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落日の影を背に

 坂を登りきったところで足を止めた。
 腰を落とし膝の上に手をのせ、早鐘のように打つ心臓をなだめるために必死で息をあえがせた。シャツの下で汗がだらだらと流れる。知らないうちに衰えていた自分の肉体に、声に出さずに悪態をつきながらとにかく呼吸をくりかえした。
 やがてようやくいくらか鼓動が落ちついてきたところで一度深く息を吐きだし、腰と背筋を伸ばして眼下を見おろした。
 街は静まりかえっていた。
 もう一度深く息を吐きだした。
 急斜面への落下を防ぐには頼りなく感じられるガードレールに近づき、あらためて街をながめわたした。
 三方を山に、残りを海に囲まれて、街はずいぶんちいさく見えた。凪いだ海の水面が強い陽射しできらきらと輝いている。動くものの影はなく、そのせいか街はどこか模型のように瞳に映った。
 その印象と静けさを結びつけずにはいられなかった。錯覚に過ぎないとわかっていても。
 目を閉じ、息をついた。
 目を開き、あらためて道路の先に視線を向けた。
 コンクリートで固められた斜面に沿って進む道はゆるやかに下りながら街から遠ざかる方向へと曲がっていた。どうやら街までたどりつくには直線距離の何倍もの迂回をしなければならないようだった。
 思わずため息が口をついて出た。
 しかしいつまでもそうしているわけにはいかなかった。いくら昼の長い季節だといってもうっかりしていたら街に着くのが夜になってしまう。
 重たいデイパックを背負いなおし、ふたたび歩きだした。

1

 最後の一口を飲み干すと人心地ついた。ゆっくりと息を吐き、戸井はあらためて店の中を見まわした。
 たどりつくまでの想像とは異なり店内は整然としていた。照明をつけてちょっと清掃し、客と店員を用意すればすぐにでもどこにでもある見慣れたチェーンのコーヒースタンドに戻りそうだった。
 その雰囲気が意味するところを想い、戸井は目を伏せた。
 低くちいさく響く振動音がいつもどおりではないことを逆にあらわしていた。
 電気が完全には止められていない理由はわからなかった。けれどそのおかげで冷たいコーヒーを飲むことができた。立ちあがり、戸井は一リットル紙パックのコーヒーとグラスを手にカウンターの中まで戻った。グラスを流しに置いて紙パックを冷蔵庫の中に戻す。
 そしてカウンターから出て、飲んだ分程度と思われる料金をレジの脇に置いた。
 デイパックを背負いなおして開いたままの自動ドアへと歩きかけ、ふと思いなおして店の奥へと進む方向を変えた。洗面所のドアノブをつかみ、ひねって軽く押す。
 すこし開いたところでドアはなにかに抵抗して動かなくなった。
 戸井は緊張に身をこわばらせた。
 明らかに意志を感じさせる力が内側からじりじりとドアを押し戻した。
 しかしそれは決して強い力ではなかった。腕に力をこめなおすとドアは拳ふたつほどの隙間を空けた位置で動かなくなった。
 戸井は息を殺して耳を澄ました。だが聞き分けられるような音は何も聞きとれなかった。
 慎重に、声を殺して戸井は言った。
「……隠れているつもりか?」
 動揺が振動となって伝わった。
 一気に力をこめてむりやりドアをこじ開けた。デイパックのポケットにさしてあった銃を引き抜いて洗面所の中に突きだす。そのまま半歩踏みこんですばやく視線を走らせた。
 相手は洗面器をしがみつくようにして丸めた背中を見せていた。
 思わずひるみ、戸井は銃口を天井に向けた。
 目の前にいるのはどう見ても十かそこらの少年だった。
 全身が一目でわかるくらい激しくがたがたと震えていた。
 奇妙な静寂が二人のあいだにわだかまった。
 なんとか言葉が口をついて出るまでずいぶんかかった。
「……君は……どうして、こんなところで――……」
 それ以上続かず、戸井はない唾を飲みこもうとした。
 おどおどとした様子で少年は肩越しに振りかえった。おびえた瞳が戸井をまじまじと見つめた。
 その視線がすこし上向いたとたん、少年は震えを止めて目をおおきく見開いた。
 次の瞬間、戸井は少年の体あたりをくらって床に倒れた。
 手から離れた銃が硬い音をたてた。あわてて上体を起こして視線をあたりにめぐらせる。見つけた銃へと伸ばした手は、一瞬の差で少年に先を越されてむなしく宙をつかんだ。
 二、三歩駆けて戸井から離れたところで足を止めると少年は銃のグリップを両手で握り、目の高さに持ちあげてから顔を戸井に向けた。
「――撃つな!」
 思わず叫び、戸井は両腕を顔の前で交差させて目をつぶった。
 何も起きなかった。
 おそるおそる目を開き、腕の下から向こう側を覗いた。
 少年が店を出ていこうとするところが目に入った。
「――待て! ちょっと!」
 立ちあがり戸井は少年を追って駆けだした。
 店を出たところ急停止し、両腕を伸ばして銃をかまえる少年の姿を息を飲んで見つめた。
 銃口は戸井に向いてはいなかった。その狙う先へと戸井は視線を転じた。
 道路の向こうから誰かがゆっくりとこちらに向かって近づいてきていた。
 女に見えた。若くはない――どちらかといえば中年に手が届こうかというくらいに見えた。服にも体にも特徴はなかったが、肩まで届くまっすぐな髪が遠くからでもはっきりわかるくらいところどころほつれていて、それが全体として異様な雰囲気をかもしだしていた。
 と、店三件分ほど離れたところで女は立ち止まってにっこりと微笑んだ。
 疲れた顔に浮かんだその笑みは奇妙に歪んで見えた。
「駄目じゃない、ぼうや。一人で勝手に出かけたりしちゃあ……。さ、帰りましょう。ね?……」
 気だるい調子でそう言い、女はふたたびゆっくりと歩きだした。
 戸井にはまったく目もくれようとしなかった。戸井は視線を少年に戻した。
 少年は全身を震わせていた。荒い息をくりかえしながら、位置の定まらない銃口で女を狙っていた。
「どうしたの? ぼうや……早く帰らないと夜になってしまうわ……夕ご飯を食べないと……おなかがすいたでしょう? ねえ……」
 つぶやくように言いながら、銃の存在などまるで意に介さない様子で、女は無造作に少年に近づいた。眉が笑みを深めるような問いかけるようなあいまいなかたちに曲がった。
 少年の息がさらに荒くなった。
 そのこめかみに汗が一筋流れた。
 ――まずい!
 戸井がそう思った瞬間、少年はぎゅっと目を閉じて全身の力をこめて引き金を引いた。
 撃鉄が落ちてかちりと音をたてた。
 それだけで、あとは何も起きなかった。
 両目をおおきく見開いて少年は手に持つ銃を凝視した。
 同時に女はアスファルトを蹴るようにして駆けて一気に距離を詰めた。さらうように少年を抱きかかえてその体を宙に浮かせる。
 少年の甲高い悲鳴が街の静寂を切り裂いた。
 考えるより先に体が動いた。気がついたときには戸井は突進して女に肩からぶちあたっていた。
 よろめきながら、しかし女は倒れなかった。少年を抱きかかえたままふんばって顔を戸井に向ける。
 視線に射すくめられ、戸井は総毛立つような恐怖を覚えた。
 憎しみの激しく燃える瞳で女は戸井を、そして戸井の背後に見いだしたなにかを怒りと共ににらみつけていた。
 ――まともじゃない。
 震えそうになる足を抑え、なんとかそう言葉を心の中でかたちづくるのがせいいっぱいだった。
 戸井に向かって首を突きだし、女は吠えかかろうとでもするように口を開いた。
 鈍い音と共にその視線が宙を泳いだ。
 少年がもう一度銃床を頭にたたきつけると女は叫び声をあげて少年を抱えていた腕を放した。少年は地面に落ちてしりもちをつく。女は頭をかかえて中腰に体をまるめる。おびえた目をおおきく見開いて少年はその場から立ちあがりもせずにあとずさった。
 今度も考えるより先に体が動いた。戸井は女のみぞおちに膝を突きあげ組んだ両手を首筋にたたきこんだ。
 手ごたえはたしかにあった。だが女は首をめぐらせると腕と髪のあいだから血走った目で戸井を刺すようににらみつけた。
 そして、そのままその場に崩れおちた。
「――逃げろ!」
 思わず声をあげて戸井は少年に手を伸ばした。
 けれど少年は茫然と倒れた女を見るばかりで動こうとはしなかった。
 腰をかがめ腕をかかえて無理やり立ちあがらせ、そのまま少年を引きずるようにして戸井は走りだした。
 倒れた女と離れていく二人のあいだを潮風が一陣通りすぎた。

