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インスタント・ヒーロー

 クラスでいちばんさえない男の子を想像して。それが本編の主人公、冴島ツトム(十四)だ。
 想像できない? じゃあヒントを少々。背は学年全体で前から数えたほうが早いくらい。中学に入ってから目が悪くなりはじめて銀縁メガネをかけている。入っているクラブは天文部。髪の毛はたいてい寝癖でつっ立ったまま。得意な科目はなし、苦手なのは体育。歌はそこそこ歌えるけれど絵はからっきし。唯一得意なのは魚釣り。などなど。
 どう? ちょっとはイメージできた?
 要するに平凡で目だたない、どこにでもいる男の子だ。将来は一浪して私大の文系学部に入り無事卒業して中小企業に就職、数年後にサークルで知りあった彼女と結婚、二児の父となる――とまあそのあたりまでだいたい見えているような。そのまま波乱のない、起伏のすくない人生を歩み……
 でもそれは悪いことじゃない。結局のところ多くの人は似たような人生を歩んでいるんだし、どんなにそれがありきたりであってもその人にとってはかけがえのない一度きりのすばらしいものに違いないんだから。
 でも、これもまた多くの人と同じように、どんなに平凡な人生にも一度くらいは想像もつかない意外な事態が生じるもの。当人の望む望まないにかかわらず、ね。
 冴島ツトム(十四)の場合、その意外な事態は死角から体あたりしてきた。

         *

 そのときツトムは通学路をとぼとぼと歩いて家へ帰る途中だった。
 梅雨も明け、頭の上にはこれ以上ないくらいの上天気が広がっていた。道行く人たちも自然に浮き足だってしまう、そんな陽気だ。ちょっと前には小学生の集団がさわぎながらツトムを追い越して走っていった。夏休みももうすぐそこ、これで浮かれないほうがどうかしてる。
 なのにツトムの心は晴れなかった。
 カバンの中の答案用紙がツトムの心を深く深く沈みこませていた。
 忘れようにも期末試験に惨敗したという現実はそう簡単には頭からなくなってはくれなかった。
「……あーあ」数歩先の歩道をぼんやり見つめながらツトムはため息をついた。「どうして試験なんかするんだろう? わざわざ点数なんかつけなくたっていいのに。勉強なんてできるやつはできるしできないやつはどうしたってできないのにさ。それをわざわざ数にしてならべなくたっていいのに……」
 ぶつぶつぶつ。もちろんツトムもそれが言い訳に過ぎないことはわかっていた。しかしそんなふうに言わずにはいられないくらい今回の結果はひどかった。こんなものを見せたら両親は怒り狂うに違いない。もしかしたら部の合宿にも参加させてもらえなくなるかも……。そう思うと気分はますます落ちこんだ。ただでさえ塾の夏期講習がびっしり詰まってて遊ぶ暇なんてないのに唯一の楽しみまで奪われてしまっては泣くに泣けなかった。いくら自業自得とはいえ。
「……はあ」
 またため息をつき、目線の先に白い線を見つけてツトムは足を止め顔をあげた。
 車の一台もない交差点で赤信号がツトムの行く手をさえぎっていた。
 なんでもない出来事なのに自分ひとりだけ意地悪されてるような気になってツトムはますます落ちこんだ。
 もはや言葉にならないため息をまたひとつつき、肩を落としてツトムはあたりに視線をさまよわせた。
 交差点の向かい側、商店街の角の建物に貼られたポスターが目に止まった。
 赤いヘルメット頭と黒いスリットの目がポーズをつけてツトムのほうを見ていた。変身ヒーローのポスターだ。ツトムが小学校に入るころにやっていたものだからもうずっと昔のやつ。おもちゃ屋の壁に貼られたまま誰も見向きもしなくなった色褪せたその勇姿がいまはなぜかやけにかっこよく見えた。
「ヒーローかあ」
 誰にともなくツトムはつぶやいた。「ヒーローはこんなことで悩んだりしないんだろうなあ。試験勉強に頭をかかえるヒーローなんて聞いたことないもんなあ。もちろん夏休みの宿題なんてものもなくて、悪者が出てきたときだけいつもの採石場でやっつければいいんだろうなあ……」
 ツトムはただぼんやりとポスターをながめた。
 あんまりぼんやりとしていたので信号が変わったことにもそいつが近づいてきていたことにもぜんぜん気がつかなかった。
「――わあっ!」
 突然の大声にびっくりしてふりかえった瞬間、誰かがツトムの腰にタックルをくらわせた。
 オールブラックス相手でも通用しそうな見事なタックルだった。あおむけに道路に倒され背中と頭をしたたか打ち、ツトムは声も出せずに後頭部を押さえて悶絶した。けれど起きあがったりころがったりすることはできなかった。なにかが腰の上にしっかりと乗っかっていたから。
「――こら小僧! いい若いもんが道の真中でぼーっとつったってるんじゃ――あーっ!」
 ツトムに乗っかっているなにかはしわがれた声を甲高い悲鳴に変えた。あまりに耳ざわりなその調子はツトムの怒りに火をつけた。その勢いで痛みがいくらかやわらぎ、ツトムは目をかっと見開いた。
「うっさいな! つっこでんでくるほうが悪いんじゃないか!」
 大声でわめくと悲鳴は止まった。
 ツトムの腰にまたがってしっかりと座りこんだ老人はなさけない顔でツトムの胸のあたりを見おろした。
