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この声が届くなら

1

 運命なんてものは信じないほうだ。そんな言葉を使わなければ説明できないようなことなんてあったためしがない。いい意味でも、悪い意味でも。普通の人生を歩んできたごく平凡な二十代後半の男であるぼくにとって、その言葉が暗黙のうちに意味している劇的な出来事なんて縁があるはずがない、そう思っていた。
 けれど、今日ぶつかった偶然はぼくのその漠然とした信念をちょっとぐらつかせた。

 一度目は会社の休憩所でだった。一息つこうと自動販売機の紅茶を買いに立ち寄ると後輩の女性二人が煙草をふかしながら雑談していて、その会話の切れはしの中に彼女の名前があったのだ。
「でもなんでそんなにいそがしいの? こないだまで楽勝楽勝って言ってたじゃん」
「それがさあ、なんか知んないけど最近空木さんがずっと会社に来なくってさあ、その皺寄せがあたしにまで来ちゃってんのよ」
 へえ、ずっと休んでるのか。そう思いながらぼくは紙コップを手に休憩所を出た。自分からは連絡をとらないぼくは同期の動向にうとい。だからこれはひさしぶりに知った彼女の消息だった。
 会社に来ないという言葉は気にならなかった。ぼくの勤めている会社は組織も中にいる人間もまだまだ若く管理もそれほど厳しくない。上司にもよるけど、遅刻や無断欠勤などはそれほど問題にされなかった。中には一月くらい平気で会社に来ない猛者もいるくらいだ(もちろん優秀なら大目に見られるというただし書きはつくけれども)。同じプロジェクトで働いたことがないので彼女の仕事の能力は知る由もなかったし、勝手に休んでしまうタイプかどうかもわからなかったけど、そのこと自体は別に変わったことではなかった。もっとも病気だったりすれば話は別だ。もしかしたら転職活動中かもしれない。そう思うとすこし落ちつかない気になったが、だからといってどうなるものではない。席に戻ったぼくはすこしのあいだ紅茶をのんびり味わってから作業に戻った。仕事ではない、作業に。
 二度目はその作業中に不意打ちで襲ってきた。
 その話をする前にぼくの仕事やそのときやっていたことを説明しないといけないだろう。ぼくはプログラマとして都内の会社で働いている。仕事の中身はパーソナルコンピューター用のソフトウェア開発。店頭で売っているような家庭用のものじゃなくて、企業の情報システムの受託開発が中心だ。会社自体は安定期に入ってきているようで仕事の量は多くもなく少なくもなくといったところだけど、この手の仕事の常として納期間際は殺人的にいそがしくなる。ぼくが参加していたプロジェクトはちょうどその波をなんとか乗りこえたところで、ぼくは仕事の端境期として束の間の時間的余裕をものにしていた。要するに、ヒマだったのだ。そこでそのときぼくはちょっと前から気になっていたことの調査を試みていた。
 前にも云ったようにぼくの勤めている会社はまだ若い。管理職を含めた社員の平均年齢もわりに低いせいか、規律もそんなにうるさく言われることがない(これは業種のせいもあるかもしれない)。多くの点でぼくはそれをありがたく思っている。けれどそんなおおらかさは人によっては何をやってもいいと受けとめるらしい。あいつはゲームばっかりやってるだとかチャットにかまけてて仕事が進まないといった話は絶えなかった。ソフトウェア開発なんて仕事は一日中コンピューターに向かっていれば仕事をしているように見せかけることができるからちょっと気をつけていればなんでもし放題という気になるのだ。もっともうまくやってると思ってるのは本人だけで、個々の席がパーティションで区切られているわけでもない現状ではディスプレイに映る画面でばればれということも多いのだけど。
 まあおよそ仕事とは関係のなさそうなWebページばかり見ていようと私用のメールばかり書いていようとぼくの知った話ではない。同じプロジェクトのメンバーで足を引っぱりでもしないかぎりは。管理職でもないぼくはそう考え、この件については我関せずという態度でいた。
 と、そのつもりだったのだが、どうやらそうのんびりしてもいられないような噂が最近になって流れだした。会社がインターネット公開用に用意しているサーバーに一部の人間が自由にアクセスするようになっていると言うのだ。仕事とはまったく関係ない私的なページを会社のサーバーで公開したり法に触れる可能性の高いファイルの交換に利用している、と。中にはメールサーバーの設定が変えられてやりとりの中身が全部覗き見されているなんて話まであった。
 ネットワークの管理がしっかりしていればこんなことは起きるはずがない。ないのだが、管理がしっかりしない事情もあった。インターネットが爆発的に普及したときに責任の所在もはっきりさせないままあわてて会社に導入し、その後特に問題も起きないので事なかれでそのままいままで来てしまったというのだ。はじめのころは担当者が責任感のある人で使う側も節度があって何の問題もなかったらしい。美しい話だ。もちろんそれで済むはずがない。当時の担当者が転職して会社から去るとネットワーク管理なんてやっかいでめんどうな作業はたらいまわしの格好のねたになった。ぼくが会社に入ってからも何回か変わっているはずだ。
 そのネットワーク管理者がようやく落ち着いたのが一年半くらい前。志願者が出たのだ。普通なら万々歳となるところだけど、不安視する人はすくなからずいたとぼくは見ている。なにしろその志願者というのがいつ仕事をしているのかわからない点では社内で一、ニを争う人間だったのだから。はじめはおとなしくしておいてほとぼりが冷めたころを見はからって、という当初の予定通りだったのだろうか。そら見たことかという気がしないでもない。
 もちろんそのネットワーク管理者やそいつと仲のいい連中が何をしていようとぼくの知ったことではない。しかしまれにとはいえぼくだって私用のメールを会社でやりとりすることはある。その中身が見られているかもしれないとなるとすこしばかり気分は悪い。そういう不快な状態は避けるに越したことはない。
 前置きが長くなってしまった。つまりそのときぼくはそういった噂の真偽と実態を調べようと試みていたのだった。聞いたって教えてくれるわけがないから自分で、というわけだ。
 とはいうもののこっちは一介の善良なプログラマに過ぎないのであいつらの管理しているサーバーに気づかれずにアクセスするなんてことはすぐにはできそうもない。見よう見まねでそんなことをしたらたちまち気づかれて警戒され場合によっては報復を受けるのが関の山だろう。ぼくとしてはまずは誰が警戒すべき相手なのかのあたりがつけばいい。さて、そのためにはどうすればいいか……。ない知恵を絞った結果、とりあえずサーチエンジンの力を借りて会社のサーバーで公開されている会社とは無関係のページを探してみることにした。そんなページを公開している人間はきっとあいつらに近いに違いない。会社のドメイン名を含みかつ会社名を含まないという条件で該当のページは見つかるはずだ。もっともURLなんてリンクにしてしまうのが普通だし、そもそも馬鹿正直に会社のドメイン名を使っているとも思えないのだが、まあとっかかりくらいにはなるだろう。たぶん。
 というわけで、そのときのぼくはああでもないこうでもないと試行錯誤しながらWebページの検索を何度もくりかえしていた。
 あんのじょう、実際にやってみるとたいした数は見つからなかった。いや、すこしとはいえ見つかったことに驚くべきか。もちろん中にはなんにも関係ないものもまじっているに違いない。次にしなければならないのはその選り分けだ。これにはいい手が思い浮かばず、とりあえずぼくはかたっぱしからページを見てみることにした。なんのことはない、つまりやってることはあいつらとたいして変わらないわけだが、この際なのでそういうこまかいことは気にしないことにした。
 こっちが見つけようとしているページかどうかだけがわかればいいのだからじっくり読む必要はない。ページを表示し、ざっとながめ、関係ありそうだと思ったらとりあえずURLを記録し、次のページに移る。そんなことを何度もくりかえした。しまいには自分が何をしているのかわからなくなってきてぱっと見の印象だけでとりあえず記録したりしなかったりした。
 だから、もうすこしで見逃すところだった。
 検索結果に戻ったところでなんだかひっかかりを覚え、もう一度そのページを見直した。そんなことははじめてだった。なんでそんなことをしたのかよくわからないまま他のページよりもよくながめて、URLにその名前が含まれていることに気づいた。
 言葉を失った。なぜいま出会うことになるのかわからなくて。

2

 ドアを閉めて鍵をかけ、照明を点けると狭い部屋の隅にある目覚し時計が目に入った。針は八時をちょっと過ぎたところを指している。ぼくはなんとなく息をついた。
 食事をしてきてこの時間なのだから、夜中の一時過ぎにやっと帰宅なんてことがざらだったつい数週間前とくらべると夢のような生活だった。コンビニでかろうじて確保したおにぎりを腹に詰めこんで終わらせる夕食ほどむなしいものはない。それに、なによりも精神的余裕がまるで違う。あんまりぎりぎりといそがしいといつでも頭の中にコードの断片やら実装方法やらが綿のように詰まっているようで眠ってもあんまり休んだ気がしないものだ。それとくらべれば最近は気分爽快もいいところだった。
 今夜はまたすこし違う気分だった。
 ダイレクトメールばかりの手紙の束をごみ箱がわりに置いてあるスーパーの買い物袋にまとめてつっこんだ。かばんをそのへんに適当に放り投げ、窓を開けて空気を入れかえる。初秋の気持ちのいい風が吹きぬけた。ともすれば季節の変化が感じられなくなるまで働かなければならないというのはやはりあまりいいことではないのではないだろうか?――ここ数日、窓を開けるたびに決まってそんな疑問が脳裡に浮かんだ。
 昨日までならそのままもの思いにふけるところだった。けれど今日はやることがあった。窓を閉め、室内でもっとも場所をくっている机の前に腰かけるとぼくはさらにその上の大半を占めているコンピューターの電源を入れた。
 会社ではあれ以上彼女のWebページの中身を読む気になれなかった。勤務中だから、というのは言い訳だ。彼女の書いた言葉を人のたくさんいるところで読みたくなかった。きっとたくさんのことを考えるに違いないから、誰にも邪魔されたくなかったのだ。
 なんと云えばいいか――彼女は、ぼくにとってちょっとだけ特別な存在だった。
 好きだとかそういうことじゃない。そうじゃないけど、心の底にはいつもその存在がひっかかっていた。会わなくても(実際会社ですれ違うときくらいしか顔を見たりはしなかった)名前を聞かなくても、彼女のことはいつもどこかでちょっとだけ気になっていた。
 おそらく彼女のほうはぼくを意識していたりはしないはずだ。と思う。嫌われている可能性はおおきいと思うけれど、それよりも忘れられていると考えたほうがまちがいないだろう。なにしろゆっくりと顔をつきあわせたことは一度しかないのだから。しかもそのさわがしい酒の席で、ぼくたちはただの一言も言葉を交わさなかった。

