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絆を知る季節

1

 古めかしい山門をくぐると早春の晴れた空が広がった。
 光は足を止めて息をついた。
 ブルゾンの襟のあたりをすこし開いて空気を入れ、階段を昇ってきてすこし乱れた呼吸を落ちつかせるとあらためてあたりを見まわした。
 正面には比較的あたらしい建物のおおきな本堂があった。右手側は本堂に連なった建物、たぶん住職の住み処だろう、が視界をふさいでいる。左手側のすぐ先には鐘つき堂が、その隣には水汲み場があり、その奥、一段高くなったところからは墓地となっていた。山門と鐘つき堂のあいだからは狭い敷地の駐車場が見えた。
 光は右の脇腹に手をあてた。
 すこし疲れたような気がした。
 その疲れが階段を昇ったせいなどではないことを光はよくわかっていた。
 ――さて、どうしようか?
 そう考えた光の目に一台のセダンが映った。
 駐車場に入ってきたセダンはいちばん手前の駐車スペースで止まった。エンジンの止まった車から降りたのは僧衣を着た初老の男だった。男は歳に似あわない速い足取りで光の目の前を横切った。
 光はデイパックを背負いなおして声をかけた。
「すいません!」
 僧侶は足を止めて光をまっすぐ見つめた。鋭い眼光にひるみながらも光は言葉を続けた。
「あの、このお寺に小島さんのお墓があるって聞いたんですけど、どこでしょうか?」
 僧侶はまばたきひとつしてから眉間に皺を寄せた。
「あの、小島かね?」
「はい」
 光はうなずいた。“あの”という言葉にこめられたさまざまな響きは僧侶の言った人物が自分が示した相手と同じだということを光に疑わせなかった。
 僧侶は体を光のほうに開いて顔を墓地に向けた。
「水汲み場の先に階段がある。そこから入って奥から三番目の通路を右に曲がりなさい。手前から五番目がそうだ」
「ありがとうございます」
 光は頭をさげて歩きだした。
 階段に足をかけたところで声をかけられた。
「少年」
 光は立ち止まって肩越しにふりかえった。
 僧侶は体をこちらに向けて光をまっすぐ見つめていた。
「墓参りをするのならもうすこし明るい顔をしろ。そんな深刻な顔つきで参られたんでは参られた仏さんのほうがかなわんわ」
 一瞬きょとんとしてから光は苦笑を浮かべた。
「すいません。気をつけます」
 頭を下げてふりかえり、階段を昇った。笑顔はもう消えていた。それが僧侶に寂しげな印象を与えたことも知る由もなかった。
 短い階段を昇りきったところで足を止めた。
 奥から男が一人歩いてくるところだった。
 歩いてすれちがえるほど幅のある通路ではなかった。光は脇に寄って待った。
 男はうつむいたまま何も言わずに光の前を横切った。
 階段を降りて離れていくそのうしろ姿を光はしばらく見送った。
 ――ぼくもあんな顔をしていたのだろうか?
 だとしたら注意されてもしかたがない、そう思って光は目を閉じ首を横に振った。
 そして気を取りなおしてまた歩きだした。
 目的の墓の位置はすぐにわかった。脇道に折れる前にその場所をたしかめた光は思わず足を止めて来た道をふりかえり、ついであたりを見まわした。
 墓地に人の気配はなかった。
 光は唇を引き締めて歩を進め古くて立派な墓の正面に立った。
 いかめしい文字で「小島」と刻まれた墓の前には花束が生けられ線香が煙をあげていた。
 線香は火がつけられたばかりのようだった。
 光はただ墓を見すえた。
 命日の前日に花束と線香をそなえた人のことを想った。その相手であるこの墓の下に眠る人のことを想った。
 その他にもさまざまな想いが光の脳裡に去来した。
(――)
 ――?
 ふと光は斜め上を見あげた。
 空はすこし霞がかってきたようだった。
 遠くから電車の走る音が聞こえた。
 あらためてあたりを見まわしたが人の気配はなかった。
 ――気のせいかな?
 光は首をひねって視線を戻した。
 瞬間、頭の中にたしかにはっきりと意志が響いた。
(――して!)
 めまいに襲われ体がふらついた。景色から光が薄れる。目をぎゅっと閉じ歯をくいしばって光は倒れそうになる体をなんとか踏みとどまらせた。上体を前に倒して両手で右の脇腹を押さえた。
 血が手をあてている場所に集まってくる感じがした。
 なんとか薄く目を開いて光は墓を見た。
 どれほどの無念がその下に埋もれているのかを思い知らされた気がした。
「――あなたは――」
 言いかけた言葉に重なるようにさっきよりずっと強い意志の叫びが光の頭の中で爆発した。
(かえして!)
 光の意識は拡散するように薄れた。

2

 屋根の縁の下まで来るとのっぽのランドマークタワーが全身をぬっとあらわした。
 ふと足を止め、息をついて真由美はその姿をなんとはなしにながめた。
 しばらくそうしていたら通りかかる人からときおりちらちらと目を向けられることに気づいた。あらためてまわりを見まわし、駅からみなとみらいへ、みなとみらいから駅へと向かう人の流れの中に立ち止まっていることをたしかめる。真由美はよろめくように横に動き、みどりの窓口の前の柱に近づくと肩にかけたおおきなボストンバッグを足元に置いた。
 そのまま柱に軽く寄りかかり、自分が抜けだしてきた人の流れをぼんやりと見つめた。
 人の流れは途切れることなく連なっていた。
 ――どうしよう?
 途方に暮れた顔で真由美はもう一度息をついた。
 人混みは嫌いだった。苦手と云ったほうがいいかもしれない。たくさんの人にまぎれていると息が詰まってきて気が遠くなってくるのだ。そんなときは自分の居場所がどこにもないような気がしてきてさらに気分が悪くなってしまう。
 いま目の前を流れる人の数はいつもなら我慢できないほどではなかった。けれど真由美はあまり元気な気分ではなかった。はじめて訪れた横浜はまだどこかよそよそしく感じられて真由美の気分を沈みがちなほうへと導いていた。
 しかしだからといっていつまでもこうして立ちつくしているわけにはいかなかった。
 真由美はありったけの元気をふりしぼってボストンバッグを持ちなおした。
 とりあえず目に入ったタクシー乗り場へとよろめくようにして歩いた。
 客待ちをしていたタクシーは真由美の姿を認めるとすぐにドアを開けた。ボストンバックを席に乗せて真由美はいったん背筋を伸ばした。
(――)
 ふと真由美はあたりを見まわした。
「どうしたの? お嬢ちゃん」
 運転手の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。真由美はみぞおちの上で両手を重ねた。
「……なに……?」
 つぶやいた言葉はちいさくかすれてほとんど声にならなかった。
(――して!)
 真由美は目を閉じ顔をしかめた。重ねた手に力がこもる。
 空耳ではなかった。意志はたしかに真由美の頭の中で響いていた。
 みぞおちの奥でなにかが硬くしこったような気がした。
「お客さん、乗るの、乗らないの? 乗らないなら――」
 運転手の言葉をさえぎるように意志が真由美の脳裡で爆発した。
(かえして!)
 血が下がって意識が薄れた。ボストンバッグに倒れこむと真由美はそのまま気を失った。

3

 電車の音に意識が揺れた。
 薄く開いた目にぼやけた白い天井が映った。飾り気のない蛍光燈が所在なげにぶら下がっている。明かりはついておらず、そのせいか室内はすこし薄暗かった。
 二、三度まばたきしてから光は布団に横になったまま首をひねった。
 壁際に紺色の背中が見えた。
 背中は部屋の端に置かれた文机に向きあっていた。正座をした足の上から背筋がまっすぐ伸びている。その上にきれいに剃りあげられた頭がちょこんとうつむき加減に乗っていた。
 その頭がふりむいて光を見た。
「おう、気がついたか」
 墓の場所を教えてくれた僧侶だった。
 僧侶は筆を置くと座布団に座ったままくるりと180度向きをかえた。
「だから言ったろうが、もっと明るい顔をしろと。暗い顔で参られて腹をたてた仏さんにばちをあてられたんじゃろう、きっと。そうに違いない」
 言って僧侶はにっと笑みを浮かべた。一瞬消えた鋭い眼光は、しかしすぐに元に戻った。
「まじめな話、お主、体の調子はどうだ? 大事無いようだったから救急車は呼ばなかったが、もしどこか悪いなら病院まで送るぞ。ん? どうだ?」
 視線を天井に戻して光は体の中を探った。特に異常は感じられなかった。脇腹に血が集中するような感じもいまは消えていた。
「大丈夫――だと思います」
 光は上半身を起こし体をひねって僧侶を見た。僧侶の顔には気遣いがはっきりとあらわれていた。
「本当か?」
「はい。お昼を食べてないので貧血でも起こしたんでしょう」
 光は僧侶の目をまっすぐ見かえした。
 しばらく真剣な目で光を見つめてから、僧侶は不意ににやっと笑った。
「鍛えかたが足りんからだ。いい若い男が貧血で倒れるなど、情けなくて涙が出るわ」
「その通りですね。お恥ずかしいかぎりです」
 言いながら光は布団から出た。僧侶の正面に正座し、畳に手をついて深く頭を下げる。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
「なに、こまったときはおたがいさまじゃ。それに坊主が人を助けなかったら何を言われるかわからんからな」
 僧侶はにやっと笑った。光も笑い、立ちあがって枕許に置かれていたデイパックを手にとった。
「どうだ、よかったら飯を食っていかんか? すこし腹に詰めたほうがよかろう」
「ありがとうございます。でも、行くところがありますから」
 応えたときには光はデイパックを背負っていた。その顔を僧侶は下から見あげた。
「そうか。では車で送ろうか? 遠くまでは無理だが」
「気をつかわないでください。大丈夫ですから、本当に」
 光は微笑を浮かべた。目許に歳に似あわない意志の強さがあらわれていた。
「……そうか。では、ま、気をつけてな」
 僧侶の言葉に頭を下げ、襖を開けて光は部屋を出た。
 山門をくぐったところで足を止めて空を見わたした。
 霞はすこし濃くなったようだった。陽が暮れるまではまだしばらくありそうだった。
「……救急車、か」
 ぽつりとつぶやき、光は階段を降りはじめた。

