「ファロン…。あとを…頼む…。」
苦しい息の下で父さんは言う。最後にほんの僅か、微笑んだ。
「おまえを…愛しているよ…。」
そうして、微笑んだままの父さんの手から力が抜けてぱたりと落ちる。
「父さんっ!…父さん!父さんっっっ!!」
自分の叫ぶ声に驚いてがばっと跳ね起きると、すぐに目に入ってきたのは、最近になってようやく見慣れてきたトラン湖一帯の大きな地図が貼ってある壁。それから恐る恐るといったようにゆっくりと視線を彷徨わせると、そこは本拠地、オデッサ城内の自分の部屋で、時刻はおそらくまだ真夜中。窓から斜めに入ってくる月光が僅かに自分の寝ている大きなベッドにもかかっている。
無意識に額を手で触わると掌はぐっしょりと脂汗で濡れ、その気持ち悪さに体の中に残る不快感を吐き出すように大きく肩で息をついた。
父さんをこの手で倒したときの夢。
あれから1週間が過ぎようとしている。それなのに毎晩のように鮮明に思い出す光景。
父殺し。どんな理屈をつけたとしても、一生許されることはない罪。
だけど、それしか道はなかった。
私が反逆者として帝国を追われるようになった瞬間から、父さんと私のどちらかが果てる運命だったのだろう。
あの忠誠心と正義感の強い、まっすぐな気性の父さんが皇帝の悪政を放っておけるわけがない。宮廷魔術師ウェンディに骨抜きにされている皇帝を自分で諌めようとするならば、反逆者である娘の私を殺して、その首を皇帝の前に突きつけでもしなければ、自分の欲から出た行動ではなく、忠誠からであるということを皇帝に示すことができなかっただろう。
そしてまた、私も解放軍のリーダーとして、五大将軍が一人テオ・マクドールである父さんと戦うことは避けて通れぬ道だったのだ。
父さんは私がリーダーを務めているが故に、解放軍の軍門に下ることはできなかった。もし、解放軍の軍門に下ってしまえば、最初から帝国を狙っていたなどと言われかねない。それだけは父さんのプライドと忠誠心にかけて、できないことだったから。
だから、戦わざるを得なかった。
たった一人の肉親を、この手で。
思わず右手をぎゅっと握り締めた。
浮かびかけた涙を、唇を噛みしめて堪えてやや上を向く。
汚名ならいくらでも着る、どんな罪だって犯す。…それで戦いに勝てるのなら、あの人の願いが叶うなら。感情の奥底に溜まった悲しみの滓を全て拭って、心から笑ってくれるなら、どんなことでもする。
それが私の願い。
そっとベッドを降りて、テラスへと出て見た。
相変わらずトラン湖の湖面は凪いでいて、鏡のように月光を反射している。その美しい光景に、きりきりと噛みしめていた唇を離し、ほっと息をついた。一体、何度この光景に心を慰められたことだろう。
そう思いながらテラスの手すりに近寄ろうと足を踏み出したところで、自分のものではない硬質の足音に気付いて斜め上にある屋上を見上げた。
そこには、同じように屋上の手すりに凭れるようにして湖を眺めるフリックがいた。
月明かりに照らされた横顔は酷く悲しそうな表情のまま、じっと湖を見ている。
その顔を見ているとまるで自分のことのようにその悲しさが胸を締め付けて苦しくなり、耐えられず、声をかけてみようとして口を開くけど、先にフリックの大きなため息が聞こえてきた。
「…なぁ、オデッサ。…俺はどうすればいいと思う…?」
続いて低い呟きが聞こえ、瞬間、心臓が握りつぶされるような感覚に陥った。
苦しくて、息ができない。
それでも、そこにいてはいけないと、よろよろと足を動かして部屋の中に入る。
入るが早いか、ぺたりと床に座りこんでしまった。
同時にいろんな感情がない混ぜになって一気に襲ってきた。
悲しくて、悔しくて、恥ずかしくて、切なくて、辛くて、バカらしくて。
どんなに頑張ってもオデッサさんがフリックの頭から消えることはない。
どうしてこんなに自分は子供なんだろう。もっと、早くに生まれたかったのに。
もっと魅力的な女性だったらよかったのに。
フリックが優しかったのは、きっとリーダーだからだ。
それをバカみたいに、期待していた。
振り向いてもらえるはずないのに。
笑ってくれたから。だから…。
震える足に力を入れてもう一度立ち上がる。
全て分かっていたはず。
ゆっくりと深呼吸をして、それから部屋の隅に置いてあるサイドボードからアントニオに頼んで持ってきて貰ったワインを1本取り出して、そのまま部屋から出る。
ひたひたと、足音をなるべく立てないようにして向かう先はフリックの部屋。
