通りの向かい側、ゲームセンターの店先で、子どもたちが遊んでいた。
クレーンゲームを囲み、中の景品を指差して騒いでいた。一人がゲームに向きあってコインを入れる。クレーンが横に動き、伸びて景品をつかむ。持ちあがるときもあれば持ちあがらないときもあり、持ちあがっても途中で落ちたりして、そのたびに子どもたちは騒ぎたてる。見ているかぎりでは成功した子はいない。失敗するたびに入れかわり立ちかわり別の子が挑戦する。
中に兄弟らしい二人がいた。ちいさいほうの子がおおきいほうの子にせがむ。おおきいほうの子は拒むそぶりを見せながら結局はお金を入れてあげる。ちいさいほうの子は慎重にクレーンを動かすけど景品はつかめない。くやしがってからちいさいほうの子はおおきいほうの子の腕を引っぱる。おおきいほうの子は今度は自分が挑戦しようとお金を入れる。
――お小遣い大丈夫かしら。
ついそんな余計な心配をしたが、考えてみれば年が明けてからまだ数日しかたっていなかった。
――お年玉使いきっちゃわなきゃいいけど……
そんなことを思いながら視線をガラスの向こう側から店の中に戻し、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばした。
脇にだれか立っていることに気がついて顔をあげた。
「何ぼっとしてたの? めずらしいね」
名雪は興味深そうな目で香里を見おろしていた。
「あら名雪、遅かったじゃない。部活、いそがしかったの?」
言って香里はコーヒーカップに口をつけた。何も入れないコーヒーはすこしぬるくなっていた。
視線を戻すと名雪は頬をすこしふくらませていた。
「遅くないよ、ぴったりだよ。香里が気がつかなかったんだよ」
「……ほんと?」
「そうだよ。しばらく立ってたんだから」
コートを脱ぎながら名雪は香里の向かいの席に座った。すこし声をちいさくして続ける。「……なんだかちょっと声かけづらい雰囲気だったから」
「――そう? 気のせいじゃない?」
こういうときは素知らぬ顔でやり過ごすに限る。香里はカップを置いた。硬い音がちいさく響いた。
なにか言いたげな名雪の目はすぐに近づいてきたウエイトレスのほうに逸れた。
「私、イチゴサンデー」
ウェイトレスは慣れた様子の笑顔でカウンターに去っていった。
「名雪好きねえ、本当に。百花屋で他のもの頼んだことないんじゃないの?」
「そんなことないよ、ジャンボミックスパフェデラックスも頼むことあるよ……めったに食べられないけど……」
「あんまり変わらないような気もするけど……」
カップに手を伸ばし、ふと香里は思いだした。「そう言えばいっしょに住むいとこっていつ来るの? 相沢祐一って言ったっけ?」
「うん、明日。荷物はもう着いてるんじゃないかな」
そう言う名雪の表情に香里はカップを持った手を止めた。
「どうしたの? このあいだまであんなにうれしそうに話してたのに」
「うん……」
名雪は目を伏せた。
「……なんだか、だんだんどんな顔して会えばいいのかわからなくなってきちゃって……」
「……どうして?」
香里はカップに口をつける。名雪はちいさく息をついた。
「だって、よく考えてみたら最後に会ったのって小学校のときなんだよ? いまどんなふうになってるのか知らないし、それに……
最後のとき、ちゃんとお別れ言えてなかったし……」
か細い声はそこで途切れた。香里はカップを戻して名雪の次の言葉を待った。
と、名雪は顔をあげはっとした口元を手で隠した。
「ごめん、香里。私がしゃべっちゃ駄目だよね。香里の話を聞かなくっちゃ」
香里はぱちぱちとまばたいた。
「なんでそんなこと気にするの? あたしは話すことなんて別に――」
「ううん、言わなくたってわかるよ。だって香里、何も入れてないコーヒー飲んでる」
まばたきを止めて名雪を見た。名雪はまっすぐ見かえしていた。
「百花屋で会おうって言ったのも、電話じゃ話したくないことだからだよね。まちがって聞かれたりしないように。心配かけたくないから」
力が抜けた。香里はなさけない感じに笑った。
「すっかりお見通しなのね」
「わかるよ、だって香里のことだもん」
すこし身を乗りだして力をこめて名雪は言った。その心遣いがたまらなくうれしかった。