 彼女をはじめて見たのは入社式のときだと思う。新卒者の一員として同じ部屋にいたはずだ。いや、はずだということはないはずなのだけど、なにしろ緊張していたものでそのときのことはよく覚えていない。そもそもぼくは人の顔を覚えるのが苦手だ。実際同期の顔と名前と人となりがひととおり一致するまでにはずいぶんかかった。
 そんな中で、彼女は比較的早いうちに顔を覚えることのできた一人だった。
 目立つからではない。逆だ。あんなにしゃべらない女性をぼくはいままで見たことがない。話しかけられれば応えていたけど、それもおとなしいちいさな声で。会話の輪に加わっているように見えるときも言葉を挟むことは皆無といってよく、それでいてつまらなそうな顔を見せたことはなかった。別に意識して距離を取ろうとしているわけでもないらしく、要するにそれが彼女なりの在りかたなのだとぼくが諒解するころには研修期間も半ばを過ぎていた。彼女の存在の希薄さは同期の中でもきわだっていた。
 ぼくはと言えば、みんなのあいだでどこにも落ちつかない感じでいた。なんというか、たくさんの人といっしょにいるのは苦手なのだ。学生みたいにはしゃいだ同期のつきあいかたが好きになれなかったということもある。聞かれれば応える、会話にも参加する。けれど特に用がなければ自分からは話しかけないし、私的な会話にもつきあわない。それまでの人生と変わらないぼくの態度は、けれどみんなの目にはきっと奇異に写ったことだろう。研修が終わるころにはぼくは同期の中ではかなり浮いた存在になっていた。彼女よりも、ずっと。気にはならなかった。ぼくの在りかたはずっとそんなふうだったから。
 そんなぼくでも研修の打ち上げと称する飲み会には素直に参加することにした。一月以上も同じ部屋で同じことをずっとしていればいくらかは仲間意識みたいなものも生じてくる。誘いを断って偏屈を演出するつもりはなかった。誘われないかもしれない、とは思っていたけれど。
 結局その飲み会には同期全員が参加した。チェーンの居酒屋で席につく段になって、何の拍子かぼくは彼女と隣りあわせることになった。
 最初のうちは他に話す相手がいたから彼女のほうには顔も向けなかった。その相手が席を移り、気がつくと二人ぽつんと取り残された感じになったのは飲みはじめてからだいぶたってからだった。
 そのときのことは鮮明に記憶している。酔っていたというのに。話をあわせてばかりの会話に疲れていてぼくはかなり不機嫌になっていた。自分の性格の嫌いな点のひとつなのだが、話しかけられると調子をあわせて言葉を返してしまうのだ。聞かされる中身が興味のないことだったり考えの違うことだったりしてもふんふんなるほどと聞いてあたりさわりのない返事をしてしまう。そのくせ内心では聞いたことに関して(時には辛辣な)コメントをつけていたりする。信頼関係のない人間相手に正面から意見をぶつけて波風をたてるようなまねはしたくない、というよりはそうなると面倒なのでなるべく避けるようにしているというのが正直なところで、ともすれば相手があきれて根負けするまで自分の意見を言いつづけてしまうぼくにしてみれば人づきあいをおかしくしないために身につけたある種の知恵でもあった。しかしだからといって考えるのをやめられるわけではない。それまでずっと話をしていた相手はよく云えば快活な、悪く云えばものを考えないタイプで、自分や自分に関係のあることばかりをぼくの返す言葉などろくに聞かずにずっとしゃべりつづけていた。しまいにはかなりうんざりしていたぼくはそいつが席を立ったときには気づかれないように息をついたほどだった。そのときのぼくを見ていたなら表情が一瞬で変化したのがはっきりとわかっただろう。
 彼女は、それを見ていたはずだ。
 視線を感じて顔を向けたときには彼女はウーロン茶だかウーロン杯だかの入ったジョッキをじっと見つめていた。彼女の向こう側の席からはいつのまにか人影がなくなっていた。テーブルの向こう側に座っている連中は隣との話に夢中でぼくたちのほうを気にする気配は感じられなかった。ちょうどエアポケットにでも落ちたような感じで、喧騒の中ぼくと彼女は二人きりになっていた。
 なんとなく隙を見せてしまったような気まずさを覚えながらぼくはしばらく彼女をながめた。そのころの彼女の顔にはまだ幼さが残っていた。化粧は薄く、どうかすると男の子と言っても通用しそうな中性的な感じだった。体をちぢこまらせた姿がその場にひどく不似合いだった。
 ぼくの表情の変化を彼女がどう思っているのか――そもそも彼女が本当にそれを目にしたのかどうか、その様子からは皆目見当がつかなかった。
 そもそもぼくは表情や態度からなにかを察するなんてことができた試しがない。どうやらそっち方面の能力がまるっきり欠落しているらしい。そんなわけなので彼女を見ていても何も知ることはできなかった。
 話しかけようかとも思った。けどすぐに思いなおした。うんざりしていたのは聞いていた話の中身に対してだけじゃない。しゃべる自分に対しても、だった。自分の思っていることを殺してただ会話だけを続けるというのはけっこう疲れる行為だ。話しかけられたのならともかく、こちらから話しかけてまでまたぞろそれを続ける気にはなれなかった。ぼくは黙ってそのときにはもう水割りに変わっていたグラスに手を伸ばした。と、彼女も同じようにジョッキに手を伸ばした。
 そのままずっと、二人とも手にした飲み物を口にしつづけた。
 どちらも一言も発さなかった。彼女がぼくを気にしているような気配は感じられないでもなかったし、ぼくも彼女を気にしないわけではなかったけれど、結果的には目をあわせて話をするまでには至らなかった。あとで人から聞いた話によるとひどく深刻な雰囲気がして近寄れなかったそうだ。喧嘩していると思った人もいたらしい。結局最後までぼくと彼女は誰にも声をかけられなかった。ぼくたちがただよわせていたただならない雰囲気をよくあらわしていると思う。
 そんなわけだから幹事が時間切れを宣言したときは正直云ってほっとした。気づまりはお互い耐えがたいほどにまで高まっていたから。もちろん、どんなことでもいい、一言言葉を交わしさえすればそんな状況はすぐに解消されただろう。けれど彼女は結局最後まで口を開こうとはしなかったし、ぼくはといえば意地でも自分からは口を聞かない気になっていた。
 そんな自分に気まずさを感じてもいたから、ぼくはなるべくさっさとその場から退散しようと早々に席を立った。
 瞬間、彼女は立ちあがったぼくを見あげた。
 そのときの彼女の表情をどう説明したらいいだろう。怒りを浮かべた瞳でぼくを非難しているようにも見えた。おびえた不安な目ですがりつくようにも見えた。だいたいが視界の端に映っただけなのでたしかなことなど言いようがない。
 はっきりしていることはただひとつ――彼女はたしかにぼくになにかを伝えようとしていた。
 言葉を発さずに。
 ぼくはそれをふりはらって彼女に背を向けた。
 幹事に金を払うと二次会の予定も聞かずにすぐに店を出て、誰も待たずにまっすぐアパートに帰った。つきあいの悪さはそれ以来だ。彼女ともあれ以来――いや、おそらくはその存在を知ったときからずっと、言葉を交わしていない。おたがいに顔を見せるような距離にさえ、ろくに近づいてない。

