雨上りの月夜に
昨夜激しく降った雨は既に止んでいて、空には半分ほどになった月がかかっていた。アクラムとの戦いに勝利し、京を黒龍の瘴気から守りきったのは昨日の昼のこと。その戦いで持てる五行の力を使い果たしたあかねは、戦いの直後に今までの疲労も重なったのか、ぱたりと倒れてしまった。急いで左大臣邸に運ばれた後、一昼夜神子は眠り続け、ようやく体力の回復が成ったあかねが目を覚ました時には既に暦が進んでしまい、帰るにはまた次の良き日を待たねばならなくなった。ともかく神子が元気を取り戻したことはすぐに八葉全員に知らされ、こうしてみんなが集ったのである。 「神子様の支度が整いました。」 女房の声にはっとして振り向くと神子と呼ばれる少女が麗しい十二単姿でしずしずと入ってきた。慣れない装束に戸惑いながらもほんのりと頬を上気させて、その頬の色が着ている白撫子の襲の色目と似ている様は大変に愛らしい。付き添っていた友雅が神子を上座に案内すると女房達に目配せして裾をさばいてやるように指示を出す。ようやく座についたあかねは昼まで臥せっていたとは思えぬほどの元気そうな声でみんなに尋ねた。 「似合いますか?」 その場にいた皆が思わず見とれてしまうほどの愛らしさに自然とみんなの顔に笑みがこぼれる。 「よくお似合いですよ。」 真っ先にそう言ったのは鷹通だった。 「こうしていると本当に藤姫の姉妹のようですね。…大変によくお似合いですよ。」 永泉もにっこりと微笑んで言う。 「あかねちゃん、かわいい。ほんとにお姫様みたいだよ。」 詩紋も嬉しそうに言う。 「えへへへ、良かったぁ。似合わないって言われたらどうしようかってドキドキしちゃった。」 「似合うに決まっているよ。なんたって私が神子殿のために最高級品の中から見たてたのだから。」 神子の隣に座っている友雅が当たり前だと言うのを頼久は重い心地で聞いていた。そう、本当によく似合う。いつものような水干姿とはまた違い、少女らしく、いや、立派な姫君に見える。 「…久…?…頼久?」 誰かに呼ばれた声が急に耳に入り、はっとする。 「は、はいっ。」 慌てて返事をして回りを見まわすと皆がこちらを見ていた。 「どうしたのです?そんなに怖い顔をして。」 藤姫が訝しげに眉を寄せているのが目に入った。慌てて首を振ってその場を取り繕う。 「いえ、なんでもありません。…神子殿、回復なさって何よりでした。」 頼久の言葉にあかねは嬉しそうに微笑みうなづいた。その姿の華やかさは皆が誉めるようにすっかりと姫君のそれである。 「申し訳ございませんが、そろそろ警護の時間ゆえ、これにて御前失礼をさせていただきます。」 言い終わるが早いか、頼久はすっくと立ち上がると誰も止める間もなく、あかねに一礼し戸外へ出て行ってしまった。 「神子殿からのお文です。」 庭の警護中に藤姫づきの女房から手渡されたのは撫子の花が添えられた紫苑の料紙だった。明日は物忌みでもないはずだがと不審に思いながらもそのまま受けとって袂に入れ、そのまま忘れていたのだった。その日の全ての勤めが終わったのは子の刻もとっくに過ぎた頃。自分の部屋に戻り、休もうとして結い上げていた髪を解き、夜着に着替えるために上着を脱いだときその文がぽとりと床に落ちたのだ。 その文をぼんやりと眺めながら先日の出来事を思い出していた。 あれから5日がたつ。その間、一度も神子の顔を見ていなかった。いや、違う。わざと避けていたのだ。 八葉としての勤めを終えた今、既に身分は臣下と主、京を救った龍神の神子と神子の宿の家の警護というあまりにも違う身分に戻らざるをえなかった。以前のように軽軽しく神子殿の側に上がることも慎まなければならない。神子殿はもう京を歩き回り怨霊を封じていた頃の神子殿ではない。