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インフィニティ・スクエア

1

 太陽の底がもうすこしで水平線に触れようとしていた。
 おだやかに波打つ水面みなもがきらきらと黄金色に輝いている。
 雲ひとつない空は夕焼けにあざやかに彩られていた。
 イヌイヌップは波打際に立ちつくして景色の美しさに時を忘れていた。
 やがて額に流れた汗に我にかえり、鞄を持つ右手を上に持ちあげて前腕でぬぐった。
 そしてあらためてあたりを見わたした。
 右手側には白い砂浜が海を囲むようになだらかに弧を描いていた。緑の濃い木々がその上に壁を作って視線をさえぎっている。木々のあいだを通り抜けてきたときの涼しさと薄暗さをイヌイヌップは思いかえした。
 左手側はそう遠くないところにおおきな岩が鎮座して砂浜を断ち切っていた。さらにそのすこし手前で桟橋が海へとまっすぐ伸びている。ボート用のちゃちなものではなく、意外としっかりした造りの桟橋だ。
 吹きぬける風にイヌイヌップは目を細めた。
 静かだった。波の音だけがただ低く静かに響いていた。機械の影はもちろん、鳥の影も猫の影も、人の影もひとつも見えなかった。
 ただひとつの例外を除いて。
 イヌイヌップはその例外に細めたままの目を向けた。
 桟橋の突端に座る人の影は水面から反射した光を浴びて揺らめいて見えた。
 ずいぶん長いあいだイヌイヌップはその場に立ちつくしたまま動けなかった。
 ようやく意を決して歩きだしたときには太陽はもうその姿を三分の一ほど隠してしまっていた。
 足取りは決して軽くはなかった。前からもうしろからもなにかにひっぱられるように感じながらイヌイヌップは歩を進めた。
 桟橋にのぼり、普通に声をかければ届く距離まで近づいたところで足を止めた。
 唾を飲みこみ、あらためてその姿を見た。
 小柄な人影はちいさな折りたたみの椅子に夕陽に向かって座っていた。両手に持った長い竿を海へとまっすぐ伸ばして。無造作に束ねられた髪がつばの広い帽子の作る影の中から腰まで伸びていた。色のない服とその短い袖から伸びた日に焼けた腕があざやかな対照をなしていた。
 イヌイヌップはしばらくその背中を見つめた。
 人影は微動だにしなかった。伸ばした竿さえも。
 イヌイヌップはしばらくその背中を見つめた。
 いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
「……あー、そのー……」
 上着を引っかけてポケットにつっこんだ左手をもぞもぞと動かしながらイヌイヌップは言葉を探した。
 口をついて出たのは、けれど自分でも思いがけない言葉だった。
「……釣れますか?」
 言ったとたん、しまった、そう思った。
 それでも人影は微動だにしなかった。
 はじめは後悔を覚えていたイヌイヌップもしだいに別の不安を感じるようになっていた。途方に暮れて、イヌイヌップは目を伏せそっと息をついた。
 と、つぶやきが耳に忍びこむように届いた。
「……釣れはしないよ」
 はっとしてイヌイヌップは顔をあげた。
 その姿はやはりすこしも動いたようには見えなかった。けれど言葉はその背中からこぼれるようにイヌイヌップに向かって落ちた。
「潮の流れから離れたところで何をやってもどうにもならん。本気で釣る気ならこんなふうにただぼんやりと糸を垂らしていては駄目だ。必死になって魚の集まる潮を追いかけなければ」
 つぶやきはそこで止まった。
 どう対応していいかわからず、イヌイヌップはただ背中を見つめた。じゃあなんでこんなところで釣りを、というくだらない質問をすることだけはかろうじてこらえた。
 代わりに聞かなければならないことを言った。
「あの……チャオ・シャオロンさん、ですよね?」
 返事はなかった。イヌイヌップは遠慮がちに言葉を続けた。
「聞きたいことがあるんですけど、その――インフィニティ・スクエアのことで」
 帽子をかぶった頭が肩越しにふりむいた。
 女の鋭い目が射貫くようにイヌイヌップを見つめた。
 まっすぐな視線にイヌイヌップは鼓動が速まるのを感じた。
 やがて女は視線を元に戻した。
「……潮が満ちるころ、ということか……」
 そして糸を巻きあげ竿を肩にかつぎ、立ちあがり足元に置いてあったバケツと椅子を持って陸へと歩きだした。
 イヌイヌップはあっけにとられてその一連の動作を見ていた。
 と、桟橋の端にたどり着いたところで女は足を止めてふりかえった。
 ――どうしたのか?
 そう目が問いかけていた。
 何を期待されているのかようやく気づき、イヌイヌップはあわてて女を追いかけた。

