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「…ん…。」腕の中で眠る龍麻が身じろぎをして、僕は起きてしまったかと様子を見る。
 どうやら目覚めたわけではなさそうで、またすぐに心地よさそうな寝息を立てて眠りに立ち戻る。
 安らかな寝顔は、案外幼くて。
 伏せられた睫は長く、軽く閉じられた唇が微笑んでいるかのように緩い弧を描いている。
 僕の彼女。
 手が届かないって思ってたのに。
 今、こうして腕の中にいるのが信じられない。
 この幸せが、いつ消えてしまうかと、僕は不安になる。
 「僕はいつまで君の隣にいていいのかな…?」
 呟いても返事はないけれど。
 できるならずっと側にいたい。
 こうして、君を抱きしめていたいけど…。
 「…ずっと…愛してる。」
 眠る君に囁いて、抱きしめる腕に力をほんの少しだけ篭めた。
 
 
 4月9日。
 今日は大学で初めての授業をうけた。
 だけどそれだけじゃない。
 今日は、龍麻と一緒に迎える初めての誕生日。
 自分の誕生日がこれほどまでに楽しみなのは小さい頃、まだ母さんが入院する前以来だろう。近年では自分の誕生日さえ忘れていて、そういえばひとつ年をとったくらいにしか思っていなかったのだけれど。
 昨日は龍麻の提案で如月さんを含めて、3人で僕の誕生祝いをすき焼きで盛大に祝ったので、今日は二人だけで静かに過ごそうと決めていたのだ。
 幸い、如月さんは専攻の授業で遅いようだし。
 僕は専攻である数学の授業を終え、龍麻と待ち合わせをしているカフェに急いだ。
 中に入ると、20人弱の人の集団が出来ていて、確認するまでもなくその中心にいるのは龍麻であろうことがわかる。
 如月さんはこの時間にいるわけがないし、人だかりの構成メンバーが男女同じ比率だということがいかにも龍麻らしい。その人だかりの中には見覚えのある顔もあれば、全く見知らぬ顔もある。大方、先ほどまで授業のあった社会専攻の連中と一緒なのだろう。
 「龍麻。」
 人の輪の外側から声をかけると龍麻が顔をあげ、僕のほうに首を向け、人垣の中から見えにくそうに僕の姿を探している。と同時に龍麻の周りにいた連中も一斉に僕のほうに振り返った。
 「お、格さん登場か。」
 誰かがそんなことを言うのが聞こえた。
 「…誰が水戸黄門よ。」
 苦笑しながら龍麻が言うと、くすくすっと人垣から笑い声が漏れる。
 僕は少し苛ついた気持で龍麻を取り囲む集団を眺めながら少しだけ龍麻の側に近づく。
 「…帰るよ。」
 すると人垣の中からは不満そうな声が漏れてくる。
 どうやら龍麻をすぐに帰したくないようである。しかし、そんな他人の願いになど付き合う気はさらさらない。僕は椅子に座りもしないで立ったまま龍麻が支度をするのを待っていた。
 彼女は手早く荷物を片付けると、すぅっと静かな動作で立ち上がる。
 「それじゃ。また明日。」
 にこ、と微笑んで僅かに会釈をするように首を下げる。
 「ばいばい。」
 「じゃーね。」
 回りを取り囲んでいた者達は残念そうに彼女を見送って、僕らはそれでカフェを出た。
 「…紅葉。」
 駅に向かって構内を歩いていると不意に龍麻から声をかけられる。
 「なに?」
 「…眉間。皺がよってる。」
 可笑しそうに微笑んで、少し伸び上がるようにしてつんつんと僕の眉間を人差し指で指してからくすくすと笑う。
 指摘されて、僕は恥ずかしくって、どういった表情をしていいのか分からなかった。
 分かっている。
 眉間の皺は、龍麻を取り囲んでいた人たちに嫉妬してできたってことぐらい、自分でもよーく分かっている。
 せっかく彼女として独占できたはずなのに、やっぱり龍麻は龍麻で。
 ああやって、何時の間にかみんなをひきつけてしまう。
 だから、不安になる。
 他の誰かを好きになって、僕から離れていくんじゃないかと。
 そんなこと、考えたって仕方がないのに、頭では分かっているのに、それでも考えてしまう。
 じゃあ、最初から手に入れなければ悩むことはなかったのにと思っても、どうしても欲しくて。何をなげうってでも欲しかったから。