2

 重苦しい闇にのしかかられているような気がした。
 胸の上が特に重い感じがした。息が苦しい。逃げだしたいのに逃げだせない感じ。閉じた瞼はあまりに重くて開こうという努力さえする気になれない。
 やがて胸の上の重さがおなかの上へとゆっくりと移動しはじめた。
 全身に悪寒が走った。でもどうにもできなかった。くすくす笑いが聞こえた。一度聞いたら耳から離れない、あのいやな笑い声が。
 そして瞼の裏に女の顔が浮かんだ――

「――っ!?」
 自分であげた声にならない悲鳴に小巻は布団を跳ねあげて飛び起きた。
 息が荒く乱れていた。体中が汗でびっしょりと濡れている。脳裡にあの女の笑い顔がよみがえりそうな気がして小巻は頭を激しく振った。
 そうしてようやく、見知らぬところにいることに気づいた。
 ベッドの上だった。左側がすぐ壁になっている。右側にはもうひとつのベッド。それほど離れてはいない正面の壁の前には奥行きはないが幅の広い机が置かれているようだった。それ以外の様子は妙な感じで薄暗いせいでよくわからなかった。
「……落ちついたかい?」
 聞き覚えのない男の声の突然のつぶやきに小巻はびくっと体を震わせ両腕で毛布を抱きしめて壁に背中を押しつけた。
 並んでいるもうひとつのベッドの向こう側、壁とのあいだの狭い場所に置かれたちいさいテーブルを挟んで向かいあっている椅子の片側に、声の主は体を深く沈めて座っていた。
 窓からのわずかな明かりが浮かびあがらせる輪郭以外は顔はよく見えなかった。小巻はその顔をまっすぐにらみつけた。息をつめ、警戒を解かずに。
 相手から自分をまっすぐ見返す気配が感じられた。
 と、視線が逸れた感じがした。同時に薄暗さが床のほうから妙な感じで揺れた。
「ごめんね、暗くて。電気は通じているから灯りもつけられるんだけど、あの女が探しに来るんじゃないかって気がしてね」
 勝手に体がびくっと震えた。
 と同時に小巻は男の声を思いだしていた。
 どう考えていいかわからず、小巻は複雑な目で声の主の影を見た。
 その耳に、今度はポットからお湯を注ぐ音が聞こえた。
 なにかを持って立ちあがると影は小巻の前まで歩いてきた。もうひとつのベッドに軽く腰かけ、持ってきたものを差しだす。
「どうぞ。口にあうかどうかはわからないけど」
 小巻は目を凝らして男が持ってきたものを見た。
 茶碗だった。湯気に運ばれる匂いが鼻をくすぐった。
 一度男の顔に目を向け、小巻は茶碗を受けとった。そっと唇をつけて一口すする。あたたかいお茶が喉を通りすぎ、それだけですこしほっとした気がした。
 もう一口お茶を飲み、小巻はあらためて男を見た。
 男は微笑んでいるように思えた。たぶん痩せ型、気弱そうな感じ。小巻はなんとなく四年生のときの担任の先生を思いだした。
 そこで気がつき、思わずすこし身を引いた。
 男は小巻を見守るような感じで何も言わずただながめるだけだった。
 たぶん大丈夫だ、そんな気がした。だから、思いきって言ってみた。
「……おじさん、ヤクザ?」
「――え?」
 意表をつかれた様子でそう言うと、男は視線を下に向けて苦笑した。なさけない雰囲気が伝わってきた。
「あれはモデルガンだよ。本物じゃない。こんなところに来るんだから警戒しなくちゃいけないと思ってね、でもナイフや木刀なんかうまく使えっこないから、脅すだけでも役にたつかもしれないと思って気休めに持ってきたんだだけなんだ……」
 きまりが悪くなって小巻は顔をうつむかせた。
 それでも不思議といやな雰囲気にはならなかった。男の言葉にはどことなく心を落ちつかせる響きや口調が感じられた。小巻はなんだかすごくひさしぶりに安心しているような気分になった。
 次の言葉を聞くまでは。
「……君は残念だったかもしれないけど」
 体がこわばった。硬い顔をして小巻は上目づかいに男を見た。
 暗い中でもはっきりとわかる真剣なまなざしで男は小巻を見つめていた。
「海岸沿いの道は一本道だ。この街を出ればあとは脇道も何もない。時間はかかるかもしれないけど、迷うことはない……
 朝になったら自転車を探そう。君はそれで脱出だ。あの女の人が追いかけないようおじさんが見張るから、安心して行けばいい。隣街にはおまわりさんがたくさんいるからたどり着けばもう安全だ。
 だから、今日は早く寝て――……」
 言葉はそこで切れた。
 自分がうつむいたせいだ、と小巻は思った。
 駄目だ、いけない。そう思った。けど抑えることはできなかった。
 涙が目からあふれ、頬を伝って落ちた。
 そのまま小巻はすすり泣いた。
 静かな部屋の中にその音だけがちいさく響いた。
 やがて、自分でも意識しないまま、嗚咽に言葉が混ざりはじめた。
「……気がついたらベッドの上で……なんかへんな感じの部屋で……裸にされてて、手と足を縛られてて……すぐそばに、あいつがいて……裸で……へんな感じでへんなこと言われて……唇を舐められて……舐められて……」
 そこから先は言葉にもならなかった。声を高めて小巻は泣いた。
 と、持っていた茶碗がそっと持ち去られた。
 そして肩にそっと手が置かれた。
 あの女とはぜんぜん違う、やさしい触れかただった。掌からぬくもりが伝わってくる。そのあたたかさに安心をおぼえて、小巻はそのまま泣きつづけた。
 しばらくそうしてから、自分でも気づかないうちに眠りに落ちた。
「……おやすみ」
 最後にそう言う声を聞いたような気がした。