4

 開いた目に白い天井が映った。
 真由美はぱちぱちとまばたいた。
 つんとする臭いが鼻の奥を刺激した。かぎ慣れた臭いだった。一目で清潔だとわかる室内も真由美には見慣れたものだった。体に乗せられたやわらかな重さも。
 布団の下で真由美は両手をみぞおちの上で重ねた。
「……そうなんだ……」
 つぶやく真由美の耳にドアの開く音が届いた。
 頭を持ちあげると布張りのついたての端から中年の看護婦が顔を出した。
 看護婦は真由美を見てにっこりと微笑んだ。
「あら、気がついた?」
 真由美がこくんとうなずくあいだに看護婦は枕許に近づいていた。
「タクシーの運転手さんがびっくりしちゃってね、あわててここまであなたを運んできたの。名前も言わないで帰っちゃったけど、会社の名前はメモしておいたから電話すればきっと誰かわかるでしょう。あとで教えてあげるからお礼なさい。
 それで、どう? 気分は」
 看護婦は笑顔のままほんのすこし首をかしげた。
 真由美は視線を天井に戻し深呼吸しながら体の中の様子を探った。
「……だいじょうぶ、です。悪い感じはありません」
「そう? よかった。じゃ念のため先生に診てもらって――」
「――大丈夫です!」
 あわてて体を起こし真由美は声をあげた。自分でも驚くような声だった。
 看護婦は笑顔をひっこめびっくりした目でベッドの上の真由美を見つめた。
 その表情に真由美は肩を落としてうつむいた。
 目に涙がうっすらとにじんだ。
 その様子を看護婦はしばらく何も言わずに見つめた。それからすこし体を前に倒すと秘密めかした調子でささやいた。
理由わけあり、かな?」
 真由美は応えなかった。うつむいたままで看護婦の視線にじっと耐えた。
 看護婦は腕を組んでちょっとこまったぞという感じで息をついた。
 気配を察して真由美はぎゅっと目を閉じた。このままここから消え去ってしまいたかった。
 やがて看護婦の緊張がふっとやわらぐのを真由美は感じた。
「……あなたは、自分で自分を駄目にするタイプには見えないわね」
 真由美はおそるおそる顔をあげた。
 看護婦の微笑が目に入った。
「いいわ。あなたを信用します。先生にはあたしからうまく言っておくから」
 感謝の言葉は喉にひっかかってうまく出てこなかった。真由美はただ頭を下げた。
「でも忘れないで。すこしでもどこかおかしいと思ったら今度はすぐに病院に行ってお医者さんに診てもらうのよ。我慢しちゃ絶対に駄目。まだ若いんだから大丈夫だなんて甘い考えでいるとすぐにどうしようもなくなっちゃうんだから。いい?」
 真由美はちいさくうなずいた。
 しばらくしてからようやく言葉が喉からこぼれた。
「……ごめんなさい」
 細くちいさな声に看護婦は笑みを深めた。
「あたしにあやまらなくてもいいわよ。そのかわり、ご両親には心配をかけないようにしてね」
 真由美はぎゅっと目を閉じた。

5

「……へえ」
 横断歩道をわたりきったところで足を止め、光はあらためてビルを見あげた。
 目的のビルは全体が薄緑色のタイルでおおわれていた。壁面にガラスを多用しているのが目につく。まわりにおおきなビルが多いので相対的にちいさく見えるがそれでも十階以上はあった。光の思う病院とはすこし違う雰囲気のビルだった。
 その姿をざっと目に入れてから光は歩きだした。
 正面ではなく西玄関へ向かった。途中救急入口の前でしばらく足を止めた。車はなかった。救急車が入ってきて患者が運びだされるところを光は想像しようとした。うまく想像できなかった。
 息をついて光は歩を進めた。
 ゆるやかなスロープに足をかけるのと同時にその正面の自動ドアが開いた。小柄な少女が肩にかけたボストンバッグに引きずられるように出てくる。光は道を開けようとすこし脇に動いた。
 と、少女の上半身が泳ぐように前に浮かんだ。
 とっさに伸ばした手は少女の肩をうまくつかんだ。その足が支えを取り戻すのをたしかめてから光は手にこめていた力をゆるめた。
「大丈夫?」
「――平気です! ごめんなさい!」
 足元に視線を落としたまま光の手をふりほどき、少女はそれまでと変わらない危なっかしい足取りで遠ざかった。すぐ先にあるバス停までなんとかたどりついてベンチに腰をおろす。腰まで届く髪が重たげに揺れた。
 そのうしろ姿を光はなんとはなしに見送った。
 ついで足元に視線を落として首をひねった。
 ――こんななんにもないところでころぶかな?
 気をとりなおして自動ドアへと向かった。
 出てくるまでしばらく時間がかかった。
 自動ドアから姿をあらわしたその顔には落胆とあきらめがいりまじった表情が浮かんでいた。
 バス停にバスが止まっていることに気づいて走りだしかけ、二、三歩進んだところで足を止めた。
 バスはうなりをあげて走り去っていった。
 バス停のベンチに残った姿を光は見つめた。
 少女の背中だった。
 光はなんとなくあたりを見まわし、それから視線を少女に戻した。
 深くうつむいたままのそのうしろ姿はまるでほんのわずかでさえ動けなくなってしまったかのようだった。
 なんとはなしにつぶやいた。
「……どうするかな」
 もう一度あたりを見まわして頭をかいた。目だけを動かして横目で少女を見やる。動こうとする気配は感じられなかった。放っておけばいつまででもそのまま座っていそうだった。
 ――向いてないんだけどな……
 そんなことを思いながら光は歩きだし、ベンチをまわりこみ車道を背にして少女の前に立った。
 少女の肩がびくっとふるえた。
 光はしゃがみこんで少女の顔を下からのぞきこんだ。
「大丈夫ですか?」
 答はなかった。
 少女は緊張に身をこわばらせていた。目はぎゅっとつぶられ膝に乗せられたちいさな手は固くにぎりしめられている。光は息をついた。
「まあ知らない人から声をかけられたんですから警戒するのは当然だと思います。でも君、バスが来ても乗らなかったでしょう? 病院から出てきたばかりだし、もしかしたらどこか具合が悪いのかと思ったんですけど。どうですか?」
 やさしく聞こえるようゆっくりとしゃべって光は言葉を切った。
 反応はなかった。
 見られる心配がなかったので光はちいさく肩をすくめた。少女の隣に置かれたボストンバッグをちらっと見る。
「退院してきたところですか?」
 少女はほんのすこしだけ顔をあげ、ちらっと光を見てまた伏せた。
 光のうしろを何台か車が通りすぎた。
 足がしびれてきたころ、か細い声が耳に届いた。
「……違います」
 しびれをこらえられなくなって光は立ちあがった。少女は顔を伏せたままだった。
 しびれがとれてきたころ、続きの言葉が少女の口から漏れた。
「……ホテルに、行きたいんですけど……どうしていいかわからなくなっちゃって……」
「――ホテル?」
 意外な言葉に思わず聞きかえすと少女はうつむいたままちいさくうなずいた。
 顎を引き背筋を伸ばして光はあらためて少女を見おろした。
 少女は打ち寄せる困難を身を固くしてやりすごそうとしているかのように見えた。
 光は病院に目を転じ、すぐに視線を少女に戻した。事情はさっぱりわからなかった。けれど少女が動けないでいる理由はなんとなくわかったような気がした。
「よし」
 つぶやくとつられたように少女は顔をあげた。光は微笑を浮かべた。
「どこのホテルなんですか? いっしょに行ってあげますよ。迷惑でなければ、ですが」
 少女はあわてたようにふたたび顔をうつむかせた。光は一呼吸間を置いてから続けた。
「もちろん通りすがりに声をかけてきた男が信用できないのはよくわかります。でもこのままずっと座ってるわけにもいかないでしょう? タクシーを呼ぶでもご家族に連絡をとるでも、あるいは電話のあるところまで連れていくでもいいです。あなたのいいように手を貸しますから、どうしたいか言ってください」
 唇を閉じて光は少女を見つめた。
 少女は反応を示さなかった。
 光はバス停に目を向けた。次のバスが来たら離れよう、そう思った。
 注意がそれていたのでもうすこしで聞き逃すところだった。
「……お願いします」
 ちいさくか細い声でささやくようにそう言うと、少女は意を決したともあきらめたともとれるようなあいまいな感じでベンチから腰をあげた。

