油断していた。不覚だった。
如月翡翠の頭にはぼうっとそのような後悔の言葉がさっきからぐるぐると回っている。
何かがのしかかっているような重苦しい呼吸はその病状が決してよくないことを物語っている。39度。こんなに高熱を出したのは本当に久しぶりのことだった。
思えば、昨日、学校から帰ってくるときに雨に濡れたのが直接の原因だったのだろう。そして、年末が近くなって目の回るような忙しさが間接的な原因。睡眠不足と体の冷え、そして学友達の間で静かにはやり始めている風邪。それらが重なって、ひさしぶりにこんな高熱を発してしまったのだった。
朝、本来ならとうに起きて学校に行く支度をして、もう食事も済ませている時刻。しかし、こんな体調で学校に行っても仕方がないし、別に出席日数が足りないわけでもなし。今日はこのまま休むことを決め、よたよたと布団の中に戻っていった。少し動いただけでもぜいぜいと息が切れ、体中に鉛が張り付いたように手足が重くて動かすにもおっくうで。熱でぼうっとした頭や体をもてあますように布団の中に放り込んでそのまま天井を眺めた。
一人で暮らし始めてからこんな熱を出したのは初めてのことだった。
もともと、そんなに体が弱いわけじゃない。だから、こうやって寝込むのは本当に久しぶりである。前回はいつだったかなぁ…と記憶を辿っていくうちに、だんだんと頭がぼんやりし始めて、そして闇の中に引きずり込まれていった。
「翡翠?」
誰かが自分の名前を呼んだ。同時にひんやりとした冷たい手が額に触れる。龍麻かと一瞬思ったけれど、龍麻の手はいつも暖かい。誰だろう。目を開けようとしても、うまく力が入らなかった。その冷たい手が額から退くと、耳元近くでパシャリと水音がして、額に冷たい何かが載せられた。それから顔の辺りをやはり冷たいタオルでそっと拭ってくれる。熱のこもった体にはとてもそれが気持ちよくって、ほうっと、大きく息をついた。
「すぐに良くなるから、がんばってね。」
優しい声で耳元で囁かれて、そっと僕の右手を冷たい手が包んでくれた。その瞬間に熱のある頭でぼんやりと思い出す。そういえば、僕が小さい頃、熱を出したときに母さんが看病してくれた。
母さんは小さい頃に死んでしまったからあまり記憶にない。顔さえもあまり覚えていなかったけれど、唯一覚えているのは、熱を出したときにずっと側についていてくれたことだった。苦しくって、辛かったけれど、ずうっと側で手を握ってくれていた。それがすごく安心して、嬉しかった。
「母さん…?」
これは夢なのだろうか。熱のせいで体がうまく動かないのか、それとも夢だから動かないのか。柔らかな、優しい気配が枕もとにある。それはあの時に感じた母の気配とそっくりだが、母が側にいるわけはない。きっと僕は夢を見ているに違いない。
「なぁに?翡翠?」
優しい声で返事が返される。やっぱり夢だ。それでも、僕は少し嬉しかった。夢の中でも、久しぶりに会えたのだから。
「僕を、産んでくれてありがとう。」
僕はずっと母にそれがいいたかった。ちょっと前まではどうしてこんな宿命を背負ってしまったのか呪わしい気持ちで一杯だったけど、僕は、龍麻に出会ってから、初めて生まれてきてよかったと思うようになった。だから、もし、母さんに会えるとしたら、それを一番に言いたかったのだ。
「まぁ。」
おっとりと、柔らかな、そして嬉しそうな口調が返って来た。
「龍麻がいるから、もう一人じゃないよ。」
続けて言うと、ふわりと枕もとの気配が微笑んだような気がした。もう、寂しくなんてないから。だから、安心して。そう言葉をつなげようとしたけれども、熱のせいか、のどがひりひりして掠れてしまう。
「ゆっくり、おやすみなさい。」
そういわれて、空いている手で、いい子いい子をするように頭を何度からなでられて。もっと伝えたいことが沢山あったけれど、なんだかひどく疲れてしまって、柔らかな心地よい母さんの気配に包まれて再び意識は闇の中に沈みこんでしまった。
遠くから聞こえるかちゃかちゃという音ではっと目が覚めた。天井がぼんやりと見えて、それからゆっくりと首をめぐらして時計をみると2時を回っている。あれから6時間も寝てたのか。そう思いながらゆっくりと起き上がろうとした。体中が痛いけれど、朝のようなだるさが少し楽になってきている。布団の上に起き上がると辺りを見回した。さっきの音は台所のほうから聞こえてきていた。ゆっくりと立ち上がって台所へ行き、中を覗くと、エプロンをつけた龍麻の後姿があった。
「あ?目が覚めた?」
龍麻が振り向いてにっこりと微笑んだ。
「龍麻?」
「具合、どう?」
「あ、いや、もう結構いいけど…。」
「でも無理しちゃだめだよ。」
そう言って僕を部屋まで戻して布団の中に入るように指示をする。そして僕に体温計を渡して熱を測らせた。電子音が鳴って、脇から取り出すと38度。
「まだこれじゃダメ。」
今朝よりは随分と下がったんだけどな。そう思いながらも、それでも大人しく布団にもぐりこんだ。
「食欲、ある?」
聞かれて朝から何も食べてないのを思い出す。
「ああ、少しはね。」
「今、ご飯持ってくるから。」
そう言って台所へ消えた彼女が持ってきたのは卵雑炊。
「ご飯食べたら、薬、飲もうね?」
「ああ、わかったよ。」
僕はかいがいしく世話をしてくれる龍麻を眺めながら苦笑した。きっと龍麻に会ってから僕は変わってしまった。前だったら、きっとこんなことしなくてもいいと言っただろう。それが今では龍麻が看病してくれることがとても嬉しい。
「はいはい、今度は浴衣、着替えてね。」
食事を終えると、龍麻は僕の浴衣を剥いで新しい浴衣に着替えさせた。僕が着替えている間に布団から汗をすったシーツを取り替えてくれて再び布団に寝かされて。することがないからぼんやりと布団の中から龍麻が庭で洗濯物を干すのを眺めていた。
龍麻はいつでも側にいてくれる。僕のことを心配してくれる。それがひどく僕には嬉しくて、幸せで。一人じゃないんだ、そう思っただけで胸の中があったかくなる。
「ありがとう、龍麻。」
洗濯物を干し終わって部屋に戻ってきた龍麻にお礼を言うと、龍麻は恥ずかしそうに真っ赤になって微笑んだ。
「他に何かして欲しいこと、ある?」
これだけしてもらえれば充分すぎる。そう言おうと口を開きかけたが、ふと思いついて僕は右手を布団から出した。
「少し、手を握ってくれるかい?」
その言葉に龍麻は最初驚いたような表情をしたが、やがてゆっくりと目元を綻ばせて、僕の手をとった。普段は暖かい龍麻の手は、水仕事のせいか、それとも僕の体温が高いせいか、なんだかひんやりとして冷たく感じられた。
「龍麻。側にいてくれてありがとう。」
冷たい龍麻の手をきゅっと握り締めて僕が言うと、龍麻は顔を真っ赤にしたまま嬉しそうにふんわりと、柔らかく微笑んだ
END
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