命題

 

「そうか…やはり…。」
苦々しい顔のまま、目の前に跪く兵士から背後に立つジョウイに向き直ったレオン・シルバーバーグは若い軍主がその情報をどう判断してよいものか困惑しているのを知った。
アガレス、ルカに続いてこのハイランド王国の王となった彼はまだ若い。
今の報告が自分にとってどんな影響を及ぼすかをあまり実感していないようだった。
彼女と同じ聡明な性質ではあるけれど、将軍として一軍を率いて立派に戦っていけるようにと実地を含んでの英才教育を施されたものと、地方の名家で知識の一環として机上の論理だけを習ったものとではやはり器が違う。
これが彼女ならばおそらく、一瞬だけ眉をひそめ、それでもなんとかして仲間に引き入れられないかどうか逡巡しているに違いない。そのあたりの違いがやはり格の違いというものだろうか。
「…ファロン・マクドールというと…あの…?」
ジョウイはそれでも彼女の名前を知っていて、だけどそれが本当にあの人物なのかと、疑わしいようである。
「ええ、そうです。トラン解放軍のリーダー、です。」
「一説には放浪の旅に出たと聞いていたが。」
「トランに舞い戻ってきたようです。」
今は伝説となりつつあるファロン・マクドール。
その彼女がデュナン軍に加勢すると宣言したという話を聞きつけ、斥候部隊を出し、その真贋のほどを見極めようと報告を待ったが、その結果は真。
これでデュナン軍はティントやトゥリバーなどとは比べ物にならないほど強力な援軍を手に入れたということになる。
彼女の鬼神のような強さはもちろんのこと、何よりも恐ろしいのが彼女の持って生まれた性質、人を惹きつけてしまうというところである。
彼女がトラン解放戦争でオデッサの解放軍を継いだのは、アジト襲撃の直後のことである。その時には既に元の解放軍のメンバーは散り散りになり、受け継いだとは言っても実質一から始めなければいけなかったという。
それでも彼女の元には炎に寄せられる蛾の如く色々な者達が集まって、見る見るうちに強大な軍勢となっていった。それだけ帝国に叛意を持つものが多かったといえばそれまでだが、ほとんどが彼女の持つ魅力によるものであるということが真実であろう。
その不思議な魅力。それが一番の恐ろしさなのである。
本物は本物に魅かれる。
そうして才能豊かに、赤月帝国の常勝将軍より薫陶よろしく教育を受けた彼女の周りには一騎当千の強者が当然のように集まり、それらが軍勢を率い、戦場を縦横無尽に駆け巡るのだ。敵方としてはたまったものではない。
そして、その相手をしなければならない我が軍は、非常に不利なのである。
早々に手を打たねば。
彼女を抑えるのに有効な手段をいくつか頭の中を巡らせる。
「手ごわいのだろうか?」
軍主の呟きにレオンはこくりとうなづいた。
「早々に潰した方が得策といえましょう。私に少々考えがございます。」


フリック達がいた砦の辺りから中規模のハイランドの軍勢がラダトに向けて動き出したという情報を得たのは朝の軍議も済んでいない時刻だった。
ラダトは以前にもハイランドに占領されたこともあり、地理上、ハイランドに抜ける山道を目指す際に最後に立ち寄れる大規模な街であることや、トランに続くバナーにいけることから、戦略上、非常に重要なポイントとなっている。
シュウは何かを考えていたようだったが、それでもやはりラダトに侵攻されてはまずいことから小規模ながらも軍を進めることにした。
斥候部隊の情報からは、敵軍が何を考えたものか魔法使いらしきものが多く含まれているという。軍勢の規模から言っても魔法部隊が含まれるのは不自然である。だからこそ彼も引っかかりを覚えるのだが、敵方の軍師はあのレオン・シルバーバーグである。
「妙だな…。」
そう呟きながらも、それに対するためにシュウはフリックを呼び、弓兵を中心に派遣することに決定し、早速彼に策を授けていた。
「…戦いがあるの?」
朝の稽古を済ませたファロンが慌しく兵士達が戦の準備をしているのを見て、身近にいたものに尋ねる。
「ええ、なんでもラダトに向かってハイランド軍が侵攻しようとしているようです。」
「…でも、なんで弓兵中心なの?…シュウの策?」