6

「……本当に、ありがとうございました」
 注文を取ったウェイトレスが去っていくと少女は座ったまま深く頭を下げた。
「あ、いや、そんな」
 あいまいに応えながら光はあらためてあたりを見まわした。
 ――やっぱり、場違いだ。
 光は椅子におさまっている尻を落ちつかなげにもぞもぞと動かした。
 特に休みと重なっていないせいかヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルのロビーラウンジは人も少なく静かだった。ときおり抑えた上品な笑い声やカップを置く澄んだ音がちいさく響く。おおきなガラス窓の外では空が夕暮れ色に染まりはじめていた。
 ホテルの名前を聞いてガイドで場所をたしかめたとき、光は思わず苦笑した。目的地は歩いて十分もかからない、建物の陰から出ればすぐに見えるところだったのだ。これなら手を引いて連れていくこともない、そう思った光はその旨を少女に告げて道順を教えた。それで自分の役目は終わりのはずだった。
 だが少女は伏し目がちに光を見るばかりで動こうとはしなかった。
 結局光が先導するかたちで二人はホテルまで歩いた。少女はうつむき加減のまま何も言わずついてくるだけだった。
 それなのにホテルの入口で別れようとする光を少女はお礼にお茶でもと言って引き止めた。
 その態度はあまりにひかえめで本気で誘っているのか礼儀として言っているだけなのか判断できなかった。しかし少女が自分から言葉を発したのははじめてで、それが好奇心を動かした。結局あつかましいと思いながらも光は誘いに応じた。もちろん料金は払うつもりだったが。
 ――こんなとこだとわかってたら入らなかったのに。
 すっかり雰囲気に飲まれて光はおどおどとすこし首をすくめた。いかに自分がビジネスホテルで済む程度の安上がりな人間かを思い知らされた気分だった。
「……あの……」
 静かなラウンジでさえ聞き逃しかねないちいさな声に光はあわてて視線を戻した。
 向かいの席に座る少女は膝の上に両手を重ねて顔をうつむかせていた。姿勢はバス停のベンチに座っていたときとほとんど変わらない。なのに光の目には少女はこの場にすっぽりとおさまっているように見えた。
 なんとなく気圧されたような感じで光は続きを待った。
 ウェイトレスが二人の前にカップを置いて去っても少女は言葉を発しなかった。
 紅茶が冷めてしまうのではないかと光が心配しはじめたころ、ようやくぽつりと言葉が漏れた。
「……ごめんなさい」
「――は?」
 思いがけない言葉に光はまぬけな調子で聞きかえした。
 応えはなかった。
 身を引き背もたれに体をあずけ、光はあらためて少女を見つめた。
 まだ幼さの残る顔だちは美人ではないがまあかわいらしかった。服はすこしおおきめのブレザーにブラウス、やや長めのスカート。かぶっていたつばの広い丸い帽子はいまは隣の席に置かれている。長い髪の一房が肩から前に垂れていた。
 ――なんでだろ?
 光はわずかに首をひねった。少女は少女らしさに忠実であろうとしてかえってそうなりそこねていた。
 それだけのことを見て考えるだけの時間が過ぎても少女の次の言葉はなかった。
 ――やれやれ。
 光はカップに手を伸ばした。
「別にあなたがあやまることはないと思いますよ」
 言ってカップに口をつける。と、少女はわずかに髪を揺らした。
「……でも……あたしなんかのために、わざわざ……」
「気にしないでください。どうせヒマですから」
 光は笑みを浮かべてカップを置いた。
 少女は気配をうかがうように上目づかいで光を見た。
「……本当に、大丈夫、ですか?」
「――は?」
「……あたしのせいで、もっと具合が悪くなったりしてませんか?」
「……ああ……」
 思いがけない心外な言葉に光は苦笑せざるをえなかった。「心配する必要はありませんよ。あの病院にいたのは病気や怪我のせいじゃないですから」
 少女はほんのすこし首をかしげた。
「……じゃあ……だれかの、お見舞いだったんですか?」
「いえ」
 ゆっくりとまばたき、光は視線を窓の外へと動かした。
「……強いて言えば、調査、ですね。知りたいことがあったので聞きに行ったんです。教えてくれませんでしたが」
「……調査……ですか?」
「はい」
 光は視線を少女に戻した。「ぼく、こう見えても四月で大学の四年生なんですよ。それで卒論を書かなくちゃいけないんですけど、そのテーマを脳死移植のケーススタディにしようかと思ってるんですね。で、話を聞かせてくれないかと思って行ってみたんですが……」
 顔を伏せ、光はやれやれという感じで首を左右に振った。
 視線の気配に顔をあげ、すこし驚いた。
 少女は顔をあげ身をこわばらせて光を見つめていた。
「あの、じゃあ……あの病院で、臓器の移植があったんですか?」
「摘出のほうですね。五年前ですが」
 意外な興味に光がとまどいを覚えていると少女はふたたび顔をうつむかせた。
 そうなんだ、というつぶやきが聞こえたような気がした。
 気まずい雰囲気がただよいそうな気配に光はあわてて口を開いた。
「まあそんなわけなんで気にしないでください。あとは観光でもして帰ろうかと思ってたくらいですから」
 少女は目をほんのすこしだけ上に向けた。
「……地元の方じゃないんですか?」
「違います。普通地元の人は観光ガイドなんて持ってないでしょ?」
「……そういえば、そうですね」
 くすっ、とかすかに少女は笑った。はじめて見せた笑顔だった。
 それからまたしばらく沈黙が続いた。
「あの」
 少女がそう言ったのは光がそろそろ潮時かなと思いだしたころだった。
「はい?」
 いままでなかった調子に光は思わず身をすこし前に乗りだした。
 顔を伏せたまま少女が発した言葉は元の調子に戻っていた。
「……いつまで、横浜にいるんですか?」
 光は背もたれに体をあずけなおした。
「明後日帰るつもりです。なにしろ貧乏学生なもんでそう長居はできないんですが、ま、明日一日くらいはぶらぶらと観光でもしようかな、と。調べようと思ってたこともだいたい終わりましたし」
 光の言葉に少女はぱっと顔をあげた。すぐにためらうように視線を落として顔を伏せ、今度はそろそろと上目づかいで光を見る。
「あたしも、明日いろんなところを見てまわるつもりだったんです」
 言って少女はふたたび目を伏せた。
 口元にまだなにか言いたそうな気配が残っていたので光は何も言わずに待った。
 やがて紅茶がすっかり冷めきったころにようやく言葉が続いた。
「……よかったら、いっしょに……どうですか?」
 それまでよりさらに輪をかけてちいさな声で言うと少女はほんの一瞬だけちらっと光に目を向けた。
 あまりに思いがけない言葉に面食らって光は口をすこし開いたままただ少女を見つめた。
「……はあ……」
 出てきた言葉はまぬけな調子に響いた。
「……いや、まあ、ぼくはかまいませんけど……ご家族はいいんですか? それに一人だけ別行動、しかも得体の知れない若い男といっしょに、というのはご両親が認めてくれないような気がしますが」
 少女はほんのわずか首を横に振った。
「……一人ですから」
「――一人旅!?」
 思わず声をあげて光は腰を浮かしかけた。あわてて口を閉じて腰を落ちつかせ素速く周囲に視線をめぐらせる。注目を浴びた気配はなかった。光はすこしほっとした。
 それでも場の雰囲気にそぐわなかったことはまちがいなかった。気まずさを覚えながら光は視線を正面に戻した。
 少女はあいかわらずうつむいたままだった。
「……はあ……」
 そりゃまた無謀な、そう続けそうになるのを光はなんとかこらえた。
 そんな光の気持ちを知ってか知らずか、少女はおそるおそるという感じで瞳をわずかに光に向けた。
「……駄目でしょうか……」
 答を待たずに少女は視線をそらした。
 光は片目を細めた。
 ひっかかりを覚えるしぐさだった。まるで望みがかなうとははじめから思っていないような。
 その一瞬、少女はひどく大人びて見えた。
 考えるより早く好奇心が好奇心が口を動かしていた。
「わかりました。いいですよ。ぼくなんかといっしょに歩いても楽しくないと思いますが、それでもよければ」
 少女はぱっと頭をあげた。驚きが顔いっぱいにあらわれていた。
「――ありがとうございます!」
 ――なんだか妙なことになってきたな。
 深く下げられた少女の頭を見ながら光はカップに口をつけた。

7

 最初の一杯は一息で飲み干した。
 二杯目と三杯目も一気にあおった。四杯目はコップに指二本分ほど残った。真一はコップをテーブルに置いて息をついた。
 いつもより速いペースだった。
 開店したばかりの狭い居酒屋は他に客の姿もなくしんとしていた。カウンターの向こう側では店の主人が仕込みを続けている。真一には目もくれない。真一もあえて見ようとはしなかった。酒さえ出てくればそれでよかった。
 開店と同時にいつのまにか指定席となったカウンターの一番奥の端に座り閉店まで飲みつづける――それが真一の一日のすべてだった。
 一人で飲む酒をうまいと思ったことはなかった。だが飲む金はあった。他の使い道も思いつかなかった。だから真一は飲んだ。毎日、何年も。それしかすることがなかったから。
 今日は余計なことをしたので特にうまくなかった。
 四杯目を空にすると主人は黙って酒をコップにそそいだ。
 ただひたすらコップを空けるうちに店はしだいにざわつきはじめた。ときおり学生らしい若い声の喚声や中年のサラリーマンの威勢のいい声が響く。真一は気にしなかった。聞いてさえいなかった。
 いつのまにか店内は客でいっぱいになっていた。隣の席の相手が何を話しているのかさえ注意していないと聞きとれないような喧騒がうずまいていた。しかしその喧騒でさえ真一の周囲には寄りつかないようだった。
 十何杯目だかを空にしてコップを静かに置いたとき、真一の耳が意味のある言葉をとらえた。
「五年も前の話だろ? なんでいまさら……なあ? それもあんな若い子がさ」
 真一ははっとしてふりかえった。
 すぐうしろ、ついたてで区切られた座敷席のひとつに背広姿の中年男が三人座っていた。席についたばかりらしくテーブルの上にはまだお通ししかない。一人が顔をぬぐっていたおしぼりをまるめて置いておおきく息をついた。
「ちょっとしゃべりすぎたかなあ?」
「気にするこたないんじゃないの? もう時効でしょ。少年一人がさわいだところでどうにもならんだろうし」
 向かいに座った眼鏡をかけた男がいかにもそれが大人の分別だという感じで応えた。
 どういうわけか続いたのは気まずい沈黙だった。中年男たちは全員がうつむいて物のほとんどないテーブルの上を見つめた。
 真一はゆっくりと席を立った。
 座敷席の脇に立ったところで眼鏡の男が気づいて顔をあげた。その目に不信げな色が浮かぶのにもかまわず真一は全員の顔を見まわした。
「おもしろそうな話ですね。――すこしくわしく聞かせてもらえませんか?」
 真一は笑みを浮かべた。
 久しく笑ったことのない顔にあらわれたその凄惨な笑顔がその場の空気を凍りつかせたことに真一は気づかなかった。

