トラン共和国からの義勇軍の訓練が終わったファロンは、朝食を済ませると呼ばれていたシュウの部屋に向かった。
あちこちを旅して歩いてきたファロンから、他の国々の情勢を聞きたかったらしい。同盟を結んだティントの背後には、グラスランドやゼクセンが控え、いつそれらが襲ってくるとも限らない。そして、現在戦っているハイランドの背後にはハルモニアがいるのも忘れてはならない。一番安全なのが、今まで一番敵対していたトランだというのは皮肉にも思える。
そういった周辺の国々をつい最近までふらふらと歩き回っていたファロンは、ただ歩き回っていたのではなく、やはり、以前は一軍の長だっただけあって、国内情勢とか、いろいろ見聞きしたことをしっかりと分析してあった。
シュウとて貿易であちこちの国々と取引しながら各国の情勢を探っていたとはいえ、やはり都市同盟の領域から最近出ていなかったので、どうしても疎くなる部分が出てくるのは致し方ない。
デュナン軍の正副軍師二人を前に、2時間ほどそうして彼らの用が足りるまでしゃべり通しだったファロンは、シュウの部屋を辞すると休憩がてらテラスへ出てみることにした。
シュウから、特別にこの城のどこを歩いてもいいという許可を貰ってはいたものの、軍主の部屋や軍師の部屋のある上層部のほうには行きにくくて、今まで足を踏み入れたことがない。
こんなことでもない限り、滅多に足を踏み入れることがない場所へ行くのもたまにはいいかと、階段を上って、いつものテラスより上に行ってみると、どこからともなく、ザリザリというような、何かを引きずるような奇妙な音が聞こえてくる。
それは激しくなったり、弱くなったり、不思議なリズムで続くのが気になって、ファロンはその音のするほうに足を向けてみた。
やがて、屋外に出るとそこには、一人の男が、大きな金属製のやすりで何やら石像らしきものを削っているところだった。
「おや。」
男はファロンを見つけるとにっこりと笑う。
「あ…ごめんなさい…。」
ファロンは作業中であったことを認めると、邪魔にならないようにすぐに引き返そうとした。
「ああ、かまわないよ。」
ファロンがその声に思わず振り返ると、男はにっこりと笑う。
そうして手にしていたやすりをもう一度傍らにある石に押し付けてまたざりざりと、さきほどの奇妙な音を立て始めた。この城に住む石工だろうかと、ふと、その石像を見上げると、それは誰あろう、フリックである。
「これ…フリック…?」
呟くように、ファロンの口から言葉が出る。
「ああ、そうさ。」
男は誇らしげに細工の手を止めぬまま頷いた。
「なんで…?普通、シェイとか…軍主の像を建てるものじゃないの?」
「この城の決まりさ。ここには撃破数が多い人が飾られる。つい最近までは確かにシェイ殿だったんだが、最近、フリック殿が取って代わってな。」
そういって、手を止めて汗をぬぐうと改めて簡単に名前を名乗る。ジュドと名乗った男はそういいながら、再び丁寧にフリックの像のマントあたりに仕上げのやすりをかけている。
「彼はシェイ殿より装備が多くて難しいが、本当に難しいのは顔だな。」
そういいながら、ジュドはフリックの頬の辺りを目の細かいやすりでひとなでする。
「顔?」
改めてみていると、大体の感じはできているが、表情はまだ固定していないらしく、粗く目鼻がついたままだった。
「そう、顔。…まぁ、城の女性にも人気あるし、確かにいい顔してるんだけどさ。…あまりに表情が違いすぎる。」
そういいながらジュドはひょいとテラスから下を見下ろして何やら熱心に見つめた。なんだろうとファロンも一緒になって見下ろすと、遥か下、広場でフリックの率いる弓兵隊が訓練後の点呼と装備点検を行っている。
「ああやって、仕事しているときの顔。それから、飲み屋で相棒と飲んでるときの顔。劇場でげらげら笑っているときの顔。どれも、彼なんだがな、あまりに印象が違いすぎて、どの顔にしたらいいかわからないのだよ。」
「顔、ねぇ…。」
