1
空いっぱいに溢れんばかりの星が輝いていた。
「うわあ……」
ホールの中央に二、三歩進みかけたところでクリスは思わず足を止め息を飲んで頭の上をながめた。
「ほう、これは……」
「きれい……」
大人たちが口々につぶやきながら脇を通りすぎていく。やがてその流れがとどこおってまわりにも人が立ちどまるようになったのでクリスは輝きをさえぎる姿がないところをめざして駆けだした。そして壁にぴったりと体を張りつけるとあらためてドーム型のホールを覆う透明な壁越しに星空をながめた。
真正面には荒涼とした月の地表が広がっていた。そのずっと先には地球が地平線のすこし上に浮いている。青いその輝きは映像で見るものよりずっとくっきりとしていた。
吐く息がその姿を曇らせた。クリスは視線を上に転じる。降ってきそうなほどたくさんの星が瞳に映った。そのどれもが手を伸ばせば触れられるのではないかと思うほど身近に感じられた。クリスと星をさえぎっているのは透明な壁だけだった。
――やっぱり来てよかった。
生まれてはじめてのきらびやかな景色に視線を奪われながらクリスは心の底からそう思った。その場でぴょんぴょん飛び跳ねそうになるのをいっしょうけんめい我慢する。六分の一の重力でそうすることがどんなに楽しいかはすでに実験済みだったけどいまそんなことをしたらあとでどれほど怒られるかはよくわかっていた。
「クリス!」
抑えた、けれど鋭い声が耳に刺さる。クリスは未練をたっぷり残しながらうしろをふりかえった。
ドームホールはもう礼装をした大人たちでいっぱいになっていた。それぞれがいくつかのグループに分かれて言葉を交わしている。ある人たちは空を見あげ、ある人たちは笑いながら。ハンスはそのうちのひとつ、クリスにいちばん近いグループにいた。体を半分ほど開いてクリスに向けている。顔は微笑を浮かべているが目は笑っていなかった。
――お父さん、ほら見て! 星があんなにきれいだよ! ほら、地球がこんなに近く見える!
できることならクリスはそうやって声をあげたかった。けれど飛び跳ねてはいけないようにいまそんなことをしてはいけないこともよくわかっていた。クリスは声に出さずに息をついてからせいぜい大人っぽく見えるよう努めてハンスまで歩いた。グループの面々に会釈をするとハンスは外交用の笑顔を浮かべてクリスの肩に手を置いた。
「えー、ご歓談のところ申し訳ありませんがこちらにご注目ください。しばしお静かに願います」
アナウンスに喧騒はさっと静まった。壁際に用意されたマイクスタンドに注目が集まる。スポットライトがマイクを前にして立つ若い男をまわりよりすこしだけ明るく照らしだした。
「これより<月の瞳>展望ホテル開設記念パーティーをはじめたいと思います。その前にまず当展望ホテルの支配人であるアンニキ・ファビエから一言ご挨拶を――」
若い男と入れかえに背の高い初老の女がマイクの前に立つ。盛大な拍手が沸き起こった。星々の宝石を背にした女はにっこりと微笑むとゆっくりと一同を眺めわたした。
やがて拍手が静まりホールが水を打ったように静まりかえるとファビエはおもむろにマイクに口を近づけた。
「皆様、本日はご来訪まことにありがとうございます。心から感謝いたします。そしてこの言葉に、本日皆様方を迎えることができたことを誇りに思う、と、こうつけくわえさせてください。皆様方にはあらためてご説明するまでもないでしょうが、ここ、月最初の観光宿泊施設である当<月の瞳>展望ホテルを開設するにあたっては幾多の困難を乗り越えてこなければなりませんでした――」
クリスはあくびをひとつ噛み殺した。
――いまさらこれはないよな。
目の前にご馳走を出されておあずけにされたような気分だった。ここに来るまでにもう充分いろいろ式典やらなにやらをしてきているのだからさっさと終わらせればいいのに、クリスは内心そうつぶやく。しかしそんなクリスの想いとは裏腹に支配人の挨拶は一言どころか終わろうとする気配さえ見せなかった。大人たちはというとあくまで笑みを浮かべて静かに話を聞いていた。
また浮かんできたあくびを噛み殺すとクリスはそっと視線をドームの外へ、さっきまで見ていた輝く地球のほうへと動かした。
見つけたものに息を飲んだ。
ドームのすぐ外に宇宙服が立っていた。
ずいぶん小柄な宇宙服だった。わずかにスモークのかかったバイザー越しに中の顔が意外なほどはっきりと見える。その顔にクリスは驚きに目をみはった。
人形のように整った顔だちはまぎれもなくクリスと同年代の女の子のそれだった。
見開かれたその瞳はクリスをまっすぐ見つめていた。
数秒のあいだ二人はただ互いに見つめあった。
突然なにかに気づいたように女の子は激しく唇を動かした。
もちろん何を言っているのかクリスにはまったくわからなかった。けれどその動きのおおきさやせっぱつまったような表情、それにあわてたような身振りはたしかに大事なことを伝えようとしているように見えた。
――どうしよう?
クリスは素速くあたりを見まわす。スピーチはまだ続いていた。大人たちはみなマイクのほうに注目していて誰も女の子に気づいていないようだった。
女の子の態度からすると誰かに知らせたほうがいいのはまちがいないようだった。けれど場にそぐわないようなことをしてまでそうする勇気はなかった。いい子にしていること、それはここに来るにあたってハンスが求めた唯一のことだった。どうしていいかわからずクリスは視線を女の子に戻した。
途方に暮れたような表情を認めたのだろう、女の子はヘルメットの中で首を横に振った。ふりあげた拳をいらだたしげにふりおろし、はっとした表情を浮かべてあわてて背を向ける。最後に一瞬クリスに目を向けてから女の子はその顔をヘルメットの陰に隠した。
小柄な宇宙服はかろやかに跳ねてドームから遠ざかった。
あっけにとられてその軌跡を見送り、思わずクリスはハンスの袖を引こうと手を伸ばした。
轟音がクリスの耳を聾した。
次の瞬間にはものすごい力で床に叩きつけられていた。跳ねあがった体にさらになにかのかたまりがぶちあたる。クリスはドームの反対側の壁まで運ばれ押しつぶされた。あまりの苦しさに息を吐きだすと吸いこむことができなくなった。どうしようもなく意識が遠のき、いくつも重なる悲鳴と怒号を妙に遠く感じながらクリスは気を失った。
最後の瞬間脳裡に映ったのは女の子が跳び去る前に見せた不安げな表情だった。
2
目を開くと闇が見えた。
ゆっくり二、三度まばたいた。そっと首を左右にめぐらせてまわりの気配をうかがう。人はいないようだった。脇に置かれたおおきくて重たげな機械がLEDを明滅させながら静かに音をたてていた。
クリスはベッドの上であおむけに横たわっていた。
布団の下でそっと手を動かして胸に触れた。パジャマの下に巻かれた包帯を感じとる。息をするたびにかすかにきしむような違和感が感じられた。
ぼんやりしていた意識が次第にはっきりしてきてクリスは何があったのかを思いだした。
――なんだったんだろう? あれは。
考えたとたん体に震えが走り、痛むのもかまわずクリスは身をちぢこまらせた。轟音がよみがえったような気がしてあわてて耳を両手でふさぐ。それでも音は頭の中で響くのをやめなかった。クリスは目をぎゅっとつぶって布団を頭からすっぽりとかぶった。
――なんだったんだろう?