8

「……なんであんなこと言っちゃったんだろう?」
 天井を見つめながら真由美はぽつんとつぶやいた。
 ベッドにごろんとあおむけに寝っころがっていた。服は持ってきたパジャマ。部屋の大人びた雰囲気に似あわない子供っぽい柄で、誰に見られるわけでもないのに真由美はそれがすこし恥ずかしかった。
 窓の外はすっかり暗くなっていた。
 もうずいぶん長いあいだ真由美はそうやってじっとしていた。
 考えるのは今日はじめて会った男の人のことばかりだった。
 互いの名前を告げあい明日の約束をすると彼、井田光は真由美を置いてロビーラウンジから出ていった。さりげなくお札をテーブルに残して。気づいた真由美がその姿を追いかけたときには光はもう大声を出さないといけないところまで離れていた。
 ――来ないかもしれない。
 そのときの様子を思い浮かべて真由美はため息をついた。光のうしろ姿は一秒でも早くこの場から去りたいと叫んでいるようだったから。
 ――あたしのせいだ。
 真由美は腕で目を隠した。
 バス停での受け答えや向きあっての会話の様子が脳裡によみがえった。
 恥ずかしさに泣きたくなった。
 物心ついたころからそうだった。知らない人、それも年上の男の人と向きあうと頭の中が真っ白になってうまく受け答えできなくなってしまうのだ。光とはまだうまく話せたほうだった。が、それは程度の問題に過ぎなかった。
 そんな人間が人から好かれるわけがないことを真由美はよくわかっていた。
 だから光は明日姿を見せないだろうと真由美は半ば確信していた。自分から誘っておきながら。
 けれど一方で心の半分は明日を待ちのぞんでいた。
 ――なんでだろう?
 真由美は光の姿を思い浮かべた。小柄なやせぎすの体に高校生にしか見えない丸顔。くたびれたブルゾンに色の褪せたジーンズ。髪型にも服装にも気を使っている様子はなかった。めだちそうにない、地味な感じの、さえない感じの男の人だった。
 なのに真由美は光に惹かれるものを感じていた。
 真由美は声に出してつぶやいてみた。
「……助けてくれたから?」
 理由はそれしか考えられなかった。本当に心細くてどうしたらいいかわからないときに手を貸してくれたのはとてもありがたかったから。
 けれどそれではそばにいたときに感じた落ちつきは説明できなかった。
 真由美はその理由を知りたかった。
 お茶に誘ったのも明日の同行をお願いしたのもそのためだった。人見知りする真由美にとってそれは自分でも信じられないほど大胆な行動だった。
 そしていま、真由美は光のことをもっと知りたくなっていた。もっと話を聞きたくなっていた。
 ――でも……
 真由美は声を出さずに唇だけ動かしてつぶやいた。
「じゃあ、あたしは何のためにここまで来たの?」
 不意に、意識を失う前に感じた声があざやかに脳裡によみがえった。
(かえして!)
 その声の主が誰かを真由美は疑わなかった。
 ――返します。かならず……
 真由美はぎゅっと目をつぶった。
 目尻から涙がこぼれて落ちた。

9

「……もしもし……おひさしぶりです……やめてくださいよ、そんな迷惑そうな声を出すのは……え? まさか、そんな……違います……信用ないんですね。まあそれもしかたがありませんが……
 いや、信じていただけないかもしれませんが、感謝してるんですよ、ぼくは、あなたには……本当です……ですからこうしてお電話差し上げているんじゃないですか……
 え? いえ、ちょっと気になることを小耳にはさんだものですから……そんな、とぼけないでくださいよ。ぼくからあなたに連絡することといえばひとつしかないじゃないですか……
 関係ないとは言わせませんよ。
 ……いえ、違います。逆ですよ。お助けしたいんです。そのためにすこし便宜をはかっていただきたい、と……そんなにむずかしいことではありませんよ。あなたにとってはね……今後も枕を高くして眠りたいでしょう?
 はい? ああ、それはわかってます。これが最後です。済んだらこの街から消えますよ……潮時なんですよ、きっと……
 ありがとうございます。いいですか?」
 ぼそぼそとした声で要求を伝え終えると真一は持っている携帯電話を耳から離して顔の前で通話を切った。
 ぼうっと光るその画面をしばらく見つめてから、思いきり振りかぶって大岡川に投げこんだ。

10

 階段を昇って壁のあいだから出ると昨日使った入口が見えた。
 野崎真由美はそのすこし手前に手すりを背にして立っていた。
 ふと思いつき、光は足を止めてしばらく真由美を見つめた。
 気づく様子はなかった。
 深くうつむき、まるでなにかを耐えるような雰囲気で真由美はただじっと立っていた。
 光は空を仰ぎ見た。雲ひとつない澄んだ碧が彼方まで続いていた。
 ――もったいない。
 自分でもよくわからない笑みを浮かべて光は真由美に近づいた。
 手を伸ばせば触れられそうな距離まで近づいたところでようやく真由美ははじかれたように顔をあげた。
「――おはようございます!」
 驚きを顔いっぱいに浮かべ小声で叫ぶと真由美は深く頭を下げた。
 ――なんだかなあ。
 内心苦笑しながら光は真由美が顔をあげるのを待った。
 その目がおそるおそる光を上目づかいに見たところでブルゾンのポケットから観光ガイドを取りだし微笑を浮かべた。
「さて、どこへ行きますか? すぐそこからは山下公園や八景島シーパラダイスに船で行けるそうですよ。歩いて行くならランドマークタワーや観覧車かな。元町や中華街だと電車になりそうです。
 好きなところを言ってください。ぼくは特に行きたいところはありませんから」
 やさしく聞こえるよう、できるかぎりゆっくりと話して光は言葉を切った。
 真由美は目を伏せた。
 反応が返ってくるのを光は辛抱強く待った。一日ははじまったばかりで時間はまだたっぷりとあった。
 やがてか細い声が真由美の唇から漏れた。
「あの……」
「はい?」
 光は首をほんのすこしだけかしげた。
 真由美はふたたび上目づかいで光を見、ためらうようにまた視線を落としてから思いきった感じで顔をあげた。
「あの、あたし、街を見て歩きたいんです」
「――街?」
 予想外の言葉に光は浮かべた笑みを忘れて聞きかえした。
 真由美はちいさく、だがしっかりと、うなずいた。
「……街って、元町とか中華街とかじゃなくて……?」
「はい、あ、いえ、あの、そういうところも見てみたいんですけど、そんなに名前を知られてないところとか……。ここに住んでる人が普通に歩いているようなところに行ってみたいんです」
 いっしょうけんめい練習した台詞がうまく言えたような感じで真由美は一瞬ほっとした表情を浮かべた。
「……はあ」
 光はガイドをぱらぱらとめくった。朝食を食べながらの予習では女の子が行きたがりそうなところばかりチェックしていたのでそう言われてもどこへ行けばいいのやらまるで見当がつかなかった。
 期待と不安のいりまじったごくひかえめな視線を頬に感じながら光はしばらくガイドブックをひねくりまわした。
 やがてなんとかあたりをつけるとぱたんとガイドを閉じて視線を真由美に戻した。
「歩くのは平気ですか?」
 真由美はぱちぱちとまばたいて目を伏せた。
「……はい」
 自信なさそうな口調だった。その顔をしばらく見つめてから光は言葉を続けた。
「とりあえず野毛に行ってみませんか? ここからなら歩いて十分か十五分くらいです。それから伊勢佐木町、馬車道、中華街、元町。全部でどれくらいの距離や時間になるかはわかりませんし普通の人が歩いてるかどうかもわかりませんけど、漠然とただ歩きまわるよりはあたりをつけておいたほうがいいでしょう。疲れたらバスなりタクシーに乗るとして。
 どうです?」
 光は唇を閉じて真由美を見つめた。
 答はなかなか返ってこなかった。
 やがてうつむいた口からつぶやきがぽろりとこぼれた。
「……はい」
 ほっとして光は微笑した。
「じゃ、行きましょうか」
 言ってくるりと背を向け歩きだす。真由美はこころもち顔をあげてその後に続いた。
 突然止まった背中にもうすこしでぶつかりそうになった。
 なんとか足を止め、真由美はこころもち身を引いた。横にまわりこんで光の顔をのぞきこむ。
「どうか、したんですか?」
 その言葉に光は我にかえったように真由美に顔を向けた。
「あ、いや、なんでもないです。ちょっとぼっとしちゃいました」
 苦笑いしながら光はふたたび歩きだした。一瞬遅れて真由美はその後に続いた。
 真由美を見るまで光が浮かべていた厳しい表情が瞼から離れなかった。