「なんでも魔法使いらしきものが沢山行軍の中に見えているようです。」
「らしきもの?」
「ええ。ローブ姿の集団が一個小隊に護衛されているそうです。」
「なるほど、で、魔法には弓か。……いつ出発?」
「もうまもなくです。」
若い兵士はそう答えると、準備に戻るためにファロンに挨拶をして慌しく兵舎のほうに駆けていく。
その後姿を見ながら、ファロンは得体の知れない不安を感じていた。


フリックが率いる騎馬弓兵が護衛の為の騎馬兵を連れてラダト郊外に向かったのはまだ随分と早い時間だった。ラダトはまだ占拠も何もされておらず、いたって平和。
それではこれから何かが起こるのだろうか、とフリックがシュウからも言われた通りに細心の注意を払いながら元の砦に向かって出発し、元の砦とラダトのちょうど中間あたりにある平原でハイランド軍と戦うことになったのは昼を随分越してからのことだった。
魔法使いのローブのような衣服をきた兵士が最前線にずらりと並ぶ。
その瞬間、それは罠だとフリックは悟った。
「総員、退却!!」
喉が潰れそうなほどの大声で怒鳴る。兵達は一斉に踵を返し、その隊列をラダトに向けて退却させていく。
そう、魔法兵に見える敵兵は実は魔法使いなどではない。
れっきとした突撃兵なのだ。
でなければあんなに体格のいい魔法兵ばかりを揃えたりしないだろう。体格のいい魔法使いがいないわけではないが、普通の体格の魔法使いが見当たらないことを考えれば罠だと考えたほうがよほど道理にかなう話だった。
先頭をマチルダの青騎士が率いていく。行く手にハイランド軍が隠れていないか調べながらの行軍が思わぬところで役に立った。
実際のところ、弓兵で突撃を迎え撃てば、相手側に多少の被害を出させることはできる。しかし勝利することはできないし、互いに犠牲が出るばかりでこちらにはたいした得はない。
ならば兵を悪戯に減らすより、退却のほうがよっぽどマシだった。
罠かもしれないという予防線を張ったシュウの予想が当たっていたのだ。
うぬぼれるわけではないが、この部隊はオデッサの残した火炎槍を扱う部隊である。その攻撃力はかなり頼りになるはずで、この部隊が今まで経験したいくつかの明暗を分ける戦いを良いほうに導いてきた。だから、この部隊がなくなってしまってはデュナン軍にとっては大きな痛手なのだ。
「しんがりは俺がとる!皆、最速で退却しろ!」
馬にさらにムチを打ち、兵士達が退却をしていく。
それを逃がすまいと追っ手をかけてくる敵側をなんとか食い止めねばならなかった。
戦闘で最も難しいのは退却のしんがりをとることである。
いかに敵の兵を自分にひきつけるか、本体の犠牲を出さずにいられるか、それが問題となる。
「…こりゃ、まずいかもな…。」
次から次へと、追いつく敵兵を切り伏せながら退却をしていく。
なるべく細い道を選んで退却をしていくおかげで一度にたくさんの兵を相手にしなくてもすむが、その分、戦う時間は長くなり、一人で戦っている身としては消耗も激しくなる。
俺の部隊を守るために、そんなことは言っていられないが、それでももう何人を倒したのか、わからなくなってきた頃。
突如として、俺の体が炎に包まれた。
「ぐあっ!」
どうやら、本物の紋章使いがいるらしい。
ぶすぶすといぶされるような匂いと、体中のひりひりした痛みとで歪んだ視界に、見覚えのある姿が2つ、右手側の林の中から現れた。
「…お久しぶりですね。フリック殿。」
確か、ハイランドの将、クルガンとシードの二人組だ。おそらく今の炎はシードの紋章による攻撃であろう。
さして大きくもない、木立が20本ぐらいしかないところだが、念入りに調べたはずで、それでもネックになるんじゃないかなんて思いながら通過したのはさほど前ではない時間。
「…名前を覚えてもらって光栄だよ。」
無駄口をたたきながらもなんとかしてこの事態を突破する方法を模索する。実際、生半可なことではこの二人に逃がしては貰えないのだから。
「名前を知らないと、あなたの墓も立ててさしあげられませんからね。」
「それはそれはご丁寧に。…しかし、生憎、まだ墓に入るつもりもないものでね。」
「つもりはなくとも、すぐに入ることになる。」