 教科書に載っているアインシュタインの顔を東洋風にしたような、見るからにうさんくさい顔だった。耳から上は見事につるっぱげ、残った髪と髭は見事に真っ白。髪は寝乱れたままのようにちりぢりに広がっている。頬に手をあてて口を開けばまんまムンクの『叫び』になりそうな表情にツトムはなんとなくいやーな予感がした。着ているのがあちこち焼け焦げ跡のある白衣だということもその感じをさらに強めた。
 そうやってツトムが不信気な目で見つめていても老人は視線を動かそうとはしなかった。いやーな予感がさらに強まり、ツトムはそっと顔をあげて老人の見ているあたりを見た。
 今度はツトムが悲鳴をあげる番だった。
「――あーっ!」
 被害をもっとよくたしかめようとツトムはめいっぱい頭を持ちあげた。
 Yシャツの胸から腹にかけてがびしょびしょに濡れていた。色はついてないがじっとりとねばりけのあるいやな感じの液体がTシャツにまで染みてきて肌に触れる。Yシャツの染みのほうもまだまだ広がりそうな気配だった。
「――どうしてくれるんだよ、こんなにしてくれちゃって! あーあ、びちゃびちゃじゃないか……」
 一瞬だけ老人をにらんで叫びをあげ、ツトムはなさけない顔で濡れたあたりに視線を戻した。カバンの中の答案用紙の上にもうひとつ両親を怒らせるための爆弾が乗っけられたような気分だった。
 と、沈んだ気持ちをむりやり引きずりあげようとでもするように老人はツトムの胸ぐらをつかんで引っぱった。
「むっ? むむっ? むうーっ?」
 うなりながら臭い息がかかる距離まで顔を近づけてじろじろとツトムの顔を見つめる。値踏みするようなその目が血走っていることに気づき、ツトムのいやーな予感はさらに強まった。
「――そうじゃ! こんなことで時間を無駄にしている場合ではない!」
 いきなりそう叫ぶと老人は胸ぐらをつかんでいた手を離し上体を反らして天をあおいだ。不意をつかれたツトムはふたたび頭をアスファルトに打ちつけた。忘れかけていた痛みがぶりかえし、後頭部を両手で押さえて悶絶する。
 身をよじるツトムをマウントポジションをキープししっかりと押さえつけたまま老人はふたたびツトムの胸ぐらをつかんでさっきよりさらに強い力で顔のすぐ前まで引きよせた。
「そう、ここでこうしてこうなったのも運命のいたずらに違いあるまい! ああ、なんということか! もはや賽は投げられた! 人類の命運はたったいま君の手にゆだねられたのじゃ!」
 大声でわめき散らすと老人はツトムをぎろっとにらみつけた。目つきが尋常ではなかった。ただごとではない様子にツトムは痛みをこらえながら助けを求めるようにあたりに視線をさまよわせた。
「聞いとんのか、こら」
 一転して低いドスの効いた声で言うと老人は胸ぐらをつかむ手に力をこめた。
 ツトムはあわてて視線を戻し小刻みに何度もうなずいた。
 老人は満足げな笑みを浮かべ、すぐに厳しい顔になって立ちあがった。胸ぐらをつかまれたままのツトムは引きずられるようにしていっしょに立ちあがらされた。
「よし、行くぞ」
「行くって、どこにですか?」
 ツトムが聞きかえしたときには老人はどこか遠くのほうに目を向けていた。
「時間がない。急げ!」
 そしてツトムの腕をつかんで駆けだした。
「わっ、ちょ、ちょっ、ちょっと――!」
 走らされながらツトムは声をあげる。しかし老人は耳を傾けた様子はなかった。振りほどこうにも老人の手はツトムの腕を万力のようにしっかりとつかんでいて、ただでさえどんくさいツトムは転ばないようにするのがせいいっぱいだった。
 ツトムはあらためて声をあげた。
「待ってくださいよ! どこ行くんですか!? 教えてくれればついてきますから離してください! 危ないって!」
 もちろん手を離されたらそのまま逃げだすつもりだった。けれどつかんだ手の力が緩められる気配はまったく感じられなかった。それどころか老人はツトムをちらりと盗み見るようなことさえしなかった。
 ――どうせぼくの言うことなんて誰も聞きやしないんだ。
 ツトムは厭世観にとらわれて遠い目でこの世ではないどこかをながめた。
 走りすぎていく景色はがらんと低い鐘の音が鳴ってちょっと薄暗い室内に飛びこんだところで落ち着いた。
「たのもう!」
 うしろでドアが閉まるのと同時に老人は不必要におおきな胴間声を張りあげた。視線が自分たちに集中したような気がしてツトムはきょときょととおちつかなげにあたりを見まわした。
 老人がツトムを連れこんだのはラブホテル、ではなくて喫茶店のようだった。木目調で統一した内装がいい雰囲気をかもしだしている。照明が抑え気味なのも効果をあげてた。しかしどう見ても買い物帰りのおばちゃんたちが大声で世間話をするには向かない感じで、そのせいか人影はほとんど見あたらなかった。
 だからといって異様な風体の老人の突然の闖入が見過ごされるわけではない。店内の空気はたしかに一瞬固まった。
 けれどそれは長くは続かなかった。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
 やわらかで落ちついたプロの声がツトムの視線を引っぱった。
 カウンターの中で母親よりすこし年上の感じの女の人がにっこりと微笑んでいた。手元からコーヒーの香りがただよってくるようなあいさつだった。
 と、肘をつかむ老人の手の力がゆるんだ。ツトムははっとして老人の後頭部を見つめた。
 老人はふらふらと足を一歩前に踏みだした。どうやら女主人に目を奪われてツトムのことをすっかり忘れてしまったような様子だった。
 ――チャンスだ!
