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「如月〜。」 帰ろうとする僕を呼び止める声に、支度をしていた手をふと止める。後ろの方の席から、授業が終わってさも嬉しいと言った笑顔で来たのは同じ学科の男。 「なんだい?」 「今日、暇?帰りにお茶でも飲んでかないか?」 余りに唐突な誘いに、僕は僅かに眉をひそめて断りの言葉を口にする。 「すまないが、これから仕事があるんだ。」 「仕事?」 怪訝そうに彼は聞き返す。 「ああ。」 僕は再びテキストを鞄に仕舞う手を動かし始めた。 「如月って、何やってるの?」 「骨董品店だよ。」 「ふぅん、勉強も兼ねてるってわけか。」 僕は、骨董品店を営んでいるというつもりで言ったのだが、彼は骨董品店のアルバイトと思ったようだった。勉強を兼ねているわけではなく、これからのために勉強をしているといったほうが正解なのだが。まぁ、この際はどちらでもいい。 「いいじゃん、休んじゃえよ。」 「そうもいかないよ。…僕だって生活がかかっているからね?」 「え?如月って、自宅じゃなかったっけ?」 「自宅だよ。」 「なんで生活がかかってんの?奨学金でも貰ってたんだっけ?」 「貰ってない。」 「親御さんは?」 「いないよ。」 一瞬、彼が沈黙する。 「ごめん…その、悪気はなかったんだ…。」 バツの悪そうな顔で謝る彼に、僕は存外に気を使っている奴なのかもしれないと、彼に対する認識を少しだけ改めた。無論、両親のことで気遣ってもらうほど僕は弱くはないし、それに父が音信不通になってからもう随分と経つ。いないことの方が当たり前になってしまっていて、かえってそう言われるのがなんだか可笑しかった。それに、彼はおそらく苦学生という奴を頭に浮かべたに違いない。僕は確かに働いてはいるけれど、別に苦学生ではない。 「いや、気にしないでいい。別になんとも思っていないから。」 「そうか?」 心配そうに、彼は僕を見る。 「もう随分経つんだよ。」 「それならいいんだが…。」 渋い顔をした彼はしょぼんと、最初に来たときの笑顔がすっかりとしぼんで、肩を小さく丸めていた。 「ところで、何か用事でも?」 「あ、いや、少し話がしたいなぁと思って。オレ、東京に出てきたばっかしで、あんまりこっちに友達もいないし。」 このストレートな物言いは。ちらりと、うちの店によく出入りする何人かの仲間たちが僕の脳裏を掠めた。…僕はこういうタイプによくよく縁があるらしい。苦笑しながら彼に答える。 「すまないが、平日は土曜も含めてずっと仕事でね。あまり遊んでいる暇はない。…けれども、昼ぐらいなら君と付き合える時間はあると思うよ。」 その言葉に丸まっていた肩がぴょんと跳ね、しょんぼりと俯いていた顔がぱっと輝いた。 「マジ?じゃあ、これからは一緒に昼メシ食おうぜっ!」 「ああ、かまわないよ。」 やれやれ。僕はまた面倒な人間関係を作ってしまうようだ。そう思いながらも、決して不愉快に感じていない自分に気付いて驚く。それは、きっと龍麻に出会ったせいだろう。1年前だったらきっと煩わしく思って、にべもなく断っていただろう。急激な変化に、まだ自分でも戸惑ってしまうことはあるけれど、それでも、僕は今の僕を嫌いじゃない。 電車を降りて、家路を辿る。途中で少し買い物をしている間に、朝から続く曇天模様からとうとう雨が降り出した。天気予報では日中はもつと言っていたのに。急いで帰らなくては、洗濯物を干したままだった。店の方は龍麻がいるから大丈夫だと思うが。 今日から、金曜日は龍麻が店番をしてくれることになっていた。僕が午後の授業までびっしり入っているために、店に戻るのはどうしても4時を回ってしまう。