2

 屋敷は林の陰に隠れるようにして立っていた。
 木々に夕焼けをさえぎられているおかげであたりはもうすっかり暗くなっていた。そんな中でも石組みの外観のその屋敷がかなり頑丈に作られているであろうことは見て取れた。さほどでもないそのおおきさも含め、どこか時代錯誤な印象がイヌイヌップはぬぐえなかった。あたりの雰囲気にはよく調和しているものの。
 その一階の玄関の窓に灯りがぼんやりとともっていた。
 短い階段を踏みしめるように登り、チャオはくたびれた様子のドアを引き開けて中に入った。イヌイヌップは遠慮がちにそのうしろに続いた。
 人の目がいっせいにイヌイヌップに集まった。
 気圧され、イヌイヌップはその場に立ちどまって薄暗い室内を見まわした。
 宿屋の食堂、いや、酒場といった感じの部屋だった。右手側には短いカウンターの前にいくつかのスツールが並んでいる。その奥には酒瓶の並んだ棚。左手側にはテーブルが片手で数えられるくらい。その奥に、屋敷の奥に通じるらしいドアがひとつ。木を主にした重厚な造りは時代錯誤の印象をさらに強めていた。
 そこまで見て取ったところでイヌイヌップはあらためて視線の数を数えた。
 全部で四人だった。ひとりはカウンターを前にスツールに腰かけ、残りは全員が違うテーブルにひとりずつ座っている。意図してか無意識にか、それぞれが互いとの距離をなるべく保とうとしている、そんな感じだった。
 敵意と警戒、不安と怯え――他所者を見る視線の意味をイヌイヌップはそんなふうにぼんやりと理解した。
「さて」
 その言葉に視線がいっせいにイヌイヌップから離れた。イヌイヌップの目も声の主を追っていた。
 カウンターの中で、立てかけた竿を背に、チャオは表情のない顔で部屋の中を見渡していた。
「これで条件は満たされたわけだ。明朝、日の出とともに出発する。間にあわなければ置いていく。そのつもりで」
 安堵と期待と不安の気配が室内に満ちた。チャオはそれには関心を示さずカウンターから出た。
「――ちょ、ちょっと待ってください」
 場違いな調子のその声に、ふたたび全員の視線がイヌイヌップに集まった。
 カウンターの端のところで足を止め、チャオは無表情にイヌイヌップを見つめた。
「なにか?」
 イヌイヌップはとまどいもあらわに口を開いた。
「わけがわかりません。いったい何がどうなってるんですか? 明日みんなでどこへ行こうっていうんですか?」
「馬鹿なことを言うなよ。インフィニティ・スクエアに決まってるじゃないか。ここに来るのに他に理由があるのか?」
 男の声にイヌイヌップは視線を転じた。
 カウンターに座った壮年の男性は肩越しにふりむいてあきれた顔でイヌイヌップを見ていた。
「いや、しかしですね。ぼくはまだ来たばっかりなんですよ。そこがどんなところかよく話を聞いて、それからどうするか考えようと思って――」
「あなた、行かれませんの?」
 か細く弱い声は、だが急所を突くようにイヌイヌップの言葉をさえぎった。
 声をつまらせ、イヌイヌップは言葉の主を探した。
 手前のテーブルに座る初老の女性がすがるような目でイヌイヌップを見つめていた。
 その女性だけではなかった。チャオ以外の全員が多かれ少なかれ同じような色を瞳に浮かべてイヌイヌップを見つめていた。カウンターに座る男性でさえ。
 イヌイヌップは助けを求めるようにチャオに視線を戻した。
 微動だにせずに、変わらぬ無表情のまま、チャオはイヌイヌップを見ていた。
 そして口を開いた。
「ここにいるのはインフィニティ・スクエア行きを望む人たちだ。私は希望者が五人以上になるまでは出発しないと言ってきた。ただでさえ割にあう仕事ではないからな。
 そこへ、君がやってきた」
 それだけ言ってチャオは言葉を切った。
 イヌイヌップはあたりに視線をさまよわせた。
 全員が息を飲んでイヌイヌップを注視していた。
「……でも……ぼくはそこが本当に噂どおりのところかをたしかめたかっただけで……」
「嘘つくなよ。ただ噂をたしかめるためだけにこんなとこまで来たってのか? そんな話誰が信じるものか」
 あざけるようなその言葉にイヌイヌップはカウンターの男性をにらみつけた。
 だが何も言えなかった。
 カウンターの男性はにやにやと笑いながらその様子を見ていた。その目は、しかし決して笑ってはいなかった。
「……決まりね」
 また別の声が静かに響いた。
 それを潮に座っていた全員が立ちあがった。左手側の奥のドアの中へと三々五々消えていく。あとにはチャオとイヌイヌップだけが残された。
 イヌイヌップは助けを求めるようにチャオを見た。
「空いてる部屋を使えばいい」
 そう言い残し、チャオも部屋から出て行った。
 たったひとり取り残され、途方に暮れてイヌイヌップはただ立ちつくした。

3

 まばゆい朝日に包まれながらVTOLは垂直に上昇した。
 みるみるうちに遠ざかる地上の景色をイヌイヌップは現実感がないままぼんやりとながめていた。
 こうして行動を共にすることが正しい判断だったのかどうか、いまでも自信が持てないでいた。
 ひとり残るわけにはいかない雰囲気だったことはたしかだった。屋敷に満ちた期待と不安の気配は眠れないイヌイヌップにもひしひしと伝わり、夜明けを迎えるころには部屋にこもったままでいることなど到底許されないところまで高まっていた。もし残ろうとしたなら相当な騒ぎになっていただろう。そんなことは望まなかった。決して行きたくないというわけではないのだから。
 しかしだからといってためらいがまったくなくなったわけでもなかった。
 知らぬ間に吐息が漏れ、イヌイヌップは目を伏せた。
 そして盗み見るようにそっと視線を機内に向けた。
 ノイズ・キャンセラーの働いた独特の静けさの中で同行者たちは物思いに沈んでいた。屋敷の中でと同じように、互いの距離をできるだけ保とうとでもいうように、それぞれから離れた席に座って。狭い機内でそんなことをしてもたかが知れているのだが。
 髪に白いものが混じりはじめている壮年の男性。
 どことなくおどおどした感じを隠せない初老の女性。
 自分をかたくなに守ろうとでもいうようにこわばらせた顔に眼鏡をかけている中年の女性。
 無表情を装ってはいるが頬のあたりに緊張を隠しきれない青年。
 一見グループとしてのまとまりなどまったくないように見える。しかしすこし注意すれば全員の顔に同じ表情が隠れていることは容易に見て取れた。つまり、期待と不安が。
 同じ表情が自分の顔にも隠されているだろうことをイヌイヌップは意識せずにはいられなかった。
 チャオの姿はなかった。コックピットにひとり座るその姿を想像してイヌイヌップは身を震わせた。彼女はVTOLをひとりであやつっていた。船もひとりであやつるにちがいなかった。
 心細さにはじめてこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
 ボートみたいな船に乗って見知らぬ人々と得体の知れない危険の待つ場所に向かうなんてとても自分の人生の一部とは思えなかった。
 だがそれを云うならチャオを訪れたこと自体がおよそ考えられないことなのだ。
 目を閉じ、イヌイヌップは背もたれに体をあずけた。