 ぼくにとって彼女がひっかかる存在なのは、あのとき感じたうしろめたさがまだ心の底に残っているからだった。嫌われているだろうと思う理由もそれだ。もっともこういったことをいつまでも引きずっているのはぼくだけで当の相手はまるで気にしてなかったなんてことはいままで何度もあった。彼女もたぶんその例に漏れないだろう。そういうものだからそれはそれでいい。
 そういったこととは別に、彼女が世界に向けてなにかを公開しているという事実はぼくには興味深かった。あの彼女が、と言いなおしたほうがいいかもしれない。あんなにおとなしくて静かな人間がいったいどんな言葉を連ねているのか? ぼくには想像がつかなかった。だから、誰にも邪魔されずに、読みたかったのだ。
 同時に、彼女の紡ぎだした言葉に真摯に向きあうことは、あのとき向きあおうとしなかったことに対するせめてもの罪滅ぼしになるのではないかという気分もあった。
 ネットには待たされることなくつながった。ブラウザを起動し、会社から持ち帰ってきたフロッピーを挿しこんで中にメモしておいたURLをコピーする(会社からメールで自分宛に送れば手っ取り早いのだが、いまは用心するにこしたことはない)。エンターキーを押すとブラウザは昼間も見た画面を描画した。ぼくは表示されたテキストを見つめた。
 はじめのページは殺風景と言っていいほどシンプルだった。タイトルロゴのイメージ画像とテキストだけで構成されたメニューだけ。名前はどこにもない。少女趣味っぽいタイトルは彼女のイメージからは程遠いものだった。こんなページ、知らずに見ていたら彼女のものだなんて絶対に気づかなかっただろう。ぼくはメニューをたどりはじめた。
 肝心の中身はというとこれといったテーマのないエッセイ集のようなものだった。食べ物や音楽、テレビや映画といった感じでおおまかに分類してある。更新履歴を見ると題名と日付のリストが二画面分ほど連なっていた。それによると、公開したのは約一年前。それからだいたい一週間ごとに話題が追加されていた。
 さて、どこから読みはじめようか?――しばし迷ってから、結局更新履歴のいちばん古いものから追加順にかたっぱしから読むことにした。どうせ全部目を通すつもりなのだ、そのほうがまちがいがない。ぼくはマウスを動かしていちばん古い日付のリンクをクリックした。
 文章を書き慣れているらしいことは読みはじめてすぐにわかった。もっともこれは驚くにはあたらないかもしれない。働きはじめる前、同年代の女の子からたまにもらった手紙はどれもこれもみなたちうちできないほどきちんとしたものと相場が決まっていた。けれどその書き手が彼女だと思うと、やはりにわかには信じがたいことではあった。
 それを云うならその饒舌さもそうだった。買ってきたCDの感想から挑戦した料理の一部始終、街で見かけた猫のこと、果ては近所の神社の境内の雰囲気や道端のお地蔵さんのことまで、彼女はほとんどあらゆることを話題にしていた。よくもまあ日々の生活の中からこんなにも話題を見つけることができるものだとぼくは感心しつつも半ばあきれた。さすがに一本一本の長さはそれほどでもないが、ぼくなら三行くらいで終わりそうなことを原稿用紙何枚分だかに仕立てあげるのだから、これはやはり書くのが好きでなければできないだろう。あのもの静かな体のどこにこれだけの言葉を生みだす力があるのかぼくには見当もつかなかった。
 その見事さは、しかし逆にぼくに書かれていないことを意識させた。
 彼女の文章には職場に関わるすべての出来事がまったく出てこなかった。
 いや、注意深く読めばそれらしい話題もないではない。けれどそれを言葉にする際に彼女は巧みに抽象化して一般的な話に組みかえていた。その周到さからしておそらく彼女は意識してそうしていたのだろう。結果、彼女のWebページは(感性的な意味での)少女の日々の想いをつづったエッセイ集として統一のとれたものとなっていた。
 けれど、なぜそんなふうにしたのか?
 そりゃあ名前を表に出していないわけだから職場や関わる人間があからさまにわかるような書きかたをしてはいろいろ都合が悪いだろう。しかしその点にさえ気をつけていれば逆に相当のことも書こうと思えば書けるはずだ。なのに彼女はその選択を採らなかった。まるで書き手としての自分が職場には存在していないように思わせたいかのように。身のまわりのことをていねいに拾い集めているからこそ、いちおうは職場を共にするぼくの目にはその欠落は奇異に映った。
 ひょっとするとなにか理由があるのだろうか、それとも単に表現上の問題だろうか――そんな疑問を頭の隅に置いたまま、ぼくは次々と彼女の文章に目を通していった。途中いくらか飛ばしぎみになってしまったのはしかたあるまい。正直云って勝手がわかってしまえば読むまでもないものもいくつか含まれていたのだから。それでも最後、つまりいちばんあたらしいエッセイにたどりつくまでには一時間以上が過ぎていた。
 最後の題名の上にマウスカーソルを動かしたときにはさすがにすこし疲れを覚えはじめていた。本を読むのは嫌いではないものの、やはり紙よりは画面のほうが圧倒的に読みにくい。それに知らずしらずのうちにずいぶん集中して画面を見つめていたらしくこめかみのあたりがかなり凝っていた。ぼくは息をつくとこれで終わりという感じで軽くマウスをクリックした。
 あらわれてきた文章に、いままで以上に集中して画面を見つめた。
 それまでのエッセイとは明らかに異質な言葉だった。長さも一画面におさまるほどしかない。けれど、その短い文章はそれまで目を通してきたすべてのどれよりも強くぼくの心をとらえた。

あたしは あたしの言葉で 話したい。
でも あたしの言葉は 誰も聞いてくれない。

人の言葉はたくさん聞いてきた――溺れるくらいに。
世界には言葉があふれている――うんざりするくらいに。
あたしがつけくわえることなんて、ないのかもしれない。

でも、あたしは、話したかった。
借りものじゃない、自分の言葉で、話したかった。

誰も聞いてくれないのなら、意味がないのに。

本当に?
あたしの言葉は、誰も聞いてないの?

 我にかえると、あわててブラウザの表示を更新履歴に戻した。
 日付は約一月前のものだった。それまでのペースからすると彼女はずいぶん更新をなまけていることになる。いや、なまけてるなんて表現はおそらく正しくない。彼女は唐突に更新をやめてしまったのだ。
 ――会社を休みはじめたのはそのころからではないのか?
 ぼくは机のひきだしを開けて雑多な紙の束をひっかきまわした。
 なかなか直せない悪い癖のひとつに一度手に入れた書類をいつまでも後生大事にとっておくというのがある。これできちんと分類するなりスキャンして取りこんでおくなりしておけばなにかの役にたつのだろうがあいにくそこまで気がきく人間ではない。おかげであることはわかっているのにどこにあるのかわからないものを捜して右往左往することがたびたびある。
 いまがまさにそうだった。押し入れに詰めた段ボール箱までひっぱりだして目的の印刷物を見つけるまでにぼくは三十分近くを浪費した。
 そうしてやっと同期の名簿(こんなものを親切にも作って配ってくれた人がいたのだ)を手にしたときにはさすがに最初の勢いは冷めていた。彼女の電話番号を見つめながらぼくはためらいを覚えていた。
 彼女の最新の文章は、純粋な出来という点からすればあまりほめられたものではなかった。ちょっと気のきいた中学生ならさらっと詩にでも書いてしまうくらいのものだろう。けれどそれがあの積み重ねの果てに出てきたとなると話は別だ。あの文章を人目にさらすことはそれまでのエッセイで輪郭を描いてきた架空の自分の像をぶち壊すことにほかならないのだから。
 そしてその理由は彼女自身に生じた何事かとしかぼくには考えられなかった。
 名簿を探したのは彼女に声をかけてすこしでも助けになれればと思ったからだ。ためらいを覚えるのは互いによく知りもしないのにいったい何ができるだろうと思ってしまったからだった。だいたいもうかなり時間がたっている。問題が解決している可能性は高い。会社には別の理由で来ないだけで。
 さんざん迷ったあげく、意を決して電話の受話器に手を伸ばした。
 あの文章の最後の一言が、最終的にぼくの背中を押した。
 あのときぼくは彼女に耳を向けようとさえしなかった。自分のことばかり考えて他人のことなんてまるで気にしてはいなかった。彼女にしてみればぼくもまた「聞いてくれない」人間の一人にすぎないだろう。でも、だからこそ、ぼくは彼女に伝えることができるのではないかと思った――ぼくもまた、誰にも声が届かないと思い続けてきた一人だったから。
 番号を押し、耳にあてた受話器から響いてくる呼び出し音をじっと聞いた。心臓の鼓動のほうがおおきく聞こえてきそうだった。
 けれど、いくら待っても電話はつながらなかった。留守電にさえならなかった。五回かけなおし、最後には二十回近く呼び出し音を鳴らしたけど、回線のもう一方の端は応じてくれなかった。
 電話を切り、腕を組んで彼女が出なかった意味をしばらく考えた。それから画面に表示されたままの彼女のWebページにふたたび目を戻した。

3

 こういうときフレックス制は本当に便利だと思う。いつもより早めに出社したぼくはコアタイムが終わるとさっさと会社を出てしまった。まだ仕事をしている同僚を尻目にその脇をすりぬけていくのはいつもならけっこう気持ちよかったりするのだけど今日はそんな気分ではなかった。まだまだ残暑の厳しい九月の街中をぼくは足早に駅へと向かった。帰るためではなく、出かけるために。
 頭の中では醒めた自分が絶えず忠告をつぶやいていた。曰く、そこまですることはない、考えすぎだ、やりすぎと思われてかえって誤解を招いたらどうする、などなど。そのとおりだと思いながら、しかしぼくは足を止めなかった。ただたしかめたかったのだ。悪い予想がはずれていることを。
 ターミナル駅で私鉄に乗り換えたあとはドアのすぐ脇に立って窓の外のまだ明るい街並みをぼんやりと見つめていた。
 電車を降りて改札を出ようとして、足がすくんだ。いまならまだ戻ってもおかしくない、そんな考えが脳裡をよぎって。そら見たことか、ともう一人のぼくが笑う。その思いにすぐに応えることができず、ほんのすこしのあいだぼくはその場に立ちすくんだ。
 だがせっかくここまで来て何もせずに帰ったらそのほうが馬鹿みたいだ。そう考え直して怖じ気をふるい、ぼくはふたたび歩きだした。
 場所はネットで検索して地図を印刷しておいたものの、実際にそこまでたどりつくにはかなり骨が折れた。区画が雑然としている上に番地表示がろくに見つからなかったのが敗因だ。いいかげん陽射しが傾いてきたときにはなにもこんなところに住まなくてもいいのに、とやつあたりのように考えてしまった。すくなくとも若い女性が好んで住むような街には見えなかった。
 それでもやっとたどりついた住所にあったのは今風のアパートで、ぼくはなんだかちょっと安心してしまった。もっとも小ぎれいなのは外観だけで建ってからはずいぶんたっていそうだ。家賃はどれくらいだろうか。ぼくの住むアパートよりはちょっといいという感じだが、女性の一人暮らしとしてどの程度なのかはぼくには皆目見当がつかない。
 などとうだうだと考えているのはアパートの前に立ったところでまたもやためらいが首をもたげてきたからだった。呼び鈴を押して彼女が出てきたらどんな顔をすればいいんだろうか、と。昨夜はたしかに電話がつながらなかったけれどそれはたまたま外出していて部屋にいなかったというだけのことかもしれない。いや、普通に考えれば絶対にそうなのだ。なのに、こんなところまで来てしまった。まだ言葉にさえなっていない想いを伝えようと思った、それだけのために。
 彼女が顔を見せたらきっとひどく滅入るだろう。せっかくの想いもうまくあらわせるものか――そう思うとまたもや足がすくんだ。
 そうやって動けずにいると、横を人が通りすぎた。
 女だった。ぼくのほうにちらっと不信げな目を向け、ショルダーバッグをぎゅっとつかんで足早にアパートの二階への階段を登っていく。それで我にかえった。こんなところにぼうっとつったっていてはあやしい人間だと思われかねない。進むか戻るか、さっさと決めなければ。
 そう思った瞬間、足が前に動いた。
 さっきの女の後を追って、けれどすこし意識してゆっくりと階段を登った。登り切るまでにはどんなに手間取っても鍵をあけて部屋に入れるくらいの時間をかけた。さっきの不信げな目と会うのを避けたくて。
 そんな配慮は廊下に出てみるとまったく無駄だった。さっきの女は奥のほうでドアに向きあって立っていた。どうもだれかを訪ねてきたような感じだ。なるべくその女を意識しないようにしながら号室表示を見つつ廊下を進んだ。
 彼女の部屋にたどりつく前に、先にいた女にぶつかりそうになった。
「あっ、ど、どうも――」
 あわてて身を引き、ふと視線を斜め上に戻して部屋番号をたしかめた。それからあらためて先客の女に顔を向ける。小柄なその女は横を通り過ぎたときと変わらない不信げな目でぼくを上目づかいに見つめていた。まるで自分を守るように両腕を胸の前で組み、顎を引いて。
 そして、言った。あからさまに警戒した口調で。
「この部屋に、なにか用ですか?」
 女は彼女の部屋の前に立っていたのだった。
 頭の中が真っ白になった。これもまた自分の嫌いな点のひとつだが、酒を飲むなどして話すモードに入っていないと言葉がとっさに出てこないのだ。こういったことがあとすこしでもうまくできたら人づきあいももうちょっとましになるんだろうけど、などと考えたりするからいけない。ぼくは言葉に詰まったままアパートのドアと目の前の女を交互に見くらべた。そのあいだじゅう女はぼくから視線を逸らさなかった。その態度がまたぼくに更なる緊張を強いた。
 馬鹿みたいに何度か同じ動作をくりかえすうちに、やっと喉からしぼりだせる言葉を見つけた。息をつき、親指でドアを示すとぼくは努めて落ちついたふりを装いながら口を開いた。
「いません?」
 女は警戒を強めるようにさらに顎を引いた。
「姉に、どんなご用ですか?」
 素性がわかったことでぼくはずいぶんほっとした。だから、本当のことを言ったほうがいいかどうか考える前に言葉が出てしまった。
「会社で」
 とたんに、女の顔にほっとした、それでいていまにも泣きだしそうな、いずれにせよひどく無防備な表情が浮かんだ。
「あなたも、お姉ちゃんがどこに行ったか知らないんですか?」
 頭の中がまた真っ白になった。