 「ね?どうする?」
 龍麻の声ではっと我に返る。
 「え?」
 「お祝い。…どこでする?」
 目を輝かせるようにして尋ねられて。
 「…龍麻の家、いっていい?」
 「うんっ!あ、でも片付けてないや。散らかってるのは大目に見てね?」
 「ああ。」
 それでも、今は僕だけのものだから。
 
 
 龍麻の家に行くのは半月ぶりくらいで、新宿駅からさほど遠くないところにあるマンションの最上階の龍麻の家は、実は館長のものだったりする。
 4LDKの、学生の一人暮らしには広すぎる部屋は実際には1部屋しか使われていない。
 「お茶、入れるね。」
 広すぎるキッチンも、大きい食器棚も、ほとんど中身は入っていない。
 「ああ、いいよ。…それよりも、食事の支度をしよう。」
 そういってキッチンについていくと、龍麻はふくれっつらをする。
 「…紅葉、今日はお客さんなの。」
 でも僕が作った方が早いと言いかけて口をつぐむ。
 「じゃあ、二人で一緒に料理しよう。その方が楽しいし、早くできるだろう?」
 僕の提案に龍麻は納得してくれたようで、頷いて材料を並べだした。
 結局、ケーキは買ってこなかった。
 作った方がおいしいから。
 如月さんに料理の基礎からみっちりと叩き込まれた龍麻は、仕事はさほど速くないけど、ちゃんと料理を作っていく。
 昨日がすき焼きだったから、今日は魚介類にしようと、ブイヤベースを作るために魚介類を買い込んできた。龍麻はその下準備におわれている。
 「僕がやろうか?」
 「大丈夫。」
 僕はケーキを作りながら隣で作業中の龍麻をはらはらしながら見守っていた。
 それでも、さすがに師匠の教えがいいのか、龍麻は僕がオーブンにスポンジのタネを入れる頃には全部の下準備を済ませていた。
 全部の料理が済んだのは丁度7時。
 リビングのテーブルに料理とケーキと飲み物を並べて準備万端。
 「では。」
 こほんと龍麻が咳払いをして、ハッピバースディトゥーユーを歌ってくれる。
 こんなことでさえも嬉しくて、目の奥がじんわりと熱くなってきた。
 ケーキの上に立てたろうそくは19本。
 「消して、消して。」
 楽しそうに笑った龍麻に頷いてから、僕は一気にろうそくの炎を吹き消した。
 「おめでとう、紅葉。」
 当たり前の祝いの言葉がこれほどまでに嬉しいのは、きっと龍麻が言ってくれるせいだろう。
 「ありがとう。龍麻。」
 僕が礼を言うと、それにはまだ早いと笑ってから、龍麻はどこに隠していたのか、僕の前に綺麗にラッピングされた小さな箱を置く。
 「プレゼント。…あげる前に、ひとつ約束して欲しいことがあるの。」
 急に神妙になった龍麻に、僕は首をかしげる。
 「なに?」
 「…この中身。…絶対に紅葉自身には使わないで欲しいの。」
 僕へのプレゼントなのに、僕が使っちゃいけないとはどういうことだろう?
 「お願い。…約束してくれる?」
 でも、上目遣いにいわれちゃ、嫌だということはできなくて。
 「ああ、わかった。」
 うなづくと、龍麻は言霊でもう一度呪いをかけるように、ゆっくりと繰り返す。
 「絶対に、紅葉自身で使わないでね?」
 そんなに念を入れなくても、僕は絶対に龍麻との約束をたがえたりしないのに。
 そう思いながらうなづくと、龍麻は満足そうに笑って、その箱を僕の前に寄せた。
 白い箱。5センチ四方で高さ15センチぐらいだろうか。赤いリボンがかかっている。
 「あけていい?」
 尋ねると、龍麻はいたずらっ子のような顔でうなづいた。
 なんだろう、何が仕掛けてあるのだろうか。
 そう思いながら箱を手に取ると案外重い。
 リボンを解いて、箱をあけると中にはガラスのようなものとシュレッダーで切ったような細い紙でできた緩衝材が入っている。
 細い、とがったガラスを指で摘んで箱から出してみると、それは綺麗なガラスの瓶だった。
 僕が摘んだのは蓋の部分のつまみで、蓋は外れないように蜜蝋でしっかりと密封されている。瓶の中には何かが入っている。
 透明な容器には、雪のような白さの粉末。
 なんだろう?