そういって、シードが再び紋章攻撃をしてくる。じりじりと、痛みが増し、残りの体力も少なくなった。2対1では完全にこちらの分が悪い。おれの使える雷鳴の紋章は実際、あまりこの二人には致命的なダメージを与えることはできない。
どうするか。
いまのうちに、本隊はラダトに向かってどんどんと進んでいく。
こいつらさえかわせれば、被害なく戻れるのに。それが一番の難関。
とりあえず特効薬を飲まないとダメだが、あとどれぐらいもつのだろうか。
「くくく、これでとどめだ。」
そういいながら、シードが三度紋章攻撃に入ろうと詠唱を始めた瞬間だった。
急に俺の体が水のバリアに包まれ、全身にびりびりと走っていた火傷の痛みが見る見るうちに癒されていく。
「誰だっ!?」
ハイランドの二人の声にひるむことなく俺の後ろから現れたのは騎馬弓兵の一人。逃げ遅れた者がいたのか、と思ったが、そうではなく。
「ファロン!?」
弓兵の服を着てはいるが、間違いなく、ファロンである。
「…なんでここに…?」
「おかしいと思って。…こんな時期に魔法部隊だけが動くとは思えないし、本気で何かを魔法で仕掛けてくるのならば、真の紋章持ちのハルモニアの神官将の力を借りた方がより確実だ。ハルモニアの神官将らしき姿はないようだと聞いたし、戦場に動きにくい長いローブを着て出てくる魔法部隊がいるものかと思って。」
そう言ってから、ファロンはグローブをはずすと、それを目の前にいるハイランド軍に向けてかざし、詠唱をする。
ソウルイーターが、喜んだように一瞬だけきらりと光ったような気がした。
「黒い影!」
ごうごうという音とともに、ハイランド軍をソウルイーターの力が包み込み、再び視界が開けたときにはあたりにはシードとクルガンの二人しか立っていなかった。
「こ、れは…。」
あまりの紋章の力に呆然とするクルガンに、何が起こったのかときょろきょろと辺りを見回して、形勢逆転を悟ったシード。
一気に有利にしたファロンはといえば、きりりと唇を噛み締めて、棍を背中から抜き取った。でも、その表情は、昔トラン解放軍で戦ったときとは大違いの、酷く悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
そして、クルガンに叩き付けるようにして棍を力いっぱいに振り下ろし、返し手でさらにもう一度、打ちつけて戻ってくる。
ごふっとクルガンがむせて、それと同時に少し血を吐いたのを見て、自分も慌ててオデッサを構えて、クルガンの元へと切りかかる。
「ぐっ!」
呆然としていたクルガンにクリティカルを与え、すばやく下がる。
その間にシードが詠唱を始めたのにファロンが気づいて、こちらも負けじと水の紋章の詠唱を始めた。
先にシードの紋章攻撃をくらったが、次のファロンの水の紋章の力でダメージもすぐに治療し、その間にフリックがもう一度クルガンに向かって切りかかっていく。
「手伝うわ。」
次にシードが呪文を詠唱せず、力任せにフリックに切りかかっていくのをなんとかよけているのを見てから、手の空いたファロンは棍を構えて、伝説もかくやというほどの勢いでクルガンに攻撃を加え始めた。フリックもクルガンへの攻撃を重点的に仕掛けていく。
こうなってくると、二人を倒すのはさほど時間はかからない。
気がつけば、足元には地面に倒れ付した二人がいた。
「…さぁ、殺せ。」
シードは荒い息の下、悪態をつく。
「何が目的だ。言え。」
フリックの言葉にクルガンがくくっと笑う。
「言う、はずが…ない…でしょう…?」
切れた唇から出た血が生々しい赤をしている。
「…もういい。…行こう、フリック…。」
ファロンは馬にひらりと乗る。
「しかし…。」
「…目的なんかとっくにシュウがわかってるだろう…。…退却、だ。」
「ああ。」
言われて確かにファロンの言うとおりだろう、とフリックは頷いた。あの冷徹軍師ならば本当の目的ぐらい、とうにわかっているかもしれない。ともかく、今は、先に逃がした自分の部隊の無事を確認し、全員が帰投することの方が大事だ。
ラダトに向かおうと、馬を向けようとするとファロンが少し俯いていた顔を上げて、まだ草むらに倒れている二人に声をかける。
