最初の日

 

1月7日。御門に如月のフェイクを作ってもらい、午後をかけて近所にあいさつ回りをして、久々に気を使ったらなんだか酷く疲れてしまった。
近所の人は割と親切な人が多くて、若いのにしっかりしてるとか、何かあったらいらっしゃいと声をかけてくれる。全員が全員、本心でそう思っているかといえばそれは定かではないが、あからさまに胡散臭そうにする人間が少なかったのは、おそらくこれまで翡翠や翡翠の祖父が築いてきた関係のおかげであろう。
それと、何人かは俺のことを知っている人もいて、緋勇接骨院の次男坊と言い当てられて逆にこちらがびっくりしてしまった。聞けば、うちから少し距離があるのに、わざわざ治療に通ってきているらしい。
「きっと龍麻の父上は、腕がいいんだよ。」
翡翠の言葉に俺はうーんと首を傾げる。まぁ、確かに患者さんはひっきりなしに来ていて、待合室もいつも混雑しているから多少はいいのかもしれないが。
なるべくウチの実家と翡翠の信用に傷がつくような真似はしないよう、大人しくしておこう。なんたって婿養子だし。
紙袋一杯に入れていった挨拶用のタオルがなくなり、あらかたの家を回り終えて戻るとカレーのいい匂いが家中に漂っている。
「面倒だから、カレーにした。」
紅葉のぶっきらぼうな言葉にうなづきながら居間に入ると、古い、それこそこれも売り物じゃないかというような骨董品級の時計は6時を指していた。
「彼も、食べるのかな?」
困惑したような紅葉の視線の先には御門に作ってもらったフェイクが立っている。見れば見るほど良く似ているソレは、ホンモノと寸分違わずに出来ていてすごくまぎらわしい。
「いや、食べないよ。…どうしよう、隣の部屋にいてもらおうかな。」
翡翠が彼を隣の部屋に連れて行き、俺はそのまま夕刊を放り投げ、学ランを脱ぎに一度部屋に戻る。
午前中に運んだ俺の荷物は少なくて、勉強用の机さえない。もともと新宿のマンションにもタンスを持ち込まなかった俺は、この家の他の部屋にあった小さな籐のチェストを運んで俺の箪笥とし、教科書などの勉強道具は翡翠の本棚の一番下に並べて、それで全部済んでしまった。
もともと新宿には必要最低限しか荷物を持っていっていなかったし、仮住まいであることから極力荷物を増やさないようにしていたからこれほどまで荷物が少ない。細かい荷物はそのうちに、免許でもとって自分で車が運転できるようになったら実家から運んでくる心積もりだった。
「龍麻―っ、食事にするよーっ。」
居間の方から紅葉の怒鳴り声が聞こえる。
うわ、色気ねぇな。俺は渋い顔をしながら居間に戻っていった。

