「できちゃった。」
早朝の心地良いまどろみを僕の腕の中で一緒に貪っていた筈の龍麻が、ぼそりと呟いてからむくりと起き上がって布団から抜け出し、そうっと部屋から出て行った。足音はぱたぱたと、トイレの方に歩いて行き、キィと古い蝶番が軋む音がして戸が開閉するのを意識の片隅で聞いていたが。
できちゃった。
その一言を頭の中でリフレインした途端に、僕の意識は深海から急に浮上する潜水艦の如く覚醒した。
できちゃった、できちゃったって……………、やっぱり…子供のことだよなぁ…?
まだよく回らない頭で、ぽんっと急に赤ちゃんを抱いた龍麻の姿を思い浮かべる。
嬉しい様な、驚いた様な、やっぱりという様な、とうとう来るべきものが来た様な複雑な気分。決して嫌なのではなく、まだちゃんと心構えができていなかったから、あんまりにも急だったからびっくりした、というのが正直な感想。
心当たりは山ほどある。というか、できて当たり前なくらい。
とりあえず、どうしたらいいんだろう?
ふっと僕は僕らを取り巻く環境に思いを巡らせる。
成人したものの、まだ大学生である僕たちは一緒に住んでいるわけでもなく、当然入籍もしていない。
子供ができたならすぐに入籍だけでも済ませないとまずいだろう。できちゃった結婚になってしまったが、順番なんてどうでもいい。大事なのは僕が龍麻を愛している、ということなのだから。何人かにはきっと冷やかされるだろうが、それも仕方ない。こんなことなら大学卒業を待たずに龍麻と入籍しておくんだったと悔やむが、今更仕方のない話だった。
とりあえず、入籍するとなると親類には連絡しないとまずいだろうか。
またどこかの遺跡で土遊びをしている父の居所を調べて電報でも打っておこう。龍麻のことをとても気に入っていたから反対はしないだろう。
それから祖父…。祖父も相手が黄龍の器なら反対はするまい。何しろ、黄龍の器がいかに大事な存在であるか懇々と長年に亘って説き続けたのは、あの祖父なのだから。
飛水の里の方も勿論僕のすることに文句は言わないだろう。長と同等の発言力を持ち、一番の力を持つ玄武のすることに意見するなど、よっぽど僕が道義に反している時以外考えられない。何より、玄武を奉る一族にとって、その玄武が守護する黄龍がいかに大事な存在であるか。龍麻がその黄龍の器であることが絶対に一族が結婚に反対しないであろう要因でもあった。
そういえば、僕の子供だから当然、飛水流を継ぐものとして修行をするようになるが、龍麻は怒るだろうか?
僕としてはどうしても修行をさせたい。別に飛水流に固執するわけではないが、将来、また柳生の様なものが現れてこの東京を混乱に陥れようとした時に、それを阻止する黄龍の器に助けとなる玄武がいた方がいいに決まっているから。飛水の一族にいろいろな家があるけれど、如月家が代々一番玄武を排出しているのだから。僕の子供が玄武であろうともそうでなくとも、飛水の技を継いでくれなくては玄武が廃れてしまう可能性が高くなる。
あの時の戦いでどれだけ龍麻の力になれたかはわからないが、多分、いないよりはましだったと思う。遠い将来、星が巡ってまた龍脈が乱れ、黄龍の器が戦わねばならならない時、玄武が必要になるかもしれない。僕らの子孫が少しでもこの街を守る手助けになれたらと思う。
そう考えながら、今度は龍麻の関係者を考えた。そして現在龍麻に最も近しい人間、後見人で師匠でもある男性を思い出した。
挨拶に…行った方がいいよな。
龍麻は実の両親は既に亡く、養父母も亡くしている。東京から少し離れた地方都市に緋勇の本家があるそうだが、そことはほとんど連絡をとっておらず、実際に会ったのも1度きりらしい。とすると、実質的には龍麻の親類というと、あの、拳武館の鳴瀧館長だけということになる。
血の繋がりはないにしろ、後見人であるし、親友の忘れ形見である龍麻のことを実の娘の様に、いやそれ以上に可愛がっている。
やっぱり、龍麻を嫁に下さいとか言わないといけないんだろうか?