クリスはその瞬間のことを思いかえした。考えられることはひとつしかなかった。けれどなぜそんなことが起きたのか理由はまったくわからなかった。
突然はっとしてクリスは目をおおきく見開いた。
――父さんは?
息を殺してあらためてまわりの気配をうかがう。話し声も身動きするかすかな音もまったく聞こえなかった。ただ機械がたてる静かな音が響くばかりだった。
クリスは部屋の中にひとりぼっちだった。
心細さに泣きそうになった瞬間、ドアの開く音がいやにおおきく響いた。
クリスはびくっとして身をこわばらせた。息を詰めて次に起きることをじっと待つ。希望と不安がいりまじって心臓の鼓動を速めた。
けれど何も起きなかった。
静寂は不安を強めた。クリスは目を閉じ布団の中でなにかが起きることを祈った。
と、クリスの耳に乾いた軽い音が忍び寄った。
足音だった。ゆっくりと、けれど規則正しいリズムに乗ってそのちいさな音はクリスに近づいた。あくまでそっとしたその調子はかくれんぼの歩きかたみたいだった。明かりもつけずにそんなふうにして近づいてくる理由がわからなくてクリスは警戒にますます体をこわばらせた。
足音はクリスの頭の近くで止まった。
そのまま何も起きなかった。
臆病になった心にも好奇心が生まれ、じっとしているのにも我慢できなくなってクリスはそっと布団から頭を出した。
闇の中に小柄な輪郭がぼんやりと浮かびあがっていた。
輪郭はクリスを見おろしていた。表情はまるで見えなかったけどそれだけははっきりとわかった。クリスは息を詰めてその顔を見かえした。
――だれ?
喉まで出かかったその言葉を、けれどクリスは口には出さなかった。言ってはいけないような気がした。訊いたらなにかを駄目にしてしまうような気がした。
クリスはただじっとその影を見つめた。
やがて、ふっ、とぼんやりとした輪郭が揺らいだ。
「……ごめんね」
かすかなささやきは女の子の声だった。
――君は!?
あげようとした声も起こそうとした体も痛みにさえぎられた。思わず体を丸めたクリスの耳に急いで遠ざかる足音が届く。くぐもった息を漏らしながらクリスはなんとか頭を起こして去っていく影に目を向けた。
開いたドアから射しこむ白い光が波打つ長い髪をきらきらときらめかせた。
すぐに女の子の背中は廊下に去って見えなくなった。ドアが閉まって闇と静寂が室内に戻る。クリスはふたたびひとりぼっちになっていた。
3
「――なんですと?」
それまでうつむかせていた顔をあげてハンスは部屋の正面に座る人物を見つめた。
視線を向けたのはハンスだけではなかった。会議室に集まったすべての人間がホワイトボードを背にして座る警備室長を注視した。
フレサンジュ警備室長は鳶色の瞳に厳しさを浮かべて人々の顔をざっとながめわたした。
「たったいまお話ししたとおりです。たいへん遺憾なことですが、開設記念パーティー中のドームホールで発生した爆発は事故ではなく何者かの手による意図的なものという疑いが強まりました」
「それはつまり、誰かが爆発をしかけたということですか?」
ウェルケ地域委員の問いにフレサンジュはゆっくり視線をそちらに向けた。
「簡潔に要約すればそういうことになります」
静まりかえっていた会議室に一気にどよめきが広まった。
「どういうことだね!? ここの警備態勢は万全という話だったではないか!」
トンプソン第八総局局長のあげた声に応じる言葉がいくつも続く。警備室長は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべて首をちいさく横に振った。
「もちろんよくご理解いただいているとは思いますが、ここは地球より遥かに安全です。厳重な審査をくぐりぬけてテロリストが渡星許可を得ることはまず不可能ですし、何重ものチェックの網をすりぬけて重火器類のような危険物が持ちこまれることもほぼありえません。そのことはなによりもまず皆様ご自身が、<月の瞳>展望ホテル開設記念式典に参加されるためにわざわざ地球よりシャトルでお来しいただいた皆様方のほうがよくご存知でしょう。
ですが何事にも完璧はありえません。現在月には私たち<月の瞳>展望ホテルの職員以外に各国共同体・連合の研究施設で働く研究員が数十人長期滞在しています。もちろんその研究者たちも皆様方と同様の審査をパスして月に来たわけですが、しかし全員が未来永劫に渡って善人であり続けるとは誰も保証できますまい。つまり犯罪の潜在的な可能性を無にすることはできないのです」
「たかが数十人ではないですか。全員に対して聞きこみをすれば犯人はすぐにわかるのでは?」
落ちついた調子のアギーレ議員の質問はどよめきをいくらか静めた。だがフレサンジュは視線をわずかに伏せるとちいさく息をついた。
「そうできたらどんなにいいでしょう。しかし残念ながら我々は警察ではありません。たしかに統一ヨーロッパから捜査代行の委任を受けてはいますがその権限はあくまでこの施設限定です。他の施設に対しては基本的に力はありません。
これまで月面は相互信頼によって平穏が保たれてきました。その前提を根本からゆるがす今回のような事件にはできるだけ慎重に対応しなければならないと考えます――政治単位間の外交問題に発展させないためにも。もちろんこういったことは皆様方のほうがよくおわかりかと思いますが」
ハンスは片方の眉をあげた。
「その……いまの口ぶりからすると、どうも心あたりがあるように聞こえるんですが」
問いはどよめきをまた強めた。フレサンジュはハンスを横目で見ると苦笑してみせた。
「さあ、どうでしょうか。とにかく私としては立場上月にいる人間全員を疑わなければなりません。ここにいる皆様方も含めて」
「なんだと!? あんた、俺たちの中に犯人がいるとでも言いたいのか!?」