 駐機軌道ステーションで二連邦時間待たされた。理由なく足止めされているわけではないことは皆理解している様子だったがそれでもいらいらするのは押さえられないようだった。そのいらいらがイヌイヌップにまで伝染しそうになったころようやく一行は船の中に招かれた。飛びたってきた海辺が日照面の半ばを過ぎるころには船は最初の差分航行ディファレンス・ドライブに入っていた。
 船内は半ば予想していたとおり狭かった。客室はいちおう個室ではあるものの中にあるのはベンチシート兼用のベッドとちいさな机、ディスプレイのみ。天井も低く、狭いところが苦手ではないイヌイヌップでも圧迫感を覚えた。
 そこから逃れるためには部屋のすぐ外のキャビンへと出るしかなかった。さして差はないとはいえ。
 それでもすこしはましだろう、そう考えて部屋を出ると考えることは誰も同じだということがよくわかった。
 なんとなく気まずい雰囲気がただよっていた。だが誰も口を開こうとはしなかった。
 皆と同じようになるべく近づかないよう気をつけて選んだ椅子にイヌイヌップは腰かけた。
 それを見計らったようにドアのひとつが開いてチャオが姿をあらわした。
 チャオは長かった髪を耳が出るほどまでに短く切っていた。それでも雰囲気は変わらなかった――無表情な顔がかもしだす怜悧で冷ややかな雰囲気は。
 キャビンにいた全員に緊張が走った。
 それを知ってか知らずか、全員の顔をながめわたしてからチャオはおもむろに口を開いた。
「誤解されているかもしれないからはじめに断っておく。
 これから行くところがどんなところか私は知らない。興味もない。巷ではあれこれ勝手なことを言いたてているようだがそれが事実かどうかもわからない。
 私がすることはただひとつ――あそこへ行って帰ってくるだけだ。
 何が起きても責任は持たない。つまり、何も起きなくても責任は持たない。そのことは理解しておいてほしい。文句を言われても私にはどうしようもない。
 以上」
 それだけ言ってチャオは背を向けた。
「それは……帰ってきてしまうかもしれない、ということですか?」
 おどおどしているのに不思議によく通る声だった。イヌイヌップは目だけを動かして声の主を見た。
 初老の女性は昨日と同じようにすがるような目でチャオを見つめていた。
 入ってきたドアに戻ろうとしていたチャオは立ちどまり肩越しにふりむいて初老の女性を見た。
 だが何も言わなかった。
「答えてくれませんかねえ。こんなとこまでやってきて結局無駄足だったなんてことになると悔やんでも悔やみきれないんでねえ」
 茶化すように言ったのは壮年の男性だった。にやついた笑みを浮かべてはいたが、目は笑ってはいなかった。
 チャオは男に目を転じて眉をひそめた。
「知ってどうする? 話が違うとでも言って抗議するか?」
「したいわね、それが本当なら」
 歳に似あわない高い声は中年の女性だった。眼鏡の奥から非難するような目がチャオをにらみつけていた。
 その視線をチャオは正面から受け止めた。
「なら、いまからでも遅くない。戻るか?」
 全員が息を飲んだ。イヌイヌップも。
 その姿をチャオは冷ややかにながめた
「冗談はよしてくれ。噂だけを頼りにろくにたしかめもせずにここまできたのは誰だ?
 旅立つ前にこの話をしたところであなたたちは耳を貸そうとはしなかっただろう。あなたたちの希望はあそこにしかないからだ。たとえそれがどれほどはかないものであっても、可能性を信じているかぎりあなたたちは決してあきらめない。そうではないのか?
 結局はそういう人間しか残らないのだから」
 言葉を切り、チャオは全員を見まわした。
 誰も何も言わなかった。
 ぼくは違う、そうイヌイヌップは叫びたかった。だがそれを口にすることはできなかった。それは嘘だ、そう頭のどこかでささやく声を忘れることができなかったから。
「……私はあなたたちをあそこまで連れていく。そう約束したからな。だがそこで起きることには感知しない。何が起きるにしても、それは私の手から離れたところで起こる現象だからだ。
 そういうことだ」
 あらためて皆を一瞥し、チャオはキャビンから出ていった。
 重苦しい沈黙だけが残った。