壬生に言わせると『馬鹿』がつくほどの可愛がりようで、一切不自由のないようにと細心の注意を払っているというから、やはり、挨拶はしておかないと。
『おまえに龍麻はやらん!』とかって、怒られたらどうしよう。
何しろ壬生と龍麻の師匠だから、かなりの使い手であることは明確だ。自慢じゃないが、僕は手数は多いことが自慢だが打たれ弱く、先制攻撃で倒してしまわないと反撃をくらったら倒されることは確実である。
神水でドーピングするしかないか。
いや、待て。別に僕は戦いに行くわけじゃなく、龍麻との結婚の許可を貰いたいだけなんだ。
龍麻を大事にして、幸せにすると、ちゃんと話をすれば分かってくれるはずだ。
1発や2発、奥義を食らうかもしれないが、龍麻のために我慢しなくては。草人形、装備していこう。
あ…もしかして壬生も関係者なのか?表裏だし、龍麻の兄弟子だからな…。
でも、壬生には反対なんかさせない。
龍麻は僕の彼女だし、僕の子供を宿しているのだから。
…でも…龍麻が、実は生みたくなかったらどうしよう?
堕ろしたいって、そう言われたら?
…妊娠しているのなら、学校へはあと何ヶ月かで行けなくなる。休学するにしろ、復学する時にはもう友達は卒業してしまっていて、龍麻は寂しい思いをするかもしれない。
それに生んだ後だって子供の世話で多少大きくなるまでは休学しなくてはいけないから、かなりの間、学校に行けなくなる。
一生懸命に勉強をしている龍麻の努力と熱意を知っているから、僕は龍麻に無理強いをすることができない。大学に入ってから、龍麻は本当によくやっている。学校で習うこと以外にも自分で図書館へ行って調べたり、美術館に足を運んでみたりと、自発的に勉強しているのだ。そんな龍麻の向学心をここで子供のために中断させるには忍びない。
だけど、僕はどうしても龍麻に生んでほしかった。
まず龍麻はどうしたいか聞いてみて、それからにしよう。
そこまで考えた時、トイレの戸が開く音がして、足音が廊下を伝って部屋の前まで戻ってくる。襖がすぅっと静かに開いて、そうっと、足音を忍ばせて龍麻が戻ってきた。
布団に戻るか戻るまいか逡巡しているようで、布団の脇に座り込んでいるのが気配でわかる。僕はそんな龍麻が愛しくなって、上体を起こして腕を伸ばし、龍麻の体を捕らえると布団の中に引きずり込んだ。
「…翡翠、起きてたの?」
びっくりした顔で龍麻が尋ねる。
「ああ。さっき、目が覚めた。」
その言葉に龍麻はすまなさそうに眉を寄せる。
「ごめんね、起こしちゃったね。」
「構わないよ。…それより、龍麻、聞きたいことがあるんだ。」
急にそんなことを言い出した僕に龍麻は小首を傾げて、真ん丸い目で何を尋ねられるか待っている。
「…僕の子供…生みたい?」
躊躇いがちに投げた言葉に、龍麻は一瞬で、それも雨戸を開けていないために薄暗い部屋の中でもわかるほどに真っ赤になる。
「そ、そんな…遠い先の話だし…。」
しどろもどろになる龍麻に僕は困惑の表情を浮かべる。
「遠い先って、そうでもないだろう?」
「そ、そうかな…?」
「そうだよ。」
だって、あと1年も経たないうちのことなのだから。そう思っているのに、龍麻は少し考え込むような仕草を見せる。即答できないのは、やはり、少しでも生みたくない意思があるからだろうか?
不安に苛まれながら彼女が考え込む姿を凝視していると、その視線に気づいたのか今度は驚いたような顔をした。
「あっ…嫌なんじゃなくって!…ただ、その…急だったから…びっくりしたの。」
慌てて言い募る言葉に、さっきの自分の気持ちを思い出す。
なんと言っても自分の身に起こったことだから、僕よりもびっくりしているに違いない。それなのに、性急に回答を求めてしまって、龍麻の気持ちをちゃんと考えていなかった。
「あ…ごめん…。そうだよね、びっくりしたよね。」
「うん。」
恥ずかしそうに俯いて龍麻がうなづく。それでも、すぐに僕の浴衣の胸の辺りをきゅうっと握って、伸び上がるようにして僕の顔を覗き込んで言う。
「…でもね、私、生みたいよ?…だって、翡翠の子だもの。」
よし!
