もう何も見えなくていい、何も聞こえなくていい。
この世で起こる悲しいこと全てが、この数ヶ月の間に大きな波になってうねって襲いかかってくる。
だけど、考えられる限りの一番悲しいことが次々に襲いかかってきても、私はなんともなく生きていて。
それが果たして運なのかどうなのか、私には全くわからない。
ただ、はっきりしているのは。
右手にはテッドから受け継いだソウルイーターがあり、それを受け継いだときから、自分でも分からない、運命といえば運命なのだろう、大きな渦に飲み込まれていったのだけは実感している。
マクドールの家に生まれて15年。
赤月帝国の五大将軍の一人だった父、テオ・マクドールの娘に生まれて、母は早くに亡くしたけれど、何不自由なく暮らし、育った。水軍を継いだソニアのように、成人したら、私も父のように軍を率いて帝国のために戦うのだと漠然と思っていたのに。
気が付いたら、テッドから譲り受けたソウルイーターを巡って反逆者扱いされ、逃げ惑い、将軍の娘と言うベールを取って世の中を見てみれば、帝国の横暴があちらこちらで当たり前のように行われているのを目の当たりにし、自分の持っていた帝国のイメージが全て根底から覆されるのを、足元が崩れていくような感覚で見つめていた。
これが帝国?これが私の守ろうとしたもの?疑問に思い、今見ているものが本当であるのか、それとも今まで自分が見てきたものが本当であるのか、分からなくなり、だけど、おそらく自分が今、目にしているものが本当だと感じたとき。
目の前で、命を落としたオデッサさんの遺言に従って、その志を継ぎ解放軍のリーダーとなり、帝国に弓をひいていた。
その報いであるのか、ソウルイーターのせいなのか、それともそれが運命だったのか。
付き人、というより実際に親代わりだったグレミオが人食い細菌の犠牲になり命を落とした。
いつも一緒で、何があっても私を信じ、ついてきてくれた。私が解放軍のリーダーとなり、帝国と相反する立場に立ってしまってもそれは変わらず、私を守ろうとして、そして亡くなった。
ドア一枚を隔てた向こうで、グレミオが食い尽くされていくのに何もできなくて、ただドアを叩くだけしかできなかった。
声の限り叫んで、ドアを叩き続けて。棍を持つことができなくなるほど、手が腫れるのも構わずに。…そうしてグレミオはいなくなった。
これは悪い夢で、一晩寝れば、翌朝いつものようにグレミオが起こしに来てくれるのかもといった愚かな期待もあっけなく壊れて。
「少し…お休みください。」
マッシュの言葉に首を振る。
グレミオを亡くして以来、休みを取ることもせず、毎日仲間探しに奔走していた私をみんなが酷く心配そうな顔をして見る。
精神的にも体力的にも辛いけれど、休んでなんかいたら、グレミオのことを思い出してしまうから。今はがむしゃらに動いて全てを忘れてしまいたかった。
それに、私には成さなければならないことがある。
一度、踏み出してしまったなら、グレミオを失っても留まることは許されない。どんなに辛くても悲しくても、泣きながらでも前に向かって歩かねばならない。そう覚悟をしていたけど、不思議と泣くことはできなかった。
悲しさが極限に達し涙腺が麻痺してしまったのか、涙さえ出てこない。それだけではない、同時に、笑うこともできなくなっていった。
急速に世界は色を失って行く。全ての景色、全てのものがモノトーンに彩られていく。
ただ、マッシュのたてた作戦に従って戦い、仲間を集めていく、それだけの、リーダーという名前のからっぽな器になってしまったようだった。
それでも。
前に進むことだけが唯一の償いだから。
あの人が喜んでくれる最大で最高のことだから。
グレミオがいなくなってから5日。
「ファロン様…また何も食べないんですか?」
クレオが心配そうに覗きこんでくる。
食べなきゃいけないってわかっているけど、食欲がわかない。
「ん…ごめん…。さっき、つまみ食いしちゃった。」
空々しい嘘にクレオは酷く心配そうな顔をしているけど、それ以上は決して無理強いはしない。
「体、壊してしまいますよ?」
それでも忠告だけは忘れない。
「平気よ。丈夫だけが取り柄なんだもん。」
その返事にクレオは困惑の表情を浮かべた。
クレオが心配しているのは分かっている。だけど、今は。
「じゃあ、シップと包帯だけでも取り替えましょうか。」
そう言って彼女は持ってきたシップ薬と包帯をテーブルの上に乗せ、私の手を取るとしゅるしゅると巻かれていた包帯を外し始めた。
ソニエールで扉一枚向こうのグレミオを助けたくて、夢中で扉を叩いた結果がこの手だった。骨折はしていないようだけど、酷い打撲で10日は確実に棍が握れなくなってしまった。リュウカン先生の調合してくれた薬を塗って、大人しくしていることが今の私の仕事。
ぼんやりと、クレオの手際を見ていると急に男の声がする。
「ファロン。」
はっとして顔をあげると、部屋の入り口にはフリックが立っていた。