きっと寝付けないのだろう。
私だったら未成年だからホットミルクだけど。
そうっと入ってテーブルの上にワインのボトルを置いて急いで部屋から出る。
「おい。」
「きゃっ。」
自分の部屋に戻ろうと、走り出したところに、急に後ろから声をかけられて、私は飛び上がりそうなほどに驚いた。
見つかったか?と恐る恐る振り返ると、そこにはにやにやと意地悪い笑いを浮かべたビクトールが立っていた。
「なんだ?随分フリックだけサービスがいいな。」
やっぱり見ていたらしい。私は真っ赤になって、それでも慌てて言い訳をする。
「…なんだか、寝付けないみたいだったから。」
「そりゃ、ファロンもだろ?」
ビクトールの言葉に、私は急いでぶんぶんと首を振る。
「私はちょっと夜更かし。もう寝る。オヤスミ。」
そう言って私は有無を言わさずに、自分の部屋へと駆け戻ってしまった。
それから数日後。
私たちは昼食を取りながらマッシュの話を聞いていた。
クリンやジョバンニといった連中があちこちを回って調べてきた情報を、マッシュがまとめ、分析した話である。各地方の帝国軍の動きなどの話であるが、これからの戦いに影響するために重要な会議である。
昼食とともにその話も終わり、今日の午後はまた仲間探しに行こうとビクトールが提案した。私はそれに同意したあと、仲間になりそうな人間のリストをボンヤリと眺めていた。
連日の寝不足がかなり堪えている。
頭がイマイチ冴えない。
「こいつはもっと仲間を増やしてからって言っていたな。」
「こっちは?」
「もっと強くなってから、だ。」
「強くなってから、は仕方がないとして、仲間を増やしてからって言うのはなー。」
「新しい人間探すしかないかな。」
わいわいとみんなが話し合っているのを私はぼんやりと聞いていた。
きっと、私のことが信用できないから仲間の数や強さで判断するのだろう。
もっと、力のある人間なら良かったのに。
そう、たとえば、オデッサさんだったら、こんなに仲間集めに苦労することもなかったかもしれない。
あれだけ美人で、頭も良くて、大人だったら、きっとみんなすぐに仲間になっただろう。
「ファロン?」
ぼんやりと取りとめのないことを考える。
きっとみんなすぐに仲間になってくれただろうし、もっと早く作戦を展開できるだろうし、それに、あんな風ならフリックも好きになってくれるかもしれない。
「オデッサさんみたいに…なりたいなぁ…。」
ぽろりと、つい口からこぼれてしまって。
気がついたときには遅かった。
席にいたみんなはフリーズして、でも驚いたような目で一様に私を見ている。
「ごめん、…ちょっと疲れてるかも。…今日、休む。」
瞬間的にその場を修復するのは不可能だと悟って、私は脱兎のごとく逃げ出した。
走りながら、どっぷりと自己嫌悪に陥ることは忘れない。
フリックや、マッシュを前になんてことを言ったんだろう。
自分の馬鹿さ加減に呆れながら、自室に駆け込み、ぼふんとベッドに倒れ込む。
オデッサさんみたいになれるわけなんかないのに。
自分のせいでオデッサさんは死んだのに。
反省が足りない。無神経すぎる。最低な人間。
たくさんの自責の言葉が頭の中に浮かぶ。
今更ながら自分の愚かさを痛感する。
どうしよう、どうしたらいいのだろう。
パニックになっている頭の中は真っ白で、ただ自分を責める言葉と後悔の言葉だけがぐるぐると回っていた。
しばらくそうして落ち込んだ後、少しづつ落ち着きを取り戻してきた私はようやくのろのろと顔をあげた。
こうしていても仕方ない。
むくりと起き上がって、部屋から歩いて出る。
無神経な発言、謝らなくちゃ。きっと、二人は気を悪くしているだろうから。
そう思いながらまずはマッシュの部屋を尋ねてみた。
彼は何か書物を紐解いていたらしく、私が来たことに気付くと、にこにこと笑って部屋に入るように手招きをする。
「体調は如何ですか?…ゆっくりと休んでいてもよろしいのですよ?」
マッシュは怒っている風でもなく、穏やかにいつもと変わらない口調で、むしろ私の心配をしてくれる。
「うん、平気。…あの…。」
「はい?」
「さっき…無神経なこと言って…ごめんなさい…。」
ぺこ、と頭を下げて謝ると、マッシュはくすりと小さく笑った。
「全く気にしていませんよ。…あなたが謝ることではありませんし。」
「でも…。」
「それよりも。ファロン殿、あなたはオデッサみたいにならなくてもいいのです。」
マッシュはにこやかに笑ったまま断言する。
