父、帰る
家に戻ってくると、父を居間においたまま僕は夕食の支度に取り掛かった。世話なんてするものか。大体、元は自分が住んでいた家なのだから、何もしなくとも必要なことはできるだろう。そう思いながら米を洗っていた。 すると、廊下をぱたぱたと忙しげに歩く足音が聞こえる。 どうしてそんなに世話を焼きたがるんだ。僕は龍麻の足音に内心のイライラを隠すことが出来なかった。 龍麻も龍麻だ。最初から僕の父だと分かっていたのだから始末に悪い。一体、自分のことをどう言ったのだろう。いや、それよりも僕のことをどんな風に言ったのか。さっき、公園で頑固者とか言われてたし。 龍麻がお風呂の支度をして父を案内する声が聞こえた。そこまでしてやらなくても勝手に風呂に入れとけばいいんだ。優しくなんかする必要はない。 「翡翠、予備の下着出すよ?それから、おじ様の浴衣ってとってある?」 台所に入ってくるが早いか龍麻が言った。僕の家は村雨やら蓬莱寺やら壬生やら、寄り合い所の如くしょっちゅう人が泊まっていた。だからいつでも予備の新品の下着は準備してある。(もちろん、使用したものからは1.25倍の代金を頂くが)下着はこの際仕方なかろう。僕は次にうちに泊まった奴から少し上乗せして代金を徴収することを密かに決意した。それと、浴衣は確か、全部僕が貰ってしまったはずだ。 「僕が着ているのの何着かがそうだよ。」 「じゃあ、翡翠のを貸してね?」 そう言って龍麻が着替えを揃えに僕の部屋に向かっていく。それは嬉しそうに、うきうきとして。 どうして僕の父なんかをそんなにかまうかな? 大根を切りながらはっと気付いた。慌てて脱衣所に行くと案の定、龍麻が過剰サービスをしようとしていたところだった。 「お背中、流しましょうか?」 「そんなことまでしなくてもいいっ!」 僕の怒鳴り声に龍麻がびっくりした顔をしている。風呂場の中からはおかしそうにくすくすと笑う父の声が聞こえてきた。 「だってぇー。」 不満そうな龍麻をずるずると台所まで引きずってくる。 「いちいち世話してやらなくてもいい。もとは自分の家だ。勝手はわかってる。」 「でも、浴衣だって、着替えだってないわけだし…。」 「そこまではいいけど、背中は流さなくってもいいっ!」 少しきつい口調で言うと、龍麻はしゅんとして俯いてしまった。心持ち肩を落として、悲しそうな雰囲気を漂わせている。 「ごめんなさい…。」 ぽつりと謝る声はちょっと涙声で。僕は驚いて慌てて龍麻に謝った。 「あ、いや…龍麻…。そういうつもりじゃ…。」 「ううん。…私が悪かったの。」 俯いたままの龍麻に僕はおろおろとしてしまい、なんとか慰めて機嫌を直してもらおうと思っていた。龍麻に泣かれるのには弱い。それが自分のせいだとなると余計に辛い。龍麻に悪気はなかったわけだし。 「龍麻は居間にいるといい。すぐに支度出来るから。」 僕がそういうと俯いたままふるふると首を小さく横に振る。 「ううん…何か手伝う…。」 「じゃあ、頼んでいいかな?居間のテーブルを拭いてきて。」 僕は台ぶきんを龍麻に渡した。 「うんっ。」 指で瞳にたまった涙を拭って龍麻が元気良くうなづいた。やっぱり泣かしてしまった。僕は罪悪感で胸が痛む。 「それから。…えーと…。」 罪悪感でちくちく痛む胸で、さらに僕は龍麻に頼み事をしなくてはならないのだった。どう言おうか迷っていると龍麻が目の前で小首をかしげている。そんな仕草ひとつでさえとても可愛らしい。 「…龍麻、今晩、忙しいかい?」 「ううん。…なんで?」 「…その…もしよければ…いや、できれば、今日、うちに泊まっていってくれないか…?」 僕の頼みに龍麻が吃驚したように目を丸くする。 「どうして!?せっかくの親子水入らずなのに?」 それが辛いんだった。第一、親子といっても、僕の記憶の底をこそげ落とすようにして穿り返さないと彼の記憶は出てこない。そんな人間と同じ屋根の下で一晩過ごすのは拷問に近いものがあった。龍麻のように何の確執もなければそれはそれでかえって楽なのに。 