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「本当にこんなところでいいのか?」少々の困惑を含んで尋ねれば、目の前に座る人はこくんと小さく頷いた。
 ここはシーアン城のはずれ、湖と城壁に囲まれた小さな空間は人も滅多に通らない。真ん中に立っている立派な樫の木の根元には短めの草が茂り、空には太陽と青空、時々白い雲。日差しはあるけれど、緯度がトランよりも高いせいか、じりじりと焼けるような暑さではなく、風は季節のせいか少し涼やかで、目の前に濃い青をたたえて横たわるデュナン湖がさらにその涼しさを強調している。
 頷くだけの返事をしたファロンは不安そうにこちらを見つめる。
 「あ、いや。俺はどこだって構わないんだが…。」
 彼女の横には、出かけると決めてから必死で食事を作ったようで、それらが入れられていると思われる大きめのバスケットがひとつ置かれている。中からはカナカン産の、一級品とは言えないが値段の割には美味いといわれるワインのビンが頭を出していた。
 「他に場所を知らないんだ。」
 ファロンがぼそりといった言葉に俺も同じようなものだったということを思い出し、苦笑しながら隣に座り込む。
 「ただ、折角の休みだから、ファロンが好きなところで好きなことをしようって思ってさ。」
 膠着着状態の戦況は、ありがたくも非番を授けてくれた。
 それでもいつもは何やかにやと慌しく過ごしてしまったり、結局何かトラブルや用事があっておちおち休んでいられないといったことが多かったのだが、今日だけはどうしても、と前日まで必死に書類を片付けたり、根回しをしてようやく時間を作ることができた。
 この休日の過ごし方についてファロンの希望を聞いてみたら、ただこの城の外れの草地で食事をしたいと、それだけだった。
 俺としては新婚(正確にはまだ届けを出したわけでも、式を挙げたわけでもないが)のつもりで、その…あ…あい……愛…妻の…ファロンに、喜んでくれるような何かをしてやりたかっただけなのだが。
 結局、彼女の作った昼食を持って、ここにやってきた。
 俺にしてみれば、彼女の手料理が食べられるのだからむしろ嬉しい。ファロンの料理、だなんて一体何人の人間が食べることができただろう。
 でも、それで本当にいいのだろうか?
 そう思っている間にファロンがバスケットを開くと、中からはワインとミネラルウォータ、ハムやチーズのサンドウィッチが中に入り、サラダなども添えられている。
 「うまそう。」
 「…グレミオみたいに上手にできないんだけど…。」
 本人が言うものの、見た目も味も結構いいと思えるのは、あばたもえくぼってやつではないと思う。あのグレミオと比較するほうがおかしいんだ。あいつはそんじょそこらのシェフより確かな料理の腕を持っている。
 もちろん、あのグレミオの料理を小さい頃から食べているファロンとしてはこの出来は納得できないかもしれないが、俺にしてみれば十分というより、かなりうまい!の部類になると思う。
 「うまい。」
 「ほんと?」
 「ああ。お世辞抜きに、だ。」
 その言葉に、ほんのり頬を染めて、はにかんだように照れながら少しだけ嬉しそうにファロンが笑う。
 ああ、この顔いいよなぁ。
 でももっと沢山、心底嬉しそうに笑ってくれないかな、なんて幸せに思いながら次のサンドウィッチにかぶりつく。
 以前はあまり笑わなかったから、少しでも彼女が笑顔を見せてくれるとほっとする。俺といてもつまらなくないんだ、辛くなんかないんだと、そう確認でき、俺でもファロンを幸せにできるかもしれないって希望が見える気がする。
 
 おなかいっぱいに食べて、一緒においしいワインも飲んで、とても満足な気分で昼寝とばかりに寝転んだ。
 隣のファロンはバスケットに屑を片付けている。
 その姿を見て、完全に本来の目的から外れてしまっていることを思い出した。
 そうだ、俺が満足するための休日ではなくて、ファロンが満足するための休日でなくてはならなかったのに。
 俺は慌てて飛び起きた。
 「ファロン、何かやりたいこととか行きたいところとかないか?」
 尋ねる俺に、荷物を片付け終わったファロンは困ったように首を少しだけ傾げた。
 「え、と…ないけど…。」
 「そんなはずないだろ?どこでも遠慮せずに言っていいよ。」
 ファロンがシーアン城にきてから、マチルダの二人やシェイがファロンの相手をしてくれていた。そのときには劇場に行きたいとか、図書館に行きたいとか、みんなにあちこちリクエストをして、中でもヤム・クーの釣堀などは何回も足を運んだという。
 だから絶対お気に入りの場所があるはずなのに、いや、ここだって悪いというわけではないが、もっと彼女が楽しめるような場所へ連れて行ってやりたかった。
 「う…ん…。」
 困った顔でファロンが俯くが、その口から返答がない。
 「釣堀にでも行くか?ファロン、何回か足を運んでいるって聞いたし…。」
 「ううん、行かない。」
 「じゃあ劇場とか?」
 「ううん。」
 ファロンの困惑の度合いは深くなるばかりで、一向に芳しい返事が聞こえない。
 まさか、みんなには自分の気持ちが言えて俺には言えないのだろうか?
