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「早く行け!」「いやーっ!」
 泣き叫ぶようにして、こちらへと戻ってこようとしているファロンをパーンが抑えている。何度もそういったやり取りが交わされているが、誰がどう見てもファロンの状態は悪く、もう戦えないほどだというのに。
 「大丈夫だ。だから、先に行け。な?」
 優しく諭しても一向にファロンはそれを受け入れず、嫌だと激しく首を振った拍子に、目に一杯に溜まった涙が零れて散る。
 「早く!」
 そう言っている間にも追手が来る。
 それを斬り捨てながら、俺はパーンにファロンを連れて行くように目配せをした。
 ファロンの消耗も極限にまで来ていて、パーンが支えていないと倒れそうなほどだというのに。
 早くファロンをここから連れ出さないといけない。
 俺は戦いながら叫ぶ。
 「早くっ!」
 「行かないっ!」
 「パーン!早く連れて行け!」
 ファロンの体力が限界に来ているのを知っているパーンは、それでも行こうとしないファロンに業を煮やしてその華奢な体を抱えあげるとそのまま出口に向かって走っていく。
 「フリックーっ!!!」
 ファロンの叫ぶ声を背中に聞きながら、執拗に迫る追っ手を次々と倒して行った。
 「ちっ!」
 さきほど腕に負った矢傷が痛む。一瞬、敵が姿を見せなくなった合間に額のバンダナを外してこれ以上の出血をしないように腕を縛っていると先に別れたビクトールが現れた。
 どうやら、こいつとは切っても切れない縁があるのかもしれない。
 「正門に行くのはまずいな。兵がそっちにいってしまう。正門あたりにはファロンがまだいるかもしれない。」
 俺がいうとビクトールもうなづいた。
 「裏へ兵の注意を集めよう。裏門に退却だ。」
 そういいながら城内を裏門に向かって走って行く。戦っても、戦っても、途切れることのない敵に俺たちはがむしゃらに戦った。
 ファロンさえ無事でいてくれたら俺の体はどうなったって構いやしない。剣を握る手はもうすでに感覚もないほどで、一体どれだけの人数を倒してきたのかさえもわからない。
 どうしてだか、最初は嫌いだったはずのビクトールと息がぴったりと会うのは自分でもおかしかった。
 それはおそらくファロンと戦うようになってから、俺もビクトールもほとんどの作戦に参加していたせいなのだろう。
 どれぐらい時間が経ったのか、俺たちはようやく裏庭の門の辺りまで回ってきた。
 その頃には騒ぎも随分と落ち着いて、日も随分と傾き始めていた。低木の陰に身を隠し、あたりの様子を伺うが、こちらの方には追手は回ってきていないようだった。
 「門を見てくる。その間に、ほら。」
 そういってビクトールが渡してくれたのは特効薬。
 「さっき、倒した奴から奪った。…飲んどけ。」
 「ああ。」
 まだ死ぬわけには行かない。ファロンの無事を確認しないと。
 俺は薬を飲むと、止血のために腕の矢傷を縛っていたバンダナを外した。
 血がべっとりと付いたそれは、もう元の青がほとんど残っていない。
 もう一度それを頭に巻くのも躊躇われ、どうしようかと逡巡するが、仕舞うわけにもいかずに仕方なくその場にそれを捨てた。
 「おい。大丈夫そうだぞ。」
 ビクトールの声に、植木の陰を走りぬけ、裏門を越えてようやく城外に出ることができた。
 「さてと。どうするか。」
 解放軍が集結しているはずのポイントには人一人見当たらない。
 いや、正確に言うと見張りの部隊はいるものの、肝心のファロン達の姿が見当たらなかった。
 「何か…あったな。」
 ビクトールの呟きに同意してうなづく。
 本当なら陣中にファロンの姿があってしかるべきなのに、ファロンの姿どころか、それを守るはずのグレミオもクレオもパーンもいないばかりか、多くの兵も姿がない。ただ、アレンとグレンシールの配下と思われる兵が、街を守っているだけである。
