眠れない。
フリックは大事な作戦を明日に控え、興奮しているのか寝付けないでいた。
何度も何度も真白いシーツの上を転がり、寝ようと努力をして見たものの、それは一向に成果を現さず、とうとう満月が湖の真上に来る時刻になってしまった。
ふうとため息を一つついて起き上がると、ひたひたと足音を忍ばせて、静かに寝静まった城の階段を上へと上がっていく。深夜の城は恐ろしいほどの静寂に包まれている。一番近くにあるカクでさえも湖の向こうで、街中の喧騒とはひどく遠い、トラン湖の真ん中にこの城は立っているのだから。
屋上に上がると、明るい月光を受けた湖面が鏡のように反射して輝いているのが遥か遠くまで見渡せる。
その景色を見ながらふと感慨にふける。
解放軍が活動を始めていろいろなことがあった。
自分の恋人であったオデッサが死んだのはもう遠い昔のような気がする。
あの頃はいつでもオデッサの背中を見ていた。
隣に立つだけの器でなく、ただつき従うだけしかなかった自分が悔しくてたまらなかった。
守りたいのに、その気持ちだけが空回りしていて、上手く行った試しがない。そんな俺に、彼女は怒るでもなく、ありがとうと、笑って言ってくれた。
そんなオデッサの気遣いに少しでも自分は彼女の役に立っているのだと、誇らしげな気持ちになれたことを思い出す。
その彼女を亡くして、もうオデッサ以上の女性は二度と現れないだろうと思っていたのに、オデッサが後を托したファロンはさすがに彼女の眼鏡に適っただけあり、オデッサ以上といっても過言ではない女性だった。
誰よりも強くて誰よりも脆い、透明なガラスのような少女。
そこらにいる普通の女の子と変わらない細い腕から繰り出す棍での攻撃は恐ろしく強い。まるで舞うように戦うことから、戦場の舞姫と言ったのは誰だったか。その戦う優美な姿に誰もが惹かれ、無敵の強さを誇る彼女に誰もが従う。時間が空くと強い意思を宿した瞳を穏やかに微笑ませて、城内の仲間たち一人ずつに声をかけていく優しさに誰もが信頼を寄せていた。
いつからだったか自分でも分からない。…気がつけば彼女の姿を追っていた。
オデッサのことで、悔し紛れに散々悪態をついた俺に、傷ついていただろうにそれでも一生懸命に話しかけ、少しでも理解を得ようと、オデッサの意思を継げるだけの人間になろうと努力している彼女を知ったのは彼女の姿を追い始めてから。
ソニエールでグレミオを亡くした後も、彼女は普段と変わらずに、ただ黙々と仲間集めに奔走していた。一粒の涙も零すことなく、真珠の前歯できゅっと唇をかみ締めて、悲しみを殺す彼女の姿が悲しくて、危ういところで正気を保っているような状況から救ってやりたくて、ファロンが俺にしてくれたのと同じように、ファロンに話しかけていた。
徐々に、心を開いてくれるようになって、それが嬉しくて。
笑ってくれたから、それだけで嬉しくて。周りには決して見せなかった彼女の弱さを、少しだけでも自分にさらけ出してくれたことが何よりも嬉しくて。
力になれるかもしれない、今度は守れるかもしれないと思っていた。
その後、立て続けに起こった父親との戦いと、親友の死は、彼女に大きなダメージを与えたけれど、それでもまだ彼女はかろうじて立っていた。脆そうでいて強い彼女の神経は、グレミオの復活で危うい状態から随分とよくなったかのように見えた。
だけど。
やはり父親を自分の手にかけたということの罪悪感は拭えるものではなく、一人になると以前のように沈んだ表情になることも多い。
なんとか慰めてやりたいと考え付く限りをするが、相変わらず気持ちだけが空回りして、上手く行かず。
マッシュやグレミオ、ビクトールといった連中達のほうがよっぽど励ますのは上手くて、俺はといえばいつもくだらない、とりとめのない話に終始してしまう。
本当は自分の持てる力を全て使って、命さえ投げ出してでもファロンを守って戦うから、ファロンは堂々としていればいいのだ、と伝えたかっただけなのに。