 そんな暗い考えが一瞬脳裏をよぎり、自分で考えたことなのに、少しだけショックをうけてしまった。
 今日は久しぶりの完全休日で、ファロンと一緒に楽しく過ごそうと思っていた。離れていた時間を少しでも埋めることができるように、ファロンの言うことをなんでもきいてやろうと、できるなら、少しはファロンのお…お…夫…らしい…こと…してやろうなんて…ちょっとは甘えてくれれば嬉しいって…そう思っていたけれど、どうやら自分が酷く空回りをしていることに今更ながら気づいてしまったのだ。
 俺じゃ駄目なのかなぁ…。
 ファロンに知られないように小さくため息を零す。
 ファロンほどの人間を相手にするには当然のことながら器の大きさが要求される。まだまだ半人前の俺ではつりあわないのだろうか。
 だから、ファロンはいつでも俺に遠慮をしてしまうのだろうか。
 包容力なんてどうやったら大きくなるんだろう。
 どうしたら早く一人前になれるんだろう。
 どうしたらファロンは俺を認めてくれるんだろう。
 傍らに座るファロンが不安そうな顔で俺を見上げる。
 こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
 ただ、笑って欲しかっただけなのに。
 「やっぱ、だめだな、俺。」
 俺の零した言葉にファロンの顔が一瞬にして強張る。
 「ファロンを困らせてるよな。」
 その言葉にファロンはふるふると首を慌てて振る。でもその表情はやっぱり酷く困って、いや、どちらかというと酷く悲しそうにしている。
 「遠慮しないで、なんでも言って欲しいのに、な。」
 彼女は小さくかぶりを振る。
 「どんなとこだって、いいよ?劇場だって、図書館だって、がけ登りだっていいから。好きなところ、言ってくれよ?」
 だけど、ファロンは首を振るばかりで、一向に返事がない。
 もしかして、俺は自分でも気づかないうちにファロンに出かけることを強制していたのだろうか。急に不安になってファロンに訪ねてみる。
 「あんまり一緒に出たくなかったのか?」
 その言葉に今度は酷く驚いて、そして悲しい表情を浮かべて首をぶんぶんと振る。
 ああ、もう、俺にはファロンの気持ちがわからない。どこを提案してもだめで、どこへも行きたくないのなら帰るしかないじゃないか。
 「とりあえず、部屋に戻るか。…な?」
 そういって、俺は立ち上がってマントについた草を軽く払う。
 「…帰ろうか。」
 そういってから、バスケットを持っていってやろうと手を伸ばすと、ファロンが慌ててバスケットを掴んで抱きしめるように抱える。
 急な行動にびっくりしてファロンの顔を見ると、大粒の涙がぼろぼろっと、一気に頬を滑り落ちた。
 「なっ…ファロンっ!?」
 慌てて俺は座ってポケットを探ってハンカチを探す。
 その間中もいくつも大粒の涙を零し、小さくかぶりを振っている。
 「違うの…。」
 見つけたハンカチでファロンの頬を伝う涙を拭いながら、急に泣き出した彼女にどうしていいかわからずにおろおろとしていた。
 「…ここが…いいの…。」
 そういったきり、俯いたまましばらく涙を零して、しゃくりあげて、ようやくそれが収まった後に、まだ泣いた余韻を引きずるような涙声が戸惑いがちに聞こえた。俯いていた顔をようやく上げたけれども、泣いたせいで彼女の大きな目は少し赤くなっていた。
 「…あの…。」
 ファロンはとても言いにくそうに、言葉を選びながら、口ごもりながらゆっくりと口を開く。
 「…時間、とってくれてすごく嬉しい…。だから…。」
 「だから?」
 先を促すように訪ねると、ぱあっと色白の顔を赤く染めて口の中でもごもごと何をかしゃべってたけれど、やがて、また俯いてしまい、それから蚊の鳴くような小さな声でぽつりと、言った。