11

「……あの……」
 ひかえめでちいさなその声が呼びかけだと気づくまで数秒かかった。
 視線を脇に転じると遠慮がちな目が様子をうかがうように光を見ていた。
「どうかしましたか?」
 笑みを浮かべて光は言った。
 真由美はすぐには言葉を続けず、ただじっと光を見た。
 たくさんの車が行き交う交差点で二人は信号待ちをしていた。道路の向こう側は馬車道。最初に光が組みたてた漠然とした予定よりもかなり早い到着だった。
 ペースが速い理由は真由美が光の予想に反してころころとよく歩いたためだった。特に先導を必要としない様子は光に案内など不要ではないかと思わせるほどだった。客引きのいるファッションヘルスの前を通りすぎたときなどは光のほうがどきどきしたくらいだった。
 そんな様子でもあり、また真由美が街角を真剣に見入っていたこともあり、交わす言葉は多くなかった。真由美の呼びかけはずいぶんひさしぶりの言葉だった。
 例によってずいぶん時間が過ぎ、脇の信号が変わりかけたころになってようやく真由美は続きを発した。
「……やっぱり、退屈なんじゃないですか?」
「いや、そんなことはないですよ。口べたなのは性格ですから、気にしないでください」
 明るく聞こえるよう努めて光は言った。
 真由美はゆっくりとまばたいて目を伏せた。
「でも、ときどき遠くのほうを見てるのは……」
 光は一瞬言葉に詰まった。
「あ、いや、えーと、別に他に行きたいとこがあるとかそんなんじゃないですよ。けっこうぼくの知ってる街とは違うから、やっぱ横浜だなーって思って――……」
 うまく言葉をまとめられないまま光はあいまいに笑った。
 真由美は伏せた目をほんのすこしだけあげて光を見た。
 きまりが悪くなって光は視線を遠くにそらした。
 渡ろうとしていた横断歩道の信号が点滅していた。光は歩きだそうとして遠くから聞こえてきたサイレンの音に動きを止めた。
 サイレンはあっというまに接近して二人の前の道を横切ってた。
 遠ざかっていく救急車を光はしばらく見つめた。
「……あの救急車で運ばれた人も、脳死になったらドナーになるんでしょうか?」
 思いがけない言葉に光は視線を脇に転じた。
 真由美は街を見るのと同じ真剣なまなざしで救急車が去った方向をじっと見つめていた。
 その顔が静かに動いて光に向いた。
 光は真剣に応えざるを得なかった。
「……どうでしょう。たしかに可能性はあります。運ばれた人が意思表示したドナーカードを持ち歩いていて家族の同意が得られて臓器に問題がなければ。こう考えると確率は決して高くはありません。いまでも」
 真由美はゆっくりとまばたいてから救急車が去っていった方向に視線を戻した。
「……偶然、って信じますか?」
「偶然?」
 唐突な話題の変化に光はまばたいた。「うーん、どうかな。どちらかと言えば運命論者だから偶然なんてものはないと思わないでもないですが……」
「あたしと会ったことは、どうですか?」
 真由美は探るように上目づかいで光を見た。思い詰めたような真剣な表情だった。
 真由美の真意がつかめず、どう応えていいかわからず、光は別の言葉を選んだ。
「あなたは、どう思います?」
 真由美は顔を深くうつむかせた。
「……わかりません。でも……
 偶然だとしたら出来すぎだと思います」
「出来すぎ?」
「はい」
 自分自身を納得させるように真由美はちいさくうなずいた。
「あたし、五年前に肝臓の移植を受けているんです」
 光は言葉を失った。

12

 スープをすすってレンゲを丼に置くと光は向かいの席をちらっと見やった。
 真由美は酢豚をもてあましていた。
 気のない箸の動きを見ているうちに言葉がひとりでに口から漏れた。
「……あの……」
 箸の動きがぴたっと止まった。
「……さっきの話なんですけど」
 真由美はおそるおそるという感じで光に目を向けた。
 光は言葉を続けるのをためらった。真由美の瞳には不安と恐れが浮かんでいるように見えたから。
 中華街のちいさな料理屋でのすこし遅めの昼食だった。あれから二人はほとんど話さずに歩き、ようやくこの店で休憩を取ったのだった。
 話せなかった理由を光はいまになってようやく理解していた。真由美はいまの瞳と同じように態度で不安と恐れを訴えていたのだった。
 しかし同時に真由美が話しかけられることを望んでいるように感じられることもまた事実だった。
 慎重に言葉を選んで光は口を開いた。
「本当に、まちがいないんですか?」
 真由美は目を伏せて静かに箸を置いた。
「……信じられませんか?」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
 光は頭をかいた。「あなたが移植を受けたことは疑ってません。ただドナーが本当にここで――横浜で――……」
 なんとなく言いづらくなって光はあいまいに口を閉ざした。
 真由美は目を伏せたまま応えた。
「それくらい、調べればわかります。まだそれほど一般的じゃなかったころですから」
「……それはまあそうでしょうけど」
 光はあいまいに視線をそらした。
 重たげな雰囲気が二人のあいだに横たわった。
 先に言葉を発したのは真由美だった。
「移植を受けた人と会ったことはありますか?」
 光は視線を戻した。
 真由美は目を伏せたままだった。
「……目の前にしたのははじめてです」
 光は顔をしかめるように目を細めた。
 唾を飲みこみ、何度かためらうように口を動かしてから真由美は意を決したように言葉を続けた。
「……あたしのこと、どう思いますか?」
 思わず光は背筋を伸ばした。
 真由美は顔を伏せたまま動かなかった。
 しばらく、沈黙が続いた。
「……信じてもらえないかもしれませんが」
 慎重に口を開き、光はいったん言葉を切った。
 真由美は動かなかった。
「普通の女の子に見えます。たぶん同級生よりいくらか余計に苦労してきただろうけど、だからってあなたが特別な存在になるわけじゃないと思います。だから、臓器移植を受けているからといって意識することはないと……思います」
 言い終えると光はふっと息を抜いて顔をしかめた。
「ごめんなさい、うまく言えないや。なんであなたがそんなことを聞くのかはわかる気がするんですが」
「……わかりますか?」
 ささやくよりちいさな声だった。光は真由美をあらためて見つめた。
「……わかってほしいですか?」
「……わかりません」
 応えると真由美は脇に置いてあったポーチを手にして立ちあがり、光を見ないようにして洗面所へと歩いた。
 その背中を光はただ黙って目で追った。
 隠れて見えなくなるとポケットからピルケースを取りだして店員を捜した。
「すいません、お冷やください」