 いやな考えが脳裏に浮かぶが、ファロンが亡くなったのならもっと兵たちに動揺が広がっていそうなものだが、それがないことがファロンは無事である証明のような気がする。
 「どうする?オデッサ城に戻るか?」
 「いや、もうすぐに日が暮れる。この状況で夜道は危険だし、下手に動くのはまずいだろう。…近くの村に一度潜伏して、様子を確かめるか。」
 ビクトールの提案に俺は乗って、そのまま二人でグレッグミンスターの側にある村に向かった。何か悪いことが起きていなければいいがと、互いに無言だったが同じことを考えていたのは確かで、無駄口の多いビクトールが静かなことからもそれは推察することができた。
 村へは日暮れ前になんとか辿り着くことができて、幸運なことに部屋もひとつだけ空いていて、俺たちはようやく落ち着くことができた。宿屋はこの村にしては珍しく混雑していて、明らかに今日の戦闘を避けてきたと思われる人々で賑わっている。
 俺達が裏門へ回りながら戦っている間にファロン達がどうなったのかさっぱり分からず、階下にある食堂に食事がてら情報収集に行くことにした。
 「いやー、ひでー目にあった。」
 ビクトールがやれやれと大仰な仕草でどっかりと宿屋の食堂の椅子に腰を下ろす。
 いかにも、戦ってきました風ななりをしている俺たちに周りのものは警戒したような視線を送っているが、ビクトールはお構いなしに続けた。
 「グレッグミンスターの市街に入ろうとしたら、急に切りかかられるわ、弓矢で射掛けられるわとえらい目にあったよ。…一体、あの街はどうしちまったっていうんだい?」
 わざとノースランドあたりのしゃべり方で、隣のテーブルにいた調子の良さそうな行商人風の男にそう尋ねると、男は先ほどまでの警戒心たっぷりな表情を改め、ああ、と納得したように頷いてから堰を切った様に話し出した。
 「今日、グレッグミンスターで戦いがあったんだよ。…解放軍がとうとう皇帝バルバロッサを倒したんだと。」
 「皇帝を?そりゃ、一大事じゃないか。」
 ビクトールはオーバーなぐらい頓狂な声をあげて言う。
 「そうなんだよ。それであの周辺は今、大変なことになっててね。俺もグレッグミンスターに商売に来たって言うのに、ここに足止めってわけだ。あんたたちは?」
 「俺たちはハルモニアまで旅をしている途中なんだがね。…この先、都市同盟の方に抜けるには道行が物騒だから少し鎧や兜を調えて行こうとグレッグミンスターに行ったら、いきなり矢は射掛けられるわ、切りかかられるわで。この有様さ。」
 「そいつぁ、災難だったな。」
 同情したようにその男が笑う。
 「皇帝が倒されたって言うことは、…帝国はどうなっちまうんだい?」
 「さぁなぁ。」
 するとその行商人の向かいに座っていた交易商らしい男が今度は口を開く。
 「なんでも、共和国にするんだと。選挙で大統領を決めるとかって、グレッグミンスターの街の門のところに書いてあったぞ。」
 「へぇ…共和国、ねぇ…。」
 ビクトールは返事をしながら、相変わらずマッシュの手際よさに感心していた。
 国が一体どうなるのか、早く示さないと民衆の不安が増すばかりである。それを防ぐためには即刻指針を示す必要があったのは分かるが、それにしても随分と用意のいいことに苦笑する。
 「ま、あれだな。おそらく、解放軍のリーダーが選ばれるんだろうケドよ。」
 交易商のその言葉にはっとビクトールもフリックも反応する。
 「リーダー?」
 わざとらしく尋ねて見ると、交易商はなんだ知らないのかと呆れたような顔で笑ってから彼の知っている限りの情報を教えてくれた。
 「解放軍のリーダーっていうのは、五将軍の一人、テオ・マクドールの娘。名前はファロン・マクドール。まだ16になって間もないらしい。」
 「へええ、16ねぇ…しかも女かい?」
 「ああ。これがまた強いのなんのって、武勇で知られた帝国将軍たちを次々と倒して、しかも、若いのにかなり懐が深くて、倒した相手は殺さずに仲間になるように説得して、自分の味方に引き入れているらしい。…さすがは、テオ将軍の子供だけあるっていう噂さ。」