左大臣家にとって賓客なのだ。 紫苑の料紙。物忌みの度に神子殿が使われていた。私がこの色が好きだと漏らしたとき以来、全て私宛ての時にはこれを必ず使われていた。かさかさと文を開けてみると神子の慣れない文字で『今夜、来てください』とだけ認めてあった。 「馬鹿なことを…。」 口をついて出た言葉は神子殿に大してではなく、自分にであった。神子殿にお会いすることができる。それだけで息が止まりそうなほどに、心臓をきゅうっと掴まれたような、それでいて苦しくなく、むしろ心地よい気がしたのだ。そしてすぐにでも神子殿の御前に伺う気に一瞬なってしまったのだ。…しかし。自分は今更どうしようというつもりだったのだろう。もうすぐ元の世界に戻る神子殿を無事にお返しすることが神子殿の最初からの願いでもあり、八葉として残った最後の勤めではないか。 この文の意趣が分からないほど子供でもなく。かえって神子殿のひたむきな気持ちが読み取れるからこそ辛かった。 左大臣家では姫君の待遇をもって神子殿を遇している。それほどのお方なのだ。それを私の如き武士など手が届くものではない。苦労をかけさせるのが目に見えているではないか。柔らかで滑らかな手はがさがさになり、今のような姫君の着るような豪奢な着物は纏えず、飾り気のない質素なもののみで雑仕女に混じって立ち働かねばならなくなる。そんな苦労は似合わない。神子殿にそんな生活をさせることはできない。私が動かなければそれで神子殿は良い暮らしを送ることができる。元の世界に戻るでもよし、京に留まって友雅殿や鷹通殿の妻になれば先の心配などせずに済むような豪奢な生活ができるのだ。泰明殿にしても今は陰陽師という身分ではあるがあれほどの才能をもってすればもっと上の位になることだって夢ではない。沢山の式を操る泰明殿のこと、貴族にも負けない暮らしをさせることができるであろう。永泉殿も還俗なされば皇子なのだ。今のような身の回りのことは何もしなくとも良い生活を神子殿に送らせることができるのだ。 臥所に横たわると背筋がひんやりと冷える。 ただ目を閉じて時間の行くのを待っていれば良いのだ…そのうちにきっとこんな思いも忘れる日がくるのだろう。あの神子殿の朗らかな笑顔も、優しい心も、可愛らしい声も、みんなみんな。出会ってから3ヶ月で強烈に焼き付いた神子殿の仕草や表情は脳裏に浮かべるだけでまだ甘い痛みを伴っているけれど。 気づくと涙が一筋こぼれていた。袖で乱暴に擦るとゆっくりと体を起こし深い溜息をひとつついて頭を抱えた。 忘れられるはずなどない。この思いをなくすぐらいなら、死んでしまったほうがマシだった。神子殿で一杯になった私は、もう既に壊れて、何の役にも立たない。それほどの強い思いをどうやって消せば言いのだろう。それを消してしまったら、もう私は存在できないかもしれないのに。 カタリ。 不意に物音がした。ほとんど条件反射のように脇に置いてあった太刀を掴んでそっと音を立てないように戸口へ寄る。外の気配を伺っていると小さな声がした。 「あかねです…。」 その声に驚き頼久は戸を大きく開けた。そこにはいつもの水干を着たあかねがほっとしたような表情で立っていた。 「神子殿…。」 「あの…。」 神子殿は何かを言いかけて、そして私の姿をまじまじと見た後にふっと諦めたように項垂れて戸口に立ち尽くしていた。頼久はかけるべき言葉も見つからず、また思いもかけず久しぶりに会えることができた嬉しさと、あかねの来訪の意を疑りながらそこにあかね同様に立ち尽くしていた。 「ごめんなさい。」 しばらくの沈黙のあと、あかねが震える声でようやくそれだけを言った。 「神子殿、かなり遅うございます。もうお休みになりませんと。」 頼久もあかねの震えている声に気づかなかった振りをして平静を装って言う。 