3

 朝食は自動販売機に残っていたカップラーメンで済ませた。小巻はすごくおいしそうにたいらげた。戸井はスープをもてあまして捨てた。
 ホテルを出るとき、狭いロビーのちいさいカウンターに札を置きペン立てで押さえて振りかえると小巻が不思議そうな目で見ていた。戸井は照れたように頭を掻いた。
「別にお金を払わないのが悪いことだなんて思っいるわけじゃないよ。こんなときなんだし。ただ、なんて言うか……いつもと同じにしてたいんだ、おじさんは。この街では。
 ……わかる?」
 小巻はあいまいな表情のままあやふやに首を縦に動かした。戸井もそれでわかってもらえるとは思っていなかった。
「じゃ、行こうか」
 小巻をうながし、戸井はくたびれたビジネスホテルから出た。

「……余裕だねえ……」
 きちんと閉ざされたシャッターを目のあたりにして、戸井は思わずそんな言葉を口をしていた。
 二人は駅前のスーパーの入口の前に立っていた。いちおう幹線の駅だし地図で見るかぎりではビルをひとつ占有しているようだし、で自転車もあるだろうと考えたのだ。しかし入口からしてこの状況では仮にあったとしても中から外に出すのはむずかしそうだった。
 戸井は隣に立っている小巻に目を向けた。
「自転車屋、どこにあるか知ってる?」
 小巻は前を向いたまま首を横に振った。
 戸井は息をついた。デイパックに詰めこんである小型の地図に個人商店の屋号まで書いてあるとは思えなかった。
「……やれやれ……」
 組んだ手をあげて戸井は軽く伸びをした。そのままの姿勢でふたたび小巻を見おろす。
「しょうがない、すこし歩こうか」
 小巻はこっくりとうなずいた。