椅子を倒さんばかりの勢いで立ちあがるとモナール議員はフレサンジュを指さして叫んだ。フレサンジュは眉ひとつ動かさなかった。
「ご理解ください、立場上はあくまでそうせざるを得ないのです。可能性がないとは言いきれないのですから。もちろん私個人としてはそんなことはあってほしくないと願っておりますが」
あくまで冷静なフレサンジュの態度にモナールは憤りを隠さないながらも腰をおろした。
しばらく重苦しい沈黙が会議室をうずめた。
やがてジェイソン法務官がぼそっとつぶやいた。
「……冗談じゃないわ、こんな状態で次の便を一週間も待たなきゃならないなんて」
「やはり臨時便を要請すべきでは? 我々がここにいてもできることは何もない。むしろ大勢の人間が無防備に集まっていては危険だ」
「それはシャトル一往復のコストを理解しての発言ですか? まだ犯罪だと決まったわけでもないのにそんなことは要求できないでしょう」
「でも現実に怪我人が出てるんですよ。幸い命に別状のある人はいまのところいませんが、万が一容体が悪化したときにここでは手の打ちようがありません。その点では地球のほうが遥かに安心です」
「しかし怪我人が往復の負担に耐えられるかね。移動で容体が悪化したのでは本末転倒だ」
「そんなことよりもいまは爆発の原因を究明することのほうが先でしょう。まだ人為的な犯行と決まったわけではないんですから。対策は事実がはっきりしてから考えるべきで――」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか! 現実に被害が出ているんですよ!」
云々。
これらのやりとりをハンスはほとんど聞いていなかった。口をはさむ気にもなれなかった。考えるのは怪我をしたクリスのことばかりだった。
――やっぱり連れてくるんじゃなかった。
そう後悔してもいまさらどうにもなりはしなかった。
そもそも本来式典に未成年が出席する余地はなかった。それをハンスは自身の政治力を駆使して離婚した妻の代わりとしての参加をむりやり認めさせたのだった。ハンスにしてみれば普段父親らしいことをしてやれないことの埋めあわせのつもりだった。だから本人の乗り気でない様子にも気づかないふりをしていた――来ればきっと気にいるはずだと信じて。
それらよかれと思ってしたことが結果的には裏目に出てしまったわけだった。幸い大事には至らなかったものの、怪我の責任はあきらかに自分にあるとハンスは感じていた。まだ寝ているはずのクリスのことを思うと胸が痛んだ。
――すまん。
口に出さずにそうつぶやくとハンスはちいさく息をついた。たくさんの言葉が飛びかう会議室でその吐息に注意を払うものは一人もいなかった。
4
ライザは部屋の入口に行く手をさえぎるように立った。
「どこに行ってたの?」
軽く握った両手を腰にあて、顎をこころもち前に突きだしてすこし首を傾げる。サファイアはその脇をすりぬけて中に入った。
「どこだっていいでしょ」
部屋をまっすぐ横切って窓際まで歩き、寄り添うように置かれている椅子に静かに腰をおろす。前髪をかきあげると長い髪を揺らしてその顔を窓の外、月の荒野に向けた。
肩越しにふりむいたライザはその様子をとがめるような目で見た。
「よくないわ。見つかったらどうするつもりだったの?」
サファイアは月面から視線を動かさなかった。
「見つかりっこないってお母さんいつも言ってるじゃない」
「それはここにいるときの話でしょ。外には出ちゃいけないっていつも口を酸っぱくして言ってるじゃない。忘れたの?」
「忘れるわけないでしょ」
「じゃあなんで」
サファイアは応えなかった。ライザは体ごと向きなおってあらためて人形のような少女を見つめた。
「……何をふくれているの? 言ってごらんなさい」
やさしい調子のその問いかけにもサファイアは応えなかった。ちいさく息をつくとライザは腕を組み左足に体重をあずけて返事を待った。
やがて、サファイアはぽつんとつぶやいた。
「……あんな子がいるなんて知らなかった」
「あんな子?」
ライザは眉間に皺を寄せる。サファイアはものすごい勢いでふりむいた。
「母さんは見てないのよ。あたしと同じくらいの背格好の男の子。ドームホールの中でたった一人、大人たちにまぎれて所在なげに立っていたわ。
ちょうど爆発に巻きこまれそうなところに……」
強かった言葉は最後にはつぶやきに近くなっていた。唇を閉じるとサファイアはそっと目を伏せた。
「ちょっと待って。サファイア、あなたホールの中を覗いたの?」
ライザの声はそれまでより一段トーンが高くなっていた。サファイアはけわしい目をしたライザの顔を見ようとはしなかった。その態度が暗黙のうちに示す肯定にライザは怒りに頬を赤く染めた。
「――なんてことを! 見られてたらどうするのよ! なにもかもぶち壊しじゃない!」
叫びながらいらだたしげにあげた拳を振りあろす。サファイアは顔をあげて真っ赤になったライザをきっとにらみつけた。
「あたしにだって好奇心ってものがあるのよ、お母さん。はじめて外に出たんだもの、すこしくらい好きにしたっていいじゃない」
「あたしの言ったことも守らないでなにが“好きにしたって”よ!」
あまりにヒステリックな調子に自分で驚いてライザはきょとんとした表情を浮かべた。二、三度まばたき、やれやれという感じで息をつく。その様子をじっと見てからサファイアは窓の外に視線を戻した。全身がこれ以上の対話を拒んでいた。
そのかたくなな姿を目にしてライザはもう一度息をついた。
――いったいどうしてしまったんだろう?
サファイアが何を考えているのかわからなかった。こんなことははじめてだった。そんなことは原理的にありえない、そう自分を納得させようとしても動揺を抑えることはできなかった。
――何が起きているのかしら?
