら、俺の点棒の置いてあるところを指して言う。
 今日はいつにも増して調子が良く、一人勝ちしていたが、翡翠と麻雀のどっちが重要って言えば、それはもちろん翡翠だからここは仕方がない。
 「ああ、それはチャラだ。」
 「助かったー。」
 一人負けが込んでいた京一が大げさに卓の上に倒れ伏す。
 「龍麻。」
 行こうとする俺に紅葉が声をかけた。
 「なんだよ。」
 「……あまり、如月さんを責めないでやってくれ…。」
 翡翠の心情が多少なりとも分かるのか、心配そうに言う紅葉にひらひらと手を振って店を出て行った。
 考古学が嫌いなのに、考古学をやりたい俺のことをどんな思いで見ていたのだろう?
 もしかして負担になっていただろうか?俺はこれからどうすればいい?もし俺が同じ部屋で考古学の勉強をするのがイヤなら部屋を移ったほうがいいのだろうか。それとも…。
 考えたくないけれど、別居ということも頭に入れておく必要があるだろう。
 本当は絶対にイヤだけど、もし翡翠がそれを望むなら仕方がない。…翡翠が我慢するよりも俺が我慢する方がよっぽどマシ。今までだって新宿から毎日通っていたんだ。仲宿の実家から毎日通うくらい訳のないこと。
 もうこれ以上苦しめたくはないから。
 
 夜9時過ぎに家に帰りつく。店はもう閉めてあるので玄関に回ると、翡翠が慌てて出迎えにきた。
 「もっと遅くなるかと思った。」
 俺のスリッパを揃えながら翡翠が言う。
 「夕食は?」
 「食べた。」
 いいながら部屋に戻ると、翡翠が真面目に勉強していたらしい形跡がある。机の上には辞書が開いてあって、参考書とノートが広げたままになっていた。おそらく、俺が帰ってきたから慌てて玄関に出迎えに出てきたのだろう。義務とか、そういうんじゃなくって、ただ当然のようにそうする翡翠のこういうとこ、ほんと可愛い。
 「…勉強の邪魔したな。」
 「ううん、大丈夫だよ。…休憩していたから。お茶、いれようか?」
 「ああ、いい。」
 俺は部屋の真中に座り込んだ。
 「翡翠、ちょっと聞きたいことがあるんだ。」
 翡翠は改まった俺に、小首をかしげながら正面に向かい合うようにして正座する。
 俺は翡翠が萎縮することのないようにできるだけ優しい口調で尋ねた。
 「翡翠の父さん…A大の如月教授だって本当か?」
 しかし俺の言葉に顔が強張って、僅かながら顔色も蒼白になり、そして視線が段々と下に下がっていく。
 「黙ってて…ごめんなさい。」
 ややあって震える声で翡翠が俺に謝った。
 別に謝って欲しくて俺はこの話をしたわけではない。
 「別に怒ってる訳じゃない。」
 怯えさせないように笑って言うけど、翡翠はすっかりうなだれている。
 「俺さ、翡翠の事情を知らなかったから、いろいろ気に障った言動をしたことあると思う。…ごめんな?」
 すると翡翠は俯きながらも左右に首を振った。
 「考古学…嫌いなんだよね…俺、すげー無神経なこと一杯しちゃって…悪かった。」
 今度は俯いたまま反応はない。怒っているのだろうか。機嫌を直して欲しくて慌てて言葉を繋げる。
 「…俺、どうすればいい?…どうしたら翡翠の負担にならない?…なんでもするよ。…もし、考古学の勉強するの止めろって言うなら…考えてもいい。」
 ずっと考古学をやりたかったけれど、翡翠を失うくらいなら考古学を失った方がマシ。夢を諦めちゃうのは俺らしくないけど、一番大事なのは翡翠といることだから。女のために夢を捨てるアホって言われるかもしれない。だけど、俺は翡翠を捨てるくらいなら夢なんかいくつでも捨ててやる覚悟を持っていた。
 一生大事にするって、決めたから。