4

 駅前のチェーンのドーナツ屋に腰を落ちつけたころには西の空はもうすっかり茜色に染まっていた。
 ちょっと話を聞かせてもらえませんか――そう提案したのはぼくではない。ぼくはただ呆然とつったっていただけだ。逆に彼女の妹はほんの一瞬感情をあらわにしただけで、すぐに立ち直ってぼくに誘いをかけると返事も聞かずにさっさと歩きだした。ぼくは置いていかれないようについていくのがせいいっぱいだった。
 ショックはおおきかった。予想していたことなのにいざ事実として直面してみるととても信じられなかった。でも先を急ぐ彼女の妹のうしろ姿を見るかぎりどうやらそれは本当に本当らしかった。
 カウンターで二人分の紅茶を買って(ドーナツなんて食う気になれなかった)向かいの席に腰をおろすとぼくははじめてゆっくりと彼女を、つまり彼女の妹をながめた。その視線に気づいたように彼女(ええいややこしい、つまり彼女の妹だ)は膝の上に両手を乗せてちいさく会釈をした。
「はじめまして。空木由美です。秋生の妹です」
「あ、どうも……。沢橋です」
 言って頭をさげる。次に何をしていいかわからず、しかたがないので普段は入れない砂糖とミルクをカップにぶちこんでプラスチックのマドラーでかきまぜた。ちらっと見ると彼女の妹、空木由美も同じことをしていた。
 しばらく中途半端な沈黙が二人のあいだに横たわった。
 いつまでもそうしているわけにもいかなかった。ぼくはカップに口をつけると意を決して話しだそうとした。
 とたんに機先を制された。
「どうして姉はいなくなってしまったんですか?」
 口に含んでいる紅茶を吹きだすのはなんとかこらえた。しかしおかげで鼻に入ってしまい体をくの字に曲げて何度もむせた。ときおり視界の端をぼくを真剣に見つめる空木由美の姿がよぎった。
 ようやく落ちつくと体を起こして向かい側の席を上目づかいに見た。彼女の妹は両の瞳でぼくをひたと見すえていた。表情はあくまで真剣だ。深く息を吐きだし、慎重に言葉を切りだした。
「その……どうして、ぼくがそれを知ってると?」
「だって、他にいないじゃないですか」
 さもあたりまえのことのように空木由美はさらっと言った。無表情を装ってはいるが、とぼけんじゃないよこの馬鹿というオーラが背後にただよっている。助けを求めるようにあたりを見まわしてから、なんとか空木由美に視線を戻した。
「他に、いない?」
「はい」
「えっと……ご両親とか、恋人とかは?」
 恋人という言葉に、空木由美は両目をまあるく見開いた。
「姉がつきあってる人って、沢橋さんじゃないんですか?」
 ぼくはあっけにとられて空木由美を見かえした。
 会社には社内恋愛をしている人がけっこういる。女性社員が比較的多いせいだろう。結婚後も共働きを続けている夫婦もすくなくない。しかし彼女がその一員だとはいまのいままで想像さえしていなかった。社内の人間関係に関心を持たない自分が悪いとはいえ、ぼくはすこしばかりショックを受けた。相手はだれだろう?
 と、ぼくのショックが伝わったのか、空木由美は途方に暮れた様子で肩を落としてうつむいた。
 ぼくはカップに口をつけて唇を湿らせた。
「その、彼女――空木さんがいなくなったのは、いつ?」
 返事はすぐには返ってこなかった。警戒しているのかもしれない。無理もない、そう思っているとつぶやくようにちいさい声が戻ってきた。
「気づいたのは二週間くらい前です。ていうか――それから、連絡がとれてません」
「携帯は?」
「……姉は、持ってませんから……」
「ご両親もそのことを知らない?」
「……はい。たぶん。あたし――あたしたちからは実家にはめったに連絡しませんし。すこしでもおかしいと思ったら向こうからなにか言ってくるはずですし」
 ぼくは息をついた。空木由美の口調は家族の人間関係に問題があることを言外に語っていた。ろくに知りもしない人間が触れていいことではないだろう。
 となると、もっとも有力な手がかりは彼女がつきあっていただれかさんに違いなかった――それが誰かわかればの話だが。
 あの態度も妹相手だと違うかもしれない、そう思いながらもあまり期待しないで言ってみた。
「空木さん、つきあっている人についてなにか話したりしなかったの?」
 はじかれたように空木由美は顔をあげてぼくをきっとにらみつけた。
「沢橋さん、あの、失礼ですけど、姉とはどういう関係なんですか?」
 言葉に詰まった。
 答えようがなかった。関係がほとんどなかった関係、というくらいしか。そんな答に納得する人間などいるはずがない。ということはつまり、言ったって信じてもらえるはずがない。
 そんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、空木由美はぼくから目を逸らさなかった。姉に似ない意志の強そうな瞳で。小揺るぎもしないその視線は答えるまで動きそうになかった。
 しかたなくぼくは口を開いた。
「……会社の、同僚です。同期入社で」
「それだけですか? 彼氏でもないのに、どうしていなくなってることがわかったんですか?」
 はじめの問いにはまたもや答えようがなかった。けれど次の質問についてなら話すことができる。ぼくは昨日からの一連の出来事をかいつまんで話した。
 空木由美は黙って聞いていた。話し終えるころには目つきからけわしさがなくなっていた。どうやら信じてもらえたらしい、そう思うと心の底からほっとした。
 アパートの前まで来たところで話を終えると、カップを手にしてかなり冷めた紅茶を飲んだ。空木由美はこころもち視線を落としてちいさく息をついた。
「……信じられない。お姉ちゃんが、自分のことを他人の目に触れるようなところに書いて置いておくなんて」
 思わず声をあげた。
「知らなかったんですか?」
 空木由美はちいさくうなずいた。
 ぼくはまたもやあっけにとられていた。空木由美のつぶやきは彼女のことをすこしでも知っていれば当然の感想だと思う。けれど妹が言うとなると話はまったく別だ。
「……空木さんって、家でも自分のことを話さないの?」
「……あたしには。親にもたぶんそうだと思います。聞けば答えてくれますけど、それでも教えてくれないこともあるし」
「彼氏のこととか?」
「そう……です。はじめ勘違いしたのもそのせいで、なにかの拍子で最近会社の人とデートしたりするってぽろっと言ったのを覚えてたから、わざわざアパートまで来るような人なんてそれくらいしか考えられなくて……」
「……そうだよなあ」
 息を深く吐きだし、ぼくは天井を見あげた。
 ここにいるのはぼくなどではなく彼女のつきあっているだれかであるべきなのだ、本当は。だいたい同じ会社に勤めているんだから恋人が会社にも出てこない家にも帰らない、つまり様子がおかしいってことくらいわからないはずがない。なのに何日もほっぽらかしにしておくなんていったいどういう神経をしているんだろう?
 そう考えをめぐらせた瞬間、ひとつのひっかかりが頭の中で急速に意味のあるかたまりを成した。
 ――身内にさえ自分のことをろくに話そうとしない人間がWebページを公開しようなんて考えたりするだろうか?
 誰でも読めるようになってるからといって誰もに読まれるつもりだとはかぎらない。何人かだけしか相手にしてないWebページは世界にはいくらでもある。知らない人間の目に触れる可能性をまったく意識していなかったとは思えないが、それでも彼女は特定の人間に向けてあの文章を綴っていたのではないだろうか。
 彼女の文章に会社関連の記述がないこともそう考えれば説明がつく。もちろん性格もあるだろう。しかしそれ以上に、それは不要だったからではないだろうか。職場以外での姿を意図して見せるためには。
 誰に? 決まってる。URLを用意した相手に、だ。彼女はあれを私信として利用していたのだ。そんなことができる人間はかぎられてる――
「――どうしました?」
 不意に耳に飛びこんできた声にぼくは顔を戻した。空木由美が向かいの席から不安とあやしさをないまぜにした顔でぼくに視線を投げかけていた。
「いや、ちょっと――」
 言いながら腕時計に目をやった。この時間なら早めに切りあげていないかぎりつかまえることができるはずだ。
「――失礼」
 腰を浮かしかけると、なぜか空木由美も同時に立ちあがった。ちょっとびっくりして見たその顔には硬い表情が浮かんでいた。
「こちらこそ、お時間を割いていただいてありがとうございました」
 かたちだけ頭を下げ、そのままドアのほうへと歩きだす。えっ?と思ったときには空木由美はもう自動ドアの前に立っていた。
「ちょ、ちょっと待って! お姉さんの――」
 聞こえなかったのか無視したのか、言い終える前に空木由美は店を出ていってしまった。
 かばんをひっつかんで駆けた。閉まりかけの自動ドアがふたたび開くのを待つのももどかしく、店を飛びだすと左右に首をめぐらせて行ってしまった背中を捜す。目あての背中は駅のほうへかなりの速足で歩いていた。後を追ってぼくは走りだした。
 追いついたときには息が切れていた。日頃の運動不足を痛感しながら空木由美の横に並んで歩いた。彼女はぼくに目を向けようとさえしなかった。はあはあ言いながらぼくはやっと言葉を絞りだした。
「ね、ねえ君、お姉さんが心配なんでしょう? それだったら――」
「結構です。あなたにお聞きすることはもう何もないようですから」
 鉈で薪を割るような口調だった。一瞬ひるんだけど、すぐに息を吸いこんで言葉を続けた。
「――お姉さんがつきあっていた人のあたりをつけることができるよ」
 空木由美は足を止めた。つんのめるようにしてぼくも足を止める。ふりむくと彼女は二信八疑くらいの表情でぼくを見ていた。本当ならひとっつも信じたくないんだけど、そう口元が語っていた。手がかりのなさが足を引きとめたに違いない。
 すこし間を置いてから、空木由美はゆっくりと口を開いた。
「……本当ですか?」
「たぶん」
 断言したかったがさすがにそう言いきってしまっては嘘になってしまう。まだ推測の域を出ない話だ。
「気になるなら、ちょっと待ってて。会社に電話をしてたしかめるから」
 空木由美はすぐには応えなかった。目を伏せ何事かを考えるその姿は姉妹だけにたしかに彼女に似ていた。
 やがてぼくにちらっと目を向けると空木由美はつぶやくように言った。
「……わかりました」