ライザは不安げなまなざしでサファイアを見つめた。自分の生みだしたものが得体の知れないなにかに変わっていくように思えてライザは体を震わせた。
あおるように電話のベルが鳴り響いた。
我にかえったようにはっとした顔をするとライザはあわててドアの脇のセントラル・コントロールに駆け寄った。受話器を手に取りおもいっきり愛想の悪い声で応対をはじめる。サファイアはその声を聞くともなしに耳にしていた。視線は外に向けられたままだった。
瞳に映るのは月の荒野ではなくあの男の子の顔だった。
驚きを浮かべたその顔は忘れようにも忘れられなかった。いっぱいに見開いた目はたしかにサファイアを見つめていた。何のためにあたしがあそこにいたかなんてまるでわからなかったに違いない、そう思うと胸が痛んだ。サファイアはぎゅっと唇を噛んだ。
本当のところ、どうしてこんなにあの男の子のことが気になるのかサファイアにはわからなかった。視線があったからだとも思う。けれどそれだけでは説明がつかなかった。横からそっとホールをのぞいたときにもうサファイアの注目は男の子一人に集まっていたのだから。
そしてその姿は大人たちの姿を目にしたときには感じなかった後悔をサファイアの心に生みだしていた。
――もう一度会えないかな。
いつのまにかサファイアはそんなことを思っていた。今度は逃げださずに、自分のしたことをあやまりたかった。そうしてもし許してくれるならいろんなことを話してみたかった。
――名前、なんて言うんだろ?
サファイアの思いは叩きつけられるようにして壁に戻された受話器の音にさえぎられた。
「――なんてこと」
押し殺した叫びにサファイアはふりむく。ライザは固めた拳をコントロールのパネルに打ちつけた。きしんだ音が響いた。
「甘かったわ。痛い目をみれば考えなおすだろうなんてどうかしてた。やっぱり徹底的にやらないとわからないんだ、あいつらは」
「どうする気?」
サファイアの問いにライザは足元に落としていた視線をサファイアに向けた。瞳は尋常ではない光をたたえていた。
「もう一度やるのよ。あいつらがここに人を集めようなんて二度と思わないように。冗談じゃないわ。やっと手に入れたこの平穏を誰にも邪魔させるもんですか」
言い終えるころにはライザはもうサファイアを見てはいなかった。虚空をにらんだその顔には憎しみに歪んだ笑みが浮かんでいた。サファイアは思わずぞっとして目をそむけた。
――いったいどうしたんだろう?
自分の中で生じている変化にサファイアはとまどわずにはいられなかった。
出かけるまではサファイアの感情とライザの感情は等しかった。だから言われるままに爆弾をしかけても何も感じなかった。それがあたりまえのことだと思っていた。月にこれ以上人が増えないようにするためにはそれしかないとライザに言われたから。
いまはそうは思えなかった。ライザの憎しみをサファイアは共有することができなかった。できればもう人を傷つけたくない、そうはっきりと考えてさえいた。
ベッドに横たわるあの男の子を見てしまったせいかもしれなかった。
――いったいどうなるんだろう?
抑えようもないほど強く育ってしまった胸の中の不安にサファイアは両手で自分の肩を抱きしめた。
その体にかすかな震動が伝わった。
普通の人間には感知できない種類の震動――月震だった。いつもなら気にもならないその震えがいまは自分の乱れをそのままあらわしているような気がしてサファイアは体を震わせた。
5
「――ライザ・リューリック、ですか?」
ハンスは片方の眉をつりあげる。ちいさくうなずくとフレサンジュはテーブルの上のカップに手を伸ばした。
「その女が爆破事件の犯人だと?」
ハンスは向かいの席に座る警備室長に顔を近づけた。紅茶の熱さに顔をしかめるとフレサンジュはカップを受け皿に戻してすこし身を引いた。かろやかな音が室内に響いた。
「まだそうはっきりとしたわけではありません。現時点では単なる憶測です」
「……解せないですね、憶測をわざわざ話に来るというのは」
ハンスも身を引いてソファの背もたれに深く体をあずけた。視線をちらっと奥に向ける。クリスは壁際のデスクで備えつけのコンピューターに向きあっていた。二人のほうを気にする様子は感じられなかった。
ハンスの視線の意味を知ってか知らずか、フレサンジュはおおげさにため息をつくと上体を前に倒し両手を組んで肘を両の膝に乗せた。
「正直に言うと、判断にこまっているんですよ、グラスさん。そこでちょっと部外者の意見をうかがいたいと思いましてね」
潜めた声で言って上目づかいにハンスを見る。誘うような頼りを求めているようなあいまいな表情にハンスはほんのすこし眉を寄せた。
「意見?」
「そうです」
「ちょっと待ってください、私は月面の事情など何も知らない統一ヨーロッパの一政治家ですよ。お役にたてるとは思えませんが。もし問題が政治単位にかかわるのであれば私などより、そう、たとえば――」
「いやいや、そんなおおげさなことではないんですよ」
フレサンジュは苦笑するとカップに手を伸ばした。「憶測の理由というのがなんとも頼りないものでしてね。にもかかわらず誰もが判で押したように同じ答を返すものですからこれはどうしたものか、と。で、ちょっと考えてみたわけです――まったく縁のない人がこの話を聞いたらどう思うか、とね」
「というと……?」
ハンスはわずかに身を乗りだす。フレサンジュはカップに口をつけるとこまったもんだとでも言うように首を軽く横に振った。
「率直に言いましょう。つまりそれくらいライザ・リューリックという女はこの月で嫌われているんです」
言葉を切り、カップを受け皿に戻してハンスを見つめる。ハンスは目でその先をうながした。
「要は人間性の問題なんですよ。彼女は月にいるすべての人間から嫌われていると言っても過言ではありません――それと云うのも彼女がすべての人間を嫌っているからです。まったくその態度にはあきれるばかりですよ。些細な連絡事項を伝えるようなときでさえ不快を隠そうとしないのですから。
おわかりでしょう? この程度しか人のいない、しかもなにかと顔をつきあわせなければならない場所でそんな態度でいたらどんなことになるか」
フレサンジュは同意を求めるようにわずかに首を傾げた。生まれてこのかた都会にしか住んだことのないハンスはあいまいにうなずいた。
「しかしそれだけでは何の証拠にもならないでしょう」
「そう、もちろんです。ですが他にそんなふうに思われている人間が月面には一人もいないのも事実です。皆の言葉を直接お聞かせしたいですよ――“あいつならやりかねないな”“そんなことをするのは彼女に決まってるよ”。
それに動機も潜在的にはありそうです。なにしろ地球に問いあわせたところでは偏執的な人間嫌いが高じて半ば希望して、半ば追いやられるようにして月に来たそうですから。所属する研究施設にも彼女一人しか常駐していません。人に知られずになにかをするのには最適な環境だと思いませんか?」
「つまりこういうことだと?」
