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泣きながら、声の限りに彼の名前を叫んでいた。腕の傷をものともせず、追手を切り伏せて行く後姿が最後に見ることができた彼の姿だった。
 私を抱えあげているパーンからなんとか逃げ出し、もう一度戻ろうと力の限りにもがくけれど、しっかりと抱えられていてそれさえも叶わない。
 やがて、王宮内を脱出し、私たちはみんなが待つところまで戻ってきた。
 兵達が私の帰還に一斉に歓喜の声で迎えてくれたが、私自身はそれどころではなく、今すぐにでも王宮内に戻ろうと、パーンの肩の上で相変わらず暴れるようにしていた。
 「ファロン様、大丈夫ですよ。きっと戻ってきます。」
 急に耳に飛び込んできたグレミオの、あまりに場違いな穏やかな口調の言葉に私はようやく暴れるのをやめる。
 「フリックさんがどうにかなるわけないじゃないですか、ねぇ?」
 グレミオはにこにこと微笑みながら私に同意を求める。確かに、王宮内にいる兵たちより遥かに強いけれども、深い矢傷を負っていることが心配で。
 「だから、待ちましょう。ゆっくりと。ね?」
 静かになったことからパーンの肩から下ろされた私に、グレミオはまるで小さな子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、小さい頃にそうしたように、私の背中を撫でていた。
 それで少し落ち着きを取り戻した私は、まずは自分の傷の手当てをしてくれるグレミオに市街の様子を尋ねる。
 話によるとグレッグミンスターの街はいたって静かで、一般市民に犠牲が出ないようにアレンとグレンシールの二人が見張りを続けてくれているし、ミルイヒ将軍やソニア将軍も自宅に戻って待機してくれているため、いまのところ騒ぎはひとつも起こっていないという。それに少し安心をして、私はようやく今の状況が飲み込めるようになった。引き続きアレンとグレンシールには市街の警備に当たってもらうよう指示を出してからほうっと一息ついた。
 その直後、手当てが済んだ私の側にリュウカンがやってきて、そっと声をかける。
 「ファロン様…。」
 ただ事ではないような神妙な顔に私は思わず身構える。
 「なに?」
 「…こちらへ。」
 彼は用件も言わずに私を本営となっているテントに連れて行った。入り口をめくって入ると、そこには小さな嗚咽を漏らしているアップルと、何やら書きつけているレオンがいる。
 嫌な予感がする。
 振り返ったアップルの顔が涙でぐしゃぐしゃで、それとは対照的にレオンは冷静で、そのアンバランスがただ事ではないことが起きていると、私の脳内が激しく警鐘を鳴らしている。
 「…先ほど…マッシュ殿が…息を引き取りました。」
 リュウカンの震える声に、私は立っていられないような衝撃を覚えた。
 「…う…そ…?」
 よろりと、一歩、そこにしつらえてあるベッドに近づく。
 「…ファロン様が城内から帰還された直後のことでした。…マッシュ殿は…勝利を確認されてから…。」
 足かせをはめられてしまったように重くなった足を引きずってマッシュの眠るベッドの側に辿り着く。
 「…マッ…シュ…?」
 呼びかけても返事はなく。
 その顔は、死んでいるというよりも眠っているように安らかで。口元には微笑みさえ浮かんでいた。
 「…ねぇ…おきてよ。…マッシュ?…私、戻ってきたよ?…ちゃんと勝ったんだよ?…ねぇ、マッシュ?」
 何度呼びかけても瞳は開くことがない。
 「ファロン様。これにサインを。」
 そう言って冷静なレオンが横から渡してきたのは一枚の紙。
 「これは今後の国の指針を書いた紙です。マッシュは勝利の後、即刻これを城門および各街に配布するように言い残していました。」
 マッシュが、ともう一度、念を押すように言ってからその紙を差し出したので、私は促されるままに、呆然としながらサインをする。レオンは恭しく頭を下げるとそれを持ってテントから出て行った。そのレオンの様子がまるでまだマッシュが生きているかのようで。