 ようやくシャッターの開いている自転車屋を見つけたのは正午も近くなったころだった。
「――やれやれ」
 店の前に立った戸井は肩を落としておおげさにため息をついてみせた。
 ちらりと横目で見た小巻は表情のない顔で自転車屋の中を見ていた。疲れた様子は見えなかった。
「よし、あともうすこしだ」
 どちらかといえば自分に対してそう言い、戸井は店に入って動かせる自転車を探した。
 ひとつもなかった。縦に二列に並んだ自転車すべてに鍵がかかっていた。ペダルもついてないというのに。
 予想の範囲内だった。だから戸井はあわてずにしゃがみ、おろしたデイパックの中をさぐった。
 探しあてたモンキーレンチを取りだして顔をあげると、店の中ほどにたたずむ小巻の姿が目に入った。
 小巻は一台の子ども用自転車の前に立っていた。
 立ちあがった戸井が横に並んでも小牧はただその自転車を見おろしていた。
「それがいいの?」
 戸井の言葉に小巻はこっくりとうなずいた。
「よし、じゃ、ちょっとどいて」
 小巻をさがらせ、戸井は自転車を持ちあげた。すこし広くなっているところまで運び、横にしゃがんで鍵の位置をたしかめる。モンキーレンチを握りなおしてから、戸井はかたわらに立つ小巻を見あげた。
「いいかい? これからおじさんがやろうとしていることは本当なら悪いことだ。でもいまは他に方法がない。だから、しかたなくやる。そのことは忘れないでくれ。君はこんなことしなくてもいいように生きろよ」
 小巻はあいまいな顔で戸井を見返すだけだった。
 戸井も心の底からそう信じて言ったわけではなかった。視線を戻し、モンキーレンチで鍵をはさんでねじるように力をこめた。
 金属がきしんで甲高いいやな音をたてた。
 と、視界の端に映っていた小巻の足が向きを変えた。
 ただならない気配に戸井は腕を止めて顔をあげた。
 小巻は店の外に顔を向けていた。その表情にはおびえがはっきりとあらわれていた。
 戸井は耳を澄ました。
 何も聞こえなかった。
 心配することはないよ、そう声をかけようとした瞬間、遠くからうねるような声がかすかに空気を震わせた。
 小巻は目をおおきく見開かせた。頬のあたりをこわばらせて。
 戸井は立ちあがってすばやく店の中を見まわした。奥へ通じるドアの位置を確認してから小巻の腕をつかむ。
「行こう。向こうだ」
 はっとして顔をあげ、小巻は戸井を見た。戸井は顎でドアを示す。はじかれたように戸井の腕をふりはらってドアに駆け寄り、小巻はノブをつかんで何度もがちゃがちゃとひねったりドアを押したり引いたりをくりかえした。
 そしてふりかえると泣きそうな顔で戸井を見つめた。
「どいて」
 追いついた戸井は小巻を脇へどかせてモンキーレンチを振りあげた。
 鍵が機能を果たさなくなるまで四回かかった。
「急いで!」
 押し殺した声で言い、戸井は小巻の背中を押してドアの向こうに押しこんだ。自分もすぐその後に続いてドアを閉める。
 細長い作業場を通りぬけて勝手口にたどりくまでがずいぶん長く感じられた。鍵を開けて引き戸を開き、小巻の肩に手を置いて様子をうかがおうと頭を出す。
 そのとき、背後から声が、ちいさいけれど今度ははっきりと言葉になって、聞こえた。
「どこなの? ぼうや――」
 小巻が体をこわばらせるのが掌を通じてはっきりとわかった。
 力づけるように戸井は小巻を押した。
 ありがたいことに裏道は人一人が歩けるほどの幅しかなく、しかも右に左にと入り組んでいた。家々のあいだの暗く湿った路地を二人はでたらめに、ただし表通りにだけは出ないよう気をつけて、ただ走った。
 やがて前を行く小巻の肩をつかんで有無を言わせず引き止めると戸井はその場に立ちどまった。
 腰を落とし両膝に手を乗せて上半身を支え、うつむいて激しく息をあえがせた。全身から汗がどっと吹きだす。そのまま身動きできなくなった。いま襲われたらひとたまりもないな、頭の片隅でちらっとそう思いながら、しかしそれ以上どうすることもできなかった。戸井はただむさぼるように呼吸をくりかえした。
 ようやく息がある程度落ちついたところで戸井は息を吸いこみながら顔をあげた。
 近づく物音は聞こえなかった。
 それでも小巻は不安げにあたりをきょろきょろと見まわしていた。安心させるように戸井は小巻の頭に手を乗せ、口から出た言葉はしかし自分でも思ってもいなかったものだった。
「――まいったな、まったく……」
 背筋を伸ばしてあらためて背後を振りかえった。
 あやしい影は見あたらなかった。もちろん物音も。
 知らぬ間に詰めていた息を吐きだし、もう一度つぶやいた。
「まいったな、まったく……」
 そして頭を掻いた。
「まさか待ち伏せしてたってことはないだろうけど……いや、わからないな。いくらこんな田舎街でもでたらめにうろついててぶつかるなんてことは考えにくいし。この調子じゃあ疑えることはなんでも疑っておいたほうがよさそうだな……」
 そこまで口にしたところで戸井は自分が多弁になっていることに気づいた。緊張が解けて気分がヘンなふうにゆるんだらしい。気持ちを落ちつけるために戸井は意識してゆっくりと呼吸をくりかえした。
 そして声に出さずにつぶやいた。
 ――どうする?
 同時に腰のベルトをつかまれた。
 顔を向けると小牧が戸井の顔をすがるような目でじっと見つめていた。
 まっすぐなその瞳は視線をそらすことを許してくれなかった。戸井はただ小巻の目を見かえした。
 と、怖れをそのままあらわすように、小巻は唇をちいさく開いた。
「……おじさんは? いっしょに行ってくれないの?」
「……あー……」
 戸井はむりやり視線を引きはがした。適当な斜め上のほう、ビルの汚れた壁や商店のベランダなどをざっと見わたす。
 それから目だけを動かして小巻を盗み見た。
 小巻は変わらないひたむきさで戸井を見つめつづけていた。
「……んー……」
 うなり、ふたたび視線を逸らして頭を掻き、戸井はもう一度目だけで小巻を盗み見た。
 小巻は戸井を見つめつづけていた。
 ため息をつき、あきらめて戸井は腰を落とし目線の高さを小巻にあわせた。
「おじさんはね、この街でやることがあるんだ。それを済ませるまではここから出て行くことはできない。でも君はそうじゃない。用事も何もないんだから、あの女の人から逃げるためにも少しでも早く――」
 そこで言葉を詰まらせた。
 ベルトを握る力が強くなるのを感じて。
 小巻の目にたまる涙はいまにもあふれそうなくらいになっていた。
 戸井は小巻の頭を片手で胸に抱き寄せた。
 すすり泣く震えが手に、胸に伝わった。
 静かに、表に出さないように注意してそっと、戸井は息をついた。
 しばらくそのまま泣くにまかせ、落ち着いてきたころを見はからって戸井は言った。
「……とりあえず、飯を食おう。腹、へってるだろ?」