僕は密かに心の中でガッツポーズを決めた。
「…僕は…龍麻も、子供も一生大事にして、幸せにするからね。」
「…翡翠………嬉しい。…ありがとう。」
頬を染めて、幸せそうな笑顔を浮かべてくれる。こうやっていつまでも龍麻が笑うのを側で見ていたいから。
そのために、一刻も早く行動を起こさなければ。
今日はこれから父や祖父に電報を打って、それから鳴瀧館長の都合がつくようなら挨拶に行ってしまおう。
婚姻届は明日貰ってくればいいし…そういえば龍麻の本籍地ってどこだろう?婚姻届を出すのに戸籍謄本がいるから、遠隔地ならば郵送で送ってもらうように手配しなくては。
それから、病院。どこにしようか。桜ヶ丘病院は産婦人科だから、本来はあそこがいいけど、お産の時に遠すぎる。
この近所で、ある程度設備の揃っている大病院となると、帝京大学付属病院だろうか、日大付属板橋病院だろうか。日大は母子医療センターがあるし、帝京は地域機能病院だし。今日は日曜だから明日にでも検診に行こう。一人では不安だろうから、僕も付き添っていった方がいいだろう。明日は特に重要な授業があるわけではないから、休んだって構わない。
「じゃあ、龍麻、明日、病院に行こう。」
「え?」
腕の中の龍麻が一瞬にして固まる。
どうしたのだろう?明日は都合が悪いのだろうか。
「明日、都合が悪い?」
「…どうして明日?」
「…どうしてって…早い方がいいだろう?」
龍麻の眉が寄り、うーんと唸りながら考え込む。
どうして悩むのだろう。…それとも、こういうのってあんまり早すぎても駄目なのだろうか。
「…なんで早い方がいいの?」
もう一度、ゆっくりとした口調で尋ねる龍麻。
「…子供できたんなら、早く様子を見てもらって、安静にしなくちゃだよね?」
僕もゆっくりと、龍麻に言い聞かせるようにして返事をすると、龍麻の目が点になる。
あれ?どうしたんだろう?
「誰が…子供できたの?」
龍麻は不審そうに僕に尋ねる。
「…誰がって…龍麻。」
「できてないよ。」
「そうだよね、できてない…ええええ!?」
できてない!?
「だって、さっき、『できちゃったみたい』って言って、トイレに行ったじゃないか。」
すると龍麻が瞬間、驚いた顔をして、それからすぐにぶーっと思いっきり噴出してから笑い転げ始めた。
「た…龍麻?」
わけのわからない僕は笑い転げている龍麻の顔を覗き込む。
涙を流すほど笑い転げた龍麻は冷静を取り戻してから浴衣の袖で涙を拭う。
「『できちゃった』、じゃなくって、ただの『きちゃった』だよ。」
言われた僕はわけがわからず、きょとんとしたままでいて、それに焦れた龍麻が恥ずかしそうに、少し拗ねたような顔で小声で言う。
「…アレ、始まっちゃったの。」
………………なんだ、そういうことか。
僕は、それでようやく聞き間違いをしたのだということに気がついた。
安心した、というか、脱力したような気分でいつの間にか緊張で強張っていた体から一気に力を抜いた。
「僕は…てっきり…。」
呟く僕に、申し訳なさそうに謝ろうとしているのに気づいて首を振る。
「僕が勝手に聞き間違えたんだ。…龍麻のせいじゃないよ。」
優しい恋人の背中に回した手に少しだけ力を込める。
安心したような、残念なような。
折角、覚悟を決めたのに。
僕は苦笑しながら龍麻の柔らかな髪に顔を埋める。
「…嬉しかった。…翡翠が、『龍麻も、子供も一生大事にして、幸せにするからね。』って言ってくれたから。」
そう言って龍麻もきゅっと僕の背中に腕を回して、ほんの少しだけ力をこめた。
「いつだって、僕はそう思ってるよ。」
「ありがとう。」
うっとりと、蕩けそうな甘い声で礼を言われて、愛しさが募って、もう少しだけ腕に力を入れて龍麻を抱きしめた。華奢な体がぴったりと寄り添い、浴衣を通して温かさが伝わってくる。
「…ねぇ、もし、本当にできちゃったら……生んでもいい?……嫌だったら絶対に迷惑かけないから。」
思いがけない言葉を言われて、慌てて抱きしめていた腕を離して龍麻の顔を見る。不安そうに、眉を寄せて、僅かに肩を丸めて。
「嫌なんてこと、あるわけないよ。絶対に生んでほしい。…約束。」
「よかった。」
龍麻はほっと、安堵の表情を浮かべて息をつく。
「だけど、できるならもうしばらくはこうして、龍麻を独り占めしていたいな。」
龍麻の背中にもう一度腕を回して、さっきよりも強い力で腕の中に閉じ込める。龍麻の鼓動が感じられるほど密接する。
そう。僕は子供に龍麻を譲る気にはまだなれない。こんなに大事で、こんなに愛しいから。
だから、悪いけど、もうしばらく僕らの元へ来るのは待っててくれないだろうか?
やがて、いつか君が来たときには諸手をあげて歓迎するから、ね?
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