「――あの……?」
 微笑にわずかにとまどいを浮かべた女主人を横目に見ながらツトムはゆっくりとその場でまわれ右をした。そおっとそっと、物音をたてないよう気をつけてドアへと近づく。出口はすぐ目の前だった。手を伸ばしドアを開けて飛びだせば自由が待っている――
「冴島ぁ? なにやってんのさ、あんた」
 思いがけない言葉に思わずツトムはドアにおもいっきり頭をぶつけた。鐘の音が派手に鳴り響いた。
 あわててふりかえり、ツトムは右手を後頭部にあててわざとらしい作り笑いを浮かべた。
「や、やあ、どうも、あははははは」
 視界の端に老人の怒りの表情が映ったがそれはつとめて気にしないようにしてツトムはカウンターのいちばん奥に座っている声の主を見た。
 天野唯はテーブルの上に場違いな教科書とノートを広げたままけげんな顔でツトムを見ていた。
 笑顔がひきつるのがわかったがどうにもならなかった。
 同級生という共通点を除けば天野唯はツトムとまるっきり正反対の人間だった。女で明るくてかわいくて人気者で成績優秀、しかも喧嘩が強い(入学して一月もしないうちに上級生三人をのしてしまったことはすでに伝説だ)。行事のときには率先してみんなの先頭に立ち、一方納得できないことがあると相手が先生だろうがなんだろうが自分の意見を譲らない。まさに人の中心で注目を浴びるために生まれてきたようなタイプだった。
 そんな彼女をツトムはいつも教室のはしっこからながめているばかりだった。まともに話したことなど覚えているかぎりでは一度もない。そんな相手とこんな妙なシチュエーションでばったり会うなんてこれほど気まずいことは考えられなかった。
 ――なんとかごまかさなくちゃ。
 そんな考えが頭をよぎった次の瞬間にはツトムの口は勝手に動いていた。
「あはははは――あのさあ、こんなとこで勉強なんかしてていいの? 生活指導の小宮山あたりに見つかったらまずいんじゃない?」
 いかにもとってつけた質問に天野はうさんくさげな目でツトムを見た。無理もない、そう思いながらもツトムは内心深く傷ついた。
「自分ちで何やろうが文句言われる筋あいはないと思うけどね」
 ちょっとむっとした調子で言うと天野はツトムと老人を見くらべた。「そっちこそいいのかよ? いちおう父兄同伴みたいだけど」
「父兄なんかじゃない!」
 期せずしてツトムの叫びは老人のそれとユニゾンで響いた。思わず二人は互いの顔を見あわせる。それで落ち着きを取り戻したのか、老人は咳払いをするとカウンターの女主人にむきなおってちょっと手を広げた。
「奥さん、ちょっと頼みがあるんじゃが、聞いてもらえんじゃろうか?」
「は、はあ……なんでしょう?」
 天野の母親はちょっと体を引き気味にして応えた。ツトムは逃げ出す隙をうかがったが老人も今度は考えたらしく気づかれずに視界から逃れることはできなさそうだった。
「実はじゃな、奥さん。お湯をいっぱいいただけないじゃろうか」
「お湯……ですか?」
 女主人は首をかしげた。「あの……普通の喫茶店はどこもそうだと思うんですが、お湯はメニューに乗せてないんですけど。コーヒーか紅茶はいかがです? お気に召さなければホットミルクやココアもあります。日本茶や中国茶は残念ながら用意してないんですが――」
「あ、いや、その、何もいただこうというわけではないのじゃよ。ただこうちょっと、別に使う必要があってじゃな――」
「あ、もしかしてお顔でも洗われたいんでしょうか? ずいぶん汚れていらっしゃいますよ」
「いやまあそれはよくわかっておるんじゃがそれはこのさい置いといて、具体的な目的はともかく、用意していただけないじゃろうか」
「……こまったわね……あの、うちではお湯はお売りしてないんですよ?」
「いや、じゃから売ってほしいわけではなくて――」
 云々。
 なんとなくかみあわない会話に老人はすこしずつ女主人に近づいていった。あくまでツトムから目が離れないようにして。と、やりとりを聞いていた天野が席を立ってツトムに近づいてきて声をひそめて聞いた。
「お父さんやおじいちゃんじゃないなら誰なの? あんた、学校から帰るとこーゆーのと遊ぶのがシュミなの?」
「怖いこと言わないでよ」
 ツトムは首を力なく横に振った。「そっちこそ、親子のくせに性格ぜんぜん違うんじゃないの?」顔は似ててきれいだけど、という言葉は飲みこんだ。
「そーなんだよなー」
 母親に視線を戻すと天野はやけにしみじみとうなずいてみせた。ふとその視線を追ってみると天野の母親はコーヒーカップを老人に差しだしていた。どうやら中にはお湯が入っているらしい。老人は頭をかかえていた。