 「…ねぇ?…新しい国を作るんだよね…?…マッシュ?」
 話しかけてもやはり答えは戻らない。
 脳裏には初めてマッシュと出会ってからのことが次々に思い出される。
 いつも静かに微笑んで、どんなときも励まして支えてくれたマッシュ。
 彼がいなかったらこの戦いに勝つことなんかできなかった。
 「…あなたのせいよ。」
 強い怒りを含んだ声にはっとして顔をあげると、アップルがこちらを見つめていた。
 「あなたが…ちゃんとしないから!だからマッシュ先生が死んじゃったのよ!」
 そのアップルの怒りはもっとものようなことに思われ、私は反論もできないままに強く唇を噛んだ。
 「あなたが!あなたがマッシュ先生を殺したっ!」
 そう言ってアップルはマッシュの遺体にすがりつくようにして号泣した。
 何も言い返すことができない。言う資格さえない。
 「…ごめ…ん…。」
 謝ってすむことではない。だけど、他に適当な言葉が思い浮かばなくて。
 呆然として立ち尽くす私をグレミオがそっと支えてくれる。
 「外へでましょう。」
 促されて、まるで木偶のような状態で、外へ出ると書状の処理を済ませたレオンが立っていた。
 「ファロン様。ここは一度兵を本拠地まで戻しましょう。マッシュが斃れたとなれば兵たちに動揺が走りかねません。ここに大量の兵を残しておくことは下手をすると内乱になり、グレッグミンスターを奪取される可能性も出てきます。よろしいですね?」
 私はこくんとうなづいた。だけど、それはただ機械的にうなづくだけで。
 「ここの守護は引き続きアレンとグレンシールに。二人はテオ将軍の部下であったし、あなたへの忠誠もなかなか深い。」
 レオンの皮肉交じりの言葉は半分も頭には入っていなかったが、再び機械的にうなづいた。
 「明日から王宮内にいる兵の掃討作戦を展開いたします。といっても、戦うのではなく、説得して降伏をさせます。その任にはミルイヒ将軍とカシム将軍に就いてもらいます。」
 もう一度、壊れた人形のように頷くとレオンは苦笑してから続ける。
 「あとの始末は私におまかせを。私は一度本拠地に兵を伴って引き上げますが、連絡役と世話役、調整役としてレパント一家を残して行きます。ファロン殿はどうぞご自宅にて待機なさっていてください。」
 今度は私ではなくグレミオにそう言い残して、レオンは兵を率いてグレッグミンスターをあとにした。
 私はその姿を見送ることなくふらふらと夢遊病者のようにおぼつかない足取りで正門前に向かった。
 「フリックとビクトールは?」
 正門前に詰めているアレンを捕まえて尋ねると、彼は無言でゆっくりと首を振る。
 「…中は…どうなっている…?」
 「先ほどまでは随分と人の声がいたしましたが、今ではあまり…。」
 言いにくそうに、最後の方はほとんど聞こえないような軍人らしくないしゃべり方で答える。
 まさか。
 最悪の事態を考えながらファロンは右手にある紋章を見た。
 マッシュも、フリックもビクトールも、解放軍の中では一番ファロンの身近にいた。無論、クレオもパーンも身近ではあるが、最近ではフリックとビクトールを伴って出かけることが遥かに多く、行動を共にしている多さから考えるとその二人が一番身近であることは間違いない。
 また、なのだろうか。
 ファロンの脳裏に今まで経験して来た辛い思いがよぎる。
 その瞬間。
 ソウルイーターが己の存在を主張するように煌き、ファロンの意識はすぅっと遠くなって行った。
 
 
 ファロンが目を覚ましたのは自分の部屋だった。
 いつもと変わりない風景。見慣れた天井、壁のしみ、それから好きな絵がかかっていて、サイドボードの上には父さんが買ってくれた本。
 なんだかとても長い夢を見ていたようで、酷い疲労感ばかりが残っていて、起き上がろうとすると、体がだるくて、起き上がることができない。体に全く力が入らないのだ。
 風邪でも引いたのだろうか。