それでもすぐには話しだせず、そんな自分にちょっと気まずさを感じて、香里はガラスの外に目をやった。
クレーンゲームに群がっていた子どもたちはいつのまにか姿を消していた。
――景品、取れたのかしら……
そんなつまらないことが気になった。取れたのならその瞬間を見ていたかった。
そう思ったら、言葉が出てきた。
「……栞がね……病院に戻らないって言うの」
「栞ちゃんが? どうして?」
「手術したくない、学校に行きたい、って……」
香里は息をついた。「名雪には話したよね、栞がやっぱり手術することになったってこと。先生に言われたのよ、いまのままだとよくなりきらないから、思いきってそうしましょう、って。栞はいやがったんだけど、家族みんなで説得したら受け入れてくれて……
……ていうか、そのときはそう思ったの。あたしたちみんな。
手術するって言ってもいろいろ検査したり都合があるからすぐにはできないって先生は言うのね。それでお正月は家でゆっくりしようって外泊許可をもらったのよ。そしたら栞、最初はすごく明るくふるまってたんだけどだんだん態度が不自然になってきて、とうとうやっぱりいやだ、手術したくない、そんなことしなくても治るって言ってたんだからいまのままでも学校に行けるようになるはずだ、学校に行きたい、って言いだして……」
ちょっとそれ以上言葉が続かなかった。香里は唇を噛んだ。
「……もう一度説得しようとしたのよ。何度も。でももう何を言っても耳を貸してくれる雰囲気じゃなくって、あたしのほうもだんだんいらいらしてきて言葉がきつくなってきて、そんなふうに言っちゃいけないって頭ではわかってるのにそうなっちゃって、それでもう最後には喧嘩みたいになっちゃって……
昨日、いや、一昨日からあたし口聞いてないわ、栞と」
名雪が目をまるくするのが見えた。まさかそんなことがあるなんて思っていなかったのだろう。香里自身だってそうだった。
香里は目を伏せた。
「……どうしたらいいのかしら……」
「イチゴパフェ、お待たせしました」
突然の言葉に香里ははっと顔をあげた。ウエイトレスのお姉さんが名雪の前にイチゴパフェを置いて去っていくところだった。名雪はすこし申し訳なさそうな顔でイチゴパフェと香里を見くらべていた。
「……ごめんね、間が悪いね」
香里はくすっと笑った。すこしだけ気持ちが軽くなったような気がした。
「仕方ないわよ。さあ、食べて食べて。遠慮しないで」
「うん……じゃあ、いただきます」
名雪はスプーンを動かしてパフェを一匙口に運んだ。うれしげに目を細める。
「……おいし」
その姿に栞の姿が重なって見えた。香里はコーヒーカップに口をつけた。コーヒーはもう冷めていた。
「でもそんな栞ちゃんの話聞くのはじめてだよね。どうしたんだろ?」
「……怖いんだとは思うのよ。あたしだって自分だったらそう思うと思うもの。でもたぶんそれだけじゃなくって……」
香里は顔をうつむかせた。テーブルに肘をついて頭の前で手を組む。
次の言葉を口にするのは勇気がいった。
「きっとあたしのせいだと思うの」
スプーンを動かしていた名雪の手が止まった。
「どうしたの?香里。そんなことあるわけない――」
「そう言ってくれるのは名雪が知らないからよ。あたしが――あたしたちが、どんな想いで過ごしてきたのかを」
組んだ手にひとりでに力がこもった。
「あの娘、本当にがんばったのよ。あたしと同じ高校に行きたいって一生懸命勉強して、本当にがんばって。合格したときは心の底からうれしそうな顔して、あたりを跳ねまわりそうな勢いだった。
あたしだってすごくうれしかった。栞といっしょに学校行けることになって。また同じ制服を着ていっしょに通えるのよ、素敵じゃない? 栞と同じくらい、ううん、もしかしたらそれよりもずっと、あたし、二人で並んで学校に行くのを楽しみにしてた。
それが、あんなことになって……」
香里は目をぎゅっと閉じた。
「お医者さんの言うことを聞いていい子にしてなくちゃ駄目、そう何度言ったかわからないわ。でもそんなこと言われなくたって栞はいつもおとなしくしていい子にしてた。あの娘はなんにも悪くないの。でもよくならないのよ。なんで? どうして?