4

 数日が何事もなく過ぎた。すくなくとも表面上は。
 皆誰とも顔をあわせようとしないのだから何も起きようがなかった。食事も客室で取り、外に出るのはほとんど用を足すときのみ。まれにキャビンで過ごす者がいても他の者が顔を見せると部屋に戻るのが常だった。ごくまれにキャビンに何人かが揃ったときも誰もが誰も見ようとはせず、まるで触れられるのを拒むように緊張を殻のように身にまとって離さなかった。
 つまりその態度は出発する前の屋敷でのそれとまるで変わらないように見えた。
 だがすれ違うときなどに垣間見る同行者たちの表情に、しだいに高まっていくいらだちの気配をイヌイヌップは見いださずにはいられなかった。
 それも故なきことではなかった。この先どうなるのか、誰もわからないのだから。
 チャオは旅程の説明をする気などまるでないようだった。それどころか彼女自身もめったにキャビンに姿を見せず、姿をあらわしても誰とも口をきこうとはしなかった。他の者たちのように対話を拒んでいるわけではなくただその必要を認めないだけのようだったが、それでも話をしないことに変わりはなかった。そんなチャオに対してあえて話しかけようとする者も誰もいなかった。
 イヌイヌップも、何度か努力を試みたが、やはり話しかけることはできなかった。望まない答が返ってきたら耐えられそうになくて。
 そうして他の皆と同じように自分の想いに沈んで緊張の殻の中に閉じこもった。
 そんな状況がいつまでも許されるはずはないと思いながら。
 予感どおりそれは壊れた――全員がキャビンに集まったときに。