「龍麻…。」 「うーん、構わないけど。…ほんとにいいの?」 「ああ、頼むよ。」 これで息詰まるような一夜を過ごさなくってすむ。僕はほっとして胸をなでおろした。横で龍麻がコップを冷蔵庫に入れる。 「?何してるの?」 「ビールのグラス、冷やしているの。」 答える龍麻に頭痛を覚える。そんなこと、僕にしてくれた事だってないのに。 「…ダメ?」 上目遣いで僕に許可を求める龍麻は、ビールを出すのを反対されていると思ったらしい。 「いや…ビールは構わないけど。」 「良かった。」 にこ、と微笑んでいそいそとおつまみの支度をはじめる。龍麻は僕に絶対に食べちゃダメ!(もとから食べるつもりもないけど)といつも言っている龍麻用のお菓子入れからためらいもせずに乾き物を出す。僕はダメで父さんならいいのかい、龍麻?僕はなんだか切なくなってしまった。 そりゃあ、あんな父でも歓待してくれるのは嬉しいけど。そのときの僕はすごく複雑な顔をしていたのだろう。目の前の龍麻が心配そうに僕の顔を覗き込む。 「どうしたの?」 「あ、いや。なんでもない。」 僕は流しの方を向いて夕食の支度の続きを始めた。龍麻は僕の背後でしばらく立っていたが、やがて僕の隣に来てじぃっと僕の顔を覗き込む。 「怒って…る?」 不安そうに表情を曇らせて聞く。 「いや。怒ってないよ。」 「嘘。…機嫌悪い。」 龍麻の言葉にちらりと彼女を見ると悲しそうに眉根を寄せている。このままだと龍麻は泣いてしまいそうだ。やれやれ。泣かれたくはないのにと、ふぅっとため息をついてぽつりと呟く。 「…僕に、グラス冷やしてくれたことないよね…。」 馬鹿みたいだって自分でもわかっている。そんな些細なことで怒ることもないし、龍麻が普段、僕のことを好きでいてくれて、隣で幸せそうに笑っていてくれることも分かっている。だけど。望み始めるときりがない。 ほら、龍麻がびっくりしてる。目を真ん丸くして、なんて答えていいか困ってる。…そうだよね。そんなことを考えている僕が馬鹿だ。 「…龍麻のお菓子箱。僕には食べちゃダメって言うのに。」 子供みたいだ。 お客様だからもてなしをしているだけなのに。僕はなんて心の狭い人間なのだろう。 「翡翠?」 龍麻がくいくいと僕の袖を引っ張る。 「えーとね、普通麦茶飲むのにグラス、冷やさないでしょう?…それから、おもてなしをしてるのは、…翡翠をこの世に生み出してくれた人でしょう?」 「あの人が僕を生んだんじゃないけど?」 「そーいう意味じゃなくって!」 龍麻はむーと口を尖らせた。 「分かってるよ。」 僕が言うと龍麻は少し怒ったような表情を浮かべる。 「だから、感謝してるの。翡翠を世に出してくれてありがとうって。ようやく会えたんだもん。」 龍麻の言葉にはっとする。感謝しているなんて、どうしてそんなことを考えられるのだろう。 もし、僕が龍麻の両親に会えたらそこまで考えられただろうか。まさに、龍麻の母こそ、自分の命と引き換えに龍麻をこの世に送り出してくれた人なのに。そんなこと、今まで思ってもみなかった。 「…そうだね。…ありがとう、龍麻。」 「うん。」 えへへと笑って龍麻はお菓子箱の蓋を閉じる前に何かをひとつ取って僕の口に放り込んだ。じわりと甘い味が口の中に広がっていく。 「なに?」 「金平糖。」 龍麻はにっこりと笑って答えた。コンペイトウのとげとげが口の中でどんどんと融けて丸くなっていく。僕も金平糖みたいに尖がった部分が丸くなっていけばいいのに。 「甘くて、おいしい。」 僕が呟くとふふっと龍麻が笑う。 「大好きなの。」 龍麻はぱふんとお菓子箱の蓋を閉めて大事に茶箪笥の中に収めた。 奥の方からお風呂場の戸が開く音がする。 「あがったかな。…翡翠、このおひたし、持っていってもいい?」 「ああ。」 龍麻はうきうきとビールとおつまみの支度をして居間の方に運んでいった。 そうして、僕が夕食を作っている間、龍麻は麦茶で晩酌の相手をして食事をする頃にはすっかりと仲良しになっていた。 「親子だけあって、凄く似てるー。」 