ため息をついて静かな湖面をもう一度眺めると、どこからともなく綺麗な歌声が聞こえてくるのに気がついた。
誰が歌っているのだろうか。
声のする方向に行って、さらに屋上の手すりから身を乗り出して覗いて見ると、それは隣の塔の最上階から聞こえてくる。その声は、この城の主、ファロンの歌声だった。
細い手を胸にあてて湖の方を向き、真夜中であるのを慮ったのかさほど大きくない声量だがよく澄んだ美しい声は彼女の瞳のようで。
何の曲かはわからなかった。だけど、歓喜に満ちたようなその曲相はこんな夜更けにファロンが一人で歌うにはそぐわない歌だった。だけど、それを邪魔するのも憚られ、月明かりに照らされるファロンの白く切なげな顔と、伸びやかな美しい歌声に聞き惚れていた。歌は時折とぎれるが、旋律は綺麗で、吸い込まれるようにその音は湖にと溶けていく。
彼女が歌っている姿など初めて見たし、歌声も初めて聞いた。玲瓏とした歌声は高く、低く、抑えられた声量であるけれども、辺りに響く。普段の彼女の低い話し声からはあまり想像できないソプラノの声を、全く苦しい様子も見せずに出しているのは彼女の音域が広いことを伺わせる。
歌が、上手かったんだな。
しばらく一緒にいたのに、知らなかった彼女の一面を垣間見て、少し楽しくなった。
歌はほどなく終わり、彼女がほ、と息をついたように力の入っていた肩を下ろす様子に、すっかりと聞き惚れていた俺ははっと我に帰ってファロンに声をかけて見た。
「ファロン。」
びく、と肩が震える。
続いてきょろきょろとあたりを見回して、それから俺の方を漸く見た。
「フリック。」
少し悲しそうな顔で、名前を呼ばれた。
「…綺麗な歌だな。…なんの曲だ?」
「…知らない。」
そういってふい、と目を伏せる。
黙って聞いてたのが嫌だったのだろうかと、慌てて俺はファロンの機嫌をとろうと口を開きかけるが、彼女が先に口を開く。
「眠れない?…明日は大事な作戦があるのに。」
同じことを聞こうとしていて、先に言われてしまって返答に詰まり、即答できずにうーと、みっともなく唸る。
「ファロンだって…。こんな夜中に。」
唸った末、悔し紛れにそういうと、彼女は表情を少し曇らせる。
「…夜中、だからだ。…用は済んだ。…もう寝る。」
ファロンはそういうと、さっさと部屋に入って行ってしまった。
引き止める間もなく姿を消してしまったファロンに、俺は喉元まで出掛かっていた言葉をまた飲み込まざるを得なくなる。本当は伝えたいことがあったのに、また機会を逸してしまって。
小さくため息をついて、いつまでもそこに立っていても仕方がないから自分の部屋に戻ろうと、階段を降りて行く。
こつんこつんと靴の音を響かせて階下に降り、自分にあてがわれている部屋の前に行くと、丁度グレミオがやってきた。
「フリックさん。」
にこ、と優しげに笑って右手に持っていたワインを掲げて見せる。
「これを持っていけ、と。」
どうやら屋上にいた俺を気遣ってファロンがグレミオに持たせたらしい。
全く、人のことばかり。その優しさがファロン自身を傷つけているのに、自分の身は顧みない。…だけど、こうして俺を思いやってくれたことを嬉しくも思う。その瞬間はファロンの心の中に確かに俺がいたのだろうから。
小さなため息を心の中でひとつ吐いてから頷く。
「一人じゃ飲みきれないな。…一緒にどうだ?」
誘うと、彼は一拍間を空けてから頷いて部屋に入ってきた。
栓を抜いてグラスに注げば、濃い紫の液体が踊るようにして揺れる。南国のカナカン産であろうそのワインは芳しい香りを部屋中に漂わせた。
「乾杯。」
乾杯の前に省略された言葉はおそらく「ファロンに」であることは互いに無言でも分かっている。カチンとグラスを合わせてからワインに口をつけると、口中に極上品であるそれの豊かな味わいが広がった。
「すごいな。…高そうだ。」
「ファロン様にと、頂いたものです。…解放軍のリーダーがまさか酒も飲めないような未成年だとは思わなかったらしいですね。」