 そういえば、テッドが少し風邪気味だといっていた。
 きっとうつされたに違いない。倍の威力にしてうつしかえしてやろうと、そこまで考えたところでグレミオが心配そうな顔で入ってきた。
 「ファロン様…お加減はどうですか?」
 心配そうに眉を顰めて尋ねてきたグレミオはスープらしきものが入った器を持っている。
 「大丈夫だよ。」
 とっさに笑顔でそう答える。
 心配をかけるようなことを言おうものなら、この心配性の付き人はグレッグミンスター中のお医者様を呼んできかねないから。
 「食欲は?」
 「…あとで食べるよ。置いていってくれる?」
 「でも…。」
 なおも心配そうな顔に私は困ったような顔をして、それからにこ、とわざと微笑んで見せる。
 「ほんとだよ。」
 (食事はちゃんとしろよ。…腹減ってると、怒りっぽくなったり、悲観的になったりするんだ。)
 頭の中で声がする。誰かの…男の人の声。
 「ほんとにちゃんと食べてくださいよ?」
 (あ、そうだ。今度から食事をしなかったらバツとして、こうして俺が食べさせてやるよ。)
 はっとして顔をあげる。
 青の。目が覚めるような青のバンダナが一瞬脳裏をよぎって、それから津波のように一気に記憶が押し寄せてきた。
 そうだった。
 テッドはもういない。父さんも、マッシュも、みんないなくなってしまったんだ。
 フリックは?ビクトールは?
 力の入らない体を無理に動かそうと、まるで虫が蠢くようにのたうって、その勢いでベッドから転がり落ちた。
 「ファロン様っ!」
 グレミオが慌ててかけよって、私を抱える。
 「…正門に、行かなきゃ…。」
 それでも、なおも這いつくばって出ようとする私を、グレミオは必死に止め、それでも止め切れなくて、廊下まで這い出るとその物音にパーンとクレオが部屋から出てきた。
 「ファロン様!」
 「お願いっ!…行かせてっ!行かせてぇっ!」
 ほとんど泣きながら、階段に向かおうとする私をとうとうグレミオはため息をついて、あきらめて私の前に背中を向けてしゃがみこむ。
 「…背中に…負ぶさってください。」
 パーンが助けてくれて、私はグレミオの背中にしがみついた。
 クレオが羽織るものを持ってきてくれて、それをかけてグレミオが静かに階段を降りて行く。
 「まだ、二人が見つかったという報告はありません。もうそろそろ王宮内に立て篭もった者たち全てが降伏するとは思うのですが。」
 グレミオはそういいながら屋敷を出て、正門に向かう。
 そこには今日はグレンシールがいて、私とグレミオの姿を認めると慌てて駆け寄ってきた。
 「ファロン様!安静にしていらっしゃらないと…。」
 グレミオを非難するような口調のグレンシールにファロンが慌ててグレミオをかばった。
 「私が無理を言った。…中の様子は?」
 「はい、ただいま9割がたが降伏しております。あとは細部に兵が隠れていないか、点検作業に入っております。」
 「フリック達は…?」
 震える声で尋ねると、グレンシールは渋い顔をする。
 「まだ…見つかってはおりません。」
 その返事にファロンは唇を噛んで右手を見つめる。
 やはり。
 そうなのだろうか。
 「もう、戻りますよ?」
 グレミオはそう声をかけてからゆっくりと屋敷へ向かって歩き出した。
 
 
 それから。
 正門が見えるようにクレオの部屋で静養することになった。
 脱走されるよりはマシです、と、渋った顔で言ったグレミオとクレオに申し訳なく思いながらベッドに横たわったまま正門を眺めていた。
 昨日でほとんどの兵は降伏し、城内はレパント配下の兵が代わりに詰めている。
 そして、未だフリックとビクトールらしき姿は見つからなかった。
 私が起き上がれなかった間に、どんどんと状況は変わって行った。
 マッシュの葬儀は極秘裏に行われ、最後を看取ったリュウカンがマッシュから託された遺言により、オデッサと同じように、オデッサはレナンカンプの地下水路だったけれど、マッシュはトラン湖にその遺骸を流したという。