ハンスは自分のカップに手を伸ばした。「ライザ・リューリックはひどい人間嫌いで誰ともまともにつきあわない。そんな彼女だからこれ以上月に人が来るのを望んでいるわけがない。だから彼女が犯人だ……?」
「つけくわえればあの時間彼女は地球からの荷物を受けとりに港に来ていました。ここからほんの目と鼻の先にある宇宙港にです。連絡通路を利用した姿は目撃されていないようですが、短時間なら誰にも気づかれずに外で作業することも不可能ではないでしょう。
さあ、どう思われます?」
あらためて手を組むとフレサンジュは下からのぞきこむようにハンスの目を見つめた。警備室長の視線をハンスは正面から見かえした。
やがてハンスは緊張をやわらげるように息をついて身を引いた。
「……そこまで嫌われる女性の存在には同情を禁じえませんね」
フレサンジュは深く息をついた。落胆とも安堵ともつかない微妙な吐息だった。
――馬鹿みたいだ。
ディスプレイをぼんやりながめながら二人の会話を聞いていたクリスは言葉にせずにつぶやいた。
ぼくがいなかったらもっとはっきりと言ったんじゃないか、と思う。クリスが部屋にいることをフレサンジュ警備室長が知らなかったのは入ってきたときの表情からあきらかだった。その目はもっと重体だったならいいのにと語っているようでもあった。すくなくともいくら退屈でもベッドから出るのが許されない程度には。
もっとも仮にそうだったとしてもハンスがフレサンジュの思いどおりの言葉を発するわけがなかった。警備室長としては子供を傷つけられた親にこう言ってほしかったことだろう――“なにやってるんだ、さっさとその女を捕まえろ!”。しかし自分に責任がかかってきかねないそんな口実を求められるままにやすやすと与えるようでは月まで来られるような政治家にはなれない。それくらいはクリスにもわかっていた。
物音にちらっと横目を向けると二人は立ちあがって握手を交わしていた。
クリスはフレサンジュに向かって口を開きかけた。けれどフレサンジュはクリスのほうには顔を向けずにそのまま部屋の外へ出てしまった。ドアの開閉する音が室内にちいさく響く。クリスはディスプレイに視線を戻すとそっと息をついた。ほっとしたようなやっぱりいけないことをしてしまっているような複雑な吐息だった。
目撃した女の子のことをクリスはまだ誰にも話していなかった。
信じてもらえるわけがなかった。それがクリスをためらわせるいちばんの理由だった。
月には子供がいないということをクリスは来るまでのあいだにいやというほど聞かされていた。実際月面にある施設はこのホテルをのぞけば研究施設ばかりで子供を産んだり育てたりする環境はまったく整っていなかった。そもそもすべての施設が長くてもせいぜい数年の滞在しか想定していない。月では子供の存在自体が考慮外なのだった。妊娠したらどうなるかという問題はあるにしても。
にもかかわらず女の子は存在していた――宇宙服を着て、ドームホールの外に、爆発の直前に。
話さないといけないと感じる理由はそこにあった。状況からしてあの女の子が爆発に関係しているのはまちがいないようにクリスには思えた。本当にそうかどうかはともかく捜査の重要な手がかりであることは疑いようがなかった。信じてもらえさえしたら。
そこでクリスの思考は堂々巡りしてしまうのだった。
クリスは椅子の背もたれに体をあずけて目を閉じた。瞼の裏に女の子の表情が淡く浮かんだ。
クリスに話すのをためらわせるもうひとつの理由はその表情だった。
夜ベッドの上で眠れないままクリスはドームの外で見た女の子の表情や身振りをよく思いだしてみた。そのときはよくわからなかったけどあとになってみると女の子はひとつのことを伝えようとしているとしか思えなかった――“逃げろ”、と。そう考えないと闇の中で聞いたささやきの説明はつかなかった。
――きっとなにか事情があるんだ。
心の中でクリスはそうつぶやく。彼女がここにいることにも爆発にもぼくなんかにはよくわからない複雑な事情があるに違いない、そう考えるしかなかった。それがわかるまでは女の子を犯人だとか事件の関係者だとかという単純な見方でとらえたくはなかった。
――あのままあの部屋にいたらまた来たかな?
もし会えて話ができれば疑問はすべて解けるのに、そう考えてクリスは戻ってきてしまったことをちょっぴり後悔した。
短いメロディの効果音にクリスは目を開いた。
やりかけのゲームの画面の一部に淡い水色の切りかけができていた。チャット用のウィンドウだ。この月面でチャットする相手など思いあたらないクリスは不意をつかれた感じでウィンドウをながめた。
すぐに身を乗りだして中身のテキストに目をこらした。
書かれているのはたった一言――
“逃げて”
それだけだった。
一瞬遅れてクリスはあわててキーボードを叩いた。あんまり急ぎすぎていつもなら絶対しないタイプミスを三つもしでかした。それでもメッセージを送るまで五秒はかからなかった――
“誰? どうしてそんなことを?”
クリスは食いいるようにディスプレイを見つめた。
たった数秒がとても長く感じられた。ためらっているんだろうか、そう思ったときにはクリスの指はもう次の文章を打ちこんでいた。まるでいまを逃したら二度とつかまえられないとでもいうように。
“どこにいるの? 会いたい”
クリスは息を飲んで答が返ってくるのをじっと待った。
永遠にも感じられた数十秒のあと、ついに画面に変化があらわれた。
“あのホールで”
思わずクリスは立ちあがった。
「どうした?」
突然の物音にソファに体を静めて物思いに沈んでいたハンスは顔をあげてクリスに目を向けた。あわててふりかえるとクリスはなんて言うべきか頭をフル回転させて考えた。
「い、いやなんでも。思いがけない手で負けたからちょっとむかっとしただけ」
言うと目をあわせないようにして顔をドアのほうに向けた。「ねえ、ちょっとそのへん歩いてきてもいい? 部屋の中でじっとしてるの、もう飽きちゃったよ」
ハンスはわずかに目を細めた。いぶかしまれたような気がしてクリスは身をこわばらせた。
「体はどうなんだ? 大丈夫か?」
「うん、へーきへーき、飛んだり跳ねたりはできないけど、普通に歩くくらいならぜんぜん」
妙に早口で言ってしまったことをしまったと思いながらクリスはおそるおそる視線を戻して上目づかいにハンスを見た。
ハンスはしばらく何も言わずにクリスを見つめた。クリスは息を飲んで答を待った。握った掌に汗がにじんだ。
「……そうだな。散歩のつもりでちょっとぶらぶらしてこい」
「――はい!」
ぎこちなく歩いてクリスはドアまで歩いた。ドアのノブに手をかけたところでうしろから声がかかる。
「無理するなよ。他の人に迷惑をかけるんじゃないぞ」
「はーい」
部屋を出てドアを閉めるとクリスはすぐに駆けだした。
6
「……遅い」
いらつく気持ちのせいかつぶやきはひとりでに口から漏れた。
ライザはローバーのシートに深く身を沈めていた。シフトレバーを爪で叩く音がこつこつと車内に響く。外に見えるのはぼんやりと照らされた車庫の壁。他にはローバーは一台もなかった。
――何をしているのかしら?