夕食のカレーはさすがに紅葉だけあってこだわりのカレーだった。
つーか、このカレー作る方が他の料理よりもよっぽど面倒だと思うぞ、というツッコミはこの際、我慢しておいた。
夕食の後、引越しで使っていた車で帰る紅葉に、翡翠が今日のお礼だといって有田焼きの花瓶を渡していた。最初は遠慮していたようだが、これで母上にお花を飾ってあげて、とそう言われると、紅葉だって突っ返すわけにもいかなくなり、苦笑しながらそれを受け取って帰って行った。
紅葉を見送ると、翡翠はお風呂の支度をし、俺に先に入るように言ってから自分はそのまま居間の片付けに行く。ほんと、マメなやつだよな。そう思いながら言われた通り、先に風呂に向かう。
翡翠の家の風呂はかなり広い。浴槽も結構大きくてジェットバスとかはついていないけど、手足を僅かに曲げるだけで充分に入れる。
新宿のマンションはユニットバスで、しかも浴槽が狭かったために風呂につかるには体育座り、いや、体育座りというよりもまるで屈葬のように窮屈に手足を縮めなければならなかったのが一番辛いことだった。やっぱ風呂は広いに限る。
久しぶりにのんびり風呂につかって満足して出るときちんと着替えが揃えてある。
こういうの、いいよなぁ。
風呂から出るとちゃんと着替えが揃えてあって、俺はそれを着るだけ。これって、新婚らしいじゃん?
一人でほくそえみながら翡翠が準備した父親のものらしい浴衣に袖を通して部屋に戻ると、きちんと布団が2組敷かれていた。
…一緒でもいいんだけどな。
そう思いながら部屋の中に見えなかった翡翠の姿を探して家の中を歩いていると、台所でお米を研ぐ翡翠の後姿を見つけた。そういえば、さっきカレーでご飯を食べきってしまったので大方、明日の朝食用のお米を研いでいるのだろう。
忙しそうにしているので声をかけるのも躊躇われ、そのまま先に部屋に戻って布団の上に腹ばいになって本を読んでいたが、なかなか翡翠は戻ってこず、しばらく経ってからようやくお風呂から上がった翡翠が部屋に戻ってきた。
「明日、龍麻は何時に出る?」
不意に聞かれて、そういえば明日から学校だったと思い出す。前はぎりぎりまで寝ていられたけど、これからは少し遠くなるから早目に出なくてはいけない。ここから学校までの時間に若干の余裕をもたせてから答える。
「7時半。」
「わかった。」
翡翠はそう返事をしながら目覚ましをかけて机の上に置き、今度は鞄を開けて明日の準備を始める。まだ明日は授業が始まらないため、さほど荷物はないようだが、それでも転入生であるために諸々の必要書類などが揃っているかを点検して準備を済ませると、困ったような表情で自分の布団の側にちょこんと座る。もう寝る時間なのだろうか?
「…あれ?もう寝る?」
そう言いながら時計を見ると、11時を回っている。寝るには少し早いけど、きちんとした生活を送っていた翡翠だから、このくらいに寝るのだとしても不思議はない。俺は寝る前に翡翠に渡すものがあったので本を閉じてから立ち上がり、ごそごそと本棚の下に収めてある道具入れの中を探り、ソレを取り出してから振り返ると翡翠がカチコチに固まったような状態で座っている。
「ううん。まだ…いい。…あの…。」
翡翠は何か言いたいことがあるらしくて、布団の横に正座したまま顔を真っ赤にして、まるで金魚のように口をぱくぱくとさせている。
「何?」
言い出しやすいように水を向けてやると、翡翠は意を決したように顔を上げ、ごくんと口中に溜まったと思しき唾を飲み込んでから耳まで真っ赤になって口を開いた。
「こ…婚約…しただけだから…こんなの…変なんだけど…。」
途切れ途切れになりながら、口の中でもごもごと言ってから、ぴたりと畳に三つ指をついた。
「…ふ…ふつつか者ですが…末永くよろしくお願いします。」
そう言って、畳に額がつくほどに頭を下げた。緊張のためか、肩が僅かではあるけれど震えているのが分かる。
俺の返事を待つように、ずっと頭を下げた姿勢でいる翡翠がとても愛らしくて、襲ってしまいたいような邪まな気分になっても誰が俺を責められよう。でも、まずは返事をしないとね。
「こちらこそ、穀潰しだけど…見捨てないで。」
ふざけて言うと、ぱっと翡翠の頭がばね仕掛けのように勢い良く跳ね上がる。
「そんなこと、絶対にしないよっ!」
あんまりにも力強く言う翡翠に、おかしくなって噴き出しそうになる。