「…毒とか…入ってないだろうな。」
「さぁ、どうでしょう。」
グレミオは笑いながらもう一口ワインを飲む。
「…先ほどの…歌。」
思い出したようにグレミオが急に呟くのに、俺は一瞬何のことか思いつかず、呆けた顔をしてしまった。すると、苦笑しながらグレミオはもう一度言い直す。
「テラスで、ファロン様が先ほど歌っていた歌、ですよ。」
「ああ。…あれか。」
ついさっきのファロンの歌のことかとようやく合点がいく。それにしても、グレミオもあれを聞いていたのだろうか。
「…あれは。…『湖の女』の中の「私は生きていられません」、ですよ。」
グレミオはもう一口、ワインを飲む。
「音楽は…わかんねぇな。」
俺が呟くと、グレミオは少し困ったような、だけど納得もしたような顔をした。
「…テオ様からの言いつけで、ファロン様の教育をするにあたり、武道だけでなくいろんなことを見聞きして豊かな心を持つようにと、家庭教師もつけましたし芸術にも触れる機会をたくさん作ったんですよ。…もとから聡い性質でしたが、なんでも面白いように吸収するんで本当にびっくりしたんですが。」
グレミオは懐かしそうに目を細めて、まるで自分の子供の自慢をする親のように話し始める。
「…湖の女は、ファロン様の亡き母上もお好きだったようです。…だから余計に真剣にあれは聞いていて。」
ファロンの母親。小さい頃に死んでしまったのは聞いていたが。
「物語は、私もうろ覚えなのですが。…確か、反乱軍の騎士の娘を巡る恋の話だったのです。父は反乱軍の首領と結婚させようとし、お忍びで来ていた国王も彼女を見初める。だけど、彼女はすでに反乱軍の騎士と密かに将来の約束をしていたんです。…ファロン様の歌っていらっしゃった曲は、その娘と恋人である騎士が戦いを前に二人の愛を確かめ合い、結婚を誓う曲なんです。」
道理で、少し途切れるところがあったはずだと俺は納得した。
二人で歌うのを一人で歌っていたから不自然に聞こえたのだ。
「ねぇ、フリックさん。…わかりますか?」
グレミオが急に神妙な顔をしたのに俺は驚いて目を見開く。
「…ファロン様が…。どうしてあんな時間に、あの歌を歌っていたか。」
悲しそうなグレミオの顔に、俺は困惑の色を隠せない。そこまで言われたら、いくらそういうことに鈍い俺でも、ファロンが誰かを思っていることぐらいは想像がつく。
ファロンは…誰を思っているのだろうか。
…グレミオはそれを知っている。
ファロンに思いを寄せている人間が多いことなんか分かりきっている。
あの常に冷静なマッシュでさえ、ファロンにはリーダーである以上の特別な思いを抱いているし、ビクトールだってそうだ。ルックなどはファロン達とみんなよりも先に出会っているから優先権は自分にあると言っているし、レパントの息子のシーナなどは隙あらばと虎視眈々とナンパの機会をうかがっている。そういえば、無口なハンフリーだってファロンが話しかけると僅かだが笑うし、アレンとグレンシールの二人だって父親のことにかこつけて何かとちょっかいをだそうとしている。
それに、一番強敵なのは目の前にいる、この付き人兼母親のグレミオだった。
ファロンが絶大な信頼を寄せていて、なおかつファロンのことをなんでも知っている。
グレミオがここにきて、何を言いたいのかというと、ファロンに手を出すな、ということなんじゃないかという考えがちらりと浮かぶ。
「…ファロンの…好きな奴って…?」
思い切って尋ねて見ると、グレミオは一瞬眉を寄せ、考え込む表情をしてから首を傾げる。
「それ。…私に真面目に聞いているんですか?」
グレミオの言葉に、ああ、やはりグレミオなのかと思いながらうなづいた。
「…呆れましたね。…やはり、私が来て良かった。」
グレミオは盛大なため息をつきながらそう言って笑う。
ノロケかと、分かっていたけれど悔しい気持ちで一杯の心を何とか抑えて、目の前にあったワインを飲みほして新たにグラスに注いだ。