13

「……あの……」
 真由美がそうふたたび口にしたのは中華街を出たところ、高架道路を前にした交差点でだった。
「はい?」
 普通に聞こえるよう注意して言い、光は横に並ぶ真由美を見おろした。
 真由美は様子をうかがうように上目づかいで光を見ていた。
 信号が変わっても動こうとも続きを言おうともしなかった。
 やがてその口がためらうような、言いづらそうな感じで動いた。
「……あたしのドナーになった人って、どんな人だったんでしょうか」
 半ば予想していた問いではあったが、それでも光は顔をしかめるのを抑えることができなかった。
「その話はできればしたくないな」
 思いがけない強い調子に真由美はびくっと体を震わせた。
 だがしりぞかなかった。
「どうしてですか? あたしには知る権利があると思います」
 思いがけない反応に光はすこし目を見開いた。
 真由美はまっすぐ光を見つめていた。瞳にはそれまでなかった意志の光が、硬さが、あらわれていた。
 視線をそらして光は息をついた。信号はまた赤に変わろうとしていた。
「……あまりいい話じゃないんですよ。まあすべてのケースが美談ってわけにはいかないんでしょうけど」
「……どういうことですか?」
 真由美はちいさく首をかしげる。光はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「まあ、世の中には知らないほうがいいこともあるってことです」
「知らないほうがよかったかどうかは自分で決めます。教えてください」
 真由美はきっと光をにらんだ。
 その目をちらっと見、光は視線を足元に落として両手をポケットにつっこんだ。
 目の前の道路をさまざまなおおきさの車が何台も行きすぎた。
 真由美は視線をそらさなかった。
 光は息をついた。続いて抑えたちいさな声が口から漏れた。
「……でも命を救ってくれた人が実は殺されたのかもしれない、なんて話は聞きたくないでしょう?」
 真由美は体をこわばらせておおきく息を飲んだ。
 だが光の予想に反して反応はすぐに返ってきた。
「――そうなんですか?」
 光は目を閉じて深く息を吐きだした。
 すこし間を置いて、ゆっくり応えた。
「噂ですけどね。あくまで」
「どんな?」
 真由美は食い入るように光を見つめた。
 顔をあげて真由美を見、光は目で信号を示した。
「歩きながら話しましょう」
「……はい」
 二人は並んで信号を渡った。
 光は真由美を見ないで言葉を続けた。
「はじめに断っておくと、これから話すことが本当かどうかはわかりません。あくまで新聞社の人に聞いたかぎりの話です。ですからそのつもりで聞いてください。それに、殺人といってもドラマみたいな派手な話ではありません。だからこそ余計にいやな話でもあるわけですが……
 まずドナーになった人を紹介しないといけませんね。小島綾さんという女性です」
 言葉を切り、光は横目で真由美を見た。真由美は口の中でいま聞いた名前をくりかえしてつぶやいた。こじま、あや、と。
「当時二十七歳で、独身でした。交通事故で病院に運ばれ脳死と判定され、生前に臓器提供の意思があったということで肝臓と腎臓、それに心臓が移植されています。
 ただ、移植の進めかたがどうも……」
 光は唾を飲みこんだ。
「……意思表示が本人によってはっきりとされていたわけじゃないみたいなんです」
 真由美の歩みがすこしひっかかった。
「そんなことって……?」
「臓器移植が一般的になりはじめたころでマスコミの関心も薄れてきてたんです。その分チェック体制がゆるくなっていたことは否めません。それに、このケースの場合気になるのは彼女の父親が積極的にかかわっていたらしいことなんです」
 真由美はぴたっと足を止めた。
 二歩行きすぎて立ち止まり、光はふりかえって真由美を見た。
 うつむいたその顔は唇をぎゅっと引き結んでいた。
「止めますか?」
 光の問いに、ちいさく、だがはっきりと、真由美は首を横に振った。
 すこししてから前に進んで光に並んだ。
 光は視線を進行方向に戻した。
「元町ですね」
 真由美は応えなかった。
 ゆっくりと、光は歩きだした。真由美はすこし遅れるかたちで続いた。
「……意思表示カードがあったことはまちがいありません。しかしそれが本人の意思によるものかどうかがどうもはっきりしなかったらしいんです。友人にも生前そんな話を聞いたことのある人はいなかったそうで、根拠は父親の証言だけ――それだけだったそうです」
 石畳の路地はショーウィンドウが立ち並ぶ通りと交差していた。人通りはそれほど多くはない。二人は左に曲がった。
「もっともこれだけでは殺人などと言いたてることはないかもしれません。もっとおおきな問題は、どうやら脳死判定が正しく行われなかったらしいということなんです」
「――そんな!」
 抑えた叫び声をあげるとふたたび立ちどまり、真由美は驚きにおおきく見開いた目を光に向けた。
 その目を正面から見ることはできなかった。光は視線をすこしそらして言葉を続けた。
「……病院に運びこまれた時点で彼女はすでにかなり危ない状態だったそうです。それから摘出手術がはじまるまで一日半――そのあいだずっとどこかばたばたした感じがしていた、そう新聞社の人は話してくれました。まるでできるかぎり速くすべてを終わらせようとしているみたいだった、と」
 光は奥歯をかみしめて目を細めた。
 沈黙が過ぎた。
 ようやく真由美は頼りなげなちいさな声で言った。
「……でも、それが本当かどうかは……」
「そうです」
 光は真由美に視線を戻した。「でも情報公開が充分でなかったことは事実のようです。それがよくない噂を招き寄せたことはまちがいありません。なにしろ彼女、小島綾さんと父親の不仲は有名だったそうですから」
 問いかけるように真由美は何度かまばたいた。
 光は苦笑を浮かべた。
「退屈じゃありませんか? こんな話」
 真由美はあわてて首を横に振った。
 深く息をつき、指で行く先を示してから光は歩きだした。
「彼女の父親の小島隆三さんは地元政財界の実力者なんだそうです。県会議員にも何期か連続で当選していると聞きました。こういう人はえてして評判がよくないんですよね。この人も例外ではないようで、汚いことも平気でやるという話でした。
 綾さんはそういう父親に対して批判的だったそうです。大学卒業後亡くなる前まで彼女はミニコミ誌の編集の仕事をしていたのですが、その誌面にはときおり地方自治体や地元経済界への批判記事が掲載されたという話です。
 もちろん父親にとってそんな記事は痛くもかゆくもなかったでしょう。しかし娘にいつまでもそんなことをさせてはいられないとも考えていたでしょう。それとは別にああいった人たちは可能なら娘でさえも戦略的に利用するでしょう。
 事故のすこし前、彼は――小島さんは綾さんに縁談を持ちかけていました。
 このときの喧嘩は派手だったそうです。家におさまりきらない罵声が近所中にとびかったそうですから。それまで綾さんは実家に住んでいたのですが、このときはさすがに家から出ることを決心してアパートまで決めていたと言うことです。
 そんなときに、彼女は事故に逢ったんです」
 言葉を切り、光はちいさく息をついた。
 沈黙が二人のあいだに横たわった。
 やがて真由美がちらりと光を見た。
 何度も視線を上下に動かし、なにかを言いかけてはやめた。
 それから唇を噛んでうつむくと、ようやくかすれた声で言葉を発した。
「……その事故も、仕組まれたものなんでしょうか」
「まさか。いくらなんでもそこまではないでしょう」
 光は真由美を見てあいまいな笑顔を浮かべた。「いまの話だって肝心な部分はただの推測です。証拠はありません。憶測に過ぎないんですよ。
 ただ……」
 笑顔を消して足元に視線を落とし、光はふっと息をついた。
「……そんな噂がまことしやかに流れていたっていうのは、なんだかちょっとやりきれないですね」
 真由美はそっと顔をあげた。
 光の表情には妙に寂しげな影が射していた。
 その顔が不意にあがってあたりを見まわした。
 足を止めて真由美に体を向けると苦笑しやれやれという感じで肩をすくめた。
「端まで来ちゃいましたね」
 真由美もあたりを見まわした。行く先の道には店は立ち並んではいなかった。
「どうしましょうか。なんにも見てませんから、戻ってウィンドウショッピングしましょうか?」
 なるべくやさしく聞こえるよう注意して言い、光は真由美を見つめた。
 真由美は上目づかいに光を見てすぐに顔を伏せた。
 すこししてからその上体を不自然な勢いで前に倒した。
「――今日は本当にどうもありがとうございました!
 ここまででいいです。あとは一人で行きます。一日あたしのわがままにつきあわせてすいませんでした――それじゃあ!」
 一息でそれだけ言うと真由美は光の顔を見ずにその場から小走りで去っていった。
 川沿いの道を遠ざかっていくその背中を光はあっけにとられて見送った。
 やがて真由美の姿は山側の道に曲がって陰に隠れた。光の記憶にまちがいがなければその先には港の見える丘公園があるはずだった。
 しばらくしてからようやく光は誰にともなくつぶやいた。
「……ありゃあ絶対道知ってたな」
 それから何度かまばたいて頭を左右に倒した。
 狐につままれたみたいな感じだった。
 やがて息をつくと目を伏せ首を左右に振って肩をすくめた。
 ――女の子の考えることはわからん。
 まあ風変わりな体験ではあった、そう思いながら光は元町に戻るかたちで歩きだした。
 数歩進んだところで足を止めた。
 肩越しにふりかえり、真剣な表情で真由美が去った方向を見つめた。
 そのまましばらく立ちつくした。
 そして意を決したように体の向きを変えると真由美の去った方向へと早足で歩きだした。

 そのあとを別の人影が追いかけるように動いた。

14

 木と木のあいだから外国人墓地が見おろせた。
 元町公園の鉄の柵に両方の肘を乗せ、白い墓石が連なるさまを真由美はぼんやりとながめていた。
 陽は傾きはじめていた。吹きぬけた風の思いがけない肌寒さに真由美は体を震わせた。
 ビンを握る両手に力がこもった。
 ポーチから取りだしたときはひんやりとしていたビンもいまはもうすっかり体温であたたまっていた。味なんて関係ないんだからどうでもいいことだ、と真由美は思う。ただそれはたしかにためらいの時間の長さをあらわしていた。
 ――いまさら考えることなんてないのに。
 そう思いながら、けれど一方では今日一日、たった一日で知ったことのあまりの多さに途方に暮れていることもまた事実だった。
 光が話してくれたことはまだ心の中で落ちついてはいなかった。
 それに、できることなら暗くなるまで待っていたかった。
 また風が吹きぬけ、思わず真由美は首をすくめた。
 そしてあの日のことを思いだした。
 ――そういえばあの日も風が冷たかった……
 真由美の脳裡にそのときの光景がよみがえった。