 ――なるほど、これじゃ娘がしっかりしなくちゃいけないわけだ。
 しかしそのおかげでいまでは老人のぴかぴかの後頭部がよく見えるようになっていた。ツトムのことをほとんど忘れてしまっているのはまちがいなかった。
「じゃ、そーゆーことで」
 軽く手をあげ天野に小声で挨拶し、ツトムは店にくるりと背を向けてドアまで歩いて取っ手に手を伸ばした。
 つかみかけたまさにその瞬間、ドアが勢いよく開かれて取っ手はツトムの手から逃れた。
 あっと思う間もなくツトムを押しのけるようにしておおぜいの人間が目の前をぞろぞろと駆け足で店の中に入りこんできた。あれよあれよという間にカウンターの前に横に並んだ人の列ができあがる。ぴっと気をつけをしたその全員が老人をまっすぐ見つめていた。老人はすこしひるんだ様子でその顔をながめまわした。
 老人のその動きにあっけにとられていたツトムはようやくわれにかえった。
 店内の雰囲気はあっという間に喫茶店らしくなくなっていた。異様なその感じにツトムの理性はかかわりあいにならないほうがいいと強く警告していた。さいわいドアはまだ開いている。出ていけばいいだけの話だ。
 動こうとして、ツトムはちらっと横目で天野を見た。呆然として人の列をながめていた。ちょっと気になったが、考えてみればできることはなかった。ツトムは天野から視線を離してドアへと歩いた。
 境界を越えようとしたまさにその瞬間、行く手になにかおおきなものが立ちふさがった。
 ツトムは勢いあまってそのなにかに顔から突っこんでしまった。ごわごわした服の感触に息と目がふさがれる。
 ――なんでいつもいつもいっつも!
 理不尽だ、そう思うのと同時になにかがツトムを押し戻すように動いた。
 抵抗する間もなくうしろによろめき、バランスを崩してその場にしりもちをついた。ツトムは思わず顔をあげて行く手を阻んだなにかを見あげた。
 高い位置からこわもての男が血管の浮き出た目でツトムをぎろっとにらんだ。
 ツトムは泣きそうになった。迫力に視線を反らすこともできなかった。その耳に低い鐘の鳴る音が届いた。希望の扉が閉じた、ツトムはそう思わずにはいられなかった。
 そんなツトムの様子に鼻を鳴らすと男は視線をあげ右手に持つ短い鞭で左の掌を軽く叩いた。もったいぶった遅さで店の奥へと歩く。その動きをついツトムは頭をめぐらせて追った。
 横に並んだ人の列のいちばん端に立ち、みずからもカウンターに向きなおって男は老人を見た。
 そうやってみると男は他の人たちより頭ひとつ背が高かった。ただ背が高いというだけではない。肩幅も腕も腰まわりもすべてががっしりとしていた。いまどきプロレスラーでもこんなに立派な体格の持ち主はいないんじゃないか、ふとツトムはそんなことを思った。
 だが規格外なのは体格よりも服装だった。肩章のついた、カーキ色の、ポケットの多い上着にシンプルなスラックス。丈の長い黒いブーツ。両手には白い手袋、それに鞭。頭の上には制帽まで乗っている。どこから見てもまごうことなきミリタリーおたくだ。できれば一生お近づきになりたくないタイプだった。
 気がついてみると並んでいる人たちはみな似たような服装をしてきた。ツトムはこめかみのあたりがじんわりと痛くなるのを意識した。目を転じてあたりを見まわす。
 天野は半ば口を開けあきれた顔で列をうしろからながめていた。その母はカウンターの中であっけにとられたような顔をしている。何が起きているのかよくわかっていないような感じだった。
 対照的に横に立つ老人はあきらかにうろたえていた。その顔は動揺を必至に押し隠そうとするせいか奇妙に歪んでほとんど笑顔に近くなっていた。
 と、びしっといやな音が空気を裂いた。ツトムは思わずその発生源に視線を戻す。
 しなやかに小刻みに揺れる鞭を手に大男は残忍な笑みを老人に向けていた。
「……さて、ようやくふたたび会うことができましたな、鎧博士」
 女みたいな高い声で大男は言った。ツトムは一発で大男が嫌いになった。高い声は自分のコンプレックスのひとつだったから。
 そろそろと、めだたないようゆっくりと、しりもちをついたままツトムは大男に向きなおった。そのままできるかぎり離れようとずりずりうしろへさがる。
 大男はそんなツトムは眼中にないようでかまわず言葉を続けた。
「そろそろ悪ふざけは終わりにしましょう。ご同行願います。ああ、ご心配は無用ですよ。危害を加えたりはいたしませんから」
「断る。何度も言ったはずじゃ、お主らに協力する気はないとな」