「迷惑…だったんですね。」 感情を必至に押し留めた声。俯いた顔からぽとりと雫がこぼれた。 「神子殿…。」 あかねの肩が細かく震えていた。あかねに向って伸ばしかけた手を途中で無理やり留め、そのまま味気なく空を握り締めた。 「お部屋まで、お送り申上げます。」 頼久はそのまま太刀を持って部屋を出る。 「いいです。一人で帰れます。」 「左大臣邸内といえども危のうございます。」 有無を言わさず頼久はあかねの腕を掴むとそのまま歩き始めた。あかねの腕に触れている部分が熱い。華奢な腕は抗う力もなくそのまま引きづられていた。 途中からあかねがしゃくりあげ始めたがどうにもならないのだ。頼久はか細い肩を抱きしめたい衝動にかられながらも、それをしてしまったら二度と神子殿を離したくなくなるのがわかっていたから、だからずっと我慢をしていた。 藤姫が神子のために整えた庭まで戻ってきて、階をあがり、神子の寝所へと送り届ける。 「おやすみなさいませ。」 頼久は一礼をすると御前を下がろうと踵を返した。 「待って!」 今度はあかねが頼久の腕をとってその動きを止める。 「ここに座ってください。」 紅く縁取られた瞳が強い意思で訴えかけている。一瞬の逡巡の後にやがて大きく溜息をついて、仕方がないとでも言いたげに床に正座した。あかねも続いてその前に座る。 「頼久さん、どうして私を避けているのですか?」 彼女らしく単刀直入にあかねが切り出した。 「避けてなどはおりません。」 「じゃあ、どうしてずっと来てくれないないのですか?」 「八葉としてのお役目は終わりました。また元の武士としての勤めに戻ったのです。」 「八葉でなければ私とは会ってくれないのですか?」 「私は左大臣家に仕える身。一介の武士風情が左大臣家の賓客にお目通りを願うことなどできません。」 あかねの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ始める。それを拭うこともせずにあかねは鼻声で続けた。 「頼久さんは私に嘘をついたのですね?」 「…。」 「私を守ってくれるって、言ったじゃないですか。ずっと守ってくれるって。」 「嘘などではございません。無論、この京にいる限りは神子殿をずっとお守り致します。」 その言葉に嘘はなかった。もし、誰かに妻問いされて他家に行ったとしても心はいつも神子殿に向いているに違いない。そうして少しでも神子殿の気が乱れたならば飛んで行く積りだった。自分の霊力は低いけれど、それでもきっと、全身全霊で愛した女性のことならばわかるはずだった。 「ずるい…です。」 あかねは涙でぐずぐずになった顔を袖で拭いた。 「キライになったのなら、そうだって言って下さい。」 嫌いになるはずなんてなかった。今でも、こんなに抱きしめたいと思っているのに。でも、神子殿に苦労はかけられない。…いっそのことキライと言ってしまえば、神子殿は踏みとどまってくださるのだろうか。私などについてきて苦労をして後悔するよりも、ここでいっそのこと振り切ってしまった方が余程神子のためになる。 のろのろと頼久の口元が開く。拒否の言葉に正反対の思いをこめて。 「き…らい…です。」 呟いた途端、鈍くて重い、ざらざらとしたものが頼久の心の中を一瞬で埋めてしまった。一方のあかねはいわれた瞬間に信じられないとばかりに目を見開いたが、やがてそれは段々と力なく戻って行った。しかしそれでもあかねは精一杯に頼久に微笑んだ。 「迷惑をかけて…ごめんなさい。」 床に手をついて頼久に向って深深と頭をさげた。 「夜分遅くに…すいませんでした。送ってくれてありがとうございました。」 「神子殿…。」 目に一杯の涙を溜めて、それでもあかねは微笑んでいる。 