「……お美しい方ですね」
 突然の言葉に青年は椅子に座っていた身をこわばらせた。掌のロケットをぎゅっと握りしめ肩越しにふりむいて相手をものすごい目つきでにらみつける。うしろに立っていた初老の女性は驚きと怯えに身をすくめた。
「――ごめんなさい! 盗み見るつもりはなかったの! ただ――……偶然目に入って……」
 女性の言葉は語尾が空に吸いこまれるように弱まって消えた。
 そのころには残りの者の視線が二人に集まっていた。
 出来すぎな偶然だった。イヌイヌップは用を足そうとちょうど外に出たところ。中年の女性もどうやら同じようだった。逆に初老の女性は位置からして部屋に戻るところだったらしい。青年から離れた位置には壮年の男性がフラスコを手ににやついた笑みを浮かべている。
 イヌイヌップがそれだけのことを見てとるあいだにも青年は初老の女性をにらみつづけていた。瞳には憎しみに似た光さえ浮かんでいるように見えた。
 老女はしゅんとして肩を落としてうつむいた。
 それでもなおその顔をにらみつづけ、ようやく青年は顔を正面に戻した。握っていた手を開いてロケットに視線を落とす。
 静寂が、ほんのすこしのあいだだけ、戻った。
「……あなたの恋人、ですか?」
 はじかれたように顔をあげると青年は怒りもあらわに老女をにらみつけた。
 老女はふたたび身をすくめあがらせた。
 だが今度は視線を逸らしはしなかった。立ち位置も最初に声をかけたときからすこしも動いてはいなかった。
 そのまま二人はまっすぐ見つめあった。
 奇妙な光景だった。激しい怒りを浮かべた瞳と怯えをたたえた瞳。いつまでも視線が交わるとは思えない組みあわせが正面から向きあっている。そのままにしておけばいつまででも互いに相手を見ていそうだった。目を逸らすことができずに。
 均衡を破ったのは別の人間の声だった。
「放っておいてあげなさいよ」
 全員が視線を転じた。
 中年の女性は腕組みをして冷ややかに老女をながめていた。
 老女は問いかけるように首を傾げた。
「……あの、それは……?」
「放っておいてあげなさいって。他人ひとのことなんて気にすることないでしょ? みんな他人には話したくないようなことをかかえてるからこんなところまで来てるんだから、首をつっこんで聞き出すのなんてやめなさいって」
「まあ」
 老女は目をまるくして驚きの表情をかたちづくった。「あなた……どんな秘密をかかえていらっしゃるの?」
 中年の女性はいらだたしげに舌を打った。
「それをやめなさいって言ってるの」
 眼鏡の奥の目がとがめるようにまばたいた。
 と、その目がつ、と動いて老女から逸れた。
 つられたように老女も視線を戻した。
 視線の先では青年が両肘を膝の上に乗せて深くうなだれていた。さっきまでの怒りの態度などまるで見る影もなく。
 やがてその口から言葉がぽつんと漏れた。
「……俺のは……そんなんじゃない……」
 沈んだ言葉は静寂をかすかに揺らしただけで消えた。
 老女は気づかうように青年の肩に手を置いた。
「――さわるな!」
 跳ねあげるように上体を起こし、青年は乱暴にその手を振りはらった。ぎろっとした目をむきだしにして老女をにらみつける。老女はふたたび身をすくめ、今度は決まり悪げに目を伏せた。
「荒れるな、坊主」
 鷹揚にかまえようとして失敗したような、どこかいらだたしさを感じさせる声が言った。イヌイヌップは視線を転じた。
 フラスコの中身を一口あおるとにやついた笑みを浮かべたままの壮年の男性は青年をながめながら手の甲で口元をぬぐった。
「ただでさえ狭苦しいんだ。騒ぎなんぞ起こさんでくれ」
「――俺が悪いんじゃない! この人が――!」
 青年は老女に指を突きつけた。
 老女は盗み見るように青年の様子をうかがった。
「……ごめんなさい、その……なんだか、あなたがあんまりさびしそうで……」
 その言葉に青年は虚をつかれたような表情を浮かべた。
「静かにしてくれないかしら」
 中年の女性はいらだたしげに言った。
「まあそう言うなよ、な?」
 言って膝を叩いて音を立て、壮年の男性はぐっと身を乗り出した。
「ちょうどいい機会だ。どうだ、ここらですこし風通しをよくしておかねえか? ずいぶん長く待たされたおかげでお互い顔だけはいやんなるほど拝んできたわけだが、ろくに話をしないおかげでいまだに誰が誰やらさっぱりだ。せめて自己紹介くらいはしておいたっていいころあいだと思うんだがな」
 イヌイヌップは壮年の男性を見る目をすこし細めた。らしくない提案に思えて。
「わたしはごめんだわ、そんなの」
 そっぽを向き、つぶやくように中年の女性は言った。壮年の男性はその顔に目を向けてにやっと笑った。
「まあ無理にとは言わんよ、お嬢ちゃん」
 女性は顔を真っ赤にして男性をきっとにらみつけた。
「――ちょっと! どういうつもりか知りませんけど――」
「名前も言うのもいやってんなら好きなように呼ばせてもらうさ。それがいやなら仮名でもなんでも自分から言うんだな」
 男性はキャビンにいるみんなをあらためて見わたした。
「俺の名はイ・ハンギャだ。文句を言うならまず名前で呼んでから言うようにしてくれ」
 そして女性に視線を戻し、ふたたびにやっと笑った。
 女性は真っ赤になったままの顔をぷいっとそむけた。
 やれやれとでも言うような苦笑を浮かべ、イと名乗った男は不意にイヌイヌップに目を向けた。
「そこの若いの。あんたはなんて言うんだ?」
「――え? あ、いや、その――」
 突然の指名にイヌイヌップはあわてた。かかわりのある話だとは思っていなくて。いまこの場にいっしょにいるというのに。
 気がつくと青年も老女も自分を見ていた。イはおもしろがっているような表情を浮かべていた。
 どうという考えはなかった。だから、問われるままに答えた。
「――イヌイヌップです」
 そしてこれでよかったかという感じでまばたいてイを見た。
 そのときにはもうイは老女に目を転じていた。
「あなたは? よろしければお名前をお聞かせ願えませんか?」
 にやついた笑みをそれでもすこしは抑え、かしこまった口調でイは言った。老女はすこしこまった様子であたりを見まわしたがやがて意を決したように背筋をすこし伸ばして腹の前で手を組んだ。
「わたしは……ハーティバラタ、と申します」
 凛とした声と姿は、しかし誰にも向けられていない伏せた目によって影を射されていた。
 その様子をしばらく興味深げにながめてからイはまた目を転じた。
 問われる前に青年は応えた。
「言ったほうがいいですか?」
 攻撃的な口調にイはふたたびにやにや笑いを浮かべた。
「好きにしてくれよ。口を無理にこじ開けてでも聞き出そうとは思っちゃいねえから」
「なら聞いてまわることもないんじゃないの?」
 タイミングを計っていたかのように言葉をはさむと中年の女性はイをきっとにらみつけた。
 そして大股に歩き出すと洗面所のほうへと姿を消した。
 まったくしょうがねえな、そういう感じの苦笑を浮かべてイはあらためて青年を見た。
 そのときにはもう青年は席を立っていた。まるで誰もその場にいないかのように視線を遠くのほうに向け、ゆっくりと歩を進めて、自分の客室へと戻った。
 その様子をうかがっていたハーティバラタと名乗った女性は口の中で何事かつぶやいて青年と同じようにキャビンから去った。
 あっというまにキャビンにいるのはイとイヌイヌップの二人だけになっていた。
「……しょうがねえなあ、まったく」
 口に出してそう言うとイはイヌイヌップを見てにやっと笑った。
 瞬間どうしていいかわからずイヌイヌップはただ立ちつくした。そういえば洗面所に行こうと思っていたんだっけ、とぼんやりと思った。
 そんなイヌイヌップをにやにやとながめながらイはフラスコを前に突き出した。
「飲むかい?」
「あ、いや……」
 イヌイヌップはあいまいに首を振った。
 その様子に目を細め、イはフラスコに口をつけてぐっと飲みこんだ。口元を腕でぬぐい、ふたたびにやっと笑う。
「心配すんなよ。入ってんのはただの水だ。いくらがんばったってドラッグみたいにゃあ酔えねえよ」
「――はあ?」
 あっけにとられ、思わずイヌイヌップはイを見つめた。
 その顔をおもしろそうにながめてからイはもう一度フラスコに口をつけた。
「よかったらもうすこし話さねえか? いいかげん退屈でしょうがねえ。いまのは余興としちゃあまあまあだったが、盛りあがりにはちょっと欠けたからな」
 イヌイヌップは警戒して身がまえた。
「話すことなんてありません」
 イはさも意外そうな顔を作って見せた。
「そんなこたあねえだろう。理由もないのにわざわざこんなとこまでのこのこ来るやつなんているはずがねえ」
 立ちあがり、イはぶらぶらとイヌイヌップに近づいてきた。目の前で足を止めて下から覗きこむようにイヌイヌップを見あげる。背はイヌイヌップよりいくらか低かった。顔にはあのにやにや笑いが張りついていた。
「なあ、あんたはなんでインフィニティ・スクエアに行こうと思ったんだ?」
 顔が自然にこわばった。と、イは身を引き背筋を伸ばしてながめるようにイヌイヌップを見た。
「そんなに警戒するこたあねえだろう? そりゃああんたにとっちゃ人生を左右する一大事にちがいねえだろう、そいつはわかるぜ。しかし、だ、客観的に見りゃあそいつがたいていはたいしたことがねえってこともまた厳然たる事実なのさ。わかってんだろ? 本当は。そんなことは」
 イはにやっと唇を歪めた。
 イヌイヌップは応えなかった。ただ上目づかいにイをにらむように見た。
 視線を逸らし、やれやれとでもいうように後頭部を掻くとイはつぶやいた。
「やれやれ、まったく……どいつもこいつも、たいしたことでもねえってのに」
 聞こえよがしに、わざとらしく。
 イヌイヌップは聞き逃さなかった。聞き逃せなかった。餌を撒かれているのだとわかりつつ、それでも反応せずにはいられなかった。
「――何か知ってるんですか!?」
 イは目だけを動かしてイヌイヌップを見た。口元にしてやったりという笑みが浮かんでいた。
「いや、あんたのことは何も知らんよ。なにしろ来たのが出発の直前だったからな。いくらなんでも調べをつけるには時間がなさ過ぎる」
 両腕をだらりと下げ、半ば口を開いたままでイヌイヌップはただイを見た。
「……じゃあ、他の人のことは――……」
 イは笑みを深めてみせた。
 そして顎をしゃくって客室のひとつのほうを示してみせた。
「たとえばあの青年な。あいつ、彼女ともう一度会うためにインフィニティ・スクエアを目指してるのさ。おばあちゃんが感心してたロケットの中身はそのイメージってわけ。俺にゃあそれほどの女にはどうしても思えねえんだけどな」
 そこまで言ったところで視線をイヌイヌップに戻し、イはいたずらっぽく瞬いた。「秘密だぜ」
 嫌悪に体がかすかに震えた。
「……あなた、何者ですか?」
「ブンヤさ」
 イは背筋を伸ばして両手を腰にあてた。「フリーだがね。お茶の間の好奇心を満たすためならどこでも突撃取材いたします、ってな。まあ裏方が主だから顔や名前はめったに流れねえ。だがその筋での評価はきわめて高いんだぜ? 知らない奴はひとりもいねえ、ってくらいにな。――まあそういう人間だと思ってくれ」
「そんな人間が、なぜインフィニティ・スクエアなんかに?」
 言葉に険がたった。イは肩をすくめた。
「そりゃあおめえ、言わなくたってわかんだろ? 最高のネタじゃねえか、なにしろ取材に成功した奴はまだひとりもいねえんだからな」
 イヌイヌップはイを冷ややかに見つめた。嫌悪は決定的なものになっていた。
 そんなイヌイヌップをイはふたたび下から覗きこむように見た。
「なあ、協力してくれねえかな。こいつが当たりゃあ俺も一躍有名人だ。そしたら見返りだってたっぷり用意することができる。悪い話じゃないと思うがな。
 もちろん成功すりゃあの話だがな」
 言って、神経質に笑った。
「――そんなの、ぼくの知ったことじゃない。勝手に調べるなんなりすればいい」
 抑えた声でそう叫び、イヌイヌップはイに背を向け自分の個室へと歩きだした。
 神経質な笑い声がいつまでも追いかけてきた。