4

 中に入れて食べ物のある店を見つけるまでしばらくかかった。
 結局たどり着いたのはパチンコ屋だった。出ていった人間がよっぽどあわてていたのだろう、閉めたつもりの鍵が枠の外にひっかかるかたちになっていて、裏口のドアは何の苦もなく開いた。鍵を壊さずに済んで戸井はちょっとほっとした。
 ポットなどはすぐには見つかりそうになかったのでとりあえずクッキーやビスケットを腹に詰めこんだ。
「――さて……」
 床にあぐらをかいて座る自分のうしろに空き缶を置くと戸井は誰にともなくつぶやいた。脇に置いておいたデイパックの中をあさってポケット版の地図を取り出す。ページをめくるその姿を向かいに座った小巻はジュースを飲みながらながめた。
 と、ふとその手を止めて戸井は小巻を上目づかいで見た。
「君は、この街の人間かい?」
 小巻は首を横に振った。
「そっか。土地鑑のある人がいると助かるんだけどな……」
 つぶやきながら戸井は視線を地図に戻す。ふたたびページをめくるその姿をながめながら小巻はジュースを飲み干した。
 そして言った。
「どうするの? これから」
「んー?」
 戸井は目だけを小巻に向けた。
 見かえす小牧の瞳に浮かんでいるのは希望にも不安にもどちらにも取れた。
 いったん視線を地図に戻し、目で最後の道程を追いかけると戸井はぱたんと地図を閉じてあらためて小巻を見た。
「知りあいの家に行く。といってもその知りあいが昔育ったっていうことなんだけどね。
 もちろん誰もいないだろう。でもおじさんは行かなきゃいけない。行って……届けなきゃいけないものがあるんだ」
 小巻は不思議そうなまなざしで戸井を見かえした。
「……家に? だれかに、じゃなくて?」
「……そう。家に、だ」
「……そんなことのために、わざわざここに来たの?」
「……そう。そんなことのために、わざわざ、だ」
 理解できないとでも言いたげな顔になって小巻は首をひねった。戸井はわずかに目を伏せて苦笑した。
「どうかしてるって思うかい? そっちのほうがやっぱりあたりまえだよな。だから、気が変わったならこんなおじさんの酔狂につきあわなくたっていいんだよ?」
「……スイキョウって、なに?」
「――あ、いや……」
 戸井は苦笑をひっこめて軽く咳払いした。「つまり、別にいっしょに来なくったっていいってことさ」
 小巻は表情をこわばらせて顔を伏せた。
 戸井は舌を打ちそうになるのをなんとかこらえた。
 ――意地の悪い言いかただった。
「さ、そろそろ行こうか。ちょっと遠いみたいだから暗くなる前に着くようにしないと。ね?」
 努めて明るく聞こえるように言い、戸井はデイパックと空き缶を持って立ちあがった。笑みを浮かべた顔で小牧を見おろす。
 すこしぐずぐずする様子を見せながら、それでも小巻は立ちあがった。
 ほっと息をつき、戸井は小巻の頭に手を乗せた。
 そして二人で店を出た。

5

「……このあたりのはずなんだけれどなあ……」
 我ながら情けない声でぶつぶつ言いながら戸井は立ち止まった。
 デイパックのポケットに手をつっこんで地図を取りだし、ぱらぱらとめくった。隣では同じように立ち止まった小巻がまわりをぐるりと見わたしている。自分のいる場所をたしかめようと戸井も顔をあげてあたりを見まわした。
 片側一車線くらいだがセンターラインのない、細い道路の交差点の角に二人はいた。取り囲むのはほんのすこしずつだけかたちの異なる建売住宅。どれもその姿を暮れかかる夜に沈ませようとしている。どの玄関にも、どの窓にも灯りはなかった。電柱の街灯だけがあたりをぼんやりと照らしだしはじめていた。
「……こっちかなあ……」
 自信なげにつぶやき、戸井はぱたんと地図を閉じてふたたび歩きだした。小巻は黙ってそのあとに続いた。
 そんなことを三度くりかえすうちに空はすっかり暗くなっていた。
 いくつめだかの交差点で足を止めた戸井はもうつぶやく元気もなくただ深く息をついた。隣に並んだ小巻も、文句ひとつ言わなかったが、わずかにうつむかせた顔には疲れがはっきりとあらわれていた。
 いいかげんどうするか決めなきゃ、そう思いながら戸井はまた地図を取りだした。
 と、よどんだ雰囲気を破るように突然犬の吠え声が響いた。
 小巻はぱっと顔をあげて駆けだした。
「――あっ、おい! ちょっと!」
 戸井はあわててあとを追いかけた。
 角をふたつ曲がったところで小巻は速度を遅くした。だんだんと速さをゆるめて鉄製の格子門の前で足を止める。そして門にまっすぐ向きあって相手をじっと見つめた。
 追いついた戸井は小巻の斜めうしろで足を止めると息を切らしながら同じように門の向こうを見た。
 犬はひきりなしに吠えつづけていた。
 犬小屋と自分をつなぐ鎖をめいっぱい引きのばして門にせいいっぱい体を近づけていた。それでも前足がかろうじて下の枠にかかるくらいまでが限度のようだった。吠え声はその事実に対して怒っているようにも悲しんでいるようにも聞こえた。
 その姿を小巻はすこし悲しげな目で見つめていた。
 その姿を戸井はただ見つめた。
 やがて静かにつぶやいた。
「……連れては、いけないよ」
 小巻はこくんとうなずいた。
 それでも門の前を動こうとはしなかった。
 その様子をしばらく見つめてから、戸井は視線を離してふとあたりを見まわした。
 目に飛びこんできた表札に息を飲んで立ちつくした。
 気配の変化に小巻は犬から戸井に視線を転じた。それからこわばった顔が見つめる先を目で追いかける。
「……そこ?」
 小巻の問いに戸井はいまにも泣きだしそうな笑みを浮かべた。
「……まいったなあ……こんなはずじゃなかったんだけどなあ……」
 深く息を吐きだし、何度もまばたきをくりかえす。前に進もう、そう頭では思うのだが、体が動いてはくれない。まるで一瞬でひどく歳をとってしまったような気分だった。
 と、そんな戸井をとがめるように、小巻に腰のベルトをつかまれた。
「わかってるよ――わかってる」
 観念したように、小巻にというよりは自分自身に対して言い、ようやく戸井はなんとか足を一歩前に踏みだした。
 鉄製の門は乗り越えた。掛け金をはずして小巻を中に入れ、あらためてドアに向きあう。デイパックの中から取りだした鍵を差しこみくるりとまわすと錠は苦もなく開いた。
「お邪魔……します」
 遠慮がちにそう言い、戸井は暗い家に靴を脱いであがった。
 見つけたスイッチを入れると光がまぶしいほどあふれ、思わず戸井は目を腕でおおった。靴を脱ごうとしていた小巻が同じように目を隠すのが視界の端に写った。
「……なんだかな……」
 そんなことをつぶやきながら戸井は居間へと進んだ。
 入ったところで立ち止まり、そのまま動けなくなった。
 脇をすり抜けて居間の中に入った小巻は戸井の顔とその視線が向かう先とを交互に見た。
 戸井は部屋の隅に据えられた仏壇をじっと見つめた。険しい大人の顔で。
 小巻は口を開きかけ、何も言わずに閉じた。
 そのまま、しばらく刻が過ぎた。
 やがて目を細め、戸井はスラックスのポケットに手をつっこんだ。仏壇に近づいてポケットから引きだしたものを壇の上に乗せる。そして一歩身を引き、なさけない音の吐息をついた。
 小巻は首を伸ばして仏壇に乗せられたものを見た。
 くすんだ銀色のちいさなアクセサリだった。女物の。
 小巻は戸井の顔を見あげた。
「……それを、届けにきたの?」
「――ああ、そうだ」
 戸井は目を閉じて天をあおいだ。
「……そうだ……」
 そしてそのまま全身の力が抜けたみたいにその場にへたりこんだ。
「……別に、誰に頼まれたわけでもない。やらなくちゃいけなかったわけでもない。ただやりたかったんだ。そうしなきゃいけない気がしたんだ。
 でも、どうなんだろう?……」
 放心したような疲れ果てたような雰囲気で戸井はつぶやいた。
 涙があふれそうになった瞬間、自分を見つめる小巻の視線に気づいた。
「――ごめん! おなか空いただろ? なんか食べよう。おじさんもおなかペコペコだよ」
 子供を相手にする大人の態度を取り戻して戸井は立ちあがった。その様子を小巻は何も言わずに見つめた。