ファロンの印象に残っている顔といえば、笑っている顔、眠っている顔、それから悲しそうにオデッサ城の屋上で月を見ていた顔。
「これ、という顔がなくってな。」
「撃墜数ならば、戦っている顔、とか?」
「いやいや、それじゃあ殺伐としすぎるだろう?シェイ殿は、その人らしい石像を作るようにと仰せなんだ。」
「ああ、シェイらしいや。」
ファロンは年若い友人を脳裏に浮かべて、小さく頷いた。
軍主で、確かに戦ってはいるけれど、常に日常を、一般の市民のことを忘れない心やさしい少年。彼ならばそういったとしても可笑しくはない。
一般市民も暮らすこの城に、たとえ石像を作る条件は殺伐としていたとしても、石像そのものは殺伐とさせてはいけない。みんなの心が荒まないように。それを気遣うのは非常に彼らしく思えた。
「しかしね、それがなかなか。」
ジュドはそういって、もう一度下にいるフリックのほうを恨めしげに眺める。
「どれが彼の本質の顔なのかわからない。もちろん、彼について本人とも話してみたり、城の中のいろいろな人に話を聞いてみたりしたんだが…どうにもしっくりこない。」
ファロンはジュドとともにもう一度広場にいるフリックを見下ろした。装備点検が終わったのか、隊員と笑顔で話している。
「本人はなんて?」
「自分じゃわからないそうで。…ちょうど酒場にいらっしゃったところを捕まえて聞いてみたんですが。」
なるほど、確かにフリックならばそういうだろうとファロンは彼の少し困った顔を脳裏に浮かべていた。
「ビクトール殿は運が悪そうな顔に作ればいいなんていってましたが、一体どんな顔が運が悪い顔なのか皆目検討もつかない有様で。」
ジュドは心底困った顔をしていた。
フリックらしい顔、か。
ファロンは過去から現在までの彼の表情を思い浮かべる。
子供っぽい笑顔がファロンの一番好きな顔だった。いつでもその笑顔に励まされてきた。顔が良くて女性にもてるのに、その表情を崩して馬鹿笑いをし、涙を流してまで笑うこともしばしばだった。そんな気取らないところも大好きだった。
だけど、そんな明るさだけではないことも知っていた。
時折、オデッサ城の屋上で、一人月を見上げていたときの苦しそうな、悲しそうな顔も知っている。
オデッサさんを死なせてしまったことを多分今でも後悔しているのだろう。
その顔を見る度に、私は自分の犯した罪を思い知らされる。
フリックから、一番大事な人を奪い去ってしまったということを。
あんなことがなければ今頃は、二人で幸せに暮らしていたかもしれない。子供だってできていたかもしれない。
少なくとも、あんなに寂しい顔はしていなかっただろう。
フリックにあんな表情をさせているのは、誰でもない、自分のせいなんだということを今更ながら突きつけられた思いがした。
そんな自分がフリックの隣にいてもいいのだろうか。余計に彼に辛い思いをさせてしまうのではないだろうか。
ファロンは急に心臓が捕まれたような痛さを覚えた。
「おーい、ファロンー!」
ふっと、呼ばれた声で我に返り、慌てて呼ばれた下の方を向くと、遥か下の広場からこちらに手を振っている者が見えた。ファロンがここにいるのに気がついたらしいフリックが手を振っている。
ファロンは慌てて、わかったというように小さく頷いた。
「昼飯、くったかー?」
フリックの声が聞こえる。
ファロンは一瞬だけ、逡巡して、それからこくんと小さく頷いた。
「そっかー。じゃあ、また後でなー。」
残念そうに言うフリックに、もう一度だけ小さく頷くと、そのままジュドにも一礼をしてテラスから出て行ってしまった。
そのファロンの後姿を見送った後で、ふと、気になってジュドが下を覗くと、そのままファロンを見送るような形でフリックがまだ立っていた。
「これだ!」
そうして、ジュドは、工具箱からノミを取り出すと、ほとんど取り掛かっていなかった顔にその刃先を充てた。
END
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