「おやすみなさい。」 あかねの言葉に頼久はわずかにうなづくと外に出た。 胸の中で何かが暴れだす。それをどうにか押し留めながら自分の部屋に向ったが、その歩みは次第に速くなり、ついには駆け出し、そして部屋に入るとすぐに寝床に潜った。哀しくて、哀しくて、哀しくて。胸の中に暴れている気持ちが出口を求めて体中を激しく駆け巡っている。吐き出してしまいそうになる思いを必死で飲み込んだ。これでいいんだ。しばらくの間はこうして辛い時間を過ごすこともあるかもしれないけど。自分が何よりも大切に思った女性だから、辛い目になど会わせたくなかったから。今の自分の辛さなどどうでもいいことなのだから。 不思議と涙が出ることはなかった。 それから幾日かの間は慌しく過ぎ去って行った。 左大臣の警護や邸内の見回り、挙句の果てには力仕事など、積極的に行うようになっていた。疲れて何も考える暇もなく寝てしまえるほど働けば、辛い地獄のような苦しみを味合わなくても済む。 「頼久殿。藤姫様がお呼びです。」 「承知致しました。すぐに参ります。」 鍛錬用の木刀をしまうとすぐに藤姫の住まう対屋まで赴く。 「頼久、参りました。」 「ご苦労です。中に入りなさい。」 「は。」 中に入っていくとそこには友雅、鷹通の2人が控えていた。 「友雅殿、鷹通殿、それに頼久。集まっていただいたのはほかでもありません。神子様のことなのですが。」 藤姫が憂いを顔に浮かべ軽い溜息をつく。 「ご様子がおかしいのです。尋ねてもなんでもないとの一点張りで。お食事も満足に召し上がっていらっしゃらないのです。」 「それは珍しい。」 友雅が驚いたような顔をする。 「神子様と特に親しかった友雅殿、鷹通殿、頼久ならば何か存じているかと思って。」 「さあ…心当たりあるかい?鷹通?」 「いえ…。」 「頼久。何か知っていることはありますか?」 藤姫の問いかけに頼久は顔を上げられないまま答えた。 「いえ。」 「そうですか。」 藤姫が困った顔をする。 「きっとお疲れなのだろうよ。もう少しそっとしておいてやるといい。」 友雅の言葉に納得が出来かねたように藤姫が呟く。 「でも…。」 「戦いの直後、倒れてから本復していないのかもしれぬ。藤姫、詩紋や天真に聞いて神子殿が好きそうな食べ物を用意してあげると良いよ。」 「そんなことで治るのでしょうか?」 「しばらくは様子を見てごらん。神子殿は人が心配しすぎるとかえってがんばってしまうところがおありだからね。藤姫もあまり騒ぎ立てず、静かに見守ってあげなさい。」 友雅の言葉に思い当たる節があった藤姫は今度は素直にうなづいた。 「そう…ですわね。…そういたします。」 「さぁ。そうと決まれば夕餉まで時間がない。手配をしておあげなさい。」 友雅に促されて藤姫は詩紋や天真のいる局に向っていった。あとに残されたのは3人。 「さてと。藤姫がいるとゆっくりと話もできないからね。神子殿のこととなると本当にわが身のことのように心配なさる。」 ふふふと友雅が薄く笑いながら頼久の方に向き直る。 「で。頼久。一体、なにがあったというんだい?」 友雅が頼久に訪ねるとびくりと頼久の肩が震えた。 「何も。」 「何もなかったわけではあるまい。下手な嘘は藤姫には分からなくとも私にはばれているんだからね。」 「…。」 頼久は顔を伏せたまま無言で、友雅の言葉を肯定も否定もせずにそのままそこに座っていた。友雅は鷹通と顔を見合わせるとやれやれとでもいいたげに軽く肩をすくめた。 「そういえば、頼久。神子殿に求婚はしたのかい?頼久だって左大臣邸を預かる武士団の次期棟梁。そろそろ後継ぎを考えなければならぬ年だろう?」 友雅が探りを入れるように問うと頼久の膝の上にある拳がぎゅっと握られる。 