「…あの…僕のわがままで…龍麻を巻き込んじゃって…なんて言っていいか…わからないけど…。」
翡翠は普段は透けるような白さの肌をこれ以上ないくらいに真っ赤に染め上げている。
「…僕、…気が利かないから…至らないところ一杯あるけど…でもっ、一生懸命がんばる。…だから…。」
その後はもごもごと俯いているのでよく聞こえない。
聞き返そうと近づくと、翡翠は聞き取れていなかったのが分かったようで、慌てて顔を上げて、もう一度、泣きそうな顔をしながら、まるで体の中に篭もった気を吐き出すように叫ぶ。
「だからっ…嫌いにならないでっ!」
言ってしまって気が抜けたのか、ぽろっと涙が零れ落ちる。
ほんと、翡翠って…。俺は苦笑しながら翡翠を手招きする。最初、少しだけこっちに寄って来た翡翠をもう少し側に寄せ、自分の前に座らせるとくしゃくしゃと頭を撫でる。
俺、何回も翡翠だけだよって言ったはずなんだけどな。
ずうっと男の格好をしてきたから、女の自分にまだ自信が持てないのも仕方がない。ま、あんまり持ってもらっても俺が困っちゃうけど。
「嫌いにならないよ。…どうしたら信じてくれる?」
逆に尋ねると、翡翠は困ったような顔をする。
「龍麻が…そう言ってくれるだけで…いい…。」
「そう?…じゃあ何回でも言ってあげるよ。…なんだったら毎日寝る前にでも。」
そう言うと翡翠がくすくすと笑い始める。
うん、やっぱり笑っている顔が一番かわいいよ。
でもそんなことを言うと、また恥ずかしがるだろうから、このセリフはまたいつか、からかうときのために取っておこう。
「翡翠、これあげるよ。」
俺はさっき荷物の中から探し出して手の中に収めていたものを、翡翠の手を取って手のひらを上に向けて開かせてからそれをぽんと置いた。
不思議そうに、翡翠はそれを覗き込む。
次の瞬間、びっくりしたような顔で俺を見つめた。
「龍麻…これ…。」
「婚約指輪。…少し貯金があったから。」
翡翠がスキー教室に出かけている間に、俺は婚約指輪を買っておいた。壬生の特訓で少しは貯金があったので人並みとはいえないけど、それでもなんとかダイヤがついているものを買うことができた。最初は翡翠の誕生石、トパーズにしようかと考えたが、やっぱりダイヤでしょう?とものの本にあったので、一生に一度のことだから思い切って奮発してみた。
「…だって…これ…すごく高い…。」
仕事柄石の鑑定もする翡翠にはおそらくおおよその値段の検討がついているのだろう。確かに高校生が送るものとしては破格の値段なんだけどさ。
「一生に一度のものだからね。…あんまり手を抜きたくなかったんだ。」
すると翡翠は手のひらに乗っているリングを見つめて、しばらくそのまま無言で呆けていた。
「気に入らなかった?」
しばらくたってから尋ねると、翡翠はふるふると首を振る。
俺は手のひらに乗ったままの指輪を摘み上げて翡翠の薬指にそっと通す。それはするりと、滑らかに通り、ぴたりとおさまった。
だけど、翡翠はまだ呆然と、まるで夢でも見ているような顔で見つめているだけだった。
「翡翠…?」
反応のなかった翡翠は、やがて唇を震わせ口角が下がり、次にくしゃっと顔が歪んで、ぽろぽろと涙を零し始める。
「…これ、夢じゃないよね?」
泣き笑いしながら、翡翠は指輪のはまっていない方の手で毀れた涙を拭う。
「夢じゃないよ。…ほらほら。」
俺はおかしくって笑いながら、翡翠の頬を軽くつねった。
「…いたたた。…夢じゃないんだ…。」
そう言って、翡翠はいつもの凛々しさはどこへやら、情けない笑顔を浮かべて再び涙を零し始めた。
婚約したのが嬉しくて、指輪を貰ったのが嬉しくて、それで泣かれるってのも結構男冥利に尽きるもんだよな。
俺のために男になって、俺のために女になりたくて。ちょっと前まではあまりなかった愛されてる実感に少し照れくさく、蕩けそうな甘さが心地よく全身に染み渡る。
これから一生、大事にしよう。
泣き出した翡翠を宥めながら、こみ上げる愛しさに苦笑し、とりあえず記念すべき初デートをどこにするか考えていた。



                                        END

 

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