学校に行けるってなるとすごく喜ぶから――あたしと学校に行けるって喜ぶから、なのよ。それで興奮して調子が悪くなって……直前になってお医者さんに止められるの」
息が抜けた。下がった額が組んだ手にあたる。
「あたしと同じ高校じゃなかったら、あの娘、普通に暮らしてたかもしれない。病気だったとしてもうまくつきあって生きてたかもしれない。ずっと入院なんてしなくてすんだかもしれない。
こんな考え、まちがってるってわかってる。でもそう思うの。思っちゃうのよ。
あたしがいなかったらあの娘は、栞は――」
「――駄目だよ、香里、そんなふうに思っちゃ駄目!」
思いがけないおおきな声に香里ははっとして顔をあげた。
腰を浮かせて身を乗りだした名雪が驚きに目をまるくして香里を見ていた。
口元を手で隠して身を引いた。すとんと腰をおろして気の抜けた調子でちょっと笑う。
「……ごめん。おおきな声、出しちゃった」
名雪が言うのと同時に店の中にざわめきが戻ってきた。いままで二人に注目が集まっていたに違いなかった。
店内の注目が解けても香里は名雪を見つめていた。こんな名雪ははじめてだった。声をあげて他人の言葉をさえぎり否定する、そんなことをする名雪を見るのは。
香里が目を離せないでいると名雪はあらためて口を開いた。
「駄目だよ、香里。だって栞ちゃん、香里のこと大好きなんだよ。栞ちゃんにとって香里は大切なお姉ちゃんなんだよ。香里だって栞ちゃんのこと大好きなんでしょ? 大切な妹なんでしょ?
いなかったらだなんて、そんなこと、考えちゃ駄目だよ。考えられないよ」
言葉を切って名雪は香里を見つめた。
香里も名雪を見かえした。
――まるで自分に言い聞かせているみたい……
その印象はきっとまちがっていない、そう香里は信じた。だから自分のことのように心配してくれたのだと。
息を吸いこんで背筋を伸ばした。
「……ありがとう、名雪」
「どういたしまして」
名雪はにこっと微笑んだ。
組んだままの手に気づいて香里は固くなった指をほぐした。「さ、名雪、イチゴパフェ、食べちゃわないと。溶けちゃうよ」
「うん、食べる」
名雪はスプーンを持ちなおした。「香里は? なにか頼まないの?」
「うー……遠慮しとくわ。きっと体重増えてるもの」
「運動しないからだよ。毎日走れば太らないよ」
「名雪はいいわよ、甘いもの食べても太らないし筋肉もめだたないし。あたしは駄目、気をつけてないとすぐ出ちゃうんだから」
「えー、私だって気をつけてるんだよー」
たわいのない会話、とりとめのないおしゃべり。香里は心の底から楽しんだ。名雪といるこの時間を。
外に出ると空はもう暗くなっていた。厚い雲が垂れこめていたけど雪は見えなかった。
「そうだ、ねえ、名雪」
アーケードを出ようとしたところで香里は振りむいて名雪を見た。
「なあに? 香里」
名雪は首をかしげる。香里はいたずらっぽく笑った。
「名雪のいとこって、いい男?」
一瞬不意をつかれた顔をして、すぐに名雪は満面に笑みを浮かべた。
「いい男だよ、きっと。だって私たちがいい女なんだから、いい男に決まってるよ」
「――そうよね。うん、そうだよね」
二人して顔を見あわせ、声をあげて笑った。
「じゃあ名雪、またね。今度は学校でかな」
「そうだね。バイバイ、香里」
手を振りあって別れ、二人は家路についた。それぞれの想いを胸に抱いて。