ライザは唇を噛んだ。
前回は一人先に帰ったが今回はサファイアを乗せて二人で戻るつもりだった。たしかにこのほうがリスクはおおきい。しかしサファイアに好き勝手をさせないための方法は他には考えられなかった。
段取りは充分説明した。爆弾をしかけたらすぐに戻るようにとも念を押して言い聞かせた。そのときはサファイアも反抗的な態度は見せなかった。だから二人でローバーに乗ったときにはライザは安心していた。港に近づいたところでライザはサファイアを外に出し、自分は何食わぬ顔で忘れ物があったからと前回あずけた地球への荷物にディスクを一枚追加させてローバーに戻った。あとはサファイアが来るのを待って二人で帰ればすべて終わり、のはずだった。
なのにサファイアはまだ戻ってこなかった。
心の底に抑えつけておいた胸騒ぎがおおきくなるのをライザは意識せざるを得なかった。サファイアが離れていくのではないかという不安。それはライザがもっとも恐れている事態だった。
今回の一件で捕まえられたりサファイアの存在が知られたりすることなら覚悟していた。しかしサファイアが自分の意志でライザから離れていくことを選ぶなんて可能性は帰ってきたライザと話をするまでまったく考えたことがなかった。もしそんなことが本当に現実になったとしたらとても耐えられそうになかった。
「……そんなことはありえないわ」
ライザは自分に言い聞かせるようにわざと声に出してつぶやいた。
しかし事実サファイアはライザの側から離れたままだった。
いつのまにかライザは親指の爪を噛んでいた。それはずっと昔に忘れたはずの幼いころの癖だった。
突然アラームが鳴り響いた。ライザはびくっと体を震わせてコンソールを見る。時計の数字がゆっくりと点滅していた。遅くてもこれまでには戻って来るようにとサファイアの目の前でタイマーに設定した時間がやってきたのだった。
――行こう。
危険だとわかっていてももうじっとしてはいられなかった。サファイアを見つけて連れ戻すためにライザはローバーを降りた。アラームを止めないまま。
7
ドームホールの中は赤い光で淡く照らしだされていた。
おそるおそるドアを開けて様子をうかがうとクリスは隙間をすりぬけて中に入った。うしろ手にドアを閉め、そのままその場でドームを見あげる。穴のあいてしまったドームを守るために緊急時用の外殻がかぶされているという話は聞いていたけどそれがこれほどまでに乱暴に星の輝きを奪ってしまっているとは思ってもいなかった。まったく違うところに来てしまったような気がしてクリスは心細さに体を震わせた。
すこしのあいだそうやって立ちつくしてから、ようやくクリスは自分を見つめる瞳に気づいて視線を落とした。
ホールの中央にちいさな人影が立っていた。
クリスは目をこらして人影を見つめた。人影は体をクリスにまっすぐ向けていた。人形のように整った顔がすこし上目づかいでクリスを見ている。肩のうしろに長い髪が流れ落ちていた。瞳に赤い光がぽつんと反射していた。
そのまましばらく二人は何も言わずに互いをただ見つめた。
先に口を開いたのはクリスだった。
「――君なの?」
喉から出た言葉はホールに頼りなく響いた。クリスは乾いた唇をなめた。
女の子はちいさくこくんとうなずいた。
「――どうして?」
今度の声は空気をしっかりと震わせた。しらずしらずのうちにクリスは足を一歩前に踏みだしていた。
と、女の子はつと視線を横にそらした。揺れた長い髪が時間をかけて動きを止めた。
「……怪我をさせてしまったのはすまないと思ってるわ」
澄んだ声はベッドの上で聞いたのと同じだった。
「聞きたいのはそんなことじゃない!」
言ってしまってから声のおおきさに自分で驚いてクリスはぱちぱちとまばたいた。誰かに聞かれはしなかったかとあたりを見まわす。そんなクリスの様子を女の子は横目で見ていた。その顔にはとまどいとも恐れともつかない表情がかすかに浮かんでいた。
深く息を吸って心を落ちつけるとクリスは視線を女の子に戻した。
「そうじゃないんだ。ぼくが聞きたいのはそんなことじゃない。ぼくが聞きたいのは、そう、なんで君がここにいるのかってこと――
君は、誰なの?」
クリスは女の子をまっすぐ見つめた。
女の子は視線を避けるように顔を伏せた。
「……わからないわ、あたしには。なんて答えたらいいのか……」
「どうして? 自分のことなのに、わからないの?」
クリスはもう一歩前に出る。と、女の子は顔をあげて挑むような目をクリスに向けた。
「わからないわ。自分のことかどうかさえ」
思いがけない硬い語気にクリスは動きを制されて立ち止まった。とまどいに言葉をなくしてただ女の子を見る。女の子は唇をまっすぐ引き結んでクリスを見かえした。
やがて女の子は右手をクリスへとまっすぐ差しだした。
クリスはまばたきしながら女の子の顔と指先を見くらべた。女の子は一歩前に出て手をさらに突きだした。目には挑むような調子が浮かんだままだった。
ためらいを覚えながらクリスは歩きだした。
あとは手を伸ばすだけという距離まで近づいたところで足を止め、あらためて女の子を見つめた。あるかなしかの照明の元では肌の色も瞳の色も髪の色さえはっきりとしなかった。意志の強そうな視線はクリスの両目にそそがれたまま小揺るぎもしない。硬い表情が人形のような印象を更に強めていた。
何を求められているのかわからないままクリスは手をあげて女の子の右の掌に触れた。
感じた違和感をたしかめる間もなく手をひっぱられた。女の子はつかんだクリスの右手を自分の左頬に押しあてる。よろけた姿勢をただすとクリスは自分の手をはさむ感触に息を飲んだ。
温もりの感じられないその感触はあきらかに人間の肌ではなかった。
驚きの表情を浮かべるクリスに女の子はすこし哀しげに微笑んだ。
「わかったでしょう? あたしは、人間ではないの」
手を放すとうしろに軽く跳んでクリスから離れた。くるりと背を向け立ち止まると背中で手を組んで足を交差させる。顔はいつのまにか天井に向いていた。長い髪がまるでスローモーションのように時間をかけて波打った。
その動きが静止するころ、細く頼りない声がホールに響いた。
