| 
    
その表情を見た瞬間に、鼻の付け根がつんとして、じんわりと鼻全体に痺れが広がっていく。次の瞬間には視界が歪んで、全ての物の輪郭が滲んでいく。急速に瞳の縁にたまった涙は暖かいままぱたぱたと2,3滴落ちていき、自分は泣いているのだとそれでわかった。慌てて台所の方を振り返って、用もないのにシンクの方に歩いていく。「どうした?」
 後ろからセンセの声が追いかけてくる。
 「ん、手を洗ってくるね。」
 振り向かずに答えた私は後ろから見えないように、すばやく袖口で涙をふき取ってしまう。そのままシンクまで歩き、口にしてしまった手前、水を出して自分の手を少しだけ浸した。それでもすぐには目の赤くなったのは直らないだろう。蛇口をひねって水を止め、手を拭いてからセンセの方を振り向いた。
 「ジュース、飲みたくなっちゃった。ちょっと買ってくる。センセのたばこももうすぐなくなるでしょう?一緒に買ってくるね?」
 わざと明るい声で元気良く言ってから、私は外へ駆け出した。
 
 近くのタバコ屋さんでしんせいを買って、自動販売機でジュースを買って、まっすぐ戻らずに近くの公園に入った。ブランコに座って小さく前後に揺らしながら考える。
 センセに昔、恋人がいたっていうのは知っている。センセが好きになるくらいだから、きっと綺麗で、大人で、しっかりした人だったんだろう。その人との約束でずっと真神にいることからも、どんなにその人を愛していたかがよくわかる。だから、私なんかものの数にも入らないってことも分かってる。
 分かってるけど。
 私は顔を上げてくすんだ青空を見上げる。浮かんでた白い雲がまた滲んでいく。
 時折、センセは何かを考えているような遠い目をすることがある。ほんのちょっとだけ目元が穏やかに綻んで、嬉しそうなのと切なげなのが混ざったような複雑な微笑を浮かべているから、だから私は悲しくなる。
 きっと、その人のことを思い出しているのだろうと、容易に想像がつくから。
 センセに告白したけど、返事らしい返事なんかなかった。ただ、「好きにしろ」といわれただけ。それでも、少しでもセンセの側にいたくて、ほんのちょっとだけでも役に立ちたくって、時間さえあればお掃除やお洗濯や食事の支度をしてきたけど、こんなんじゃ全然その人に太刀打ちできなくって。
 やっぱり私じゃだめなのかな。こんな子供だから。
 かわりになんてなれないのは分かってるけど。真剣に相手にされてなくても、それでもいいって、思ってたけど。
 やっぱり、目の前であの顔をされたら3回に1回は泣きたくなる。
 あの表情を思い出してため息をつく。
 だめだな、まだまだ子供だ。センセに似合うような大人になりたいのに。
 私は手の中に握っているジュースの缶を見た。炭酸飲料。こんなの飲んでるようじゃまだまだ子供の証拠だよね。ジュースを飲み干してしまうと自嘲気味に笑って、缶をごみ箱に投げた。
 再び仰ぎ見た空はやっぱり雲が滲んでいた。袖口で浮かんだ涙を拭ってから落ち着くために何度か深呼吸をする。
 「泣き止んだか?」
 「きゃぁっ!」
 急に後ろからした声に、心臓が止まりそうなほど吃驚してブランコから落ちそうになる。ふわりと大きな暖かい手で背中を支えられてようやく体勢を立て直した。
 振り返らなくっても声の主はわかっていた。
 「なっ、泣いてないよ?」
 わざと明るい声で言うと私の前に回りこんだセンセがじっと私の顔を見つめた。あんまり追求されたくなくって慌てて私は話題を切り替えようとした。
 「センセ、どしたの?家で待っててくれればよかったのに。」
 「タバコが切れた。」
 あ。私はしまったと思いながらさっき購入したばかりのしんせいをポケットから出して先生に手渡した。受け取ったセンセは早速封を開けて1本を咥えて火をつけ、元来た方に向き直る。
 「緋勇、帰るぞ。」