「あなたはあなたの良いところがあります。そして、このオデッサ城に集まった者達は、オデッサではない、あなたを信頼し、頼りにしています。だから、あなたはあなたらしくあればいい。」
「でも…。オデッサさんみたいだったら、きっともっと早く仲間が集まるよ?作戦に時間がかからなくてもすむ。」
「戦というのは、早く済めばいいと言うものではないのです。もちろん、早いに越したことはありませんがただ早いだけではいけません。犠牲は最小限に。一般の方々の信頼も得なければなりません。信頼を得ると言うことが、一番時間がかかる大事なことなのです。信頼がなければ国は治まりません。わかりますか?」
にっこりと、尋ねられて私はこくんと頷いた。
かつて黄金皇帝と呼ばれたバルバロッサでさえ、今では国政を省みずに腐敗した政治がまかり通っている。人々からの信頼を失い、結果、私たち解放軍に期待を寄せる民衆が多いことは当のリーダーである自分自身が一番驚いていた。
それほど民衆からの信頼は国を統治する上で大事なことなのだ。
「あなたはよくやっています。私の予想を遥かに越えて。…おそらく、オデッサでもここまで早くは到達しなかったでしょう。」
「そんなことないよ。」
「ふふふふ。謙遜もいいのですけれどね。」
マッシュはくすくすと笑う。
「あなたがどう思っているかわかりませんがオデッサだってただの人間、全知全能ではありません。むしろ足りないところもたくさんあった。…だからあなたが気に病む必要はない。あなたはあなたのやりかたで、オデッサの意思を継いで下さい。」
穏やかな笑顔だけど、強い意思の光をもった瞳にしっかりと見つめられて、反射的にこくんと頷いてしまう。マッシュは満足そうに笑うと静かに口を開く。
「結構です。…ではゆっくりとお休み下さい。あしたから、また忙しいですよ?」
「うん。」
マッシュにそう言ってもらえると、少しはそうかなという気になってくる。
リーダーとして、まだまだ頼りないけれど、少しは役立っているかもしれない。
焦っても仕方がない。少しずつでも、確実に進んで行けばいいのだ。
そう思いながら今度はフリックの部屋を尋ねて見たが、あいにくとフリックは留守のようだった。
ついでだからと、ベッドからシーツを剥がし、萎れた花を取り、他のものを触らないようにゴミを片付ける。ベッドサイドに先日おいていったワインの空き瓶があるのを見つけた。
やっぱり、辛くて眠れないときがあるんだろう。フリックがビクトールほど酒量が多くないことは知っているから、余計に空っぽになったビンを見つけてそんなことを思う。
その空き瓶を手にとって、部屋を出た。
「よっ。」
丁度はちあわせするような形でビクトールと出会う。
ビクトールはにやにやと笑いながら私の肩を叩く。
「いつも、大変だな。」
この笑いは苦手だった。心のうちを読まれているようでどうにも落ち着かない。
「…このぐらい、なんともないよ。」
そう言って持っていたゴミを片付け、シーツを洗いに洗濯場まで降りて行く。ビクトールはどこかに行くのかと思いきや、ずっと後をついてきていた。
「なんか用?」
尋ねるとビクトールはおかしそうに笑う。
「別に。暇だから。」
暇で洗濯に付き合ってもらってもあんまり嬉しくはない。そう思いながら黙々とシーツを洗濯する。しばらく無言で見ていたビクトールがやがて口を開いた。
「フリック、全然気付いていないだろ?…自分の部屋だけ、いつもシーツが綺麗なこととか、ゴミが片付けられていることとか、部屋に花が飾られていることとか。」
「別に気付いて欲しいわけじゃないよ。」
私はそっけなく答えて、シーツのすすぎに入る。
「でも、無駄だって思わないか?」
「思わないよ。…フリックがそれで気持ち良く過ごせるなら。」
その言葉にビクトールはにやにやしながら返答する。
「けなげだねぇ。」
「そんなんじゃない。」
私は静かに首を振った。
「…それしか…償い方を知らないんだ。…まだ…辛い思いを…しているから…。」
するとビクトールはやれやれと大袈裟に肩をすくめてみせた。
オデッサさんが死んだあの時、ビクトールもその場に居合わせた。だから、私がフリックにそうする意味をよく知っている。
「辛い思いならファロンだってしているだろう?」
少し怒ったような声で言われる。
「…私は…。」
反論しかけて、うまく言葉にできずにつまってしまい、言葉を繋げることができないまま洗濯の終わったシーツを広げて干すと、次は花壇に向かった。
ぼんやりと花に水をやりながらようやく探していた返答を見つけ、ぼそりと呟く。