「…私は、突入作戦に一緒には参りません。ファロン様をお守りする役目、それはあなたにお譲りします。」
そう言ってグレミオは真っ直ぐに俺を見た。
「…どういう事、だ?」
グレミオが何をいいたいのか、余計に分からなくなって俺は掠れる声で尋ねて見る。目の前に座る、奇跡の復活を遂げた男は悲しそうに笑っていた。
「私がついていくと足手まといになります。…私ではもうファロン様を守れない。…ファロン様は私などとうに追い越して先に進んでしまったんです。」
寂しそうなその顔は、スカーレティシアの偵察の時に、ビクトールに残れといわれていたときと同じ顔だった。
「ファロン様は、優しい方です。…人を気遣われて、自分など省みない。自分がどんなに辛くても人に迷惑をかけてしまうからと、誰にも寄りかかれない。不器用な方なんです。」
私の教育がまずかったのでしょうかとグレミオが泣きそうな顔で呟いた。
「私は、一度死んで、生き返ってきて。…それでファロン様が変わっていることに驚きました。…誰にも心のうちを全く見せようとしなかったファロン様が、フリックさんにだけ、心を開いていたのですから。」
そう言ってからグレミオは強い眼差しで俺を見る。
そうなのだろうか。確かに、最近は思っていることをぽつぽつと話してくれるようにはなった。
「だけど…まだ…あんまり…。」
「ファロン様は右手のソウルイーターを恐れているのです。」
俺の言葉に、たたみかけるようにグレミオがいう。
「…側にいるものは食べてしまう。…私も、テオ様も、テッドくんも。…だから、もしフリックさんを食べてしまったらと、とても怖がっているのです。」
ソウルイーター。確かに、あの紋章の力は絶大だった。何度も危ないところをあれに助けてもらっている。
「怖い、ということはそれだけフリックさんを大事に思っている証です。…だから、ファロン様は一人であの歌を、今日、歌っていたのです。」
グレミオは悲しげに目を伏せる。
「…それは、戦いを前に、フリックさんに対しての気持ちを確認して、将来を誓う。無論、誓い合うべきあなたはいません。ソウルイーターの災いが及ばぬように全て自分の胸のうちに収めて、あなたへの思いに殉じる気持ちで。」
ファロンのソプラノの声を思い出す。悲しげな横顔が月明かりに照らされてとても綺麗だった。
「…だから、お願いします。…私ではもう役不足なのです。…ファロン様をどうか…。」
そういう体が僅かに震えているのは、悔しさからだろうか。
本当は守りたかったはずなのに。どんな思いでそれを俺に託そうとしているんだろう。
「分かった。」
グレミオの心境は分からないが、頼まれなくてもそうするつもりだった。
「…私は…どこまでもファロン様の付き人です。…過去も未来も。…それ以上でも、それ以下でもない。」
その言葉にはっとしてもう一度彼の顔を見ると、優しげな顔で微笑んでいる。
「だから、ファロン様が幸せならばそれでいいのです。…それが私、なんです。」
そう言って、かたんと椅子から立ち上がった。
「では明日。…がんばってください。…ファロン様を…お願いします。」
ぺこりと頭を下げて、グレミオは出て行った。
その後姿を見送りながらもグレミオが断言したことを信じられない思いで反芻していた。
ファロンが…俺を?
確かに…思っていることを少しづつ話してくれるようになった。
ほんの少しではあるけれど、弱音を漏らしてくれるようになった。
ちょっとだけ、寄りかかって、またすぐに自分の足でしっかりと立つのだけれど、少しだけ頼りにしてくれるようにもなった。
…少しは自惚れていいのだろうか。
先ほどのファロンの歌声を思い出す。
もしも、その歌が真実、俺に捧げられたものであるならば。
明日は、我が身を盾にして彼女を守ることでそれに応えようと、そう決心して俺は眠りについた。
明日は決戦。
全てが終わり、全てが始まる日…。
END
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