5

 それからはイヌイヌップは部屋にこもって過ごした。洗面所に行くなど本当に必要なとき以外は外に出なかった。そのときも用が済むとすぐに戻った。
 イと顔をあわせたくなかった。
 あんな奴にとやかく言われたくなかった。
 だがそれだけではなかった。イだけではなく、誰ともかかわりたくなかった。誰とも。
 そのときを迎えるまでひとりでいたかった。

 だから、チャオのアナウンスが聞こえてきたときもすぐに動く気にはなれなかった。
「乗客各氏にお知らせする。本船はこれより五分後に目的地に到達する」
 抑揚のない声でそれだけを伝えるとアナウンスはすぐ切れた。
 ベッドに横になっていたイヌイヌップは布団を頭までかぶった。そうして目をつぶり、そのときが過ぎるのをじっと待とうとした。
 すぐに耐えられなくなって頭を出した。
 時計を見るとまだ一分も過ぎていなかった。イヌイヌップは文字盤をじっと見つめた。時間の進みかたは耐えがたいほど遅く感じられた。
 ついにじっとしていられなくなってイヌイヌップはベッドを飛びだした。
 キャビンにはすでに乗客全員が揃っていた。イヌイヌップは立ちつくして全員をただながめた。
 イだけが例のにやにや笑いを浮かべてイヌイヌップを見た。イヌイヌップは顔をそむけて視線を逸らした。
 他には誰も顔をあげようとさえしなかった。ただじっと腰をおろして低い位置に視線をさまよわせていた。不安と緊張と期待を複雑に入り混じらせてその身の中でふくらませていることが手にとるようにわかった。針でつつけばはじけてしまうのではないかとさえ思えた。
 きっと自分も同じにちがいない、そう思った。
 そのまましばらく時が過ぎた。
 何も起きなかった。
 はっと我にかえり、イヌイヌップは時計に目をやった。
 アナウンスから七分が過ぎていた。
 多少の誤差があるにしても、船はもう目的の場所に到達しているはずだった――
 インフィニティ・スクエアに。
 だが何も起きなかった。
 それでもイヌイヌップは待った。息を詰めてただじっと。耐えがたいほどに高まっていく緊張に意識を失いそうになりながら。
 それは乗客全員と共に感じる緊張だった。

 やがてその緊張をヒステリックな叫び声が切り裂いた。
「――なによこれ! ぜんぜんなんにも起きないじゃない!」
 吸い寄せられるようにイヌイヌップは声の主を見た。
 中年の女性がその場に仁王立ちになっていた。
 憎悪に歪んだ顔がキャビンの隅から隅までをねめつけまわした。
 そして頭をのけぞらせて虚空を凝視した。
 おおきく開いた口から声にならない絶叫がほとばしろうとした
 瞬間、

 船が、消えた。

 宇宙に浮かぶ自分たちの姿をイヌイヌップはあっけにとられてながめた。

 イが驚きに目をおおきく見開いていた。
 青年が存在しないソファから立ちあがろうとしていた。
 老女がまるで赤ん坊のように身をちぢこまらせていた。
 中年の女性が何にも気づかないように叫び声をあげようとしていた。