龍麻はにこにことして僕たちの顔を見比べる。 「お風呂に入ってお髭剃ったらなおさらなのね。ねぇ、ねぇ、お爺様も似てた?」 「似てない。」 僕が言うと隣で一緒にうなづいた。 「私はね、母親似だったからね。」 父が苦笑しながら答えると龍麻は目を輝かせて尋ねる。 「じゃあ、おじ様も若い頃は随分ともてたでしょう?」 「どうだろうねぇ。」 笑う父に龍麻が自信満々でさらに言う。 「絶対にもてたでしょう?だって、これだけ 似てるんだもの。あのね、おじ様、王蘭の如月翡翠って言えば、都内の女子高生では有名な美形でねぇ…。」 「へぇ…。」 父の感心したような視線を無視して、僕は食事を続ける。 「王蘭のプリンスって呼ばれてたんだよね。今でも東美の若様って言われてて、他の学校の女の子にも絶大な人気。」 「龍麻!」 注意をすると龍麻は笑いながら肩を竦めてみせた。 その後も龍麻が必殺世間話攻撃を仕掛けてくれて夕食もその後も気まずい思いをするようなことはなかった。龍麻の凄い(と僕が勝手に思っている)ところはこういうところだ。龍麻がいるだけで普段は性格の合わない同士でも場を和ませることが出来るのだ。それが一番顕著に表れたのはあの戦いで龍麻のもとに集まった仲間達だろう。当然、20人以上もいれば人それぞれの好き嫌いが出てくる。僕だって聖人君子ではないから当然嫌いな人間がいるが、龍麻はみんなを纏め上げ、指揮をし、東京を護りきった。そしてその後もみんな何かにつけて龍麻に会いにここへ来る。あれだけクセの強いバラエティに富んだ人間をまとめるのは並大抵ではないと思うが、龍麻にしてみれば特段すごいことでもなんでもないらしく、『だって、気に入った人しか仲間にしてないもーん』だそうだけど。 「…龍麻…?龍麻?」 ふと気付くと龍麻は卓袱台に突っ伏して寝てしまっていた。 「寝てしまったようだね。」 父が苦笑しながら言う。 「随分、疲れたのだろう。私がきたときには庭の草むしりをしていたようだからね。」 ふと庭を見やると綺麗に雑草が片付けられている。もうそろそろ暑くなって伸びてきて気になっていたのを龍麻が片付けてくれたようだった。 「龍麻。お布団に入らないと。」 「んーん。」 龍麻を起こそうと隣に寄った僕の膝を枕にころんと龍麻が転がった。僅かに微笑むようにして幸せそうな寝顔を見せている。起こすに忍びなくて僕はもう少しそのままでいることにした。 「まさか、黄龍様が女性だとは、ね。」 父は龍麻を覗き込んで言う。 「僕だってびっくりした。」 「そうだよなぁ…私だって男だと思っていたからね。…こうしていると普通の女の子なのにな。」 「龍麻は普通の女の子ですよ。」 僕は膝で幸せそうに眠る龍麻を眺める。 「ああ、そうだな。…いい娘だな。」 「ええ。」 そうして父と僕はしばらく龍麻の幸せそうな寝顔を二人で見つめていた。 「いつまで日本にいるんですか?」 僕はふと尋ねてみた。 「明日、戻る。」 穏やかな微笑のまま父が答える。 「明日?…随分早いですね。」 「ああ。…全部ほっぽりだして来てしまったからね。」 それは身なりや荷物を見ただけでもわかることだった。何しろ、身に付けていたものはほとんど土汚れがひどく、さっき龍麻が洗ったら、驚くほどに白くなってびっくりしていたくらいだから。 明日、帰るとなると随分忙しくなる。どうしても帰る前に僕は是非とも行って欲しい場所があった。 「…帰る前に、母さんに…。」 「ああ…。」 最初からわかってたようで、ゆっくりとうなづく父に、僕は思い出したことがあった。 僕は盆と彼岸くらいにしか墓参りに行かない親不孝モノだけど、たまに花があがっていたことがある。おそらく、こっそり父が帰国して花を上げていたのだろう。近所の人が言うには、それは仲のよい夫婦だったということだから。息子である僕には顔を見せずとも自分の妻にはきちんと会いに来ていたということだ。 「そういえば、父さんは…?」 「行方不明なのは本当ですよ。この店を僕に譲って、ね。」 「どこへ行ったか全くわからないのかい?」 