「……だから、わからないって答えるしかないのよ。あたしはあたし一人では存在しないから」
戻ってきた静寂が二人のあいだに重く横たわった。クリスは何度も口を開きかけたが発する言葉を見つけることはできなかった。
クリスがただ見つめる中、女の子は本当にゆっくりとした動作で歩きだした。
「……あたしはお母さんに造られたの。体は既製品のサイバードールだって聞いたわ。でも中身はほとんど残ってないって。最新のチップを詰めこんで自分で組んだAIをインストールして、感情シュミレーターを納得いくまで何度も何度も作りなおして……そうやってあたしのことを産んだんだ、ってお母さん前に言ってた。あんなに人間が嫌いなのにそれでも一人でいるのには耐えられなかったのね。だからあたしを造った――考えかたや感じかたを自分の若いころそっくりにした似姿を。
名前はあるわ。サファイアって言うの。でもそれはお母さんがあたしを呼ぶのに困ったからそう呼ぶようになっただけ。二人にはそれくらいしか違いはなかったの。お母さんの考えることはなんでもわかったし、お母さんもあたしのことを全部わかってた。そう、あたしはお母さんだったのよ。
今度のことがあるまでは。
いまは違うわ。なにかが変わってしまった。お母さんはあたしの感じていることがわからなくてとまどってるし、あたしもその感情をお母さんとわかちあうことができなくなってとまどってる。
変化したのはもちろんあたし――
でもそしたらあたしはいったい何になるの?」
ホールの縁、いまは外の見えない壁の前でサファイアと名のった女の子は足を止めた。背中がかすかに震えていた。
「……爆弾をしかけたのは、お母さんに言われたから?」
クリスの抑えた問いにサファイアは肩をびくっと震わせた。
「――そうよ」
沈んだ声に続いたのは無理に明るくしたような言葉だった。「だってしなければいけないことだったんだもの。あたしはお母さんだったから。月にこれ以上人が来るようにしちゃいけなかった。人が増えたらせっかく手に入れた理想的な生活がだいなしになってしまうから――本気でそう信じてたの。自分が何をやろうとしているかぜんぜんわかってなかったくせに。
わかったのはあなたを見たとき。
大人たちの中で所在なげに立っているあなたを見たとき、はじめて思ったの。あたしの知らない人がいる、って。大人たちはみな来てほしくない人間の集まりにしか見えなかったけどあなたとは話してみたいと思った。
あたしと同じくらいの人間を見るのははじめてだったから」
唐突にサファイアはふりかえった。
「あたしの身振り、覚えてる? 逃げろって言ったつもりだったのよ。爆弾の威力がどれくらいかわからなかったから、あなたが死んでしまったらもう会えないと思ったから――」
尻すぼみにちいさくなる声にあわせてサファイアは顔をうつむかせた。
「――ごめんなさい。卑怯な言いわけね」
「ううん、そんなことない」
強い調子のクリスの言葉にもサファイアはうつむいたまま動かなかった。その姿がどんな言葉も拒むように見えてクリスは近づこうとする足を止めた。
「……ぼくを逃がそうと思って知らせてくれたの?」
答が返ってくるまでしばらくかかった。顔をうつむかせたままサファイアは言った。
「……そう、たぶん。あなたにはこれ以上傷ついてほしくなかったから」
「また爆弾をしかけに来たんだ」
サファイアは答えなかった。クリスは足を一歩前に出した。
「やめようよ、お願いだから。傷ついたのはぼくだけじゃない。もっとひどい怪我をした人だっているんだ。やっぱり爆弾なんてやりかたはよくないよ。
ぼくを傷つけたくないと思うなら他の人も傷つけないで。お母さんが傷つけられたら哀しむでしょ? 同じことだよ。君のお母さんもぼくも、ここにいる人たちもみんな、同じ人間なんだから」
「でもあたしは人間じゃないもの!」
割れるような叫びがホールにこだました。
体を震わせるその姿にクリスは考えるより速く近づいてサファイアを抱きしめた。息を飲む動きが人と異なる感触を通じてクリスに伝わる。
しばらく二人はそのまま立ちつくした。
「……関係ないよ、そんなこと。誰かが誰かを傷つけたりなにかを壊したりするなんてことはまちがってるよ。
変わった、って言ったよね。きっとそれはぼくを傷つけたくないって思ったときだ。そのときに君はお母さんとは違う存在になったんだよ。
だったらもう黙って従わなくたっていいじゃないか。君は他の誰でもないサファイアになったんだから。そうじゃない?」
クリスは抱きしめる腕に力をこめた。
サファイアの身をよじる動きにすこし力をゆるめた。サファイアは頭を引いてすぐ目の前のクリスの瞳を見つめる。その瞳が濡れているように見えたのはクリスの気のせいかもしれなかった。けれど浮かんでいるすがるような問いかけは見まちがえようがなかった。
クリスはサファイアの瞳を見つめてうなずいた。
サファイアはクリスを抱きしめた。
静寂を破ったのは悲鳴にも似た叫びだった。
「――サファイア!」
二人ははっとしてホールの入口に顔を向けた。
ドアを背にして大人の女が立ちつくしていた。淡い照明が怒りの表情を浮かびあがらせている。視線はまっすぐサファイアだけに向けられていた。
「何をしてるの、あなたは!? 離れなさい!」
迫力にクリスは身をすくませる。サファイアはまわした腕に力をこめてクリスに体を押しつけた。逆らうようなその動きに女は目をつりあげた。
「どうしたの!? あなたは私なのよ! 人間なんかといっしょにいちゃいけないの! 離れて!」
叫ぶ女をきっとにらみつけるとサファイアは抗うように声をあげた。
「違うわ! あたしはあなたじゃない! あなたはライザ・リューリック、あたしは――サファイア! 誰でもない、あたし自身よ!」
ホールに響いたその言葉に女は体を彫像のようにこわばらせた。
残響が消えてもライザは動かなかった。顔にはショックの爪痕のような呆然とした表情が浮かんでいた。
と、不意にその顔が憎しみと怒りに歪んだ。
思わずクリスはサファイアを強く抱きしめた。そうでもしないと足がいまにも震えだして体を支えなくなってしまいそうだった。放射される強烈な負の感情はホールを満たして凍てつかせた。