 ヴィクトールとフリックはその噂話にそっと目を合わせる。
 そういえば、マッシュが情報をあれこれと流す算段をしていたことを思い出した。
 帝国を倒した後、ファロンの評判が悪いと国は治まらない。それを恐れて、ファロンのいい噂話を故意に流していたのだった。
 「若いのにすごいな。」
 「ああ。16歳の子供が、百戦錬磨の兵たちを率いているんだからな。どっちにしろ並の子供じゃないのは確かなことだ。まぁ、初代大統領に選ばれて、この国が平和になってくれりゃあ俺達としても言うことはないな。」
 「確かにそうだ。」
 そういってビクトールも相手に合わせたように笑う。
 「それにしても。なんだかグレッグミンスターにはさほど兵が多くなかったように見えたが、そんだけ大きな戦があったっていう割には随分と寂しいもんだねぇ。」
 情報収集のためにビクトールが本題を切り出すと、誰も疑った風はなく簡単にその理由を教えてくれた。
 「いや、解放軍本体はどうやらオデッサ城に引き上げたらしい。市街はリーダーと親衛隊、それから二人ほど将校が見張として残っているらしいがね。」
 その言葉にフリックもビクトールもファロンが無事であると分かって内心ほっとして胸をなでおろした。それにしても、ほとんどの兵を戻したというのはなぜだろうか。
 「へぇ。城を占領とかしないのかい?」
 それでもビクトールはなおも情報収集を続ける。
 「城内にはまだ近衛兵が立てこもって居るらしくてな。…また明日にでも掃討作戦が行われるんだろうよ。」
 「掃討作戦をするんだったら兵を戻さないほうがよかったんじゃないのか?」
 「それがなぁ、そのリーダーの指示で、城内に立てこもっているのは元は各将軍たちの配下の兵やその同僚で、殺すには忍びないから説得したいということでな。相手を興奮させないように必要最小限の兵を残してあとは引きあげさせたんだと。」
 ビクトールはその説明にふぅんと曖昧な相槌をうった。それが果たして本当のことかどうかは分からない。ファロンならそういうことをいいかねないが、献策したのは明らかに軍師たちであって、あのマッシュやレオンの考えることなど俺たちの考えを遥かに越えるところがあるから、と思っていた。
 「なるほどな。…ということは、防具なんかが買えるようになるまでにはもうしばらくかかりそうだな。」
 それでも、そう返すと周りの人間がうなづく。
 「ああ。まぁ、あと1週間は無理だろうね。」
 「ちっ…こっちも予定があるっていうのによ。」
 いかにも残念だといったようにビクトールが言うと、商人たちも口々に運が悪いとか同情したような声をあげた。
 「急ぎの旅かい?」
 「ああ。ちょっとばかりな。」
 「ならば、道具屋で薬を買って行くしかねぇな。もしくはどこかで水の封印球を手に入れるか。」
 「それしかねぇか…。」
 「まぁ、あきらめな。」
 交易商はそういって笑った。
 
 
 「なぁ、ビクトール。」
 フリックは食事を終えて、2階にある部屋に戻るとしばらく無言でいたが、不意にビクトールに声をかけた。
 「なんだ?」
 「俺…このまま旅に出ようかと思う。」
 思いがけないフリックの発言にビクトールは目を丸くする。
 「…ファロンに会わないで、か?」
 「ああ。…ファロンは…おそらく大統領になるだろう。この国を治めて、民衆に信頼されるいい統治者になるだろうよ。」
 フリックのその予想にはビクトールも同感である。ファロンなら、間違いなくいい統治者となるのだろう。ただ、よき大統領であるためにファロンは自らを省みず、自分の神経を少しづつ削り取りながら君臨し、その座を退く頃にはおそらく廃人同様になってしまうに違いないと思っている。
 「俺にはもうファロンにしてやれることはない。…戦いしかできない人間だからな。…大統領であるファロンを守ってやることも、もうできない。」
 そのフリックの心境はビクトールには痛いほどよく分かる。