 私の返事なんか待たずに歩き出す。遠ざかろうとするセンセの背中が、愛しくて悲しくて、じわりと潤んできた瞳を俯かせてセンセの後についていった。
 「何を我慢してる?」
 歩きながらセンセが言った。
 「我慢なんてしてないよ。」
 こんな子供な自分を知られないように、元気に即答する。だけどすべて見通しているんだと言いたげにセンセはその答えに小さなため息を漏らした。
 「おまえを泣かせたり、我慢させたりするために側に置いてるんじゃない。」
 小さく早口で言ってから、少しの間、無言でアパートに向かって歩く。
 もっと大人になりたいなぁ。私がもっと大人だったら、センセは愛してくれるだろうか?大人になるにはどうしたらいいんだろう。…でも、こんな性格だから、ずっと子供っぽいままかもしれない。なんだかとても情けない。たとえば葵みたいに、もっと大人になりたいのに。
 「…緋勇?」
 「あ、はい。」
 気が付くとセンセがアパートの中に入っていて、なかなか入ろうとしない私を訝しげに眺めていた。私はのろのろと中に入ったけれど、なんだか酷く居心地が悪い。センセは少し怒ったような顔をして2本目のたばこに火をつけた。
 「どうしたんだ?」
 「なんでもないです。」
 その言葉にセンセは納得していなくて、そのままさらに怒ったような表情になる。
 「緋勇!」
 少し強めの口調で呼ばれて、反射的にひっと肩をすくめた。同時に瞳に涙が膨れるように出てぼろぼろっと大粒の涙が零れ落ちた。センセの前で泣く積もりはなかったのに。
 「ごめんなさい、もう、帰ります。」
 もうだめだ。このままここにいたら大泣きしちゃうから、私は慌てて玄関に駆け出そうとした。が、右腕をしっかりと捕まえられて、外に出ることも叶わなくなり、ぐいっと腕を引かれて、部屋の中に座り込んだ。かっこ悪い。
 「…緋勇…。」
 困ったような声色に身が縮こまる。センセに迷惑かけてる。そう思うといたたまれなくなるけど、ずっと腕を捕まれているので外へ行くことも出来ない。
 「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい…。」
 パニックになった頭は壊れたテープのようにただ謝りの言葉を出し続ける。どうか、嫌わないでください。まだ、側にいたいのに。まだ、センセを諦めることなんてできないから、だから、だから。
 「緋勇、落ち着け。」
 「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい…。」
 泣きじゃくりながら謝る私にセンセはつかんでいた腕を引っ張って私を引き寄せると、そのまま私の唇をふさいだ。
 最初は何をされているかさえわからなかったけれど、自分の置かれている状況が把握できるとあまりのことに吃驚して体は鋼のように硬直してしまい、涙なんか一瞬で止まってしまった。
 唇にはたばこの味がうつる。
 「収まったようだな。」
 唇が離れて、至近距離にセンセがいる。今度は別の意味でパニックになっていた。
 唇に残っているタバコの味が今のは夢じゃなかったって教えてくれる。唇って、結構柔らかいものなんだと変なところで冷静になってる自分がいる。それでも、顔は火が出そうなくらいに熱くなってて、きっと真っ赤になってるだろう。
 「で、どうしたんだ?」
 もう一度、ゆっくりと穏やかな口調で顔を覗き込まれるようにして聞かれた。私を捕らえていた手は私の背中に回っていてしっかりと抱きしめられている。
 「…。」
 「一人で自己完結するな。おまえの悪い癖だ。」
 悪い癖。そう言われてまた涙が出そうになる。
 「ああ、泣くな。…そうじゃない。…一人でなんでも抱えすぎるなと言っているんだ。」
 宥めるようにしてセンセは言う。今までに聞いたことがないくらいに優しい声で、私の髪を梳きながら、安心させるように言っていた。