 すべての音が消えていた。
 すべての動きが止まっていた。

 やがて全員の姿が歪んでねじれ、
 爆発して
 四散した。

 巨大にふくれあがった赤い恒星に惑星が飲みこまれようとしていた。

 街角に倒れ横たわった魂のぬけがらが通り過ぎるものたちを力のない目で見あげていた。

 生命いのちのかけらが別のかけらと避けようもなく触れようとしていた。

 自他を分かつ個性の範囲から最後の熱が散逸した。

 見慣れた景色があった。
 理解しがたい光景があった。
 さまざまな過去/現在/未来の一瞬のかけらが万華鏡みたいにでたらめに散らばってすべての感覚を押し包んだ。

 そのうちのいくつかが言葉になって染みこんだ。

「いいかげんにしろよおまえいつまでもみれんたらたらひきずってんじゃねーよわかってんだろおまえふられたんんだよおまえいまごろあのおんなだれかとよろしくやってんだよもどってきやしねえってなさけねーなそんなにあきらめがつかねーならなんどでもあってたのんでこいよもういちどおれとつきあってくださいっていってこいよおれはもうしらねーよかってにしろよそんなにわすれられねーおんなならはじめっからにがすなよたいしていーおんなでもねーのになんでそんなにしつこいのかおれにわかんねーよわかったよすきにしろよしろよしろよ――」

「こんなはずじゃないこんなはずじゃないわこんなはずじゃなかったのよいったいどこでまちがったのかしらさいしょにあんなおんなをすきになったからいいえあんなおんなにだまされたからよあのままじゅんちょうにいけばあたしがとっぷになってたはずなのにそうよきっといまごろはれんぽうじゅうでわだいになってたはずだわあたしのことがそれだけのじつりょくだってあったのよそれをあのおんながそうよなのになんでこんなことにそうよもういちどやりなおさなきゃこのままじゃしんでもしにきれないやりなおさなきゃだってあたしはとっぷになれたはずだものなれたはずだものだものだものだもの――」

「ったくじょーだんじゃねーよどいつもこいつもおれがいなけりゃなんにもできねーくせにけっ!もんくだけはいっちょまえにいいやがってよいったいだれがからだはってねたつかんできてるとおもってんだびびってろくにしゅざいにもいかねえくせによまったくほんといーかげんあいそがつきたぜあんなやつらとくんでてもどうにもなりゃしねえそうさどきょうだけならだれにもまけやしねえんだすきなようにやるさたとえばほらあのいんふぃにてぃ・すくえあってとこにいったっていいんだだれもいかねえならおれがいってやろうじゃねーかそーだもどってこれなくたってのぞみのせかいにいけるってんだしもどってくりゃあとくだねまちがいなしだいうことねーじゃねーかなまえだってあっというまにしれわたるぜもうけちなしたばたらきとはおさらばだそうさいってやろうじゃねえかいっておれのことをばかにしたれんちゅうをみかえしてやろうじゃねえかねえかねえか――」

「ああもうどうしてこんなところまできてしまったんでしょうほんとうにこんなだいそれたことをしてしまうなんていまからでもおそくはないわもどってあたまをさげてこころからおわびすればきっと……いいえもうだめよもうあたしのいばしょなんてきっとなくなってるはず……いいえちがうわはじめからそんなものはなかったのよありませんでしたあたしはただおなさけでいままでいかしてもらっただけ……でもあたしにはあそこしかなかったほんとうにあそこしかなかったあたしがいきていけるのはあそこしかなかった……ああもうどうしたらいいのかしらわからないわわかりませんもうあそこにはいられないそれはまちがいのないことそれはわかっていますわかってるわわかってます……でもほかにいけるところはないのいけるところはなかったのあたしにはあそこしかなかったの……ああもうどうしたらいいのかしら……わかってるわわかってますそんなことわかってますきえればいいんですきえてなくなってしまえばいいんですそれしかないんですそうするしかないんです……でももわたしのことをそっとしておいてくれるだけでいいただうけいれてくれるところがあるのならもしあるのならもしあるのなら――……」

「」

(きれぎれのかけらがいっせいに同じ方向にそろって向いてひとつの光景をかたちづくった。
 記憶に焼きついて消えない光景だった。
 目を閉じる瞼も耳をふさぐ手も悲鳴をあげる喉もなかった。
 逃げ出してきた遠く離れてきたはずの瞬間がイヌイヌップを包み溶かして永遠に引き延ばした)

「――!」

6

事実:
 θ2596-βb星系78-4-285宙区は原因不明の遭難事故が多発するため航行禁止とする。
(連邦宇宙局による航路に関する通達315-0076号より)

伝説:
 あるとき航行禁止宙域を進んでいた密輸船が密航者を発見した。
 船長は仰天した。ブツをできるかぎりたくさん詰めこむことだけを考えて改造された船のどこに隠れていたのかまるで見当がつかなかったから。だが密航者はたしかに存在した。トイレの中に、気を失い、うずくまって。
 すぐに放りださなかったのは密航者が若くて魅力的だからだった。
 意識を取り戻した密航者は質問を矢継ぎ早に船長に浴びせかけた。悪びれる様子も恐れる様子もなく、哀願でも助命でもなく。質問は連邦に暮らすものなら誰でも知っているようなありふれたものばかりだった。船長は答えながら異様なものを感じていた。そういえばその目は常軌を逸しているようにも見えた。
 やがて質問を終えると、密航者はにんまりと笑って声をあげた。
「――うまくいった!」
 そして高らかに笑った。

 あの航行禁止宙域は無数の平行宇宙の接点。念じて通れば望む宇宙に行くことができる――
 インフィニティ・スクエアを通れば。

 そう密航者は言った。

 その後の行方は杳として知れない。

(最も基本的なバリエーションのひとつ)