 自分たちのような人間には闘いの中で人を守ることはできるが、政治的なことは一切分からない。ボディガードという手段があるにはあるが、どう考えてもそれは自分たちのガラではないし、何より自分たちよりも強いファロンにそれが必要かどうかわからない。
 つまり、自分達がもうファロンにしてやれることはひとつも残っていないのである。
 だけど、明らかにファロンはフリックのことが好きで、そのフリックがいなくなってしまえば、またファロンが悲しむのは分かっていた。
 「ファロンが…悲しむぞ?」
 そのぐらいフリックも重々承知なのだろうが、もう一度、フリックの決意のほどを確かめるために聞いてみる。
 「…きっと、すぐに忘れるよ。…まだ16になったばかりだぜ?これからいくらでもいい男に出会えるさ。」
 そう言うフリックは、本人は自覚していないだろうがかなり辛そうな表情をしていた。
 おそらくフリックはフリックなりに真剣に考えたのだろう。ビクトールはもうそれ以上を言うことをやめ、テーブルの上のグラスに入ったワインを煽る。
 そうして空になった自分のグラスと、まだ半分ほど残っているフリックのグラスに残りのワインを全て注いで、ビンを無造作にゴミ箱に放り込む。
 フリックはぼんやりとワインを眺めながら考える。
 そうだ、まだファロンは若い。自分に言い聞かせるように呟いた。
 もともとファロンはマクドール家の嫡子であり家柄は申し分なく、ましてや大統領ともなればこの先いくらでもいい男が現れるだろう。何を好き好んで地位も身分もないような男を選ぶだろうか。当然、周りが許すはずもないだろう。
 それに何よりもファロンの隣に自分ではない誰かが立つのは見たくない。
 だから、その前に。
 フリックの決意は固かった。
 もうこの国にはいたくない。
 オデッサのこともファロンのことも、全部、全部忘れてしまいたかった。
 手に届かないものを求めるのは辛いから。
 求めてはいけないと分かっていても、求めずにはいられないから、だから忘れてしまえるようにここから離れたかった。
 「ほんとに…いいのか?」
 「ああ。」
 フリックはふとファロンと交わした約束のことを思い出す。
 戦いが終わったら、もっといいものを買ってやるといって贈ったネックレス。
 だけど、大統領になるファロンには、きっともっといい宝石を贈る人間ができるだろう。
 
 
 「トラン湖もきれいだったけど、ここもまたいい眺めだよな。」
 フリックは砦の屋上に立って遥か向こうに見えるデュナン湖を眺めた。月明かりに照らされたデュナン湖は今日は珍しく凪いでいて、その様がトラン湖を思い出させる。
 トランよりも北に位置するデュナン湖は昼間は北方らしい深い青の色の水を湛えている。空の青により深い青がよく映えて、青が好きなフリックにはすばらしい眺めだった。
 「…まぁな。」
 ビクトールは苦笑しながらフリックを促して砦の最上階にある、自分たちの部屋にと戻る。
 トラン解放戦争から随分経った。
 最後の戦いで姿を消した二人は今、トランの北にある都市同盟の盟主であるミューズに雇われて傭兵をしている。
 自分たちが守ることになった砦はハイランドに極近いところにありかなり緊迫した毎日を送っているが、フリックはそんな生活も思ったより悪くないと思うようになってきた。
 「どうだ、飲るか?」
 フリックの部屋へ来たビクトールが手に掲げたのは極上のワイン。
 相変わらずの酒好きに苦笑しながらうなづくと心得たようにビクトールはもう片方の手に持ったグラスをテーブルの上に置く。
 「砦の住み心地も悪くはないし。…まぁ、傭兵生活もそんなに酷くないな。」
 フリックが呟くのにビクトールは苦笑する。
 「オデッサ城に比べたら断然いい方だろ?なんたって自分でシーツを換えなくてすむし、掃除もやってもらえる。」
 ビクトールのその発言に、あれ?とばかりにフリックが首を傾げた。
 「オデッサでもシーツは毎日変えてくれただろ?ゴミだって、部屋の掃除だってちゃんとやってくれてたし。」
 その言葉にビクトールは一瞬きょとんとしたが、すぐに何かを思い出したようで、ああ、と小さく呟いた。