 俺のやること、文句言わずにいつも黙って見守ってくれて、助けになるように、少しでも俺が楽になるように陰ながら動いてくれるほど俺のことを思ってくれる翡翠を、もう二度と泣かせたくはないから。
 翡翠はすくっと立ち上がると勉強机の、一番上の引出しからなにやら取り出して俺の前に戻ってきた。
 「…これ…母さんの…形見なんだ。」
 そう言って俺に差し出したのは古い、色褪せた小さな卓上カレンダーだった。
 月の途中まで黒いマジックの×で日付の数字が消されている。
 「母さんね…毎日、こうしてカレンダーに×つけてたの。…毎年ね、年が明けると父さんが戻ってくるから、その日をずっと待ちわびて。…寝る前にね、僕に言うんだ。…『今日も一日終わったね。お父さんが帰ってくる日がまた一日近づいたよ。』って。」
 白かったであろう紙は長年の時間の経過によりすっかり茶けてしまっている。マジックで書かれた×はおおよそのサイズは揃っているものの、日によって筆の勢いが違うから、翡翠の言うように毎日毎日書かれたものであることが見て取れる。
 「母さんね、…死ぬ前に…僕にごめんねって。…それから、帰ってこなかった父さんにもごめんねって伝えてって。…それが母さんの最後の言葉だったんだ。…僕…ずうっと母さんがどうして父さんに謝るのか分からなかった。…会いたかったのに、最後の最後まで会いたくって、会える日を楽しみにこうしてカレンダーに印までつけて待ってたのに、帰ってこなかった父さんになんで謝るんだろうって、ずっとわかんなかった。…それに僕は父さんを恨んでいたんだ。…薄情だって、…母さんより、自分の名誉を選んだって…。だから、僕は父さんも、父さんのやってる考古学も大嫌いだったんだ。」
 村雨に簡単に話は聞いていたけど、実際にこのカレンダーと今の話を聞いて、翡翠がどれだけ辛い悲しい思いをしたか痛切に伝わってきた。これじゃあ如月教授を恨んでも無理はない。
 心のどこかで翡翠に分かってもらいたいと思っていた気持が砕けていくのが分かった。…こんなんじゃ分かって欲しいなんていえない。それに今まで俺が側で嫌いな考古学の本を読んだり、話してたりしていかに翡翠に嫌な思いをさせていたかが分かって、とてもショックだった。嫌な思いなんかさせるつもりはなかったのに。知らずにしたこととはいえ、どうやって謝ったらいいか、どうしたら許してもらえるか、その方法を見つけなければと、俺は必死で考え始めていた。
 「…でもね、最近になって、ようやく母さんの言ったごめんねの意味、分かる気がするんだ。」
 翡翠は瞳に溜まった涙が毀れないように多少目を見開いて明るく言う。
 何か翡翠に謝る方法を考えていたけど、思考をめぐらすのを中止して翡翠を見ると、穏やかに微笑んでこちらをまっすぐに見つめていた。
 「…僕ね…龍麻が嬉しそうに目を輝かせて遺跡の本を読む姿、見るの楽しいんだ。…龍麻が嬉しそうにしてると…僕も嬉しくなるから。…僕ね、何の役にも立たないけど、それでも龍麻がもっと自分の好きなことができるように、少しでも協力したいって思う。…もしもね、龍麻が父さんみたいに海外に発掘調査に行ったりしても、僕、ここで龍麻の帰ってくるの待ってるよ。…それで龍麻が帰ってきたら『おかえりなさい』って出迎えて、ここに帰ってきて良かったって思ってもらえるようにしたい。僕にはそれぐらいしか龍麻にしてあげられないから。」
 そうして寂しそうに翡翠が微笑んだ。
 そんなことない。俺は、翡翠にもっといろんなことしてもらってる。