6

 夕食は戸井が持ってきた缶詰で済ませた。
 非常用にとこの街の外から持ってきた缶詰だった。もう持ち歩く必要はないから荷物を減らす意味もこめていくつか開けた。わびしい食事にはちがいなかったが、電子レンジであたためることができたのと明るい部屋で食べることができたのとでそれまでよりはずいぶん雰囲気はよかった。すくなくとも戸井はそう感じた。
 軽く済ませて、これも持ってきていたペットボトルの水を飲みながら戸井は台所のテーブルに向かいあって座る小巻の食事の様子をながめた。うつむいた小巻はのろのろとフォークを動かして缶の中身を口へと運んでいた。
 あとはこの少年を街の外へ送りだすだけだった。
 ――そのあとは?
「――誰の? あれ」
 最後の一口を食べ終えると小巻は顔をあげて唐突にそう言った。
 不意をつかれて戸井はすぐに応えることができなかった。と、その顔をじっと見つめて小巻は言葉を続けた。
「知りあいの人の? だからこの家の鍵を持ってたの? なんでその人が自分で持ってこなかったの? なんで頼まれてもいないのに持ってきたの?」
 そこで小巻は一度言葉を切った。さぐるように目を上目づかいに変える。
「……その人、女の人?」
 ペットボトルを置き、視線をそらして、戸井は言った。
「そうだよ」
 一瞬の間があった。
「……好きだったの?」
 率直なもの言いに戸井は苦笑した。
「……そうだね」
 ひとりでに吐息がひとつ漏れた。「そう言えばそうなんだろうな、たぶん」
 戸井は目を閉じた。瞼の裏に自分たちの若いころの姿がよみがえったような気がした。
 小巻の視線はまだ感じられた。
 話しても意味がない、こんな子供にわかるはずがないんだから。そう思った。けれど話さないと許されない気がした。小巻の問いに答えられない気がした。
 だから、戸井は話しだした。記憶をなぞる言葉を探しながら。

 ……大学で知りあったんだ。入学式とオリエンテーションでなんとなく顔を覚えて、そしたら第二外国語の最初の講義のときに隣に座ってきた。おっ、ていう感じで見たら向こうもおって感じで見かえしてきて、それがはじまり。二人とも田舎から出てきてろくに知りあいがいないってことで気があって、しばらくはなにかといっしょに動いてた……しばらくは。
 そのうちにお互い友達もできる。サークルにも入る。心細さも薄れてきて、気がついたらたくさんの友達の中の一人になってた……
 普通ならそれで終わるはずなんだけど。
 変なのにひっかかっちゃってね。
 知らなかったんだ。最初は。そのころはもう見かけたときに言葉を交わすくらいになってたし、俺はサークルの部室に入りびたりで他の同期生にはちょっとうとくなってたし……様子が変わってたとしても気づかなかった。
 それが……夏休みが明けたころになって、俺のところにまで噂になって聞こえてきた。
 はじめはまともに取りあわなかった。いまどきそんなのにひっかかる奴がいるはずないって笑ってた。馬鹿なことをやる連中の醜態はもう見飽きた、子供心にそう思ってたくらいだから誰でもわからないはずがない、そう思ってたんだ。
 だから、それが本当だってわかったときはショックだった――直接本人の口から聞かされたから、なおさらね。
 そのときのことはよく覚えてる。秋の長雨が過ぎたあとの気持ちのいい夕暮れだった。たまたま早く帰るところだった俺のところにまるで待ち伏せしてたみたいに近づいてきて、ちょっとお茶でもしてかない?って向こうから誘ってきた。用事があったけど急ぐわけでもなかったから深く考えないでうんって答えて、そのまま二人で駅前のコーヒースタンドに入った。
 それから店が閉まるまで、あいつは必死になって俺を勧誘した。
 そう、本当に、必死だった。見ていて痛々しくなるくらいに。その様子を見るだけであいつがあたらしくできた友達の誰からも相手にされなくなってることがよくわかった。そりゃそうだ、俺だって相手にしなかったんだから。
 ただ、一所懸命自分がよかれと思っていることを他人に認めさせようとしている姿を見ていたら、なんだか悲しくなった。
 そして思ったんだ――俺だってもしかしたらあいつみたいになってたかもしれない、そうなってたっておかしくなかったんだ、って。
 もちろん、だからといってあいつの言うことを聞くわけにはいかなかった。ミイラ取りがミイラになる、そんな危険は、あいつには悪いけど、どうしても犯す気にはなれなかった。
 けど別れ際、気落ちして去っていくあいつの背中を見ていたらやりきれなくなった。
 それで一晩眠れない夜を過ごして決めたんだ。どんなことがあってもあいつから話しかけられたら耳を傾けることにしよう、たとえあいつが独りきりになったとしても俺に向けられた言葉があるなら聞くようにしよう、って。