 しばらくはその死を隠すという目的もあるが、何よりもマッシュはこの思い出深きオデッサ城のあるトラン湖で眠りにつきたいとリュウカンに語ったらしい。
 本来ならば何をおいてもそれに参列しなければならなかったのに、私はそうすることができず、ここ、グレッグミンスターの自宅のベッドに縛り付けられたままであった。
 また、本拠地の方ではトラン共和国の建国に向けて、マッシュが生前残した草案によりレオンが建国のための準備を着々と進めて行く。
 すでに、元赤月帝国内の全ての村や街では大統領選挙の準備が行われていて、3日後には選挙が行われる運びとなっていた。
 私はそれらの動きをまるで他人事を見るようにぼんやりとしたまま、相変わらずベッドの上から正門や王宮を眺めて過ごしていた。
 「ファロン様…レパント殿がお見えです。」
 私が倒れてから4日後。言い換えれば最終決戦があった日から4日後。
 夕刻にレパントが私を尋ねてきた。
 グレミオに促されて部屋に入ってきたレパントの辛そうな表情を見ただけで、彼がどんなことを伝えに来たか大体が推察される。ただ、それが最悪の状況だったのか、それともまだ希望を残しているのかはわからない。
 「ファロン様…本日15時に…王宮内の全ての点検と残党兵の退去が完了いたしました。」
 「そう…。」
 頷いた私を痛々しそうな目で見て、それからレパントは言葉を続ける。
 「…フリックとビクトールと思しき死体は見つからず、二人は依然行方不明となっております。」
 「…そう。…ありがとう。…引き続き、レオンの指示に従って下さい。」
 少しだけ覚悟ができていた分、気がおかしくならないでいられる。
 でも激しい動揺のあまり、やはり声が震えてしまうのは仕方なくって、それでも必死で最後まで胸を張ってそう伝えた。
 「承知いたしました。」
 恭しくレパントが頭を下げて部屋から退出して行く。
 「ファロン様…。」
 グレミオが心配そうに私に声をかける。
 ぐるぐると目の前が回っている。気持悪い。二人が…行方不明。いない…。見つからない…。渦巻きに飲まれて深い水底に引き込まれていくような心地で、私は意識を失っていた。
 
 
 夢を見ていた。
 最初に出会ったとき。正体も分からぬ私達を仲間にすることに不満そうに、少々口を尖らせていたが、自己紹介をするときに自分の通り名と名前を名乗った得意げな顔。
 最初は少し怖かったけれど、とても真っ直ぐで、不器用で、優しくて。
 辛い思いをしている彼に何もしてあげられなくて、何度も歯がゆい思いをした。
 結局、最後まで何もできないまま、もう会えなくなってしまったけれど。
 それでもオデッサさんの悲願をかなえることだけはどうにかできた。
 それぐらいしかできなかった。
 「フリック…っ!」
 最後に見た、王宮内で追手を切伏せる彼の姿がそのままプレイバックされて、泣きながら私は彼の名前を叫んで、そうして目が覚めた。
 「…ファロン様…。」
 心配そうに私を覗きこんできたのはレパントの奥さん、アイリーンで。
 ほんわりと、暖かいものが額に触れる。お湯で絞ったタオルで額に浮かんだ汗を拭ってくれているらしい。
 「お気づきになられましたか?…ひどくうなされておいででしたよ。」
 いわれて、私は先ほどの夢を思い出す。
 「…ん…大丈夫…。」
 そう言って、ふぅっとため息をつく。
 一体、どのくらい眠っていたのだろう。最後に覚えているのはレパントが来たときで、夕刻のはずだったけれど、今は太陽は真上にあった。
 「……何日経った…?」
 呟くように尋ねると、アイリーンが少し困ったような顔で教えてくれる。
 「ファロン様は…まる5日、お休みになっておいででしたわ。」
 私が驚いている間にもアイリーンは手際よく、汗を拭ったタオルを片付けている。
 「ひどい寝汗で。お寝巻きも取り替えましょうか?」
 優しくいわれて、私はゆっくりとかぶりをふった。
 「…グレミオは…?」
 「王宮にお出かけですわ。…あら?」