 あたりに公衆電話が見あたらなかったので駅まで行って電話ボックスを捜した。改札口に近いところにある二つはめずらしく両方とも埋まっていた。人を連れて動きまわるのもなんなのでとりあえずそこで空くのを待つことにした。
 やれやれという感じで息をつくと、空木由美が小首をかしげてぼくを見た。
「沢橋さん、携帯持ってないんですか?」
「持ってません」
 なんとなく間が悪い感じになってぼくはボックスのほうに顔を向けて答えた。
「なんでです?」
「嫌いだから」
 くすっ、という笑い声に視線を戻すと空木由美の顔にわずかに笑みが浮かんでいた。抑えているとはいえはじめて見る笑顔だった。
「ひょっとして電話も苦手ですか?」
「――比較的」
 研修を終えて配属されたころに電話番をやらされたので取るほうはずいぶん鍛えられたが、かけるほうはいまだに苦手だ。留守電の録音メッセージが聞こえてくると切りたくなってしまう。めったにかけたりかけられたりしないから余計に慣れない。
 そんなぼくの心中を見透かすように空木由美は言った。
「似てます。姉に」
 それからショルダーバッグを開くと明るい色の四角いかたまりを取りだしてぼくに差しだした。
「使います?」
 ひどくまぬけな顔をしたに違いない。動けないぼくを見て空木由美は手の中の電話機を開きなにやらいじくってからふたたびぼくに差しだした。
「番号を押せばつながります」
 あわてて受けとり、ついそのまま耳にあてそうになって思いとどまり、画面とボタンを見くらべて慎重に番号を押した。正直に告白すれば携帯電話なるものを使うのはまったくの初体験だ。あまりのちいささにひどく落ちつかない気がした。
 電話は待たされることなくつながった。聞き覚えのある声がはきはきと会社名を告げる。二年ほど後輩の、本職よりも電話番に命をかけているような男だ。ぼくは自分と相手の名前を告げてしばらく待った。ほどなくして馴染みのある声が電話の向こうから聞こえてきた。
 相手は同期の――ということはつまり彼女とも同期の――女だった。特に親しいというわけでもないけれどなにかあったら言葉を交わす、そういう相手だ。会社での人づきあいがずいぶんかぎられているぼくにしてみれば仕事にからまないで話すことのある数少ない一人だった。
 軽い断りを入れてから手短に用件を話した。答は一拍遅れて返ってきた。それに続いてコメントも。ぼくは礼を言ってからその意味をすこし考えた。回線の切れる音に、黙って手の中の精密機械を空木由美に差しだした。
 探るような目でぼくを見ていた空木由美はとりあえず電話機を受けとるとたたんでショルダーバッグの中にしまった。視線はすぐに戻ってくる。ぼくは答えなければならなかった。
「たぶん、こいつだろうって言ってた。システム部の平雄一」
 たしか一昨年に入ってきた男だ。ただし新卒ではなく、年もぼくと同じか下手をすると上のはずだ。転職ではなかったと聞いている。それまで何をしていたかは推して知るべし。なにしろ連中の中心にいる一人なのだから。
 その名前を耳にしたとたん、空木由美は両の瞳をすこしおおきく開いた。ただならない気配を感じてぼくはあわててつけくわえた。
「ただ自信はないそうです。他に親しげに話をする男なんて見たことがない、ってだけの話で。どうやら君のお姉さんは会社でもつきあっている人がいるなんてことはおおっぴらにはしたくなかったみたい」
「それは――わかります。あの姉ですから」
 空木由美は足元に視線を落とした。
 いったい彼女はどんな生きかたをしてきたんだろう――あらためてそう思った。心配してアパートまで来てくれるくらいなんだからこの妹と彼女が仲が悪いとは思えない。なのに、その妹にさえ彼女は自分のことをそう明かしてはいないのだ。もしかしたらあのWebページが本当に彼女のはじめての他人に向けた自己表現だったのではないだろうか、そんなふうにすら思えた。
 それを、おそらく彼女は否定されたのだ。
「――それで?」
 意を決したように空木由美は顔をあげる。ぼくはその脇にかかえられたショルダーバッグを指さした。
「電話、してみたらどうです?」
「あたしが、ですか?」
「ぼくより確実でしょう」
 肉親なら捜していること自体が純粋に問題になる。ぼくが行方を訊いたりしたら好きなのかとかそういう余計なことでひっかきまわされそうな気がした。そんな逃げ道は用意すべきではない。
「いいんですか?」
 その問いは真意を探ろうとしているように聞こえた。彼女も同じことを考えているのだろう――ただ、姉を好きなら自分から電話するはずだと推測して。
 ちいさく、しかしはっきりと、ぼくはうなずいた。
 ふっ、と息をつき、空木由美はしまった電話機をふたたび取りだしてボタンを押しはじめた。
 電話はすぐにつながったようで、空木由美はかなり暗くなった空を見あげながらてきぱきと自分と相手の名前を告げた。そのまま口を閉じる。ということは電話番は用件を聞かずにとりつごうとしているのだろう。本当ならあまりほめられたことではないが、いまはそのほうがありがたかった。
 閉じた口はなかなか動こうとはしなかった。無意識にか、空木由美はつま先でアスファルトをこつこつと鳴らして神経質なリズムをとっていた。同じことをしそうになる自分の足をぼくは無理に押さえつけた。
 やがて彼女の刻むリズムが唐突に止まった。
「えっ? あ、いえ――そうですか。わかりました。ではまた明日にでもかけなおします。はい、失礼します――」
 電話を耳から離しボタンを押すと空木由美は肩を落とした。
「……その人、もう帰ったそうです」
 詰めていた息が気が抜けるように外に出た。いつもはすることもないのに遅くまでいるくせに、なんでこんな日にかぎってさっさと帰ったりするんだ?
 空木由美も緊張の糸が切れてしまったようだった。途方に暮れた顔がどこか遠くのほうの空をただぼんやりとながめる。しばらくしてから、そのままぽつりとつぶやいた。
「どうしたらいいでしょう?」
「また明日にでも電話してみるしかないでしょう。とにかく、いまのところ手がかりはひとつしかないんだから」
 ぼくの声も負けず劣らず落ちこんでいた。
 そのまますこしのあいだ二人してただ立ちつくした。もうできることは何も残ってないんだ、そうあらためて気づいたころにはすっかり夜になっていた。
「その……あんまり、心配しないで。まだなにかあったってわけじゃないんだから」
 とりあえず見つけた言葉を口にすると、空木由美は視線をぼくに向けて無理に笑みを浮かべた。
「そうですね。手がかりが見つかっただけでもよしとしなくちゃ」
 言って、自分自身を納得させるようにちいさくうなずく。ぼくもあわせてうなずいた。
 それが終わるとまたすこし沈黙の間が空いた。その隙間を埋めるようにぼくは片手をあげた。
「じゃ、ぼくはこれで」
 不意をつかれたような表情を浮かべた空木由美に背を向け、改札のほうへと歩きだした。唐突なのはわかっていたけどいっしょにいてもすることはもう何もなかった。
 数歩進んだところで言い忘れていたことに気づき、足を止めて肩越しにふりむいた。
「お姉さんが早く戻ってくることを祈ってます」
 驚きをすぐにしまいこむと空木由美はちいさく頭を下げた。
「ありがとうございます」
 応えるように片手をあげ、ふたたび歩きだした。自動券売機で切符を買い、改札を通ってプラットホームに出る。ちょうど会社帰りのサラリーマンやOLを詰めこんだ列車がすべりこんできたところだった。降りる人の流れに逆らって乗りこみ、反対側のドア脇に場所を確保して壁に体をあずけた。
 ひどく疲れていることに気づいた。
 できることはもう何もなかった。事はもうぼくの手を離れてしまっている――いや、はじめからぼくの手の中になんてなかったのかもしれない。
 あとはただ、彼女の妹がうまくやっていることを祈るばかりだった。