 言葉を切り、戸井は息をついた。
 ふと見ると小巻はテーブルに頭を持たせかけて目を閉じていた。規則正しい寝息が静かに聞こえる。
 微笑み、手を伸ばして戸井は小巻の髪に触れた。
「……ごめんな。つまらない話をして」
 言って立ちあがり、あらためて家の中を見てまわった。
 二階の寝室に布団を敷き、台所に戻って小巻の肩をゆすった。寝ぼけまなこの小巻は素直に戸井にしたがって布団の中に入った。目を閉じるのをたしかめてから戸井は台所に戻った。
 椅子に座り、デイパックからウィスキーの子ビンを取りだして封を切った。
 直接ビンに口をつけて一口を静かに飲むと灼熱感が喉から胸に広がった。
 ――終わった……
 心からそう思った。
 続けて一口飲むと、緊張感が切れたせいだろうか、眠気がたちどころに襲ってきた。本当はまだ終わりじゃない、小巻をここから送りださないといけない、そう思ってももう睡魔にたちむかう余力は残っていなかった。戸井はテーブルに突っ伏して目を閉じた。
 脳裡にあいつに似た輪郭が浮かんで消えた、気がした。

7

 薄目を開くと闇ではないものが見えた。
 二、三度まばたきしてから小巻ははっきりと瞼を開いた。体を起こし目をこらしてあたりを見まわす。馴染みのない室内の様子がぼんやりと見えた。
 夜は明けはじめていた。耳を澄ますと遠くから鳥の鳴く声がかすかに聞こえた。
 小巻は布団の中からそっと抜けだした。
 部屋を出て足音を立てないようびくびくしながら階段を降り、そのままの調子でそっと部屋を見てまわった。
 戸井は仏壇の前で体をまるめて眠っていた。ちいさないびきが部屋の中に静かに響いていた。
 すこしのあいだその姿を見つめてから、小巻は戸口を離れた。
 玄関のドアを閉めるときにすこしおおきな音がした。びくっと首をすくめ、小巻はその場に立ちすくんで家の中の様子をうかがった。けれど人の起きだす気配は感じられなかった。ドアに背を向け小巻は走りだした。
 門を出たところで犬はもう吠えはじめていた。
 前に駆けよると門に前足をかけて体を小巻にせいいっぱい近づけた。小巻が門に手をかけ頭を近づけるとさらにおおきな声で吠えた。その姿を小巻はじっと見つめた。
 雑種に見えた。おおきさは小巻よりひとまわりちいさいくらい。たぶんきちんと整えられていただろう短い毛並みは汚れはじめていた。そんな状況に置かれていることに怒りをぶつけるように犬は吠えつづけた。
 その瞳をまっすぐ見つめてから、隙間から手を差し入れて鍵を探った。犬は吠えつづけてはいたが邪魔をしようとはしなかった。
 すこしかかって見つけた閂型の鍵はしっかりとロックされていた。
 手を抜き、小巻は両手で門をつかんでめいっぱいの力で揺さぶった。
 硬く耳ざわりな音がするだけでびくともしなかった。
 疲れて手を放すと小巻は深く息をついた。
 犬は吠えるのをやめなかった。声はむしろおおきくなったように感じられた。
 意を決して小巻は門の上に手をかけ、乗り越えようとジャンプした。
 背後からだれかの腕が腰のあたりにまきつけられた。
「――!?」
 空中でさらわれるような感じで地面におろされる。何が起きたのかたしかめようと振りかえった瞬間、
 膨らんだ胸が顔に押しつけられ、小巻は固く抱きしめられた。
 忘れたくても忘れられない感触に小巻は悲鳴をあげた。だがその声は女の胸に吸いとられて外に響きはしなかった。
「駄目じゃない、ぼうや。あたしを置いて遠くに行ったりしちゃあ」
 耳元でささやかれた甘く妖しい言葉に小巻は背筋が凍るのを感じた。
「さあ、帰りましょう――」
 その優しい調子とは裏腹に女は小巻を鋼のような力で抱いたまま持ちあげて向きを変えた。
「――動くな!」
 叫び声が女の動きを止めた。小巻は首を無理にねじって女の胸に埋もれていた顔を声のしたほうに向けた。
 昨日泊まった家の門を出たばかりのところに立って戸井は両手でかまえた銃をこちらに向けていた。
 ちらっと小巻の目を見てちいさくうなずくと戸井は視線を女に戻した。
「その子を放せ」
 女は小巻を抱きしめる力にさらに力をこめた。
「――消えなさい! この子は私のものよ! 誰にも渡しはしないわ!」
「違う。その子は誰のものでもない。その子自身のものだ」
 女とは対照的に戸井は抑えた声で、しかしはっきりとたしかに、言った。
「その子には未来がある。それを台無しにする権利は誰にもない」
 女は嗤った。甲高く耳ざわりな声で嗤いつづけた。
 そして言った。
「本気でそんなこと思ってるの? もう手遅れに決まってるじゃない。あたしたちみんな死ぬのよ。どっかの馬鹿が派手にぶっ壊した原発から盛大に撒き散らされた放射能に頭のてっぺんから足のつま先までまみれてね! 未来なんてあるわけないじゃない……」
 言葉を切り、唇を舐めて女は笑みを歪めた。
「だから、好きなことをして思い残すことなく死ぬのよ。いいじゃない最後くらい、いままで生きてていいことなんかひとつもなかったんだから……」
「駄目だ。その子を放せ」
 二人はまっすぐにらみあった。小巻は女の体がすこし熱くなるのを感じた。
 先に口を開いたのは戸井だった。
「……俺はもうおしまいでいい。あんただってそうなんだろう。そんな連中はたしかにどうなったっていいだろうさ。俺だって知ったこっちゃない。
 だがその子は違う。たとえほんのわずかに過ぎないとしても、その子にはまだ可能性が残されている。俺やあんたみたいに自分でなにもかも台無しにしちまったわけじゃないんだから。
 さあ、もう一度言う。その子を放せ。放さなければ――撃つ」
 戸井は銃をかまえなおして目を細めた。
 言葉をはねかえすように女は吠えた。
「――できもしないことを言うな! おもちゃで脅しているだけなのにえらそうなことを言うな! 口先だけでその場をとりつくろうしか能のない奴が、調子のいいことばかり言っていざとなったら人を見捨ててさっさと逃げだすような奴が、どんなに頼んでも聴く耳さえ貸そうともしないで自分に都合のいいことばかり要求するような奴が――」
 小巻をかばうように女は戸井に背を向けた。
「――この子はあたしのものだ! 誰にも渡すもんか!」
 さらに強く締めつけられて小巻は息をあえがせた。
 その耳に戸井の言葉が響いた。
「目をぎゅっと閉じて歯を食いしばって――」
 小巻は言われたとおりにした。
 次の瞬間、銃声がすべての音をかき消した。
 二人は体を震わせこわばらせた。女の腕の締めつけが緩んだ。
「――離れろ!」
 戸井の叫びに小巻は反射的に身をよじって女の腕を振りほどいた。
「――待ちなさい!」
 よろめきながら、女がふたたび腕を巻きつけるより先に胸を突き飛ばす。反動で小巻は二、三歩あとずさってからしりもちをついた。女はバランスを崩してうしろによろめいた。
「伏せろ!」
 絶叫に小巻は体をひねってうつぶせに体をまるめた。
 銃声が三回響いた。
 はっとして小巻は顔をあげた。
 けどそれ以上動けなかった。
 あたりから物音がまったくなくなってしまったような気がした。
 やがて、うしろで重たいものが倒れる音がした。
 小巻は動けなかった。いつのまにか全身が震えていた。
 時間が止まってしまったような気がした。
 背中に手が触れて、時間はふたたび動きはじめた。
 やさしいぬくもりだった。それだけで震えが止まった。
 ふりかえろうとして、
 小巻は気づいた。今度は自分に触れている手のほうが震えていることに。
 戸井は泣いていた。
 見えなくても気配でわかった。涙を流してはいないが、声をあげてはいないが、それでも、戸井は泣いていた。
 小巻はどうしていいかわからなくなった。
 ただそのままの姿勢で待った。次になにかが動きだすのを。
 空は青く色づきはじめていた。