 毎日、朝早くにおきて俺の弁当を作ってくれたり、家の中のことや俺の世話を一生懸命にしてくれて、同居したせいで翡翠に迷惑をかけてるっていつも思っていた。愚痴も文句も言わないで、ただ黙々と動いている翡翠に、何かしてやりたいのに何もしてやれなくって、悔しい思いをしていたのは自分のほうなのに。
 「……それでね、最近は母さんもきっとそうだったんだろうなぁって思うんだ。…母さんの言った『ごめんなさい』って、父さんに…出迎えて上げられなくてごめんなさいってそういう意味だったんじゃないのかなぁって思えるようになったんだ。」
 翡翠は手にしている形見のカレンダーに目を落とす。
 「…きっとね…母さんは自分が死んでも父さんに帰ってきてほしくなかったんだと思うんだ。…僕も…龍麻に…そうして欲しいと思うよ。…折角の発掘のチャンス、無駄にして欲しくないから。」
 そうして翡翠は涙が浮かんだままの顔で、恥ずかしそうに笑う。
 「僕…龍麻を好きになって、それで母さんの気持がようやくわかったんだ。…だからね、父さんのことも許せるし、考古学ももう嫌いじゃない。…だから、龍麻は、そんなこと考えないで考古学の勉強して欲しい。」
 そう言いきった翡翠はまっすぐな、強くて綺麗な瞳で俺をしっかりと見つめて言った。
 …参った。本当、翡翠のこういうとこ敵わない。
 「全部、龍麻が教えてくれたんだ。」
 そう言って翡翠は照れくさそうに笑う。
 「我慢…してない…?」
 「してない。…考古学嫌いだったのは…父さんが嫌いだったから。…だから今は…平気。」
 そうして形見のカレンダーを元の引き出しにしまいこむ。
 それからしばらく俺に背を向けた状態で座って、幾分俯き加減になったまま身動きをしなかったけど、やがて顔を上げて、何かを吹っ切るような勢いで俺のほうを向き直った。
 「…受験が終わったら…父さんに…あってみようと思うんだ。」
 そう思えるようになるまで一体どれくらい悩んだのだろう。俺が教えてくれたと言ったけど、俺はただ何も言わなかったし、翡翠にわがままをぶつけていたばかりで何もしてない。俺は一体翡翠の助けになっているのだろうか。少しでも俺が支えて、力になってやることが出来ているのならいいのだけど。
 「これまでのこと…ちょっとずつ話したいし…。…それに…。」
 そう言って、ふわりと微笑んで、恥ずかしそうに鼻をちょこちょこと掻く。
 「婚約したことも…知らせなきゃいけないし。」
 そうだった!
 尊敬する教授、ではあるけれど、何よりもこれから舅になる人だったのだ。
 お義父さん、そう呼んだら張り倒されるだろうか?
 何よりも、翡翠とのこと、ちゃんと認めて欲しいと思った。そして、できれば祝福もして欲しい。俺のためではなく翡翠のために。
 「龍麻…一緒に…きてくれる…?」
 俺を伺うように、上目遣いで悪戯っぽく笑いながらだったけど、不安げな表情がわずかに混ざっていたのを見逃さなかった。それは俺が一緒にきてくれるかどうかわからない不安なのか、それとも…。
 「当たり前だよ。…俺、ちゃんと挨拶しなくちゃな。」
 そういって翡翠の頭をくしゃくしゃとすると、俯いて、らしくない『えへへ』などという笑いが聞こえる。
 役に立てないのは俺で、だけど俺が一緒にいることで翡翠が何かを乗り越えられるのだったら、いくらでも一緒にいてどこまでも歩いていってやる。それこそ、俺にはそんなことしかできないのだから。
 俯いたまま、再び不安に襲われて心の中で必死にそれに立ち向かおうとしている翡翠の肩を、俺は何者からも護ってやるように抱き寄せるため腕をそっと伸ばした。
 
 
 
 END
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