5

 有給休暇も余っているので休んでしまったってよかった。けれど何もしないでいるとかえってひとつのことばかり考えてしまいそうで、結局朝普通に起きるといつもと同じように会社へと向かった。
 しかし、予想はしていたものの仕事にはまったく身が入らなかった。本当にいそがしくなくてよかった。こんな状態でコーディングしてもまともに動くコードなど書けないに決まってる。ぼくは設計をしてるふりをしたり資料を読んだりしてなんとか時間をやりすごした。
 Webページ探しはもうやるつもりはなかった。やればまた彼女の名前を見つけてしまうだろうから。彼女の件が解決するまでは近づかないつもりだった。
 それまでにはどれくらい時間がかかるだろう? 昨日はあの男がなにか知っているはずだとすっかり決めつけていたけど、本当にそうかどうかは実際のところわからないのだ。こっちがそう思いこんでいるばっかりでよく聞いてみると何の関係もないかもしれない。もしそうだとしたらすべてはふりだしに戻ってしまう。そしたらどうすればいいだろう?
 ふと気がつくとそんなことばかり考えていた。

 それでも昼食を食べて一時間くらいするころにはそれなりに仕事をする調子になってきた。資料をチェックするうちに言付けすることを思いつき、さあメールを書くかと画面上のウィンドウを開くとちょうどそのタイミングでメールがひとつ飛びこんできた。ぼくは書くのをあとまわしにして新着メールをチェックした。
 発信人の名前に視線を奪われた――平雄一。
 とりあえず読むのをやめてちいさく息を吸いこみ、当初の目的を果たすためのメールを書いた。仕事と関係ないことを気にして本来の用事を忘れては本末転倒である――気になる心を無理に抑えていたのが本当のところだけど。
 書きあげた文章を二回読みなおしてから送信し、ほっと息をつくとぼくはすこし身がまえてからあらためて未読のメールを開いた。
 一読、顔をしかめた。
 ざっと目を通しただけでも不愉快になる内容だった。念のため二度最初から最後まで読みかえしてもその印象は変わらなかった。
 書いてあることそのものはきわめて単純だった。あなたから聞いたと言って彼女の妹から電話をもらいましたが、私は彼女が会社に来ないこととは関係がありません。要約すればそれだけ。たったそれだけのことを、発信人は皮肉であろうつもりの遠回しな言いかたで馬鹿丁寧に書いていた。丁寧語を使っているのはいちおうは先輩に敬意をあらわしてということもあるのだろう。しかしそれも含めて、全体から伝わってくるのはある種の気分――ふてくされた態度だった。
 どうして俺がそんなことを言われなくちゃならないんだ?――平雄一のメールは問わず語りにそう主張していた。
 すぐに返信を書こうとして、手を止め思いなおした。
 インターネット上での感情的な言い争いは何度も目にしている。ぼくはもっぱら読むだけに徹していてあいだに入ったことは一度もないが、それにしてもようやるはとよく思うものだ。面と向かうよりもものを言いやすいという側面もあるだろうし、手紙や本に載った文章を読むときより深く考えずに反応してしまうということもあるだろう。しかしそれ以上に、見知らぬ人に対していきなり表現に充分気を遣いもせずに言葉を発してしまって誤解を招くことも多いのではないだろうか。会って話をすれば身振り手振りや目つきなどで言ってることを補足もできるし、逆に相手のそれを見て言外の意を悟ることもできる。けれどネットワーク上では書かれた言葉がすべてだ。それだけですべてを伝えなければならない。なにもかも、すべてを。
 事務的なメールならともかく、普段からろくに文章を書かないぼくが自分の思うことをきちんと誤解なく相手に伝えることができるとは到底思えなかった。
 そもそも送られてきたメール自体がそうやって書かれたものかもしれない。同じやりかたで返したら火に油を注ぐことになりかねない。やはりここはひとつ慎重に対処しなければ。
 一方でそう冷静に考えながら、しかしもう一方ではぼくはかなり強いいきどおりを感じていた。好意的に受けとめたとしても平の書いていることは人が一人いなくなっている事実に真剣に向きあっているとは云えなかった。
 しばらく思案してから、席を立った。
 ためらいがうしろ髪を引いた。そんなことをする理由があるのか、そうもう一人のぼくが心の中でつぶやく。けれど結局は彼のふてくされた態度(それは疑いようのないことに思えた)に対する腹立ちが冷静な声に勝った。ぼくは席を離れて下の階の平雄一の席へと歩いた。
 すぐ横に行くまで平はぼくに気づかなかった。あんまり真剣にディスプレイを見つめているので何をしているのかと思ったら画面を占めているのはずいぶん派手な色づかいのどこぞのWebページだった。給料は仕事と関係のないWebページを見ることに払われているわけではないはずだが。もっとも昼間だからまだ自重しているのかもしれない。平は夜になったらゲームばかりしているともっぱら噂されていた。
「ちょっと、いいかな」
 声をかけると平はびくっとしてぼくを見あげ、顔をたしかめてもう一度びくっとした。直接出向いてくるとは思っていなかったのかもしれない。たしかに話したことなどないのだからその判断はまちがってはいない。ぼくはかまわずその脇にしゃがみこんだ。
「メール読みました。ぼくは空木さんがつきあってる相手は君だと思ってたんだけど、違うのかな?」
 言葉を切って平を見る。平は応えず、警戒もあらわに探るような目でぼくを見おろした。体裁をとりつくろうともしないその態度にぼくは不快感を覚えた。身に覚えがあるからよくわかる。こういう態度でいるときはなまなかな言葉には耳を貸そうとしないものだ。
 単刀直入に行くしかないか――そう思ったときにはもう言ってしまっていた。
「空木さんのWebページの場所を用意したのは君じゃないの?」
 平の顔色が変わった。ビンゴだ。ぼくは平の言葉を待った。
 けれど平は何も言おうとはしなかった。ただぼくに得体の知れないものを見るような視線を向けるだけで。
 しかたなく、言葉を続けた。
「もしそうなら、君は彼女の書いていた文章を読んでいたはずだ。いちばんあたらしいものもね。違うかな?」
 やっと話の筋道がわかったとでもいうように平は二、三度ゆっくりとまばたいた。目つきは嫌いなものや敵を見るものに変わっていた。こちらには逃げる理由はない。ぼくはその視線を正面から受けとめた。
 やがて視線をそらし、平はやっとぼそっとつぶやいた。
「……だから?」
 相手とまともに向きあおうとしないふてくされた口調にむかっときて、つい考えるより先に言葉を口にしていた。
「あれは君に向けて書かれていた文章だ。つきあってたかどうかとは関係なしに。君の感想に対する返答だったはずだ。そうだろう?」
「知りませんよそんなこと。ホームページなんて誰が見るかもわからないものになんで俺宛ての文章を載せたりするんですか? メールのほうがよっぽど確実だ。そうでしょう?」
 お世辞にもおだやかとは言えない目で平はぼくをにらんだ。どうやら彼女が姿を消したことと自分とは無関係だと本気で主張したいらしい。その無神経さにぼくは唖然とした。
「……なら、なんでURLなんて用意したんだ?」
「からかいのつもりだったんですよ」
 憮然として平は言った。「あんなおとなしい女の子におしゃべりの場所をあげたらどうするだろう、ってみんなで考えてね。メーリングリストなら読んでるだけでもかまわないけど自分のホームページなら自分で書くしかないでしょ? 絶対そんなことやりそうにないからこっちで全部手はずを整えて、そんでその反応を見ようってことだけだったんですよ、最初は。ブログじゃ簡単すぎるし、わざわざサーバースペース用意したんだって言えばちょっと反応が違うかもしれないと思って。そしたら普通の女の子みたいなことでページを埋めはじめたから、なんだ普通だなって。みんなすぐにあきちゃって、すぐに誰も読まなくなったんじゃないかな。
 でも俺は、やりかたとか全部教えたの俺だから質問とか全部俺のとこに来たんですよ。メール嫌いみたいで毎回毎回俺のとこに来たり、あと飲み会で聞かれたり。そういうの見てみんなつきあってるって思ってたみたいだけど、でもぜんぜんそんなんじゃないんですよ。雑談にはつきあったりしてましたけど」
「……でも、感想は聞かれたろう?」
「ついこないだね。そういうときだけなんかしんないけどメールで。こんなことで嘘ついてもしょうがないから正直に答えました。たいしておもしろくない、読んでて退屈だ、って。そしたらあれでしょ? つきあってられませんよ」
 どうして人間ってのはこうも鈍感でいられるのだろうか? まるで自分の見たくない分身を目の前にしたような気がしてぼくは目を閉じた。
 目を開くと平の冷ややかな目がぼくを見おろしていた。さっさとあっちに行けと顔つきが大声で叫んでいる。ぼくはゆっくりと立ちあがった。来たときよりも体が重くなった気分だった。
「……どうも、すいませんでした。もし空木さんから連絡があったら教えてください」
 頭を下げ、ぼくは背を向け立ち去りかけた。
「もうねえよ」
 そのつぶやきを聞き逃せるはずがなかった。ぼくはふりかえって平を見た。
 平は画面に戻しかけていた視線をふたたびぼくに向けた。なんだよまだなんかあるのかよ、そう露骨にわかる表情をしている。癪にさわった。ぼくは顔を突きだした。
「もう、って言ったな? ということはいままでに連絡はあったのか?」
 思わず語気が強くなった。気圧されたように平は身を引く。その目をぼくはまっすぐ見つめた。答えるまで視線をそらすつもりはなかった。
 勝負ははじめからついていた。顔をそむけて目を伏せ、平はぼそっと言った。
「一回、家に。一週間くらい前だったかな」
 これではいまの話もどこまで信用できるものか。そうだ、こいつはプライベートで彼女と会っていたことを話さなかった。その他にも都合の悪そうなことをどれだけ隠しているかわかったものではない。
「それで、なんて?」
「……なんて言ってたかな……そう、とおのものがたりって知ってる?なんて聞かれたな……」
「――とおのものがたり?」
 唐突に登場した単語に虚をつかれて思わず聞きかえした。その反応に隙を感じたのだろう、平の態度は一瞬でふてくされたものに戻っていた。
「そう。それだけ」
「他には?」
「だから何もないですよ。それしかしゃべらなかったんだから、ほんとに。他に何話せって言うんですか?」
 平はぼくをにらみつけた。本当に何もないのかそれともただ口でそう言っているだけなのか、それを知るための手がかりはもうつかめそうになかった。
 ぼくはいつのまにか詰めていた息を吐きだした。彼女は何を想ってこの男に電話してきたのだろう? 望みを持ってだろうか、それとも無駄かもしれないと思いながらだろうか?
 今度は何も言わずに、ぼくは平に背を向けた。平ももう何も言わなかった。
 歩きながら意識は彼女の言ったという言葉に向かっていた。“とおのものがたり”……本かなにかの題名だろうか。聞きおぼえがあるような気がする。“とおの”というのは人の名前かそれとも地名か――
 そこではたと思いだした。たしか民俗学の古典だ。昔の日本を舞台にした小説かゲームか、とにかくそのあたりの解説で目にした覚えがある。天狗やら河童やらといった言葉がいっしょに使われていたはずだ。
 それと、少女の神隠しの話。
 階段の途中で足を止め、ぼくは唇を噛んだ。もし彼女がその少女にわが身をなぞらえているとしたら? そう伝えたくて電話をかけたのだとしたら?
 それは勝ち目のない賭けだとわかっていただろうか?
 たとえ『遠野物語』を知っていて彼女の意図に気づいたとしてもあの男は何の行動も起こさなかったに違いない。その事実を受け入れたとき彼女がどうするつもりなのかは考えたくなかった。暗い気分でぼくは自分の席へと戻った。
 椅子に座ろうとすると隣りの席の後輩が思いだしたようにぼくに顔を向けた。
「ちょっと前に電話がありましたよ。空木の妹ですけど、って。いまいないって言ったらじゃあいいですって切っちゃいました」
 思わず額に手をあてた。当然予想すべきだったのだ、平から何も聞きだせなかった空木由美がぼくのところに電話をかけてくることは。そう、あの態度から察するに平は彼女の妹には何も明かさなかったに違いない。おそらく空木由美は途方に暮れていることだろう。
 なのに、ぼくは連絡先を知らなかった。
 どうしようもない――おおきく息を吐きだし腰をおろしてぼくは机に向かった。
 とりあえず八時までは待とうと決めた。もしかしたらもう一度電話があるかもしれない。帰ってしまったらつながりは本当になくなってしまう。明日一日さらに待つ気分の余裕はない。
 当然のことながら仕事はまるで手につかなかった。考えるのはただひとつのことばかり。こういうときにかぎって時計というものは目に入ってくるもので、たびたび視界に飛びこんでくるそれは針にしろ数字にしろあきれるほど遅々として進まなかった。ぼくは仕事をしているふりに没頭しようと努めた。胃のあたりがしこったような気がした。
 七時過ぎに忍耐力が限界に達した。いままで何時間もかかってこなかった電話があと一時間足らずのあいだにかかってくるはずがない、そう自分を納得させて引きだしから有給休暇申請用紙をひっぱりだす。日数にはちょっと迷った末に“5”と書き入れた。土日をはさんで丸一週間、それでも残りはまだ十日あまりある。
 申請には管理職の許可がいる。ぺらぺらの用紙を片手にぶらさげて壁際の課長の席まで持っていった。こういうときは若い会社だということが利点として作用する。課長はろくにたしかめずに日付をあわせた判子を押してくれた。それからあらためて用紙を見ると、ちらっと上目づかいにぼくを見あげた。
「どっか行くの?」
「たぶん」
 席に戻ってコンピューターの電源を切るとぼくは早々に退社した。