 真由美は忘れ物を取りに教室に戻ろうとしていた。
 廊下から覗く教室はどこもがらんとしていた。受験の季節を迎え、三年生はすでに週に一度の登校日に顔を出せばいいだけの存在になっていた。まだ授業を行っている他の学年の教室との雰囲気の違いに真由美は軽い驚きを覚えていた――人がいるかいないかだけでこんなにも違うものなのか、と。
 卒業式も間近だというのにそれ以外に思い浮かぶことはなかった。
 想い出さえ真由美には縁のないものだった。
 ちいさいころから病弱でなにかと休みがちだった真由美は学校という場所にうまく自分の居場所を作れたことがなかった。肝臓を悪くして中学を一年休んでからはますます教室の隅にちぢこまっているようになった。ひとつ歳が違うということは真由美にとってはとてつもなくおおきな壁だった。
 あたしは人とは違うんだ、人に迷惑をかけて生きてるんだ――気がつけば物心ついたころからずっと、真由美はそう感じていた。
 その感覚が性格形成にも生活にもマイナスに作用したことはまちがいなかった。強く自己主張したり率先してなにかをはじめたりすることは決してなく、部活動や委員会で積極的にはたらいたりすることもなく、めだたないようにして常にその他大勢の一人として行動する――それが半ば無意識のうちに真由美が選びとっていた自身のありかただった。
 そんな真由美にとっては高校もただいるだけの場所に過ぎなかった。
 ただひとつ、思い残したことを除いて。
 それをどうにかしようとする行動力や決断力が自分にはないことを真由美はよくわかっていた。
 ――でも、もし……
 かすかに浮かんだその想いを真由美はすぐに振りはらった。
 そのときにはもう自分の教室の前に来ていた。
 足を止め口の前に手をかざして息であたため、真由美は右手をドアへと伸ばした。
 触れようとした瞬間、中から声が聞こえた。
「けどなんだよなあ、いまんなってみると高校生活なんて長かったんだか短かったんだかよくわかんねえよなあ」
 真由美はしびれたように動けなくなった。
 声は羽山等のものだった。よく授業中に話をかきまわすので先生たちからはにらまれていた、いつでも明るいクラスの人気者。あけっぴろげなその態度が苦手で真由美はほとんど言葉を交わしたことがなかった。
「んなこと言うなら留年すりゃあよかったじゃねえか。おまえの成績なら楽勝だったろ?」
 応えたのは岡浩二郎だった。いつも羽山といっしょにいたグループの一人。
「るせえよ、立派に卒業できてほっとしてるってのによ。マジで超ヤバかったんだから」
「超ラッキーだったじゃん」
「てめえ!」
 続いていくつかの笑い声。予感に真由美は胸の前で手を組みあわせた。
「まあ四年はちょっと長いよな。それに後輩だった連中にまじって一年も過ごすのはやっぱきついべ」
 心臓がとくんと高鳴った。
 声の主は達川幸夫――真由美の片想いの相手だった。
「そりゃそうだよなあ。一人だけ年取っててさ、でも馬鹿だからもう一年おまえらといっしょに授業受けますだなんて考えただけでもぞっとしねえよな」
「野崎さんもやっぱどっか居づらそうだったもんな」
 急に出てきた自分の名前に真由美はどきっとした。
「そうねえ。結局最後まで近寄りがたかったな」
「タツはそんなことなかったんじゃないの? 告白されちゃったりしてない?」
 顔が赤くなるのを感じて真由美はうつむいた。自分では表には出してないと思っていただけにたまらなく恥ずかしかった。
「よせよ、俺だってろくに話したことねえよ」
「そう? つまんねえなあ」
「あんだよ、実はおまえが気があったんじゃねえの?」
「だってけっこういいじゃん。俺わりと好きだけどな」
「俺は駄目だな。あんな目でじっと見られてみろよ、たまんねえぜ、きっと」
「タツはどうよ」
 息を飲んでぎゅっと目をつぶり、真由美は祈るように次の言葉を待った。
「うーん、年上だしなあ……」
 言いながら椅子の背もたれに体をあずける幸夫の姿を真由美は脳裡にはっきりと思い描くことができた。
「それに野崎さんって臓器移植受けてんだろ? 体の中に別の人のものが入ってるなんて、なんかちょっと気持ち悪くない?」
 足元から地面が消えた。
「あ、俺もそれ思った。やっぱなんかさあ、自分の中に自分のじゃないのが入ってるなんてなんか信じられなくない?」
「そうかあ? 病気なんだからしょうがねえじゃん。好きでやってるわけじゃなし」
「でもどこの誰のかわかんねえのが体の中にあって動いてるんだぜ? それってやっぱなんかヘンな感じすんじゃん」
「うう、おまえその言いかたがわりいよ。それじゃ虫かなんかみたいじゃん、まるで――」
 会話はとどまることなく続いていた。
 その声を、しかし真由美は意味のある言葉としてとらえてはいなかった。
 実際には真由美は倒れもしなかったし声をあげたりもしなかった。心臓も止まったりはしなかった。教室の中にいる人たちに気づかれないようにその場から去ることさえできた――ちょうど高校生のあいだずっとそうしてきたように、まるではじめから存在しなかったかのように。
 ただ全身の感覚からあらゆる現実感が失われただけだった。
 麻痺が解けたのは家に帰り自分の部屋に入ってしばらく立ちつくしてからだった。
 そのまま目が真っ赤になるまで泣いた。
 不思議と声は出なかった。
 あふれる涙がようやく涸れかけたときにはもう心は決まっていた。
 自分が幸運の持ち主だということは理解していた。なにしろさほど待たされることもなく臓器の提供を受けることができたのだから。望んでも得ることのできない機会を与えられて生き延びることができたのだから。
 しかしそれが想いを寄せる人から嫌悪される原因になるなんて思いもしなかった。
 幸夫の何気ない一言は真由美の生を完全に否定していた。
 幼いころから真由美は引け目を感じていた。病弱な自分は家族やまわりの人に迷惑をかけているんだという引け目を。
 もうこれ以上そんなふうに感じながら生きていくことはできそうになかった。
 残された道はひとつしかなかった。