 バターンと屋敷中に響くような大きな玄関のドアの音に続いて、どたどたと、急いで階段を上ってくる足音が聞こえてきて、アイリーンが振り返るのと同時にドアが乱暴に開いた。
 「…ファロン様…。」
 ぜいぜいと息を切らせたグレミオが部屋の中に入ってくる。
 「こ、これを…裏庭で…。」
 そういってグレミオが差し出したのは、布のようなもので、こびり付いた血がどす黒く変色している。それはほとんどが血のために元の色がわからないほどだったけれど、僅かに残った端のあたりが目も覚めるような見事なブルーであった。
 「…フリック…?」
 …震える手でそれをうけとると、それはこびりついた血のせいでぱりぱりになっていた。
 これは紛れもない、フリックの頭にいつも巻かれていたバンダナで。
 「一緒に特効薬のケースも落ちていましたから、おそらく、薬を飲んで、治療が済んだからこれが必要なくなって解いた、ということでしょう?」
 苦しそうな息の下からグレミオが説明をして、嬉しそうににこにこと微笑んで私を見て、返答を待っている。
 きっと生きていると。
 グレミオは何も言わなかったけれど、おそらくそう言いたいに違いない。
 「…これがあった場所に…行きたい…。」
 呟くと、グレミオは微笑んで頷いてくれた。
 随分と体力は回復したものの、まだ少しふらつく足で。
 私はグレミオに支えられながら、裏庭の、バンダナが落ちていた場所へと向かった。
 そこは裏門のすぐ脇で、植えられた低木の陰にこれと、特効薬1つ分のケースが落ちていたという。
 おそらく、あの傷で、ここまで戦いながら回ってきたのだろう。
 私が正門から無事脱出できるように、自分に兵たちの注意を集めて。
 ここまで戦い、逃げ延びて、そして。
 私の目の前には低木に潜むフリックの姿が見えたような気がした。
 周囲に注意しながら特効薬を飲み、そしてバンダナをはずして捨て去り、裏門はそのとき開いてはいなかったはずだから、おそらく乗り越えていったのだろう。
 そうして、何処へと姿を消した。
 ソウルイーターが食べたのではなかった。
 ちゃんと生きている。
 そう思うと、少しだけほっとして。
 だけどやはり涙はでた。
 戦いが終わってしまったら側にいることは出来ないと、分かっていた。側にいたらいつかは紋章に食われてしまうかもしれない。だから一生、思うだけだって覚悟もしていた。
 「…ちゃんと…さよならも…言ってなかったのに…。」
 せめて、それぐらいは言いたかったのに。
 ありがとうも、何も伝えることが出来なくて。
 どんなに救われたかも、どんなに嬉しかったかも、どんなに心強かったかも何一つフリックにいえなかった。
 涙はぽろぽろと、次から次へと毀れ、止まらずに、私はそこに夕刻まで立ち尽くしていた。
 
 
 深夜。
 私は屋敷内が静かになるのを見計らってから、そうっとベッドを抜け出した。
 机でさらさらとメモを書き、クローゼットからいつも着ていた服を取り出して着替え、それから愛用の棍を持ち、最後の戦いで持っていた残りの特効薬2つを持つとそうっと部屋から抜け出した。
 足音を忍ばせて階段を下り、玄関から出ると音がするからキッチンから抜け出した。
 そういえば、あの時もこうしてキッチンから逃げたんだったと、思い出しながら玄関に回る。
 「ごめんね。グレミオ、クレオ、パーン。…でも、もうここにいちゃいけないんだ。」
 呟いて、屋敷を見上げるといろんなことを思い出す。
 小さかった頃のこと、父さんとの思い出、グレミオやクレオとの思い出、パーンとの思い出。そしてテッドとの思い出。
 みんな懐かしく、楽しく、でも二度と戻ってこない、幸せな日々。
 諦めるように勢い良く回れ右をすると、夜陰に紛れてグレッグミンスターの街を抜け出した。
 別にどこへいこうというあてはない。
 ただ、遠くへ。この国から離れたかった。
 ソウルイーターの災いがこの国に及ばぬように。
 フリックが…気兼ねなくこの国に戻って来れるように。