6

 抜けるような青空の、その青色がすこし褪せはじめていた。
 普段ビルにこもって仕事をしている人間にとって平日の晴天は格別だ。殊にいつものように都会のごみごみした街中から見あげるのではなく緑の多い土地でおもいっきり開けた空に臨むのであれば、なおさら。探していた姿を見つけて、ぼくはようやくそのあたりまえの感覚を思いだしていた。
 視線の先――まだ緑の濃い木々に囲まれた雑草の生い茂る野原の端に、彼女はいた。
 野原と言ってもそこはちょっとした高台になっていて、木々の開けた先には遠野の街が一望に見渡せた。その街並みがいちばんよく見通せるだろう場所、高台の端のほうに、彼女は腰をおろしていた。ちいさな体をことさらにちいさくするように膝を抱えて。
 うしろ姿なんてろくに見たことがないのに、一目で彼女だとわかった。
 しばらく、立ちつくした。なんて声をかけたらいいかわからなくて。
 と、風がおだやかに吹き抜けて梢をやさしく揺らした。
 その風に誘われるようにぼくは足を前に出した。ここまで追いかけてきておいていまさら何をためらうことがあるだろう? ぼくは静かに進んだ。
 あと十歩ほどというところまで近づいたとき、彼女の体がびくっとふるえた――離れていてもわかるほど、はっきりと。
 決意はあっというまにしぼんでしまった。ぼくは足を止めてただ彼女の背中を見つめた。
 彼女はふりむかなかった。ぼくも声をかけなかった。いや、かけられなかった。
 ずいぶん長いあいだそのままでいた。
 やがてぼくはその場に腰をおろしてごろっとあおむけに倒れこんだ。木々の緑と空の青が目に染みる。気持ちよかった。こんなことをするのは子供のころ以来のような気がした。
 彼女がふりむくまで待とう、そう決めた。彼女がぼくを見るまで。
 彼女にとってそれは失意の瞬間だろう――望んでいた待ち人がついに来なかったことをたしかめる。けれど彼女もいつまでも待ち続けてはいられないはずだ。だから、今度はぼくが待つつもりだった。待つ人もいるとわかってもらうために。
 木々の葉が互いに触れてさざめいた。どこかで鳥が鳴いている。のどかな午後だった。ぼくは思いっきり深呼吸した。
 こんなことができるのも彼女を見つけることができたからだった。貸し自転車で駆けずりまわっているあいだはそんな余裕はなかったのだから。よもや『遠野』違い、『遠野物語』の舞台である岩手県の遠野ではない別の遠野ということはないと信じてはいたものの、シーズンオフの観光地を経巡るあいだやはり違うのではないかという疑念は頭から片時も消えることはなかった。もうひとつの疑念――行ってしまったのではないかという疑念とともに。
 ――もしその通りだったとしたら、いまごろぼくはどうしていただろう?
 思いがけない強い風が通り過ぎ、肌寒さに体を震わせた。秋の夕暮れだ、いきなり気温が下がってもおかしくない。よっこらせという感じでぼくは体を起こした。
 待ち受けていた彼女の視線に正面からぶつかった。
 体を半分だけこちらに向けていた。探るような両の眼がじっとぼくを見つめている。表情は硬かった。警戒、というよりは怯えと云ったほうがいいかもしれない。あきらかに、彼女はぼくがここにいることを認め損ねていた。
 彼女の待ち人ではなく、ぼくがいることを。
 不用意に口から出ようとした言葉を噛み殺した。言ったところで何を伝えられるだろう? 見ただけでわかる事実だ。言葉でわざわざ説明する必要はない。ぼくは黙って彼女を見かえした。
 やがて、彼女は目を伏せて顔を膝のあいだにうずめた。
 両手をうしろにつき、もう一度空を見あげた。
 空は茜色に染まりはじめていた。また強い風が吹き過ぎる。東京とくらべたらずいぶん北だから秋の訪れもずっと早いのだろう。夜になればかなり冷えこみそうだ。
 ふと、今日までの日々を想った。彼女がここで待っていた日々のことを。
 視線を落とすと、彼女はまだうつむいたままだった。
 こういうときに気のきいたことを口にできたらどんなにいいだろう。けれどぼくが口にしたのは平凡で退屈な、ありきたりの言葉だった。
「――冷えてきたし、あったかいお茶でも飲みにいかない?」
 ぴょこん、と彼女は頭をあげた。まるでたったいまぼくがここにいることに気づいたように。
 そして肩越しにふりかえると、くすっ、と――ほんのすこしだけど、たしかに――微笑んだ。
 それから、ささやくように、言った。
「――はじめて、声をかけてくれた」

7

 伝えたいこと、伝えないといけないこと。追いかけてきたのは、このふたつのためだった。
 まずは伝えないといけないことからなんとかしなければいけなかった。いきなり切りだすのにふさわしい話題だとはとても思えなかったが、自分ひとりの問題ではない以上とにかく言ってしまわなければ話にならなかった。
 だから、喫茶店に入って席につくとすぐに言った。
「妹さんが、心配してたよ」
 それまで何も話さなかった彼女はこのときも応えず、ただすこししてからうなずいただけだった。それから席を立って入口近くのピンク電話のところまで歩くと受話器を持ちあげてダイヤルを回しはじめた。話している声は聞きとれなかった。すこし心配な気もしたけど何ができるわけでもない。ぼくはただ待った。
 彼女が席に戻ってくるのを見はからってからおばさんが注文をとりに来た。二人して紅茶を頼んだ。カウンターの中に戻るおばさんの背中を見送ってから、あらためて彼女に視線を向けた。
 彼女は伏せた目をテーブルに落としていた。
 何も訊かれなかった。だから、ぼくも何も話さなかった。伝えたいことをどう言えばいいか、そればっかり考えていて他のことまで頭が回らなかった。それを口にするまでは話ができないような気がしていた。
 訊きたいことは、本当はたくさんあった。彼女に向きあうまでは。けれどこうして生身の彼女を前にしたら平との関係とかどんなことを考えてここにいたのかとかはどうでもよくなってしまっていた。大事なのは目の前に彼女がいること、それだけだ。いない相手に想いを伝えることはできないのだから。
 その想いをうまく言葉にできないのでは話にならない。
 彼女はあいかわらずテーブルを見るだけでぼくに目を向けようとはしなかった。
 おばさんがやってきてテーブルに紅茶と伝票をおいて戻っていた。二人とも黙って紅茶を飲んだ。すっかり冷めた最後の一口を飲み干すころには外はすっかり暗くなっていた。あのときとおんなじだな――ふとそんな考えが心に浮かんだ。今度はぼくが話をしたいと思っている点が違うだけで。
 店内の時計で時間をたしかめるといつのまにか七時になろうとしていた。
 いつまでもこうしているわけにはいかなかった。喉にひっかかっている言葉になりきらない想いを押しこめ、とりあえずの言葉を口にした。
「帰る?」
 彼女はびくっと体を震わせた――野原で背中に近づいたときと同じように。
 ――しまった!
 ぼくは声に出さずに自分に対して毒づいた。これでは平の鈍感さを責められない。彼女の態度を目にするまで口にした言葉が別の意味を持つとは思いもしなかったのだから。
 家に――日常に帰るのか、そう彼女は受けとったに違いなかった。ぼくは宿に戻ろうかと聞いただけのつもりだったのに。
 言い訳しそうになる心を、けれどぼくはぐっと抑えた。どうせいつかは聞かなければならないことなのだ。ぼくは返事を待った
 やがて、彼女はちいさくうなずいた。
 ぼくたちは喫茶店を出た。駅前まで歩くと彼女は一軒のホテルを指さして去っていった。ぼくは駅まで戻りコインロッカーから荷物を取りだして彼女が示したホテルとは別の宿へと歩いた。部屋を予約していたわけではなかったが、だからといって同じホテルに泊まったりするのはなんとなく気が引けた。幸いシーズンオフなので飛びこみでもすんなり泊まることができた。素泊まりなので部屋に荷物を置くといったん外に出て近くの食堂で野球を見ながら定食を食べた。戻るとすこしテレビを見て時間をつぶし、早めに布団に入った。思うことはいろいろあったけど昨日までほどには頭にのしかかってはこなかった。
 彼女に会うことができたから。