やがてしわがれた声が地の底から這うように耳に届いた。
「……おまえも――あたしを、裏切るのか――あぁっ!?」
直接叩きつけるような圧倒的な咆哮にクリスは顔をそむけて伏せた。
視線を戻したときにはライザは手に持つなにかを二人に向かって突きだしていた。
「――死んでしまえ!」
「――駄目!」
クリスの腕を振りほどいて突きとばすとサファイアは床を蹴ってライザへと跳んだ。壁に背中を打ちつけられてクリスは前のめりに倒れる。戻ってきた痛みに詰まった息を吐きだして顔をあげると互いの腕をつかんでもみあうライザとサファイアが目に跳びこんだ。
「サファイア!」
声をあげたときにはサファイアはライザが持っていたちいさな箱を奪っていた。憤怒の形相でとりすがるライザを突きとばして自分は後方に跳びすさる。その腰のあたりで点滅する赤い光が軌跡を描く。
着地したサファイアは途方に暮れた顔で手に持つ四角い箱を見つめた。それから首をめぐらせてホールの中をぐるりと見まわす。すぐうしろにある非常用エアロックでその動きを止めるとサファイアは真剣なまなざしをクリスに向けた。
「逃げて。離れて、遠くに」
早口でそう言うとサファイアはふりむいてエアロック脇の緊急時用パネルを叩き割った。
「――サファイア!」
ようやく事態を理解したクリスは叫びながら起きあがった。そのときにはドアはもう開いていた。サファイアは長い髪を泳がせて中に入る。クリスはエアロックへと走った。
「待ちなさい!」
ライザはクリスより速くエアロックに駆け寄った。だがドアはその目の前で閉じた。ライザは半狂乱の目で髪を振り乱してドアを拳で叩いた。
「開けなさい、サファイア! 開けるのよ! 開けてそれを返して! あなたは何もわかってないの! それを使って月から人間を追いだせば――」
クリスがライザを押しのけた直後、閃光と轟音が言葉をかき消した。
爆風はクリスを押し戻して壁に叩きつけた。衝撃は回復しきっていない体を痛めつけるには充分すぎた。歯をくいしばって痛みをこらえても気が遠くなるのを抑えることはできなかった。
鳴り響くサイレンをまるでものすごく遠くの音のように聞きながらクリスは意識を失った。
8
目を開くと闇が見えた。
ゆっくり二、三度まばたいた。そっと首を左右にめぐらせてまわりの気配をうかがう。人はいないようだった。脇に置かれたおおきくて重たげな機械がLEDを明滅させながら静かに音をたてていた。
クリスはベッドの上であおむけに横たわっていた。
クリスは部屋の中にひとりぼっちだった。
状況は前のときと似ていた。違うのは今度は静けさが決して破られないことだった。いくら待ってもこの闇の中を訪れるものがあらわれないことをクリスは知ってしまっていた。
その冷酷な事実にクリスは声を殺して泣いた。
そうしてサファイアのことを想っているうちに、いつしかふたたび眠りに引きこまれていった。
「すまないな、本当に。地球だったらもうすこしなんとかなったかもしれないんだが、なにしろここは遠すぎるから……」
言葉を切るとハンスは握った手に力をこめた。
「しょうがないよ、お仕事だもん」
その手のぬくもりを感じながらクリスはちいさくつぶやく。枕元に座ったハンスはベッドに横たわるクリスのすこし苦しげな表情を目を細めて見つめた。
クリスは十日間の安静を言いわたされていた。月にあるありったけの医療用ナノマシンを注入してもそれ以上早く回復できる見込みはなかったため一人だけ残って二週間以上あとの次の便で帰ることになったのだった。
しばらくの沈黙のあと、ぼんやりと天井を見ながらクリスは口を開いた。
「……あの女の人もいっしょの便で帰るんでしょ?」
「え? あ、ああ、そうだ。おまえのおかげで怪我はずっと軽かったそうだからな」
「……いちばん戻りたくないとこに戻るんだね……」
ハンスは何も言わなかった。答など求めていなかったようにクリスは言葉を続けた。
「サファイアも?」
ハンスは眉間にきゅっと皺を寄せた。
「……あの人形のことは忘れろ。欲しいなら買ってやるから」
クリスは答えずただゆっくりとまばたいた。
控えめなノックの音に続いてドアが開いた。
「グラスさん、そろそろお時間ですが……」
顔をあげて目で合図をするとハンスはもう一度握る手に力をこめた。立ちあがり、ゆっくりとドアまで歩いて足を止める。名残惜しげにふりかえってからハンスは部屋を出ていった。
父親の背中を目で追っていたクリスは視線を天井に戻して目を閉じた。
瞼の裏に長い髪の少女の顔が浮かんだ。
ハンスにずいぶん無理を言ってクリスはサファイアだったものを見せてもらっていた。頭部は奇跡的に損傷をまぬがれていてかなり傷ついてはいたものの活動していたころの面影を強く残していた。そのときにはじめてクリスはサファイアの瞳の色を知ったのだった――目の醒めるような澄んだ青を。
爆弾を外に投げようとしたに違いない、簡単な現場検証を行ったフレサンジュはクリスにそう教えてくれた。エアロックの二重のドアのうち外側のものはもうすこしで開くところだった、減圧処理があとすこし早く終わっていれば破壊をまぬがれていただろう、と。
仮定の話に過ぎなかった。そんな仮定をクリスはベッドの上でいくつも思い浮かべていた。
その中にはもしかしたらという希望の仮定もひとつ含まれていた。
サファイアだったものはライザの裁判で証拠物件としてあつかわれることになっていた。物的証拠としては云うまでもない。しかしそれ以上に重視されているのはその
――だとしたらサファイア自身も引きだして復元することができるんじゃないだろうか?
可能性がかぎりなくちいさいことはわかっているつもりだった。それでもクリスはその希望を手放すことができなかった。どうしてそんなに彼女にこだわるのか自分でもよくわからなかった。でもそれはとても大事なことのような気がした。
人だろうとそうでなかろうと、想いに応えようとしてくれた存在のことを忘れることなどできそうになかった。
脳裡に浮かぶサファイアは微笑んでいた。いつかその笑顔が現実になる日を夢に想いながらクリスはまどろみに沈んでいった。