 老人は毅然としてそう言い放った。大男はわずかに目を細めた。
「協力はしていただかなくてかまいません。ただおとなしくついてきてくださればいいのですよ」
「同じことをくりかえさせるな。何度聞かれても答は変わらなん。わしを置いてさっさと出て行け」
「……どうしても、いっしょに来てはいただけないと?」
「くどい」
 老人は大男を見すえた。大男はわずかに目を伏せてわざとらしく息をついた。
「ではしかたありません。申し訳ありませんが、少々手荒い手段を取らせて――」
「あんたたち、遊ぶんなら外でやってくんない? 気が散って勉強の邪魔なんだけど」
 突然割りこんだ低い女の声にツトムはびっくりして声の主に目を向けた。
 天野は握った拳を腰にあてて大男をまっすぐにらみつけていた。
 大男はあっけにとられた表情を浮かべて肩越しに天野を見た。しかしそれも一瞬のこと、すぐに落ちつきを取り戻すとやれやれとでもいうようにふっと息を吐いた。
「元気のいいお嬢ちゃんだ。だがこちらもとても重要なことを話しあっているところなのでね。すこしのあいだ静かにしていてもらえないかな?」
「そうよ唯ちゃん、お客様にそんなことを言ってはいけないわ」
 ――お客様?
 ツトムは耳を疑ってカウンターに目を向けた。
 天野(母)はのほほんとした営業スマイルを大男をはじめとする人の列にふりまいていた。
「それで、あの、ご注文は?」
 緊張感のかけらもない、プロの台詞だった。
 さすがの大男もこれには毒気を抜かれたようだった。並んだ人たちもどことなくとまどったようで列がわずかに波打つ。
 その隙をつくように鎧博士と呼ばれた老人はカウンターの中ですばやく動いた。
 大男はそれを見逃さなかった。
「待て! 動くな!」
 鞭をつきだして老人を指し声をあげる。鎧博士は動きを止めてくやしそうな表情を浮かべた。
 おおきな物音がその表情を驚きに変えた。
「うっさい! 静かにしろ!」
 ボックス席のテーブルを思いっきり蹴ってから天野はそう叫んだ。
 あまりの迫力にその場にいる全員が息を飲んで動きを止めた。
 唐突に訪れた不安定な静寂の中、天野は室内にいる全員をじろりとねめつけた。最後の仕上げに制帽大男をぎろっとにらみつける。そしてあらためて腰に手をあてゆっくりと大股で歩くと、大男の正面にまわってその顔をまっすぐきっと見あげた。
「……あんた、責任者なんだろ? なんとかしてくんないかなあ? はっきし言って迷惑なんだよね、勉強にも客商売にも。まったく、誰だか知んないけどいい歳して戦争ごっこみたいなかっこして――」
 と、それまで気圧されていた風の大男が天野の言葉の途中で突然目を光らせた。
「なに? 知らない?」
 どこか楽しげに言い、不敵な笑みを浮かべると背筋をぴんと伸ばしてブーツのかかとを打ちつける。一瞬遅れて並んだ人全員が同じようにブーツのかかとを鳴らした。店内におおきな音が響きわたる。今度は天野がすこしひるむ番だった。
「よかろう! 本来ならこのような場でお主らのような下々に聞かせる名など持たないのだが、今日は特別に明かしてみせようではないか!」
 うれしそうにそう言うと大男は右腕を斜め上にまっすぐ突きだした。
「われらこそは現世の栄光を一身に集めるべき高貴な存在、ヘルエンペラーである!」
 その言葉と同時に並んだ人間がいっせいに一糸乱れぬ動きで右手を斜め上に突きだした。
「ヘルエンペラー、万歳!」
 唱和した声は店の中に高らかに鳴り響いた。
 静けさが戻ってくるまでしばらくかかった。
 最初に口を開いたのはあからさまにけげんな表情を浮かべた天野だった。
「へるえんぺらあ?」
 猜疑心に満ち満ちたその口調に思わずツトムは言わずにはいられなかった。
「……って、暴走族?」
 大男ははじかれたようにツトムに顔を向けると真っ赤になった顔から血管の浮き出た目を押し出さんばかりにして金切り声で叫んだ。
「ちがぁうっ! 世界征服をたくらむ悪の秘密結社だっ!」
 そして息を乱したままツトムをぎろっとにらみつけた。並ぶ人たちはいつのまにか腕をおろしていた。
 ツトムはあっけにとられて大男をただ見つめた。
 天野もあっけにとられて大男をただ見つめた。
 天野(母)もあっけにとられて大男をただ見つめた。
 三人とも目が点になっていた。
 やがてツトム以外の視線に気づくと大男はふとわれに返ったようなばつの悪い顔を見せて顎をひき両手で制帽を直した。その様子を見ているとツトムの心にもはやつぶやく気にもなれない言葉が浮かんだ。
 ――……世界征服って、あの《ヽヽ》世界征服?