「なに?」
「マッシュから伝言。毒花の中和剤の完成見通しがついたってリュウカンからの報告があった。中和剤はあと1週間でできるらしいから、攻略はその後だってさ。」
「1週間…。」
私は包帯の解かれた手を見ていた。
随分と良くなって来ているが、まだ腫れは完全にひいていない。
「おっ、随分と良くなってるな。…この分なら、攻略に間に合う。」
私の頭上から手を覗きこんだフリックが言う。
「…間に…あうかな?」
呟いた私にフリックが当然といったように頷いた。
「間に合わせろ。おまえだって、グレミオの仇、とりたいだろ?」
「うん…。」
「じゃあ、安静を守って、療養しろ。今、無理をして手を使ったらそれだけ回復が遅くなる。外に行くときは俺に声をかけろ。いつでもお供ぐらいはしてやるさ。」
ぽんと、私の頭の上に大きな手をのせてフリックが笑った瞬間、どぐんと、心臓がひときわ大きくて力強い鼓動を打った。
出会ってから今まで、フリックの笑顔を見たことがなかった。20代半ばと言う割には幼さの残る顔だちは、決して悪い方でなく、むしろいい方で、それが笑うとまるっきり子供のような顔になる。
載せられた手から伝わる暖かさが気持ちいい。
見上げると、フリックのバンダナの色が、鮮やかに目に映る。色を失ったはずの世界に、急に飛び込んできた青。
「あ。…食事、手ぇつけてない。」
私の視線に気付かないまま、フリックはテーブルの上のトレイに視線を落とすと、声のトーンをいつもの怒ったような調子にして言う。
「何度も食べるようにいってるんですけど。」
シップ薬がずれないようにテープで固定しながらクレオがため息混じりに言う。
「食事はちゃんとしろよ。…腹減ってると、怒りっぽくなったり、悲観的になったりするんだ。」
「…………。」
経験上といいながら椅子に座る私を見下ろしてぽんぽんと頭を柔らかく叩くフリックに、なんと返事していいかわからずに無言でいた。その様子に苦笑すると私の横に座りこみ、そうしてテーブルの上にあった食事の乗ったトレイを自分のひざに乗せ、スープを一口、スプーンですくって私の前に差し出した。
「ほら、口あけろ。」
一瞬、何をされているかわからなかったが、やがて、それが食べさせようとしているのだと気付くと、みるみるうちに顔が赤くなるのを覚える。
「ひ…一人でも食べれる。」
「だめだ。…そういってずっと食べなかったんだろ?ほら、早く、口をあけろ。」
俯いて新しい包帯を巻いているクレオの肩が小刻みに揺れているのに、私はさらに顔を赤らめた。
「ほら。」
ぐいとスプーンを私の口元まで持ってこられて、喋ろうと口を開いた途端に食べ物を押し込むであろうことは明白だったから、私は諦めて大人しく口を開けた。
「よしよし。」
満足そうに笑ってフリックは私の口にスープを流し込む。
「うまいか?」
聞かれて、初めてスープの味を味わおうとしてみる。
きつすぎない塩味と、おそらく長い時間かけて煮込んだであろう野菜の甘味がよく出ている。
「うん。」
「そうか、良かったな。」
にこ、とさっきよりもさらに優しげな笑顔でそういいながら、もう一度フリックは私の口元にスプーンを運んだ。
「もっ…もういい、一人で食べる。」
「だーめ。…あ、そうだ。今度から食事をしなかったらバツとして、こうして俺が食べさせてやるよ。」
その言葉にクレオがぷっと噴出してから頷いた。
「いいですね。それ。」
なんて、簡単に同意をしてしまう。
冗談じゃないと、否定しようとした瞬間にまたスープを流し込まれる。
「じゃあ、これからは自分でちゃんと食べること。…いいな?」
「…はい。」
「よろしい。」
フリックはに、と笑ってから立ち上がる。
「早く良くなれよ。」
そう言ってにこ、と微笑むフリックの顔に、私はまんまと嵌められて悔しくて顔が赤いのか、それとも恥ずかしくて顔が赤いのか、どっちかは分からないけど、顔が赤いまま、やり返すこともできずに見送った。
側では、包帯を巻き終わったクレオが声を殺して笑っている。
「それでは。ちゃんと食事なさってくださいね。…そうでないとまたフリックさんが…。」
「分かった。…食べる。」
観念して呟いた私にクレオは笑いを隠して包帯などの医療道具を片付けて出て行った。
テーブルの上に残されたのは食事の乗ったトレイ。
パンに手を伸ばし、一口齧る。
グレミオがいなくなってから、まともに食事をするのは初めてだということに、そのとき気がついた。
『おまえだって、グレミオの仇、とりたいだろ?』
フリックの言葉が頭の中で再生される。
そうなんだ。…ちゃんと食べて、早く手を直して。
それがあの人の願いを叶えることでもある。
だから、泣いている暇はない。一日でも早く。
私の世界の中に蘇った青を思いながら、パンに再び齧りついた。
END
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