 そう思って龍麻を見ると、にこにこと笑っているだけで。
 「…何?」
 「なんだと思う?」
 尋ねても、答えは得られず、逆に聞かれてしまって。
 僕は一向にその中身がわからない。首を捻っていると、前で可笑しそうに笑った。
 「ヒント欲しい?」
 尋ねられて頷くと、にんまりと、何かを企んでいるような表情に僕はちょっとだけ嫌な予感を覚える。
 「ヒントはね、…チェーザレ・ボルジア。」
 まさか。
 僕は驚いて、もう一度容器の中の粉末を見た。
 確かに、古い文献にあるように白い粉末だけど。
 でも、彼から導き出されるのはあれしかない。それに、この小瓶。いかにもそれらしい。
 「…まさか…カンタレラ?」
 「あたり。」
 いとも簡単に返事をよこされて、僕はしげしげと手の中にある瓶の中に入っている粉末を見つめる。
 カンタレラというと、あのチェーザレ・ボルジアが愛用した毒薬だが。
 よくこんなものが入手できたな、と一瞬思ったが、招き猫を抱いた彼の存在を思い出す。あの人に入手不可能な品物はない。
 それにしても。
 どうして、僕にカンタレラなのだろう。
 僕自身に使っちゃいけないと、さっきの約束の意味は僕が服用するためのプレゼントではないとわかるが、…でも、これを僕にくれてどうするのだろう。僕が使わなくって、誰に使うのだろうか。
 首を傾げる僕に、龍麻がくすくすと笑う。
 「…龍麻。」
 咎めるように名前を呼ぶと、艶然と微笑む。
 「…理由を説明して欲しいんだけど。」
 するとすうっと龍麻は細い指先で僕の手からそのガラス瓶を摘んで奪う。
 「これはね。…紅葉が私に使うの。」
 にこ、と微笑んで龍麻はさらりととんでもないことを言った。同時に僕の前に瓶を置く。
 「なんで龍麻に…!」
 「今すぐってことじゃなく。…そのうちに、紅葉が私をいらなくなったら。」
 「そんなこと、あるわけない。」
 そういう僕に龍麻は微笑むだけで。
 「…僕が…龍麻をいらなくなるなんて…そんなこと、絶対にないよ。」
 それでも龍麻はその瓶を引っ込めない。
 それどころから、さらに僕の顔を覗き込むようにして、無邪気な微笑を向ける。
 「わからない?」
 龍麻は僕に尋ねて。
 それでこのプレゼントが何かの謎かけであることに気が付いた。
 「…な…に?」
 僕が龍麻を殺すためにくれた毒薬。
 確かに、以前、龍麻には『私を殺して』と依頼されたことはあったけど。
 でも、寛永寺での最終決戦を終え、その依頼も反古になったのに。
 一体、何のために。
 分からない僕は、不安そうな表情を浮かべてもう一度龍麻を見る。
 「…紅葉が、引導を渡すの。」
 龍麻が笑顔のまま言う。
 「私が離れていくんじゃない。終わりは紅葉が決めるんだよ。それまで側にいる。」
 それでようやく、僕はこの毒薬が龍麻なりの愛情の証であることが理解できた。
 「…じゃあ…僕が、ずうっと龍麻が必要だったら?」
 震える唇で、愚かな問いを投げかければ。
 「これは、ずうっと封をされたままね。」
 もちろん、という顔で答えが返ってくる。
 「紅葉が飽きるまで隣にいるよ。絶対に飽きないって言うなら、ずっとそばにいる。」
 そういいきった瞳に宿る光は相変わらず強くて、一瞬、言葉に詰まってしまった。
 僕は確かに龍麻に愛されている。
 言葉だけでは安心できない僕に、わざわざこんな物騒なものを用意して、自分の生死までをも僕に握らせて、愛情を証明してくれるやり方は、少し遠まわしであるかもしれない。
 だけど僕は、これを見れば龍麻の愛情を思い出せるから。これが、ずっと龍麻が自分のものである証明だから。
 「うん。…ありがとう。」
 きっと生涯使われることはないけれど、とても大事な僕の宝物。
 龍麻の愛情の証。
 礼を言う僕に龍麻は極上の微笑を見せて。
 「お腹すいちゃった。早く食べよ?」
 なんとも色気のない言葉に、僕は苦笑してうなづいた。
 
 
 END
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