「…レオンに、伝えて。」
ファロンの言葉に、シードがよろよろと上半身を起こす。
「……私に引いて欲しいのならそれは逆効果だった、と。…今後は、そう簡単にいかない。…シュウを、…私を見くびるな。」
それだけを伝えて、ファロンはラダトに向かって馬を走らせ始め、また、フリックもその後ろをついていく。
去った二人をシードは見つめて呟いた。
「…やっぱ…強え……。…惚れ直したぜ…。」


ラダトで自分の部隊の無事を確認し、隊を整えて城に戻ったのはもう日付もかわろうかという頃。
中庭で点呼をとって、解散してからシュウのところに報告へいこうと、ホールに入ると、珍しく自分からやってきたシュウとあった。
自分の部屋でフリックの報告を待っているのがいつもだが、わざわざ下まで足を運ぶなどいままで例がない。
「…無事か。」
フリックの顔を見るなり、やっぱりといった口調で言われる。
「罠だって、知ってたのか?」
「ああ、そうじゃないかとは思っていた。だから、青騎士を多めに護衛につけただろう?道中の草むらの確認もそのためだ。」
「そうだな。」
「何が起こった?」
「魔法部隊は大嘘で、立派な突撃部隊だったよ。…幸い、早めに気づいたからうちにはダメージがほとんどなかったし、俺も、まぁ、なんとか助かったし。」
「なんとか?」
「…途中でクルガンとシードに待ち伏せされた。…危なかったけどな。」
その言葉に、シュウがふっと唇の端で薄く笑ったのは、嘲笑だったのか、それとも、誰かを思いやる暖かいものだったのか、どっちだったかはそのときの俺には気づくことはできなかった。
「ファロンがいて、助かったな。」
そこではっと気づく。
「ファロンが来たのは、あんたの指示か?」
「いや。あれは、自分の判断だ。こちらで指示出す間も無く、自分で弓兵に紛れ込んで行った。…あの分析力と行動力。さすがだな。」
くす、と笑いを浮かべて、だけどそれをすぐに引っ込める。
「で。そのファロン殿は?」
「お風呂じゃないのか…?さっき、点呼にはいたが…。」
そういいかけて、いや、違うと、急に妙な確信を得た。
そうじゃない。ファロンは、いつもだったら、戦いの後、一人で消えたりなんてしない。ともに戦った兵士達をいたわって、声をかけて歩いているはずだ。それはトラン解放軍だからとか、デュナン軍だからとか、そういったことではなく、ともに無事に戦いに残ったものを労う心からくるもので…。
俺は、慌てて中庭にでた。
そこにはまだ後片付けをしている兵士達がいるのに、ファロンの姿は見つけることができなかった。
そして、急に頭の中に昼の戦いの様子が鮮明にプレイバックする。
グローブをとったファロン。
一瞬だったけど、まばゆいほどの輝きを見せたソウルイーター。
そして、対照的に酷く悲しそうだったファロンの顔。
「シュウ!外出許可をくれ!ファロンが…。」
ホールから丁度中庭に出てきたシュウのところに駆け寄ってそういうと、もちろんだとばかりに彼が頷いた。
その顔は少し、怒っているようで、それは鈍い俺に対して怒っているのか、それとも作戦を読みきれなかった自分に対して怒っているのか、出て行ってしまったファロンに対して怒っているのかわからなかった。
だけど、シュウもやっぱりファロンにはここにいて欲しいと思っていることだけはわかったので、『連れ戻す』とだけ俺が言うと、彼は唇をきゅっと引き結んでうなづいて、すぐさまホールのほうに戻っていった。どうやら彼が珍しくここまで出てきたのは、ファロンのことが気がかりであったのだろうと、長い黒髪を揺らしてエレベーターに向かう後姿を見送りながら気がついた。
しかしゆっくりと彼を見送る暇はない。ぶるぶると頭を振るとファロンのことに頭を切り替える。
おそらく、徒歩で出ていったのだろうから、今から馬で追いかければさほどかからずに追いつくことができるだろう。
たいまつを片手にすっかりと夜が更けた街道を馬で走りながら、どうやってファロンを連れ戻すかを考えた。
きっとファロンは酷く傷ついているに違いない。
今回のハイランドの罠の直接の目的は、他の誰でもない、俺の抹殺だったのだろう。