8

「この道をまっすぐ行くんだ。ずっと海沿いに続いているから迷うことはない。陽が沈むまでには着けるだろうから、無理はしないで。疲れたらすぐ休んで甘いものを食べるんだ。いいね?」
 小巻はこっくりとうなずいた。しゃがんでその目を見ていた戸井もちいさくうなずいた。
 二人は海に面した道路にいた。防波堤の向こうでは寄せる波が波消しブロックにぶつかって音をたてている。青い空には白いおおきな雲がいくつかぽっかりと浮かんでいた。
 小巻は自転車のハンドルを握り、背中には戸井のデイパックを背負っていた。デイパックはまだ小巻にはおおきかったがストラップを締めつけることでなんとか間にあわせた。
 戸井は身軽になった手をもてあまし気味にうしろのポケットに挿した銃に触れたり離したりしていた。
「誰かに聞かれたら、怖いおじさんに閉じこめられてたって言うんだぞ」
 小巻はもう一度うなずいた。立ちあがり、道を明けるようにあとずさって戸井は小巻の背中のデイパックを軽く叩いた。
「よし。行け」
 けれど小巻はまっすぐ前を見たまま動かなかった。
「……どうした? 早く行け」
 その言葉に小巻は顔をあげて戸井を見た。
「おじさんは? いっしょに行ってくれないの?」
 戸井は表情をこわばらせた。
 そのまま顔をそむけて街のほうに目を向けた。
「……おじさんは、いっしょには行けない。そんなことはできない」
「……どうして?」
 きびしい声音にもひるまず小巻は聞きかえした。
 戸井は顔を見せようとはしなかった。
「おじさんにそんな資格はない。人殺しが自分の犯した罪もつぐなわずにのうのうと生き延びるなんて、そんなことが許されていいはずがない」
「――ぼくを助けてくれたんじゃないか!」
「――それだけじゃない!」
 激しい叫びは小巻のあげた声をかき消した。驚きに小巻は目を見開いた。
 戸井は拳を固く握り締めていた。
「……たぶん俺はあの女を殺したかったんだ。あいつの代わりに。あいつを止められなかった代わりに。
 あいつを止められれば、こんな恐ろしいことにはならなかったんだ……
 俺は何もできなかった。あいつの話を聞くだけで、他に何もできなかった。馬鹿みたいなことを言われても信じなかった。本当だっていくら言われても取りあわなかった。
 だってそうだろう? 信じられるわけないじゃないか。あんな夢物語みたいな計画がうまくいくだなんて。
 あいつだって何もできなかった。原発を壊したからって何も変わりゃしなかった。ただ自分が命を落として残された人たちがおびえて暮らさなきゃならなくなっただけだ。あいつが目を輝かせて話していたことなんて何も実現しやしなかった。
 そんなことを望んでいたはずじゃないのに。
 けど、じゃあ何を望んでいたんだろう?」
 握り締められていた拳が、ふと、ゆるんだ。
「……それがわかれば、こんなことにはならなかったのに……」
 言葉はそこで途切れた。
 何も言えず、小巻はただ戸井を見つめた。
 やがて戸井のささやくような声が聞こえた。
「……行け……」
「――え?」
「――行くんだ! いいから早く行け! さっさとしろ! まだ残されている可能性に向かって走れ! そして未来にたどり着くんだ!
 俺たちのようにはなるな!」
 怒鳴りながら戸井は小巻と自転車を押した。追いたてられるようにして小巻は自転車にまたがった。
 バランスが取れて振りかえったときには戸井はもう離れたところにいた。
 戸井は手に持つ銃を小巻にまっすぐ向けていた。
「死にたくなかったら戻ってくるな!」
 その叫び声に小巻は歯をくいしばって顔を前に向けて自転車を漕ぎだした。
「そうだ! いいぞ!――そのまままっすぐ――……」
 戸井の声はあっというまに遠くなって聞こえなくなった。
 小巻はただ懸命に自転車を漕いだ。
 防波堤が途切れて海が見えるところまでたどり着いたとき、うしろのほうで銃声が一発響いて消えた。
 小巻は止まらなかった。ふりかえらなかった。涙で顔をくしゃくしゃにしながら、ただ走りつづけた。

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