それでは店が開けられないので、金曜日は午後の授業がない龍麻がアルバイトとして店番をしてくれるようになったのだ。無論、まだ僕の顧客の相手は勤まらないけど、簡単な伝言や店の掃除などを頼んである。アルバイト代は夕食。安すぎるけど、それでも自分の勉強のためにと、龍麻が望んだことだった。 走って店に戻ると、きちんと開店されていた。いつもよりも鮮明に僕の顔を映し込んだガラス戸は、おそらく今日、彼女が磨いてくれたのだろう。店の中に入ると、いつもの陰鬱な雰囲気ではなく、柔らかな明るさが店内に満ちている。その心地よい暖かさに驚いて、本当に僕の店だろうかと辺りを見回したけど、ただ単に、電気がついているだけで普段と全く変わりはない。 そうか、いつも僕は電気のついていない店に帰ってくるから、こうして電気がついていると違和感を覚えるのだ。納得しながら店の方から中に入ると、庭に面した縁側で龍麻が座っている。 「お帰りなさい。」 物音で僕の帰りを認め、顔を上げてにっこりと微笑んで僕に告げた言葉に、不意に胸を打たれた。 「あ、…ただいま。」 それは、久しぶりの言葉だった。いや、そう言われたことさえ記憶の海に沈んでいて、思い出せないし、言われたことがあるのかどうか。記憶にあるのは、『ただいま帰りました』という子供には不似合いな帰りの挨拶と、それにただうなづくだけの祖父。誰かに、『お帰りなさい』と出迎えてもらったことなどなかったかもしれない。 ただ、龍麻の一言のことだけなのに、急に僕の家は明るくなって、いつものような圧倒的な重圧感で僕にのしかかる雰囲気は消え、心地よく安らげる暖かな場所となった。 「雨が降ってきたから、洗濯物、勝手に取り込んじゃった。」 僕の表情を伺うように龍麻が言う。その膝にはたたみかけのシーツがあり、縁側の廊下にはまだ取り込んだままの浴衣がくたりと伏せていた。龍麻の横には枕カバーなどが既に畳まれて置いてある。 「ありがとう。」 とりあえず、洗濯物は濡れなくって済んだようだ。龍麻に礼を述べるとほっとした表情を浮かべる。 「皺にならないうちに畳もうとしたんだけど、えーと、浴衣の畳み方わかんなくって。」 「ああ、自分でやるよ。」 僕は龍麻の前に座って浴衣を持って畳み始めた。龍麻は僕の前でそれを熱心に見つめている。 「何?」 「あ、ううん、なんでもない。」 食い入るように、余りに熱心に見つめているので聞いてみると龍麻は真っ赤になってぶんぶんと首を振る。その可愛い仕草に顔を緩ませながら浴衣を始末すると一緒に他のものも畳んでしまう。龍麻の膝の上にあるシーツや横に置いてあった枕カバーなどをまとめて受け取って、奥の部屋に仕舞いに行く。 腕に抱えている洗濯物を見つめながら、僕はなんだかくすぐったいような気持ちを味わっていた。ただ、電気をつけていてくれた、洗濯物を取り込んで途中まで畳んでくれた、それだけのことなんだけどそれがとても嬉しくって、生まれてから今まで味わったことのないような甘酸っぱい思いが胸の中を満たしている。僕のために、僕の好きな人が何かをしてくれる。それがとても照れくさくって、幸せで。 店の続きの部屋に戻るとテーブルを拭いている龍麻がいる。それだけで、どこにでもある蛍光灯は柔らかな色合いに変わり、床の間のくすんだ朱の花の掛け軸は鮮やかになり、重苦しかった僕の家は急にその佇まいを変える。きっと他の人には変わらないように思えるのだろうけど。 「翡翠?」 龍麻は部屋の入り口に立ち尽くしていた僕を不思議そうに見上げた。 「ああ、なんでもないよ。…留守番、ありがとう。」 「うんっ。」 嬉しそうに笑う君はきっと気付かないだろう。 君がいてくれるから、ここは、僕のホームになる。 END |