それによって、ファロンに大ダメージを与えること。
それが最終目的。
聡いファロンは、おそらくレオン・シルバーバーグの策略の真意をすぐに読み取り、だから行軍に紛れてついてきたのだろう。
そうして、窮地に立たされた俺を見てどう思ったのだろう。
ソウルイーターが俺を食い殺そうとしている、そう思ったに違いない。
実際に俺が生きていても、そうじゃなくともかまわない。
ファロンに、自分のせいで俺の命が危なくなったと思わせ、デュナン軍から去らせることが今回の作戦の目的だったのだ。
「ファロンーっ!」
叫びながらラダトを目指す街道を走る。デュナン軍一番の早がけの馬だが、徒歩のファロンになかなか追いつかず、いらいらする。もしかして、気づかぬうちに追い越してしまったか、とも思ったがファロンの速さを考えると、まだこの辺でもたもたしているとは思えなかった。
兵は神速を貴ぶの言葉通り、トランの頃からファロンの行軍はいつでも早かった。
それからもうしばらく進んだ、サウスウインドのほんの少し手前で、前方に小さな明かりを見つけることができた。常人にしては随分と早い移動速度から考えてもそれはファロンに違いない。
馬にムチをいれ、小さな明かりに追いつくと、その明かりの持ち主は何事かと思ったのか、ちらりとこちらのほうを見て、それで目を丸くした。
「フリック…。」
「行こう。」
本当はそのままシーアン城へつれて帰ろうと思ったが、それよりもサウスウインドの方が遥かに近い。ここから取って返すよりも、まずはサウスウインドで休息を取ったほうが良いだろう。
それに、あの城内では言いにくいこともあるに違いない。
俺はそう考えて、ファロンの体を抱き上げるとそのまま馬に乗せてサウスウインドに入り、宿を取った。
部屋に入るまで、ファロンは何も言わず、ただ酷く悲しい顔をしてうなだれていただけだった。


「で。どうして急に帰ろうと?」
部屋に入って、ファロンを椅子に座らせて、それからできるだけ優しい声で聞いてみた。
「グレミオに晩御飯には戻ってくださいって…。」
ぼそぼそとらしくない口調で言うファロンの前に跪くと、ちょうど椅子に座ったファロンと同じくらいの目の高さになる。
「戻るなら、俺にだけは一言声をかけて欲しかったよ。」
「あは…ごめん…忘れちゃった…。」
そういう声が震えていて、もう泣き出しそうだった。無理に貼り付けた笑顔が痛々しくて見ていられない。
そっと腕を伸ばして、ファロンをゆっくりと抱きしめる。
「俺は生きてる。…ファロンが助けてくれた。」
「ちがっ…。」
否定をしようと首を振ろうとするが、その首を押さえてあるので首は振れない。
「私が…いるから…だから…フリックが…。」
「そう思うのなら、帰らずに俺の側にいて、俺が窮地に立たないように守ってくれ。」
その言葉にファロンは少し戸惑ったようで、腕から逃げようとしていた動きを止める。
「今、ファロンがここで逃げたら、あいつの策略にはまることになる。おまえなら今日のやつらの行動の目的がわかるだろう?」
ファロンは腕の中でこくりと小さく頷いた。
「ならば、逃げるな。ファロンが逃げると奴らの思う壺だ。」
「でも…!」
俯いたまま、その先は口にできず、ただただ怯えたように小刻みに肩を震わせているファロンの肩は、やはりトラン戦争の当時と少しも変わっていない。
呪われた紋章を持つ恐怖と悲しみは深く彼女の心に根ざしていて、未だ癒えることなどなかったのだ。
「俺は、大丈夫だ。…こうして生きている。もし、紋章が本当に俺を狙っているのならば、もうとっくに俺は死んでるさ。こんなに何度も見逃してくれるはずがない。」
今はどんなことを言ったとしてもファロンの不安を拭うことはできないことを知っている。だけど、どんな言葉を使ってでもその不安を少しでも解消してやりたかった。
「俺はどんなに大丈夫だと言ってもそれで心配が消えないのはわかっている。俺がもし病気で死んだとしてもおまえは自分を責めるだろう。だったら、ファロンが俺を守ってくれ。今日、そうして俺の命を助けてくれたように、常に、俺の隣にいて、俺の命を。」
「それは…。」