「神子殿を妻にすることは…できませぬ。」 かかったとばかりに友雅の眉が上がる。しかしそ知らぬ振りをして友雅は更に問うた。 「おや?どうしてだい?」 「神子殿は京を救ったほどの偉大な方。一介の武士風情の妻になど、勿体無いことです。」 頼久はまだ俯いてはいたけれども、はっきりと答える。 「けれども、神子殿は頼久を慕っておいでだったろう?」 「私が…いつも側におりましたゆえ…誤解なさった。それだけのことです。」 そのときだった。俯いていた頼久の胸元をぐいっと引き寄せる力。はっとして頼久が顔を上げたのと、ばきっという音とともに左頬に強烈な痛みが走り、目の前が一瞬白くなって、床に放り出されたのはほんの一瞬のことだった。何が起こったのかと自分の元いた場所を見るとそこには珍しくも怒りの形相を露わにした鷹通が仁王の如く立っていた。 「鷹通殿…。」 普段なら絶対にそんなことをしないであろう鷹通を呆然としながら頼久は見つめていた。 「ふふ…やるねぇ、鷹通。」 珍しいものを見た友雅はさも愉快そうに薄く笑った口元を扇で隠している。 鷹通の握りこぶしは怒りで真っ白になるほどに握られていた。ふるふると怒りで震え、そして今、頼久の頬を殴ったであろう右手の拳は赤くなリうっすらと血が滲んでいる。 「あなたは何を馬鹿なことを言っているんですか…。」 わなわなと震える声で鷹通が言った。 「側にいたから…誤解した?散策にお供した回数は私とて多かったのですよ。けれども神子殿は頼久殿を選ばれたのです。だいたいそれしきのことで神子殿が自分の心を見失うような女性だと、あなたはそうお思いなのですかっ!?」 最後は絶叫に近い声であった。確かにあかねはこの心優しき天の白虎を実の兄のように頼りにしていた。鷹通は一緒に散策に出かけることが多く、それゆえ頼久と鷹通が同道することが極めて多かったのである。 「武士の妻になることが勿体無いことかどうかは神子殿が決めることです。何をあなたは思い上がって神子殿の未来を自分で勝手に決めているのですかっ!」 普段のあの優しげな瞳が怒りで燃えている。頼久はその鷹通の迫力に押されながらものろのろと座り直すと力なく呟いた。 「一生、怖いこと、哀しいことや辛いことからお守りする約束をしました。私の妻になどなっては…綺麗な着物も、身近に仕える女房も、おいしい食事も…何も神子殿にあげることはできない…。武士の妻は辛い仕事が多いから、だから…。」 頼久は唇をきゅっとかみ締めた。神子殿が大事で大事で。何よりも大切な人だから。こんな自分のために苦労して悲しそうな顔をして欲しくなかっただけなのだ。 「それでも、頼久にしかあげられないものもあるだろう?」 友雅の言葉に頼久がはっとして顔をあげた。 「良い暮らしをしていれば辛い事や哀しい事や怖い事がないわけではないだろう?暮らしやすさなら元いた世界に戻ったほうが楽に違いない。それをどうして神子殿は迷っていると思うかね?」 無言でいる頼久に溜息をついて鷹通を見る。先ほどよりは幾分落ちついた様子の鷹通がこくりとうなづいた。 「あなたは辛いことや悲しいことから神子殿を守ると言いながら、自分で神子殿を辛く哀しい目に合わせているではありませんか。」 「そんなこと…!」 「神子殿にとって何よりも辛く悲しいのは頼久殿と離れねばならぬこと。そうではありませんか?」 鷹通はいつものような柔らかい声で尋ねる。 「私は神子殿の散策の折に何度も頼久殿のことを尋ねられましたよ。そして何度も相談を受けました。それはもう、悔しいくらいに。」 鷹通がふっと微笑む。 「頼久。よく覚えておくといい。人はね、好きな人のためならば苦労も苦労じゃなくなるものなのだよ。…朴念仁の頼久には分かりがたい心情かもしれないけれどね。」 