噂:
 インフィニティ・スクエアに行きたければ岬に住む女を訪ねればいい。心配することはない、彼女は行き慣れているから。

7

 イヌイヌップはキャビンに立っていた。
 ひとりで立ちつくしていた。
 そのことに気づくまで長い、長い時間がかかった。
 やがて茫然としていた目が動いた。
「――!?」
 あわててあたりを見まわしたときにはもう誰もいないことを理解していた。
 自分ひとりだけだということを。
 取り残されたということを。
 天をあおいで声をあげようとした瞬間、
 ドアが開いてチャオが姿をあらわした。
 息を飲み顎を引いてイヌイヌップはその姿を見つめた。いまにも泣きだしそうな目で。
 その顔をしばらく無表情にながめ、チャオは何も言わずに背を向けた。
 叫ばずにはいられなかった。
「――どうして!」
 声は狭いキャビンに悲痛に響いた。
 チャオは出ようとしていた動きを止め、ゆっくりと肩越しにふりかえった。
 はっとして、我にかえった思いでイヌイヌップは息を飲んだ。
 どんな感情もうかがうことのできない瞳が射貫くように自分を見つめていた。
 気圧された。
 それ以上の言葉を失った。
 何も言えず、イヌイヌップはただチャオを見つめかえした。
 やがてチャオの唇がちいさく動いた。
「言ったはずだ。望みがかなうとはかぎらないと」
 思わずイヌイヌップは両腕を広げた。
「でもなぜぼくだけが!?」
 そして空をあおいで声をふりしぼった。
「――ぼくは行くことができなかった!」
 ぎゅっとつぶった目からあふれた涙が流れ落ちた。
 そのままイヌイヌップはすすり泣いた。
 その耳に、忍びこむようにチャオの言葉が聞こえた。
「その幸せを胸に抱いて帰れ」
 イヌイヌップは両目をおおきく見開いてチャオをにらみつけた。
 ――あんたに何がわかる!?
 叩きつけたかったその言葉を、しかし口にすることはできなかった。
 涙のにじむ目にもチャオの姿に変化のあったことがわかったから。
 チャオは半身になってイヌイヌップを見ていた。
 とても疲れているように見えた。疲れきっているように。瞳には悲しみともあきらめともつかない色が浮かんでいるように見えた。涙越しでもわかるくらいにはっきりと。
 そのたたずまいはイヌイヌップに声を出すことを許さなかった。
 イヌイヌップをまっすぐ見つめたままチャオは口を開いた。
「すくなくとも君は自分の願いがかなわなかったことを知っている。それで充分ではないのか?
 消えた者たちがどこへ言ったのかを知る者はない。知る術はないからだ。なのに誰もが彼らの望みはかなったと信じて疑わない。伝説のとおりだと。なぜだ?
 それが自分の願望だからだ。すべてを失ったあとにも残る最後の希望だからだ。
 それだけあれば人は生きていける。それだけのことだ。本当は。
 それを信じきれないものだけがここまで来てしまう……」
 チャオは視線を逸らした。
「……どうしても行きたければ、また来ればいい」
 そしてイヌイヌップに背を向けた。
「――待ってください!」
 思わずあげてしまった声にチャオは出ようとする動きを止め肩越しにふりかえった。
 イヌイヌップは言葉に詰まった。考えて発した言葉ではなかった。ただ去ろうとする姿を引き止めずにはいられなかった。
 チャオは黙ってイヌイヌップを見ていた。表情に変わりはなかった。
 ようやく探しあてた言葉をイヌイヌップは慎重に口に出した。
「……じゃあ……じゃああなたは、何のために?」
 チャオは何も言わずにイヌイヌップを見つめた。
 そして視線を戻し、キャビンから出ていった。
 ひとり取り残され、イヌイヌップはキャビンにただ立ちつくした。

8

 ボーディングブリッジを出たところにチャオが立っていた。
「あ……どうも」
 間の抜けた声でそう言い、イヌイヌップは立ちどまった。
 なんとなくもう顔を見ることはないと思っていた。キャビンに取り残されたあのときから。
 だがチャオはそこにいた。変わらない無表情のままで。
 そのたたずまいをイヌイヌップはぼんやりとながめた。
 チャオもイヌイヌップを黙って見つめた。
 その唇が、やがて動いた。
「――どうする?」
「――はあ?」
 そう間の抜けた声で応えてからイヌイヌップはようやく問いの意味に気づいた。
「……ああ……」
 視線を逸らし、力なく首を左右に振った。
 チャオはただちいさくうなずいた。
 あとはつまらない事務的な話がいくつかあるだけだった。てきぱきと話を済ませるとチャオは挨拶もせずにその場から去っていった。
 そのうしろ姿をイヌイヌップは立ちどまったままぼんやりと見送った。
 背中からは何も読み取ることはできなかった。だがイヌイヌップは思わずにはいられなかった――戻ってこないことを最も欲しているのはチャオその人ではないのだろうか、と。
 たしかめる術はなかった。聞いても答えないだろう。けれど――
 チャオの姿が角を曲がって消えた。
 それでもしばらくイヌイヌップはその場に立ちどまっていた。
 そして息をついて歩きだした。
 人のことを考えるよりも自分のことを考えるべきだった。帰る自分を待つ喜劇について。
 悲劇と呼ぶこともできるかもしれない、そんな気分だった。本質においてそのふたつに差などないのだ――そのことを、今回の往復ではっきりと学んだような気がした。
 すべきことを二度もし損ねた者にとってはどちらであってもたいした違いはない。
 ロビーの人影はまばらだった。イヌイヌップはロビーの縁、宇宙に臨む壁に近づいて足を止めた。
 星々はあざやかにきらめいていた。来るときと同じように。
 ――この世界を出て行けなかったことが運命なら、それを受け入れよう。
 イヌイヌップは帰途を想った。

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