 1人で、まずは南を目指して歩いていると町外れの、森の側の大きな木のところで何か影が動くのを見た。
 さっと棍を構えると、その影は慌てたようにぶんぶんと手を振った。
 「うわー、やめてくださいよぉ、ファロン様ぁ。」
 その怯えた情けない声は聞き覚えのある声。
 「グレミオ!?」
 私が棍を降ろしたのに安心して近づいてきた影は、ようやく顔が見えるところまできてほっとしたように肩の力を抜く。
 「いやですよ、いきなり殴られるのは。」
 にこにこと、いつもの人のいい笑顔で言う。
 「旅に出るのでしたら私も一緒に参ります。」
 これが特効薬、これがはり、こっちは毒消しなどと、自分の持ち物を私に見せながら旅支度が私よりも整っていることを示して、最後に同意を得ようとこちらを見つめる。
 「だめだよ。…一緒にいたら、またこれにくわれちゃうよ。」
 そう言って私が右手を見ると、グレミオはくすっと笑う。
 「もう食べませんよ。ね?」
 と私ではなく、まるでソウルイーターに尋ねるように、グレミオは言う。
 「だめだといってもついていきますから。グレミオは、生涯ファロン様の付き人です。」
 そう言って、顔全体は笑っているのに、目だけは酷く真剣で。
 おそらく、断っても無理についてくるだろうし、それでも無理矢理にここにおいていくとその命をも絶ちかねないと分かっているから。
 「…わかったよ。…くればいい。」
 同意せざるを得ないのだ。
 全く、小さい頃からいつもこれには負けている。
 「ありがとうございます!」
 跳ねるようにグレミオは嬉々として歩き出した私についてきた。
 「それにしても…なんでここを通るのが分かった?」
 尋ねるとグレミオはふふっと得意げに笑ってみせる。
 「北は今、ジョウストン都市同盟がいますからね、もし北に行って正体がばれて捕まりでもしたらこの国に悪影響を与えかねない。東は海ですし、西には山がそびえていて他の国に辿り着く前にレパントさんたちに連れ戻される可能性がある。一番手っ取り早く他の国に出ることができるのは南、でしょう?」
 それに、とグレミオはそう言って荷物の中から瞬きの手鏡を取り出した。
 「ファロン様はこれを持っていないから、徒歩でいくしかないですし。」
 そう言ってにこ、と笑った。
 「追手をかわすためには一度これで本拠地に戻って、それからすぐにビッキーにリコンまで飛ばしてもらいましょう。それから船に乗るのが一番早いですよ?」
 などと逃亡幇助するようなことを言うので噴出してしまった。
 「わかった。そうしよう。」
 うなづくと、自分の案が通ったことに満足そうにグレミオが微笑む。
 「…ファロン様、ひとつだけ尋ねてよろしいですか?」
 だけど、そのすぐ後、酷く真剣にグレミオが口を開く。
 「なに?」
 「…先日の選挙で、ファロン様が圧倒的な支持を得て大統領に当選いたしました。…それを本当に捨ててもよいのですね?」
 「…大統領職はレパントに譲ると書置きを残してきたよ。…まだ16の子供に国を治めるなんてことができるわけないし。…戦いをするのと、国を治めるのとは訳が違う。…それにこれが国に災いをもたらす可能性がある。…なによりも…。」
 そう言ってファロンは少し黙り込む。
 「…父親を殺したような罪人が…国を治めるなんてできるわけない。」
 そう言ってからファロンは瞬きの手鏡を掲げた。
 
 
 夜半、リコンを出港した船の行方は杳として知れず、そうしてトラン共和国建国の立役者、トランの英雄、ファロン・マクドールはそのまま行方知れずとなった。
 それが返って人々の心の中に強い印象となって残り、数々の戦いの物語や悲しい出来事を吟遊詩人たちは詠い、作家はこぞって書き、そうして僅かな時間にトランの英雄は伝説になった。
 当の本人である彼女が、生きているのか死んでしまったのか、どこにいるのか、それは誰も知らなかった。
 
 
 
 
 
 END
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