からかうように友雅が笑った。頼久はがっくりと頭を垂れている。もうここらが潮時であろうと判断した友雅がすっくと立ち上がる。 「さてと。私はそろそろお暇することにしよう。鷹通、どうするかね?もうしばらくこの朴念仁の相手をしていくかね?」 「ご冗談を。私はそれほどお人よしではありませんよ。私もそろそろ戻ります。」 「そうかい。では一緒に戻るとしようか。」 友雅はもう一度頼久の方を振り向いた。 「ではね、頼久。よーく考えることだね。」 「これ以上神子殿を泣かせるような真似をしたら、今度は白虎二人で大威徳明王を召還してしまいますからね。」 鷹通は本気とも冗談ともつかぬ言葉を残して左大臣邸をあとにした。 その日、最後の見まわりに出た頼久は東北にある武士団の住居から出て左回りに邸宅内を見て回っていた。夜半の左大臣邸はしんと静まり返っていて庭を歩く頼久の足音だけが周囲に響いている。 「あ…。」 頼久は前方の部屋からわずかに灯りが漏れているのに気がついた。それはあかねの部屋からだった。 瞬間、昼間の鷹通と友雅の言葉が思い起こされる。神子殿の幸せ。もし、神子殿が私の妻になってくれるのならば、どんなに幸せなことだろう。けれども、もう遅いのだ。キライですと、心では正反対の事を思っていたとしても、もう神子殿に言ってしまったのだから。 あかねの涙が脳裏をよぎる。 酷い事を言った。最低だ。後悔に苛まれ、きりきりとした胸の痛みにいたたまれず、早足で神子の部屋の前を過ぎようとした。 「頼久さん…?」 部屋の中から自分の名が呼ばれたような気がした。その瞬間、呪いでもかけられたように足が凍り付いて動かなくなる。立ち去ろうとするが、その間にあかねが部屋の端に移動してきたのが分かった。逃げる事も叶わなくなった頼久は諦めてその場にうずくまり、片膝をついて返事をする。 「はい…。」 「見まわりですか?…ご苦労様です。」 中から可愛らしい声が聞こえた。 「無礼を承知で申上げます。神子殿、夜も遅うございます。早くお休みになられたほうがよろしいかと。」 「そうですね。…もう、寝ます。」 「では。おやすみなさいませ。」 頼久が立ち上がると蔀の中の神子が小さく声をあげた。 「どうかなさいましたか?」 しばらくあかねは無言でいたが、やがて深い溜息が聞こえた。 「…あの…私、…明後日、元の世界に…帰ります。」 小さく、まるで独り言のように神子が呟いたその言葉に頭を思いっきり殴られたような衝撃を覚える。 「そうですか…。」 息が苦しい。掠れる声でようやくそれだけ返事をする。 「今まで、ありがとうございました。」 「当然のことをしたまでです。…それでは、御前失礼いたします。」 出きるだけその場から早く離れたかった。早足で武士団住居までくると警護を交代し、そのまま急いで部屋に戻る。 上着を脱ぎ、太刀を外し、武装を解きつつ考える事は先ほどの神子の言葉。 神子殿が元の世界に帰ってしまう。考えるだけで生身が二つに裂かれてしまうような苦しく耐えがたい思いが心も体も支配する。本当にいいのか?あの笑顔も声も愛らしい全てが二度と見えなくなるのだ。 水無月とはいえ、まだ夜は冷える。寝ようと伏せると人気のなかった臥所はひやりとしてうそ寒い。これからまたあの寂しい、未来も何もない味気ない生活に戻らねばならないのか。からっぽな心のまま、長い時間を持て余して。兄を失ったときと同じように。 こうして大事なものを次々と失い、後悔に苛まれ、自分を呪い続け一生を暮らして行かねばならないなんて。そのことの無意味さを知ってしまったから。もうそんな生活を送る事は耐えられない。 頼久は臥所からがばと跳ね起きると太刀をもって外に出て神子の部屋に向って駆け出した。ダメでもいい。せめて、神子を傷つけてしまった事は謝らねば。