「……するってえと? その横に並んでるのが下っ端の戦闘員で、あんたはさしずめ幹部のなんとか将軍ってとこなわけ?」
 イヤミをたっぷりまぶした天野の言葉に大男はどういうわけか胸を張った。
「そのように見られるとは心外である。われこそは偉大なる高貴な存在ヘルエンペラーの唯一無二の絶対的指導者、ヘル・ハイネケン子爵! 幹部だなどと軽く見るのは止めてくれたまえ」
 天野は視線をそらして派手なため息をついた。
 その後に続いたのはどういうわけかぽんというこぶしで掌を叩いた音だった。
「あら、そういえばその名前聞いたことあるわ。ご近所をボランティアで掃除したり通学路の交通整理をしたりって、あれ、あなたがたのことよね? まじめにやってくれて助かるわあって、奥様方に好評の」
「はあ?」
 ユニゾンで言うとツトムと天野はそれぞれの場所から発言の主である天野(母)を見つめた。ハイネケンは両手を腰にあててますますふんぞりかえった。
「そうであろうそうであろう、なにしろわれわれは『世界征服の基礎は地域から、愛される秘密結社を目指そう』をモットーに日々はげんでいるのだからな。町内会の行事にはかならず参加するし会費も滞納しない。皆の敬遠する役員にも進んで立候補する。困っている人がいれば声をかけ、人手がいるときには率先して提供する。『今日の支持は明日の支配の礎』。このような地道な努力がやがて来るわれらの時代を迎えやすくするのだ」
 ハイネケンの目は天井を超えてどこか遠くを見つめていた。
 ツトムはつぶやかずにはいられなかった。「……頭痛い」
 天野は小声で言葉を吐き捨てた。「あー、ご立派ご立派」
「わしは認めんぞ!」
 突然の怒鳴り声にツトムは頭をはたかれたようにして視線を転じた。
 声の主、鎧博士はカウンターに手をつき身を乗りだしてハイネケンに向かって顔を突きだしていた.もともと尋常でない目つきがさらに尋常でなくなっていた。
「なーにが愛される秘密結社じゃ! 馬鹿者! 仮にも世界征服をもくろむ者がそんな周囲の評判を気にするような志の低いことでどうする!? 恐怖と圧制で人民を意のままに操る者こそが真の支配者ではないか! 貴様らのいうような腑抜けた世界征服などわしは断じて認めんぞ!」
 言葉を切ると鎧博士は乱れた息をつきながらハイネケンをぎろっとにらみつけた。
 あまりの迫力に誰もがしばらく言葉を失った。
 はじめにわれに返ったのはまたしても天野だった。
「……あんたたちって、よーするにライバルなの?」
 さして興味なさそうな調子のその問いにハイネケンと鎧博士は同時にはじかれたように天野に向かって顔を突きだした。
「違う! 断じて違う! こんな誇大妄想狂の(自主規制)などと同列に扱わないでもらいたい!」
「違う! 断じて違う! こんな弱腰の数だけを頼みにするような(自主規制)と一緒にするな!」
 互いの声を打ち消さんばかりの大声で叫ぶと二人は正面からにらみあった。歯の隙間からこぼれる荒い息づかいが聞こえてきそうな勢いだった。
 と、その勢いを受け流すようにハイネケンはわずかに身をひいて余裕の顔を浮かべて息をついた。
「やはりご一緒いただくのはどうしても無理なようですな。仕方がありません。本来のわれわれの流儀ではありませんが、言うことを聞いていただきましょう」
 ハイネケンは左手を軽くあげた。
 並んだ人の列がいっせいに一糸乱れぬ動きで一歩前に出た。
 威圧としては完璧だった。自分に向けられた動きでもないのにツトムは思わず泣きそうになった。
 なのに、どういうわけか鎧博士は勝ち誇った笑い声をあげた。
「わしをどうにかする気か? おもしろい、できるものならやってみるがいい! お主らのようなこわっぱどもがわしを相手にできるなどと考えるのは百万年早いことを思い知らせてやる!