 翌朝、ぼくは早々にチェックアウトし近くの喫茶店で朝食を済ませて駅に向かった。待合室で彼女が来るのを待つつもりで。
 約束していないことに気づいたのは間抜けなことに目が覚めてからだった。いまさらわざわざホテルの番号を調べて電話をかけ待ちあわせの場所と時間を決めるのは手間のかけすぎに思え、まさかさっさと一人で行ってしまったりはしないだろう、そう根拠もなく確信し、だったら先に行って待ってるのがいちばん確実だと考えたのだ。
 さあ何をやって時間をつぶそうか、そう思いながら待合室に入ると、彼女が端のほうにちょこんと座っていた。
 思いがけない展開にあいさつすることもできずただ近づいて隣の席に荷物を置いた。と、彼女はたしかめるように顔をあげてからそのままその目を時刻表に向けた。つられてぼくも顔をめぐらせ、次いで時計に視線を転じた。次の電車まであと数分。それを逃すと次の急行まで一時間半待たなければならない。せわしないのかのんびりしているのかよくわからない。
 そんなどうでもいいことを考えるぼくの脇を、彼女はさっと立ちあがってすり抜け改札口へと歩いた。
 途中で足を止め、肩越しにふりかえってぼくを見た。かすかにかしげた首がどうするのと問いかけていた。昨日とは違うきっぱりした態度だった。
 荷物をつかんであわてて窓口へと走った。予定がたたなかったので切符を買ってなかったのだ。ガラスの向こうの駅員はマウスなぞを動かして優雅に発券してくれて、おかげで切符を手にしたときにはホームに電車が滑りこんできていた。ぼくは駆け足で改札を通り抜けて列車に飛び乗った。ドアの脇に身を隠すように立っていた彼女の横に。

 彼女の態度の理由はすぐにわかった。ぼくに話をさせないためだ。
 新花巻につくと彼女はすたすたと歩いて一直線に新幹線のホームに向かった。途中売店に寄って弁当を買うときに目で合図してくれただけであとはぼくのほうを見ようとさえしなかった。これで指定席など取られていようものなら身の置き場のない話になるところだけど、さすがにそこはすこし考えてくれたのだろう。自由席に並んで座るのは許してくれた。
 悪意でされているのなら気分を害することもできる。けれど側にいて感じるのはそんな外に向かった意志ではなく、むしろ自分をかたくなに護ろうという内にこもった想いだった。その意味では会ったときに見せた怯えや怖れに近いのだろう。それがわかったから、ぼくも無理に声をかけようとはしなかった。
 ただ、そうすると伝えたいことも口にすることができなかった。
 いまだにろくに言葉にならない状態だったからそのほうがよかった、そう言えなくもない。けれど今度もまた人に言葉を届かせることができずに終わるのかもしれないと思うと気持ちは浮かなかった。
 窓側の席に座る彼女は弁当を食べ終えるとずっと外をながめていた。その横顔をぼくはときどき失礼にならないように盗み見た。彼女は気づかないふりをし通した。
 黙ったままでの東京駅までは長かった。
 ホームから下へと降り、新幹線改札に並んだところで、ここでお別れだと気づいた。まっすぐ帰るなら乗る電車が違う。彼女もそれに気づいたのか、改札を出ると人の邪魔にならない程度に離れたところで足を止めた。遅れて改札を出たぼくはその横まで歩いて同じように立ちどまった。
 彼女はぼくをはっきりと見ようとはしなかった。そんな彼女をまっすぐ見るのははばかられた。向きあうでもなく並ぶでもない中途半端な角度で、ぼくと彼女はすこしのあいだその場に立ちつくした。
 どこかに落ちついて話をしたかった。けれど彼女の所在なげなたたずまいからはそんな提案を受け入れてくれそうな雰囲気は感じられなかった。かといって彼女のほうもぼくを置いて自分だけ帰ってしまうことはできかねる様子だった。
 動けずにいるぼくたちに、まわりを通り過ぎる人たちの何人かがあからさまに邪魔だという目を向けて去っていった。
 迷惑をかけているんだ――そう思った瞬間、考える前に口が動いた。
「その――」
 返事を聞きたい、切実にそう思った。同時に、聞きたくないとも同じくらい切実に思った。
「君の声なら、ぼくが聞くから」
 言い終えた瞬間、まわりからあらゆる音が消え去った。
 彼女は驚きの表情をぼくに向けた。
 それから半開きの口を閉じ、スローモーションのように見開いた目を伏せてゆっくりとうつむいた。
 時間が止まったような気がした。
 そして唐突に動きだした。彼女が駆けだしてぼくから離れていくことで。
 ぼくはその背中を見送ることしかできなかった。角を曲がってその姿が見えなくなってもまだその場に立ったままでいた。彼女がどんな顔をしたのか知りたかった。けれど彼女はそれを明かさずに去っていってしまった。
 なくなっていた音が一気によみがえって耳になだれこんだ。

8

 ありふれた話に世界を変える力はない。
 残りの休みはほとんどアパートでごろごろして過ごした。ずっと雨が降っていた。今回の事の顛末についてはあまり考えないようにした。努めて、と云ったほうがいいかもしれない。何もしないでいると彼女のことが頭に浮かんでくるのでテレビとレンタルのDVDとゲームで時間をつぶした。どれも半分くらいしか頭に入ってこなかった。あと長いあいださぼっていた部屋の掃除を徹底的にしてたまっていたゴミを思いっきり捨て、ついでになんとなく買いそびれていたあたらしいスーツを二着買って高い金を払うとだいぶ気分がよくなった。
 それでも彼女のことは心の片隅にしっかりと貼りついたまま消えなかった。
 彼女のWebページは見ることができなかった。怖くて。どんな些細な変化も自分と結びつけて考えてしまいそうで。いや、たとえまったく変化がないとしてもぼくはそれを自分と関係のあることとして考えてしまっただろう。そんな自分はできれば遠ざけておきたかった。
 けれど一方で、言いたいことは言ってしまったというさばさばした気分もまた、たしかに、あった。

 休みの最後の日、起きてみると降り続いていた雨もあがっていい天気だった。絶好の洗濯日和というやつで、ぼくはたまっていた洗濯物を洗濯機につっこんではひたすら干した。一段落したころには時計の針はもう十二時をまわっていた。さて昼飯はどうしようか――そんなことを考えるうちに、なぜか休みが今日で終わりだということが妙に強く意識されてきた。
 仕事のほうはプロジェクトがそろそろ本格的に動きだしているころだった。またぞろ設計とコーディングの日々だ、そう思うと空のようには気分は晴れなかった。慣れない長期の休暇なんて取るもんじゃない。なんでもないことまで意識してしまう。
 彼女のことはあまり気にしないことにした。もちろんなんらかの動きはあっただろう。彼女が職場に復帰したとか、あるいは辞めてしまったとか。彼女と平のあいだでもなにかあったかもしれない。それらは、けれどぼくにはもう関係のないことだった。もともとめったに顔をあわせない間柄なのだ。口をはさむ理由などない。ぼくのほうはまた変わらぬいつもの日々が続くだけ――彼女のWebページを読む前と同じ日々が。
 そう思うことにした。
 せっかくだから外に食べに行くか、そう思って立ちあがり財布をポケットにつっこんだとたん、電話が鳴った。
 こんな時間にかかってくる電話にはろくなものがあったためしがない。乱暴に受話器を取りあげるとできるかぎり不機嫌な調子で言った。
「もしもし?」
 息を飲む気配が電話ごしに伝わってきた。それ以外は何も聞こえてこない。すこし待ってみたが変わらず、いらついてきたぼくは電話を切ろうと受話器を耳から離しかけた。
 瞬間、ちいさな声が耳に届いた。
「……あの……」
 今度はぼくが息を飲む番だった。
 息を詰めて続きを待った。彼女の声を。伝わってくるのは静寂ばかりだったけどあきらめずに待った。彼女から電話をかけてきたのだからかならず話してくれるはずだと信じて。
 やがて、言葉がひとつ、ぽつんと響いた。
「……ありがとう」
 そして電話は唐突に切れた。
 手に持つ受話器をしばらく見つめた。それから元に戻すと定期をポケットにつっこんだ。気持ちはまだ言葉にならない。けれどそれを直接伝えることだけは心に決めた。メールでも手紙でも電話でもなく、直接会って伝えようと。
 勢いこんで部屋を飛びだし、道路に出たところで急ブレーキをかけた。
 電柱の陰に隠れるようにして彼女が立っていた。
 おなかの前で組んだ手の中には見覚えのある色の機械が握られていた。彼女の妹の携帯電話だ。嫌いなはずの携帯電話で彼女は電話をかけてくれたのだ。
 ちょっとこまったような顔で上目づかいにぼくを見ていた彼女は、唐突に、ぼくに向かって深々と頭を下げた。
 それを見た瞬間、言いたい言葉がすっと頭に浮かんできた。ぼくのほうこそ彼女に感謝したかった――
“ぼくの声を聞いてくれてありがとう”、と。

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