そして、もし許されるものならば神子殿にきちんと伝えなければ。裾が乱れるのも構わずに一気に神子の部屋の前まで走り抜ける。そうして部屋の前までくると、部屋にはまだ灯りがついていた。 そっと階をあがり蔀の外から声をかける。 「神子殿、頼久です。」 急な来訪に中の神子は慌てた様子で少し時間を置いてから返事があった。 「どうしたんですか?」 「どうしても申し上げたいことがあって参りました。」 「わかりました。中に入ってください。」 人が一人入れるほどの隙間が開けられた。頼久はするりと体を中に滑り込ませる。中には夜着のままの神子がたっていたが頼久を部屋の中に導き入れるとちょこんと座って、深呼吸を2,3度してからまっすぐに頼久を見る。 「なんでしょう?」 にこやかに神子が答える。 「私は、先日神子殿に大変酷い事を申しました。」 頼久が切り出すと神子は静かにゆっくりと首を振った。 「ううん、頼久さんは酷くないよ。だって、ちゃんと正直に言ってくれたんだもん。いけなかったのは私なの。」 「いいえ。あれは正直な気持ちなどではなかったのです。」 その言葉にあかねが少し首を傾げる。 「私は、もしも、できるなら神子殿に私の側に残ってほしいと、そう思っていました。」 神子の目が頼久の言葉に驚いたように見開かれる。 「でも私には何もないのです。広い家も、女房たちも、豪奢な着物も、何一つ神子殿に差し上げることができない。それどころか、神子殿に苦労をかけてしまう。姫君待遇でいらっしゃる神子殿を私の側になど、とても言えなかったのです。」 「そんな…。」 「それであのようなことを申してしまいました。神子殿がお怒りなのは重々承知いたしております。許して欲しいなどと虫の良い事は申しません。それでも、ただ、これだけは信じてください。私は今でも、いいえ、神子殿が元の世界にお戻りになっても、命のある限りずっと神子殿のことだけをお慕い申上げております。」 頼久の顔が寂しそうに微笑んだ。ようやく言えた。もうこれで思い残す事は何もない。自分がどんなに勝手なことを言っているかよく分かっている。けれども言わずにはいれなかった。 「夜分、遅くつまらないことでお邪魔して申し訳ありませんでした。」 部屋を退出しようと、一礼をして立ち上がろうとした時だった。あかねがどんっと頼久に抱きついた。 「み、神子殿っ!?」 ぎゅうっと頼久の体を力いっぱいに抱きしめている。何事かと思ったが神子の顔は下を向いていて見えなかった。立ち上がりかけた膝を戻して座りなおすと神子の体をそっと抱きしめる。 「頼久さんの…そばにいてもいいの…?」 瞬間、頼久はわが耳を疑った。 「神子殿…?」 「私、何もしてあげられないけれど…それでも一生懸命に努力するから、だからキライなんて言わないで。」 途切れ勝ちの声に頼久は慌ててあかねを上向かせた。大きな鳶色の瞳にはじんわりと涙が浮かんでいる。 「私を…許して…下さるのですか?」 「怒ってなんか…いないもの…。」 頼久は強い力であかねの華奢な体を抱きしめた。お食事も満足に出来なくなるほどに悲しまれたはずなのに、恨み言の一つも言わないでくださるとは。頼久は今までの自分の考えの浅はかさを改めて実感した。ずっと側にいたい。そして一生涯をかけて神子を守りたいとそう思った。言えなかった一番大切なことをようやく言える。 「神子殿…私の…妻になってください。」 頼久の言葉に神子の瞳に涙が溢れ出す。返事は言葉にはならず、何度も何度も神子は泣きながらうなづいていた。 やがて部屋の几張には月に照らされた二つの影がゆっくりと寄りそうのが映り、長い間、それは離れることがなかった。空には下弦の月がかかり、雨の後の庭を美しく照らし出していた。 END |