 見よ! わが科学の結晶を!」
 鎧博士は意気揚揚と右手を高々とかかげた。
 その手の先にはしゅんしゅんと音をたてて注ぎ口から湯気を噴きだすやかんがぶらさがっていた。
 誰もがあっけにとられて言葉を失くした。
 ただ一人、鎧博士だけがにやりと不敵な笑みを浮かべるとその顔をまっすぐツトムに向けた。
 ツトムはぎくっと震えてその視線を受け止めた。いやな予感がした。すごーくいやな予感がした。
 ――逃げろ! 逃げるんだ!
 理性が脳裡で何度も何度もくりかえし大声で叫ぶ。けれど意に反して体はまるで蛇ににらまれたカエルのようにぴくりとも動かなかった。
 そんなツトムの様子ににやりと唇を歪めると鎧博士はあっという間にツトムに駆けよりやかんの中身をその頭にぶちまけた。
 最初に感じたのは強烈な痛みだった。続いてむちゃくちゃな熱さが全身に広がる。
 ――なんてジジイだ、人に熱湯をぶちまけやがった!
 かろうじてそんなことを考えたのも束の間、ツトムはわれを忘れ跳ねあがって悲鳴をあげようとした。
 そしてもう痛みも熱も感じていないことに気づいた。
「――あーーーーーーーーっ――あぁぁぁぁぁぁ……ぁあ?」
 中途半端な叫び声をあいまいに吐き出し、ツトムは首をひねった。全身になんかむずむずする感じが広がっている。しかし熱や痛みは感じない。これっぽっちも感じない。
 ツトムはいつのまにか固く閉じていた目をおそるおそる開いて自分の体を見た。
 仰天した。
 その耳に場違いな鎧博士の高笑いが響いた。
「はーっはっはっはっはっはっはっ! どうじゃ、見たかわが研究の成果を! お主らなぞには到底理解できまい! わかったらさっさと退散するがよい! そして二度とわしの前に姿を見せるな!」
 ツトムは顔をあげ、いい気分で啖呵を切る鎧博士をなさけないようなうらめしいような表情で見た。
 そして鎧博士を除く全員の視線が自分に集まっていることに気づいた。
 ――無理もない。
 ツトムはますますなさけない気分になって肩を落とした。
 理由はわからなかった。知ろうとも思わなかった。しかしとにかく鎧博士にぶちまけられた液体と熱湯が関係していることだけはまちがいないようだった。
 着ていた制服が真っ白のラメ入りのヒラヒラに変わっていた。
 頭にはそれがターバンのように巻かれ、なぜか口元まで隠されていた。
 腕や足にはいつのまにかブレスレットやアンクレットがいくつも飾られていた。
 どう考えても妙齢の女性が身にまとうキャバレーのナイトショー向けの服としか思えなかった。
「……あんたたちって、そういう趣味だったの?」
 低い声のその言葉にツトムはあわてて視線を転じた。
 天野は身を引き気味にして気色悪いものでも見るような目でツトムを見ていた。ツトムは思わず声をあげた。
「ちちち違うっ! ぼくはぜんぜん関係ない! ここここんな――」
「おかしいか? 月光仮面を今風にアレンジしたつもりじゃったのだが」
 鎧博士はきょとんとした顔を天野に向ける。どうやら本当にどこがおかしいのかわからない様子だった。
「……それで? この世界のマジックショーやら万国びっくりショーやらがわれわれとどう関係があるというのですかな?」
 ハイネケンの言葉は辛抱に辛抱を重ねたという調子が語間からにじみだしていた。知ってか知らずか、鎧博士はその顔を横目でぎろっとにらみつけると唇を歪めた。
「さてな? 試してみてはどうかな?」
 不敵な笑みを浮かべる鎧博士をハイネケンは真剣なまなざしでじっと見つめた。
 そしてわずかに目を伏せるとちいさく息をついた。
「……どうやらわれわれはあなたを買いかぶりすぎていたようです」
 横目で並んだ戦闘員たちを見やり、わずかに顎をしゃくって鎧博士を示した。
「連行しろ」
 戦闘員たちは一斉にすばやく動き、
 なぜかツトムを取り囲んだ。
 そして一度に襲いかかった。
「馬鹿者! 何をやっている!? 連れていくのは博士だ、そんなガキなどでは――」
「――わあっ!」
 予想外の出来事にツトムはびっくりして目を閉じ両腕をただ闇雲に振りまわした。
 しばらくそうしてからふとわれに返って動きを止めた。
 なんだかまわりが妙に静かになっているような気がした。
 どうも自分が原因のような気がした。
 ツトムはおそるおそる目を開いた。
 信じられない光景を目のあたりにし、思わずきょろきょろとあたりを見まわした。
 襲ってきた制服姿の人たち全員がすこし離れたところにそれぞれ思い思いの姿で打ち倒れていた。椅子や机にもたれかかる者、腰に手をあてうめき声をあげる者、体をくの字に折り曲げる者……
 ふと顔をあげると倒れた人の外側でハイネケンや天野が絶句してツトムを見ていた。
 どうやらツトムは襲いかかってきた人たちをすべて跳ね飛ばしたようだった。
 ――でも、どうやって?