「…グレミオの時も、父さんの時も、側にいることができた。だから…いいんだ。」
グレミオの時は唐突で、残酷で、だから辛くて悲しかったけど、それでも乗り越えなくてはいけないと、なすべきことがあったから前を向いていられた。
父さんの時は、いつかこうなるという覚悟があったから、グレミオの時よりは少しだけ平静でいることができた。
二人とも、その最後の際まで話をすることができたから、それはそれで満足だったのだ。
しかし、頭ではそうなる可能性はあるとわかってはいても何の前触れもなく、尊敬し愛していた彼女を急に亡くしたフリックの気持ちを考えれば、まだ辛くても当然だと思う。
きっとフリックが辛いのは自分が身を挺して守らなければならないと思っていたのに、それができなかったという後悔の念が彼を苛んでいるからだろう。
花壇に水をやりながら私はそんなことを考えていた。
私専用の小さな花壇にはリコンやアンテイで買った花の種を蒔いてあり、暇を見つけては世話している。温暖な気候のこのあたりでは割と早く草花が成長するようで、今では色とりどりの花が綺麗に咲き誇っている。その中から竜胆を3本だけ切ってからそれを持って一度自分の部屋に戻った。
ビクトールは相変わらずついてきている。
「2本は父さんとグレミオに。」
そう言って自分の部屋にある一輪挿しのような細い口の花瓶に花を活ける。その花瓶の側にはグレミオの大斧と、父さんの使っていた剣を並べて置いてある。
それから部屋をでて、今度はリネン庫に寄って、新しいシーツを1枚とってからフリックの部屋に戻ってきた。
部屋の片隅にあるブルーの一輪挿しに、摘んできた花をそっとさす。
「これはオデッサさんに。…フリックね、この花、好きなんだって。」
ビクトールは複雑な表情のままそこに立っている。
ベッドのシーツを取り替えて、部屋の中の点検を済ませてから廊下に出た。
「いないみたいだから、一度、部屋に戻るよ。…それじゃあ。」
ビクトールに手を振って、自分の部屋に戻ろうとするとビクトールは腕をつかんで私を引き止めた。
「ファロン。…おまえは…それでいいのか?」
私の顔を覗きこんで、いつも人のいい笑顔を絶やさない彼らしくない真剣な表情で聞く。
その単純な言葉の裏に隠されたいろいろなものに一瞬考えを巡らせるけれど、だけど、今更弱音を吐いても仕方のないことだから。
「いいんだよ。」
「だけど、おまえ…。」
「私がそう決めたんだ。」
ビクトールがいいかけた言葉を、自分の言葉でさえぎって黙らせる。
「だから、いい。それだけだよ。」
そう言って私は自分の部屋へと戻っていった。
「強い方ですね。」
後に残されたビクトールの背後から、急に静かな声が聞こえて驚いて振り向くとそこにはマッシュが立っていた。
「…それが…あいつ自身を追い込んでいくんだ…。」
ため息混じりにビクトールが言うと、マッシュも少し悲しそうな顔をする。
「軍師としてではなく…マッシュ・シルバーバーグ個人としては…解放軍や皇帝云々より、ファロン殿には…いつでも笑っていて欲しいと思いますよ。」
その言葉にビクトールも同意する。
最初に出会った頃のファロンは、テッドが心配ではあったが、まだ笑う余裕だってあった。
凛とした気品はあるけれど幾分幼さの残る顔が綻ぶのは、まるで蕾であった花がきれいに咲くような、そんな美しさがあったから。
ビクトールはファロンのそれをとても気に入っていたのに。
「…そうだな…。ファロンには…笑顔の方が似合うな。」
「…だから、私はファロン殿が一日も早く笑える日がくるように…どんなことでもいたします。策と言う策の限りを尽くします。」
静かに言うマッシュの顔はとても穏やかだったが、その心中は酷く真剣である事をビクトールはわかっていた。
「早く…終わるといいな。」
ビクトールの言葉にマッシュが静かに頷くのとほぼ同時に、二人にはファロンの部屋に続く廊下を青い影が渡って行くのが見えた。
「ええ、そうですね。」
マッシュは小さなため息をついてから踵を返す。そして自分の部屋の方を向いたまま、まだ後ろにいるビクトールに声をかけた。
「ビクトール。いいワインを貰ったんですが、一緒に如何ですか?」
「ああ。…たまにはいいかもしれないな。」
そういってビクトールはファロンの部屋に消えていく影を見送ると、マッシュの部屋に引き上げて行った。
END
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