 「…センセ、あの人のこと、まだ好き…?」
 今度はセンセが驚く番だった。いつもは少し細められた目をかっきり見開いた。
 「…当たり前だよね…えへへへ、ヘンなこと聞いちゃった。ごめんね。」
 笑ったつもりだったのに、また涙がこぼれてくる。もう涙を隠す気にもなんない。
 「こんな私じゃセンセに真剣に相手にしてもらえないってわかってるし、…やきもちやいても仕方ないって分かってるけど、…分かってるけど…。」
 私はぐいと袖口で涙を拭いた。
 「ちょっと待て。」
 センセは眉を寄せて不審そうな顔をする。
 「真剣に相手にして貰えないっていうのは、どういうことだ?」
 憮然とした表情で聞かれる。
 「だって、センセから返事貰ってないもん。」
 「答えただろうが。」
 「嘘。好きにしろって、それだけしか言ってくれなかった。」
 「好きでもない奴に家の鍵など渡さない。」
 センセは少し照れたように視線を私から外して低い声で早口で言う。私は驚いて抱きしめられている体を少し離してまじまじとセンセを見てしまった。
 「…確かに彼女のことを思い出すことがあるからな、まだ好きかと聞かれたら好きだろう。…ただ、最近、どうも思い出す回数も減ったと思う。」
 「うそだよっ…よく考え事してるもんっ。」
 「…それは…。」
 センセはやっぱり口篭もった。
 「…だから…私…。」
 悲しかったと言いかけて言えなかった。そんなことを言う権利は私にはないから。その代わりにまたぼろぼろと涙がこぼれる。
 「違うっ!」
 センセにしては珍しく大声で怒鳴ったから、私は驚いてしまった。つい怒鳴ってしまったことにセンセ自身も驚いていたようで、しまったという顔をしてからしばらく考え込んで、それからようやく口を開く。
 「…俺は長い時間を生きる身だからな。…一緒にいてもおまえだけがどんどん年老いて、やがて死んでいく。…残される方も辛いが、一人で年老いていく方も辛い。」
 センセが唇をきゅっとかみ締める。目を伏せて、それは辛そうに顔を歪める。
 「だが…、…おまえがそれでもいいと、そう言ってくれたらと…。いつも願っていた。…無論、強制はできないが…な。」
 自嘲気味に笑ってセンセは私の背中に回していた手を解いた。
 「悪かったな、緋勇。」
 その言葉は、もう行っていいぞというように聞こえた。
 「センセ?」
 「無理しなくていい。…おまえには、もっと似合う奴がいるだろう?」
 そう言って微笑む目は寂しそうで、けれども優しげで、見ているだけで胸が痛くなった。
 だから。私は思い切りセンセに抱きついた。
 「ひ、緋勇?」
 「…分かってるもん。…そんなの、ちゃんと覚悟してる。」
 センセの秘密が分かっちゃったときから、そんなのは覚悟してた。
 私は、センセの年齢をすぐに越してあっという間に年老いて、そしていつかは先に死んでいく。それでも、センセが許してくれる限り側にいたかった。
 そして、死んだ後は時折センセが思い出してくれるだけでよかった。たとえ、そんなバカな奴がいたっけなあでも。
 ただ、目の前に私が実在してるときはちゃんと見て欲しかった。あとで思い出すときにちゃんと思い出せるように。いつかは薄れていく記憶が少しでも長くセンセの中にとどまっていられるように。
 センセはくくくっと喉の奥で愉快そうに笑う。さっきまでの表情とは打って変わって、いつもの顔に戻っている。
 「勝手にしろ。」
 勝手にしろ、か。私はなんだかおかしくなった。好きにしろ、勝手にしろ。強制はできないセンセの精一杯の優しさだって気付いたから。
 「じゃあ、勝手にします。…土曜日にここに引っ越してきますから。」
 そう言うと、センセの眉がぴくりと動く。
 「勝手にしていいんでしょ?」
 そう尋ねるとセンセは口の端を僅かに上げることで返事をした。
 
 
 
 
 
 
 END
 |