 「おまえだけだよ。」
 ビクトールはくくっと喉で笑ってから、懐かしそうに目を細める。
 「俺だけ…って?」
 その意味がわからないフリックはいぶかしげな顔でビクトールに尋ねて見る。
 「おまえの部屋のベッドメイクや掃除していたの、ファロンなんだよ。」
 「ファロン!?」
 ビクトールの発言にフリックは驚いたように頓狂な声をあげた。
 あれから随分経つと言うのに、一日も忘れたことなどない少女の名前。
 目を丸くして驚くフリックにビクトールがにやにやと笑いながら話し始める。
 「当時はファロン自身に口止めされていたから言わなかったが、もうさすがに時効だろ。…おまえの部屋はおまえが風呂に入ってるときとか、食事の時間を見計らっていつもファロンが掃除して、ベッドメイクして、花を飾って。おまえが眠れなさそうだと、ワインを部屋に運んで。」
 「…どうして…ファロンが?」
 そんなことをファロンがする意味が分からないと、半ば呆然としたように呟くとビクトールはそんなことも気がつかないかと苦笑交じりに答えた。
 「オデッサを失くしたおまえが…少しでも気持ちよく過ごせるようにってな。」
 その言葉にフリックは言葉を失う。
 「…グレミオを亡くしても、テオ将軍を亡くしても、テッドを亡くしてもそれだけは忘れなかった。人のことなんか構っていられる精神状態じゃないってのに、な。」
 ビクトールはそういってグラスの中のワインを飲み干し、あとは自分で考えろとばかりに静かに部屋から出て行った。
 フリックはその後姿を見送りながら、ぼんやりと解放戦争当時のことを思い出す。
 いつもファロンは何も言わなかった。
 そういう素振りを全く見せずに、あれだけ激しい戦いや仲間集めをこなして、その上自分の部屋の整理までやっていたなどフリックは何ひとつ気付かなかった。
 それが、快く過ごせるようにというそれだけの理由で、あれだけ激しいショックを受けても継続されたというのは正直言って驚かされる。
 そこまでしてくれるファロンに愛しさと、それに気付いてやれなかった悔しさと、抑えることのできない恋しさと、だけど二度と会えない悲しさと。全部が複雑に入り混じって、一気にフリックの中を一杯にした。
 ずっとファロンを守っているつもりで、だけど本当はファロンに守られていた。あれだけ一緒に行動していて一体ファロンの何を見ていたのだろう。
 ふとファロンが最後の戦いの前夜に歌っていた歌を思い出す。
 あれさえも、俺はファロンにとって若い頃のよくある思い出のひとつになると思っていた。きっと、ファロンにとって自分はただの、兄のような存在なのだろうと思っていた。そうでなかったら、あの年頃特有の、恋をしたいという思いから来る感情なのだろうと思っていた。
 少しは自惚れてもよかったのだろうか。ファロンの手を掴んで、無理にでも連れ出してしまえばついてきてくれただろうか。
 ちらりとそんなことを考えるが、今となっては全て遅すぎた。
 もうファロンはいない。
 トランの英雄が行方不明になったというニュースを聞いたのは、一度都市同盟に来て、ビクトールの忘れ物とかでもう一度トランに戻った時のこと。
 信じられない気持ちでそのニュースを聞いた。輝ける前途を投げ出して、旅に出るなど、ファロンは何のために戦っていたのだろう。あれだけの大きい犠牲を払って、血を吐くほどの悲しい思いをしてまで、彼女は何のために戦っていたのだろう。
 そして一体、どんな気持ちで旅に出たのだろう。
 何もかも分からなくて。
 俺を恨んでいるだろうか。怒っているだろうか。
 もう二度とは会えないのだろうか。
 だけどどんな風に思っていても構わなかった。
 自分を覚えててくれれば、それだけでいい。元気で、そしてできれば彼女が幸せでいてくれればいい。
 今の自分にできることといえば、そう願うことしか残されていないのだから。
 
 
 
 
 
 END
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