「ソウルイーターをコントロールできるのは他の誰でもない、ファロン一人だけだ。だったら、それをコントロールして、側にいてくれ。」
ファロンは無言だった。
自分がかなりファロンに対して無茶を言っているということは十分に理解している。だけど、そうするしかないから。
「コントロールするのに疲れたらトランに戻って休んでも構わないから。できうる限りでいい。できる限り、デュナン軍に、俺の隣にいてほしい…。」
抱きしめる腕の力を少しだけ強くする。
逡巡しているファロンの気持ちが、震えが治まり、じっとして、真剣に考え込んでいるように息を詰めている気配から伝わってくる。
「ファロンのいないところで、勝手に俺が死んでも後悔しないのか?おまえがどうすることもできないまま俺がいなくなっても構わないのか?」
「…。」
俺がファロンを守りたいと思うのと同じように、ファロンが俺を守りたいと思っていると自負している。とんでもないうぬぼれカも知れないが、今、思えば、いつでもファロンは俺のことを気にかけてくれていたから。
あの時はわからなかったが、ファロンの気遣いが俺をやわらかく包んでいて、俺はその思いに守られて、オデッサのことになんとか区切りをつけ、残された自分の使命のために存分に力を振るうことができた。それが自分の力だと自惚れていたことはビクトールと旅をして嫌というほど身にしみてわかった。
あれがファロンの愛情というのなら…、ファロンはきっと全力を挙げて、自分の持てる力の全てで俺のことを守ってくれるはずだから。
「だから、そうならないように。…ファロンが俺を守ればいい。…ファロンのことは俺が守るから。」
俺の言葉に、はっとファロンの身が硬くなる。
「…それは…。」
そしてファロンが呟いて、小さくかぶりを振った。
「私のことは守らなくてもいい…。」
「どうしてだ?」
「…もう…あんなのは…。」
震える小さな声がトラン解放戦争の最終決戦のことを言っているのだと、すぐに気づかせた。あの日、俺はファロンに向かって放たれた矢を受けた。残る俺を心配して、見たこともないような取り乱し方で大粒の涙を零しながら、パーンに抱えあげられて門に向かうファロンの姿が不意に脳裏に浮かび上がる。
同時に再びファロンの肩が小刻みに震えだす。
これでいいと、あの時に思った。
だけど、その選択は間違っていたのだろうか。
未だに怯えるような素振りを見せるファロンに少しだけ、胸の中が重くなる。
「…わかったよ。…もうあんな真似はしない。…あれから少しは経験もつんで、もっとまともなやり方もできるようになったさ。…だから、心配するな。」
だけど、怯える肩はそのままで。
「…もう一人で残るなんてことしないから。」
「…う…ん…。」
必死に返事をしようと思っているらしいことはわかる。だけど、まだ俺の言葉を信じてはいないのはそれよりも明らかで。無理もない、前科者だから。
「今度はパーンもいないしな。…だからおまえを無理に連れて行く奴はいないよ。」
ぎゅ、とファロンの腕が俺の背中に周り、力がはいる。まるでしがみつくように、しっかりと俺の体を抱きかかえた。
ファロンからそうやって抱きついてくれるのは珍しい。
「…絶対に…?」
不安そうな声が腕の中から尋ねる。
「ああ、絶対に、だ。だから安心しろ。…前に言ったろ?もう離さないって。」
自分で言っていて恥ずかしくなるような言葉で、思わずかあっと顔が赤くなる。だけど、それで安心してくれるのならば。
「戦場でだって、城内でだって。どこでだって隣にいればいい。」
「…うん…。」
小さく、こくりと頷いた首の動きにようやくほっとした。
ファロンはまだ顔を下に向けたまま、だけど、少しだけ身じろいで、体重を預けてくれる。
信頼してくれた。その喜びとともに俺の胸に宿ったものは、ファロンの心の闇の果てしない深さ。
未だ癒えない傷を負ったファロンをどうしたら救うことができるのだろうか。
それが俺の中に生まれた新たな命題であった。




                                                END

 

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