「…大方の予想はついていますけどね。」 そう、行方不明になった祖父がもし本当に死んでいたとするならば、飛水の里の方からなんらかの連絡があるはずだ。あのお爺様がのたれ死ぬとは考えにくいし、仕事で死んだのならば連絡があるはずだ。だから、不慮の事故でもない限り生きていると見たほうが正しい。 「便りがないのは、元気な証拠、か。」 「あなたじゃあるまいし。」 僕の言葉に父が苦笑する。 「さて。それでは、明日墓参りに行くのなら早く寝ることにしましょう。…隣に布団の用意をしておきました。自分で敷いて勝手に寝てください。」 僕の言葉に父はおかしそうに笑ったあと、おやすみと言って隣に引き上げていった。 僕は膝枕で気持ちよさそうに眠っている龍麻を起こさないようにそっと抱き上げると自分の部屋に戻っていった。 翌朝、僕らは朝食を済ませてから母の墓参りにでかけた。出掛けに僕は龍麻に用事を頼んでいく。 戻ってから夕方の飛行機で戻るという父を見送りに一緒に成田空港まできた。本当は駅まででいいと父は言ったのだが、龍麻がどうしても空港まで行くといって聞かなかったのだ。 「おじ様、気をつけて行ってらしてくださいね。」 龍麻が心配そうに言う。 「ああ、大丈夫だよ。私は玄武ではないけれど、これでも飛水流の忍術は使えるのだからね。」 骨董品店は継がなかったけれど、父だって如月家の一員である。学者という職業と、線の細い体格から侮られがちだが、それでも並みの人間よりも数段、体力も行動力もあるのだった。 「それから、お願いします。」 龍麻は急に神妙な顔をして、深深と頭を下げる。 「ああ。」 父もそれにうなづいて答える。一体なんだろう?聞こうとする僕に頭を上げた龍麻が言う。 「ほら、翡翠も。ちゃんとお見送りの言葉を言わなくっちゃ。」 急に促されて、僕は何も考えてなかったから言葉が詰まってしまった。 「あ…。」 そんな僕の様子に龍麻は微笑んでから少し離れたところにある売店を指して叫ぶ。 「喉かわいちゃった。ちょっとジュース買ってくるっ!」 そうしてぱたぱたと駈けて行く。そんなのは龍麻の気遣い以外の何者でもないがそれが案外嬉しく思ったりする。 「…気をつけて。」 「ああ。」 父はほとんど荷物を持ってこなかった。今、手にもっているのは今朝、僕らが墓参りをしている間に龍麻が買い揃えてきた下着や靴下の入った鞄だけである。 なんだかその様子がひどくおかしくって、僕は自然に笑みがこぼれてきた。まるで子供みたいだ。 「…これからはどこにいるかぐらい、連絡をよこしてください。」 僕の言葉に父がにっこりと笑う。そんな顔で笑ったら、余計に似るじゃないか。 「ああ、わかった。」 「…それから…たまには帰ってきてください。龍麻が…喜ぶので。」 「ああ。」 父はちらりと持たされた鞄を見る。 「これ、ありがとう。」 「礼なら龍麻に言うべきでしょう?」 僕の言葉に父が困ったような顔をして笑った。龍麻に言って僕が買いに行かせたのはすっかりとばれているらしい。 「彼女に、よろしく。」 父は穏やかに目を細めて、売店でジュースを買う龍麻の後姿を眺めた。買い物が済んだらしい龍麻がこちらに戻ってくる。 「それじゃ。」 「ええ。」 「いい知らせを待っているよ。」 父はそう言って鞄を持った。 「世話になったね。」 戻ってきた龍麻に父が礼を言うと、龍麻はほんのりと頬を紅くして小さく首を振る。 「また、帰ってきてくださいね。待ってますから。」 「ああ。そうだね。また、ね。」 父はそのまま腕を伸ばして龍麻の頭をいい子いい子するようにくしゃくしゃっと撫でてからチェックインをしにカウンターに向かっていった。 昨日、最初に姿を見たときに眼前を吹きぬけた怒りの風はもうとっくに凪いでいた。 父親というのも、悪いもんじゃない。僕はそう思いながら手続きを終え、セキュリティチェックのゲートに消えていく父の後姿を見送っていた。 そして空港から戻った僕に、龍麻が入れてくれた麦茶のグラスがキンキンに冷えていたのはまた別の話。 END |