 だから真由美はここへ、横浜へ来たのだった。自分のドナーとなった人が住んでいた街をすこしでも知るために。それが厚意を無にする自分にできるせめてもの罪ほろぼしだと思って。
 けれど――
 真由美は目を閉じた。
 瞼の裏に光の顔が浮かんだ。
 思わぬ出会いは望んでいたよりずっとたくさんの情報を真由美にもたらしていた。
 ――結局のところ……
 真由美は顔を伏せた。梢の揺れる音がかすかに聞こえた。
 真由美が覚えた静かな衝撃はいまになってようやく言葉を成しつつあった。
 ――運命だったのよ、全部。
 病気になったのも運命。幸夫の言葉を聞いてしまったことも運命。光と出会ったのも運命。ここにこうしているのも運命。みんな運命、運命、運命――
 そう考えるのは心地よかった。
 そういえば光も同じ言葉を使っていた、そのことを思いだすと気分はさらによくなった。
 口元に笑みを浮かべた真由美の脳裡をふと声がよぎった。
(――かえして!)
 昨日倒れる前に聞いたあの声だった。
 それが誰のものなのかを真由美はもう疑わなかった。
 ――返します、いま。
 声に出さずにそうつぶやき、真由美は顔をあげてベンジンの入ったビンの蓋をひねった。
「ぼくにもすこし分けてくれませんか?」
 まったく予想しなかったその声に真由美の体は凍りついた。
 ふりむいてたしかめるまで長い時間がかかった。
 すこし離れたところに立った光はまっすぐ真由美を見つめていた。
 微笑を浮かべようとして失敗したような顔をしていた。
 なにかを言いかけてはやめるのを何度もくりかえし、ようやく光は言葉を続けた。
「一人で飲んでもおいしくないですよ、きっと」
 真由美はビンを両手でぎゅっとにぎりしめて胸に押しあてた。
 やっとの思いで光から視線をそらすと光から離れようと柵沿いに駆けだした。
「一人にはさせないよ」
 放たれた厳しい声にふたたび真由美の体は意思に反して動きを止めた。
「逃げるなら、追いかける。どこまででも」
 真由美は目を閉じ天を仰いであえいだ。
 ようやく喉からしぼりだした声はか細く頼りなかった。
「……お願い、一人にさせて……でないとあたし、返せない」
「返す? 何を?」
 瞬間、光の言葉をさえぎるように脳裡で意志が叫んだ。
(かえして!)
 バランスを失って倒れかけた体を真由美は柵をつかんで支えた。
 乱れた息を深く吐きだし、やっとの思いでつぶやいた。
「……ほら、聞こえるの、ほら……呼んでるの……」
 真由美は焦点の定まらない目をあたりにさまよわせた。
「……わかってるんだわ、きっと、彼女には……あたしがどうしてここに来たのか……もう待っていてはくれない……だから、返さなきゃ……」
 もう一度目を閉じ、ああ、と真由美は声を漏らした。
「なら、ぼくもいっしょに返さないと」
 光の言葉に真由美の体はびくっと震えこわばった。
 息を飲みおおきく目を見開きながら、しかしなおその意味を理解するまでにはしばらくかかった。
 やがて長い時間をかけ、真由美は顔を光に向けた。
 光は足を一歩前に踏みだして真由美に手を差し伸べていた。目元のあたりにすこし苦しげな表情が浮かんでいた。
「たぶん、ぼくらは同じ声を聞いてる」
 言って光は顔をしかめた。
「君と同じだよ。ぼくも移植を受けてる。ぼくの腎臓は彼女のものだったんだ。
 運命論者だ、って言っただろう? そうさ、こんな偶然なんてあるはずがない。決まってたんだよ、ぼくらが生き延びたあの日から――彼女が自分を取り戻すためにぼくらを呼ぶことは。
 だから、ほら――ぼくにもそれを分けて。ぼくのために、君のために、そして彼女のために。
 さあ――」
 光は背筋を伸ばして次の一歩を前に出した。
 真由美は柵をつかむ手に力をこめた。
 動くことはできなかった。光から視線をそらすことも。ただゆっくりと近づく光を見ることしかできなかった。
 強い意志のこもった瞳は真由美をまっすぐとらえて放さなかった。
 その口元に浮かぶ苦しげな微笑みに気づき、真由美はいやいやをするように首を横に振った。
 だが光は止まらなかった。
 そしてついに光の伸ばした手が真由美の腕をつかんだ。
「そう、運命だ――君を助けるための」
 抵抗するより迅く、光は真由美の手からビンを奪い取っていた。
「――!?」
 すがりつく真由美を払いのけて光は蓋を投げ捨てたビンを柵の向こうへと放り投げた。
「――ああっ!」
 真由美はビンを追って柵から身を乗りだす。その体を光は横から抱きしめて柵から引き離した。
 遠くからビンの割れる音が聞こえた。
 体から力が抜けた真由美を支えるために光は腕に力をこめた。
 その脳裡に叫びが爆発した。
(かえして!)
 真由美は声にならない悲鳴をあげた。
 光は奥歯を強く噛み締めて耐えた。真由美と共に倒れそうになる体を、崩れそうになる膝を必死になって支えた。
 護るように真由美の頭に腕をまわし、天に向かって声をあげた。
「あんたの不幸には同情するよ! けど、だからといって他人ひとの命を奪っていいってわけじゃない!」
 一瞬遅れてさらに強く激しい叫びが炸裂した。
 それはもはや意志でさえなかった。ただ純粋な負の感情だった。
 だが光は倒れなかった。
 あえぎながらせいいっぱいの力をふりしぼって声を張りあげた。
「どうしてもあきらめきれないのなら無理に奪いとればいい――あんたがされたように! あんたにそれができるか? いまのあんたと同じになるように他人を壊すことができるか!?
 あんたはそんな人間じゃなかったはずだ――」
 光はぎゅっと目をつぶった。
 吹き荒れる感情は止まなかった。それはまるで本物の嵐のように耳を聾した。
 ついに耐えきれなくなって光は意識を失いかけた
 そのとき、不意に消え去った。
 しばらく二人は静寂の中で硬直して立ちつくした。
 やがて光の膝から力が抜け、二人してその場にへたりこんだ。
 光のささやいた言葉に放心していた真由美は我にかえった。
「殺しては、いけないよ――他人も、自分も」
 かすれた声でもう一度くりかえすと光は真由美を抱く腕に力をこめた。
 真由美の目尻に涙がにじんだ。
「――やれやれだな。そのまま死んでくれれば面倒なくてよかったのに」
 突然のしゃがれた低い声に光ははっとして顔をあげた。
 さっきまで光の立っていたあたりにくたびれた格好をした青年と呼ぶにはすこし老けた男が立っていた。
 男はまるめた服でくるんだ右手を二人に向かって突きだしていた。
 その唇が歪んで笑みらしきものをかたちづくった。
「まだ間にあう。やりなおさないか? 最後まで見届けてやるから」
 雰囲気に記憶が呼びおこされ、光は息を飲んだ。
「あんた――昨日、あの寺にいた人だな?」
「ほう?」
 真一は感心したような表情を浮かべた。「よく覚えてるな。たいしたもんだ。俺はなかなか気づかなかったよ。一日追いかけてようやくわかったありさまさ」
 光の腕の中で真由美は顔をあげて真一を見た。
 光は唇を噛んだ。
「誰かに見られてる気がしたのはあんただったのか……」
「ま、そうとはかぎらん。大勢に手伝ってもらったからな。なにしろこっちは素人だ、経験が足りない分は量でカバーするしかなくてな」
 言うと真一はしゃべりすぎたとでもいうように唇を閉じた。
 緊張の張りつめた静寂が横たわった。
 やがて首をわずかにかしげると真一は意味ありげに伸ばした右手をすこし動かした。
「どうした? 死なないのか? よかったら手伝おうか?」
 真由美は光の体にまわした腕に力をこめた。
 光は安心させるように真由美の背中を軽く叩いた。視線はまっすぐ真一に向いたままゆるがなかった。
「綾さんのお墓に花をそなえたのはあんただな?」
「……さあ、どうだかな」
「事故のとき彼女といっしょに車に乗っていた恋人なんじゃないのか?」
 真由美は息を飲んだ。
 真一の顔から笑みのようなものが消えた。
「よく調べた。やはり生かしておくわけにはいかないようだ」
「なぜだ? どうしてぼくたちの死を望む?」
 真一はあきれたように鼻で笑った。
「どうして? きまってるじゃないか。綾を生かしておくわけにはいかないからさ」
「――どうして!? 恋人だった人が、なんで、そんな――……」
 叫びではじまった真由美の声は尻すぼみになって消えた。
 真一は視線を転じて真由美をにらみつけた。
 その視線が、ふっ、と宙に泳いだ。
「……いいや、恋人なんかじゃなかったさ。相手を売れるような人間が恋人なんかであるはずがない」
 ふたたび光を向いた真一の顔には自嘲の笑みがあらわれていた。
「知ってるんだろ? 綾が死んでなかったってことは。
 俺はすべてを知ってるよ。
 事故の直後、綾はたしかに生きていた。息をしていた。意識があった。だから病院に運ばれたあとに聞かされた説明なんてあたまっから信じなかった。必死で訴えたさ、綾は生きてるって。あんな事故で死ぬはずがないって。傷だけなら俺のほうがひどいくらいだったんだから。
 あいつは、そうやってさわいでる俺のところに来たんだ」
 真一の顔から笑みが消えた。
「あいつは余計なことは何ひとつ言わなかった。表情さえ変えなかった。ただ俺に金を握らせ、わかるだろ、そう言って去っていった。それだけだ」
 真一は目を閉じた。
「人生を変えるのに必要な金額っていくらぐらいだと思う? それほど高くはないってことを俺はそのとき知ったよ。俺は何も言わなくなった。さわがなくなった。あいつに求められたとおりに、な。
 俺が静かにベッドで横になってるあいだに綾の体からはいくつもの臓器が切りだされて運びだされていった。
 俺は綾を殺すのに手を貸したんだ」
 真一は目を開いて光を見た。瞳に不気味な輝きがあらわれていた。
「そう、綾は生きてちゃいけないんだ。たとえその一部であっても。あのとき俺は何もしなかった。だから今度は俺がこの手で殺さなければならないんだ。
 昨日気づいたんだ。俺はそのために今日まで生きてきたんだ、ってな」
 真一は嗤った。
 凄惨な、救いのひとかけらもない表情だった。
 その顔をまっすぐ見つめ、光はぽつりとつぶやいた。
「……かわいそうに」
 真一の顔が怒りに歪んだ。
「――おまえらにそんなふうに言われる筋合いはねえ! 綾が死ななきゃ生きられなかったやつがえらそうな口を叩くな!」
 叫び荒い息を吐きだすと真一は光をにらみつけた。
「……そうさ、おまえらはたまたま生き長らえられただけじゃないか。そんな命が失われたってたいした問題じゃあるまい?
 おしゃべりはもうやめだ。綾に彼女のものを返してやれ」
 真一は右手を二人に向かって突きだした。
 真由美は恐怖に目を見開いた。
 光は真由美を抱きしめる腕に力をこめた。
 細かい震えが伝わった。
 服でくるまれた右手が隠し持っているものを光は疑わなかった。どうやったら真由美を助けることができるか、光はそれだけを必死になって考えた。
 その心を見透かすように真一は唇を歪めた。
 あざわらうように目を細めた
 刹那、三人の脳裡に想いが響いた。
(――いけない!)
 驚愕に目をみはって真一は宙を見あげた。
「――いけない!」
 たしかな叫びが耳をうち、
 息を飲む光の腕をすりぬけて真由美が立ちあがった。
「――あぶない!」
 光の言葉に真一は素速く視線を戻した。
 次の瞬間胸の下あたりに体あたりを受けてあおむけに倒れた。
「――このっ――!」
 上体を起こしながら真一は足元の先に立つ真由美に向かって銃をつきだした。
 引金を引きかけた指はその顔を見て凍りついた。
 立ちつくし泣きながら真由美は真一を見おろしていた。
 真一はただ呆然と真由美を見つめた。銃口はいつか下がっていた。
 つぶやきが、ひとりでに漏れた。
「……綾……」
 応えるように真由美/綾は泣きながら微笑んだ。
 その顔が、ゆっくりと、左右に振れた。
「……もういいの。もう……」
 口調はかぎりなくやさしかった。
 真一はただ呆然と真由美を見つめた。
 やがてその目からひと雫の涙がこぼれた。
 それはすぐに太い流れに変わった。
 起こしかけていた体を倒し、真一は泣いた。
 腕を目におしあて声を殺してただ泣き続けた。
 立ちあがった光は真由美のすぐうしろからその姿を見た。
 それからそっとあげた手を真由美の両肩に置いた。
 真由美はゆっくりとふりかえった。
 その顔にあらわれている面影を光はじっと見つめた。
 面影も同じように光をじっと見つめかえした。
 やがてその唇がちいさく動いた。
「……ありがとう」
(――ありがとう)
 瞳が放心したように焦点を失い、全身から力を失って真由美はよろめいた。
 その体を光はしっかりと抱いて支えた。
 睫がかすかに震え、真由美は閉じていた目を開いた。
 光は腕の力をすこしゆるめた。
 真由美はきょとんとした目で光を見あげた。
「あたし、いま――?」
 その顔に急速に理解の色が広がった。
 光は何も言わずただうなずいた。
 真由美の顔にもうあの面影は浮かんではいなかった。
 突然はっとしたように真由美は体をひねって真一に目を向けた。
 真一はまだあおむけに横たわったままだった。泣き声はすすり泣きのそれに変わっていた。
 息を飲んで真一を見おろす真由美の耳に光はそっとささやいた。
「……まだ、死にたいですか?」
 真由美は体をこわばらせた。
 ゆっくりとふりかえって光に瞳を向けた。
 そしてちいさく、けれどはっきりと、首を横に振った。
「……いいえ」
 光は微笑んで真由美の肩を軽く叩いた。
 力をこめてうながし、二人は寄り添ったまま公園の出口へと向かった。
 道に出ようとしたところで光はふと肩越しにふりかえった。
 真一の上に覆いかぶさるように浮かぶ彼女の影が見えた――ような気がした。

15

「本当に、一人で大丈夫ですか?」
 顎を引き、探るような目で光は重ねて訊いた。
 真由美ははにかんだ笑顔を浮かべてちいさくうなずいた。
「大丈夫です。自分で招いたことですから、自分で解決しないと。そうですよね?」
 言って小首をかしげる。それは光へのではなく自分への問いだった。
「悪いことは全部ぼくのせいにしていいですよ。そしたらご両親もそんなに君のことを責めないでしょう」
 光の言葉に真由美はくすっと笑った。
「大丈夫です。あたし、そんなに頼りなく見えますか?」
「あ、いや……」
 光はあいまいに視線をそらした。たしかに真由美はたった一日で見違えるくらいしっかりして見えるようになっていた。
 あたたかい午後の昼下がり、二人はJR桜木町駅のホームに向かいあって立っていた。真由美の足元にはボストンバッグ。光の背中にはデイパックが背負われていた。帰る方向の違う二人はここで別れることにしたのだった。光のうしろには横浜線の電車がもうドアを開けてまっていた。
 ホームのアナウンスが京浜東北線の電車の到着を告げた。
「いろいろとお世話になりました。ありがとうございました」
 深々と頭を下げ、真由美はバッグを持ちあげた。
「手紙、書きます。きっと」
 視線を戻した光は照れたように頭をかいた。
「返事は期待しないでください。本当はこんなに話すほうじゃないし。人見知りするほうだし」
「そうなんですか? じゃあなんであたしにはあんなに親切にしてくれたんですか?」
 真由美はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
 虚をつかれた光はすこし考えてからにやっと笑った。
「……偶然にしちゃあ出来すぎてるから、かな」
 真由美のうしろで電車が止まった。ドアが開いて中から人がおりてくる。真由美は笑顔のまま電車に乗りこんだ。
 ふりむいたその前に光は右手をさしだした。
「いつか、また会いましょう。この街で」
 真由美は光の手を握りかえしてうなずいた。
 ベルが鳴り、ドアが閉まった。光は一歩下がって真由美を見た。真由美はガラス越しに手を振った。
 走り去る列車を光は見えなくなるまで見送った。
 掌に残るぬくもりを二人はじっとたしかめた。

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