 「…一緒にいたい…だけなの…。」
 そして、また涙をぽろぽろっと零した。
 「時間、作るの、すごく大変だったって、思うから。だから、一緒に、隣に。」
 ひっくと小さく、何度も何度もしゃくりあげながら必死で説明する。
 「お部屋だと、みんな、くるから……、でも、こんなところじゃ、つまら、ないよ、ね?…っく…、ごめん、ね…っく…ひっく…。」
 自嘲するように、泣き顔に無理に笑顔を貼り付けて、泣き笑いのまま、ぼろぼろと涙を零す彼女を抱きしめて、それで俺はようやく自分の本当の失敗を悟った。
 なんてバカなんだろう。自分で自分を呪いたくなる気持ちと、腕の中でしゃくりあげる彼女をとても愛しく思う気持ちが胸の中で一気に膨らんで破裂しそうになるほど痛かった。
 「俺が悪い。…ごめん。」
 腕の中で必死でかぶりを振るのに、俺は宥めるように背中をなでる。
 「俺、ファロンに笑って欲しかったから。…だから、少しでも好きなことしてもらおうって、それだけに精一杯になってた。」
 ファロンが腕の中でふるふると首を振る。
 「劇場とか、釣りとか、そういうところにシェイたちと行ったって聞いたから、きっとそういうのが好きなんだって、そう思っていた。…はは…、ダメだなぁ、俺。」
 「ダメじゃないよ。」
 ファロンが泣き声のまま即答してくれる。
 ああ、やっぱり、俺って愛されている。
 自分が思うよりも、もっともっと、愛されている。
 自分からいなくなったから怒っているんじゃないかとか、嫌われているんじゃないかとか、そういった気持ちがバカみたいに思える程、しっかりと、愛されている。
 なかなか口に出してくれなかったから、ずっと半信半疑で、いや、この前なんかプロポーズした時にだって他にもいい人がなんていうから、いやいや付き合ってくれているって思っていたのに。
 そのうち、俺のことを少しずつでも好きになってもらおうとそう覚悟を決めていたのに、なのにもうちゃんと愛されている。こんなに、沢山、愛されている。
 ああ、どうしよう、俺。こんなに嬉しい。こんなに愛しい。
 どうしたら、今の俺と同じくらいにファロンを幸せにしてやれるだろう?
 「ファロン。俺、ファロンが笑ってくれるなら、何でもするよ。」
 いきなり言い出した俺に、びっくりしたように目を少し見開いている。
 あ、やっぱり、恥ずかしかったかな?
 「まだ頼りないかもしれないけど、でも、頑張って、もっと幸せにするから。だから、俺…。」
 「も、充分なんだ。」
 「え?」
 「…今だって、充分にすぎるほど、幸せなんだ。」
 ファロンはそういって、照れたのか、俯いてしまう。耳が真っ赤にそまっていて、熟れて落ちてしまいそうなほど。
 「でも、俺は何もしてやってないよ。」
 俺は本当に何もしていない。
 ファロンが喜ぶようなことひとつも。随分昔に約束した指輪さえ、ちゃんとしたものは贈ってなくって。今、ここにこうして座っているだけで。
 だけど、俺のその気持ちを見透かしたかのように、ぽつりとファロンが零す。
 「ここに、いるから。」
 「え?」
 「ここにフリックがいるから、…隣にいるから。それだけで、満足なんだ。」
 ちらりと見えるファロンの横顔は、言葉に偽りなく、本当に嬉しそうで。
 だから俺は、すっかりと舞い上がって、ファロンに愛されている実感にどっぷりと、頭のてっぺんからつま先まで浸ってしまって、その後の時間もずっとファロンの隣で一日ゆっくりとすごし、幸せな時間を送った。
 肝心なことに気づけないまま。
 
 
 
 
 
 END
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