 いちばんわけがわからないのは自分自身だった。ツトムは自分の変わらない貧弱な肉体に目を向けた。
 その耳にまたしても耳ざわりな高笑いが割りこんだ。
「はーっはっはっはっはっはっはっ! どうじゃ、見たかインスタント・ヒーローの威力を!」
 ツトムは急いで視線を声の主に向けた。いつのまにか離れたところに避難していた鎧博士は得意満面、実験に成功した科学者のような顔でハイネケンたちを見下すようにながめていた。
「――あれか!? あれがその――」
 ツトムの叫び声に鎧博士はご満悦な表情のまま視線をツトムに転じた。
「さよう、あれこそまさにヒーローの素。好きな人間手近な人間、誰でもかまわん、とにかく頭からそいつに振りかけてお湯を注げばあら不思議、インスタント・ヒーローの出来あがり。変身したそいつはヒーローにふさわしい超人的な能力を身につけるわけじゃ。どうじゃ、お主、熱湯をかけられても熱くなかったじゃろう? それにその貧弱な体つきからは想像もできない怪力! まさしくお主はヒーローにふさわしい超人になったのじゃ!」
 自分ひとりで手前勝手にもりあがると鎧博士は視線をハイネケンに戻した。「しかも変身中のヒーローは悪を惹きつけるフェロモンを発する。悪の秘密結社の構成員などその匂いの前にひとたまりもなかろう! どうじゃ、これでもまだお主らにわしがどうにかできるか!」
「ちょちょちょちょっと待って――」
「そう、やっぱりインスタントは香りがいまいちなんですよ」
 更なる高笑いの出鼻をくじかれ、鎧博士はうらめしげな目で天野(母)を見た。
「うぬぬぬぬぬぬぬぬ〜〜〜!」
 きわめて機嫌の悪そうなその声に危険を感じてツトムはあわてて視線を転じた。
 ハイネケンは顔を真っ赤にして鎧博士をにらみつけていた。その右手は鞭を左の掌にぴしぴしと小刻みに叩きつけている。実に物騒なその音にツトムは思わず身をすくめた。
 と、ハイネケンはその首を機械のように動かしてツトムをまっすぐ見つめた。
 反射的にツトムは開いた両手をハイネケンに突きだしてひらひらと振っていた。
「あ、いや、好きでやってるんじゃないんですよ、ほんとに、できれば誰かに替わってほしいくらいで、ですからぼくのことはほうっておいてもらって、その、なんだったらお先に失礼しますから、こういうのはやっぱり当事者同士で直接話をするのがいちばんですものね、ほら、やっぱり部外者がいるとなにかと気をつかうでしょ、だから――」
 ハイネケンはこめかみのあたりをぴくぴくさせてツトムを見ていた。ツトムの言葉を聞いていないことは明白だった。目が常軌を逸している。ツトムは絶望的な気分になった。
 だが予想に反してハイネケンは視線を鎧博士に戻すときっとにらみつけて鞭をぴしっと突きつけた。
「ええい、いまいましいがこのこしゃくなガキはあとまわしだ! 鎧博士を捕まえろ! かかれっ!」
 号令一下、ハイネケンの手下たちはぱっと立ちあがるとぴっと背筋を伸ばして姿勢を正した。
 そして鎧博士に向かって突進し、
 ツトムの上にぞろぞろとのしかかった。ツトムは声をあげる間もなく人の山のいちばん下にうつぶせにつぶされた。
「何をやっておるかっ、貴様ら! ガキはあとまわしでいい! まずは鎧博士だ!」
 ヒステリックなハイネケンのわめき声に人の山のいちばん上の制服男は顔をあげると途方に暮れた様子で首を力なく横に振った。どうやら自分でもどうしてそうなるのかさっぱりわからない風だった。
「はっはっはっ、無駄じゃよ無駄無駄。何度試しても同じことじゃ。いいかげんあきらめるがよい」
 ふたたび高笑いをあげると鎧博士は余裕の足取りでドアへと近づいた。閉じたドアを背にしていったん立ち止まり、怒りに全身を震わせるハイネケンを見下すように鼻で笑う。そして室内を軽く見回すと視線をふたたびハイネケンに戻し不敵な笑みに唇を歪めて言った。
「では、さらばじゃ」
「――待ちやがれ、このくそジジイ!」
 絶叫とともに人の山がはじけて崩れた。
 不意をつかれ鎧博士は思わずあとずさった。背中にドアがぶつかり鐘ががらんと音を鳴らす。
 ツトムはその真正面に肩をいからせ仁王立ちになって鎧博士をぎろりとにらみつけた。迫力が全身から発散していた。
「さっきから聞いてりゃ好き勝手なことばっか言いやがって。てめえだけさっさととんずらするつもりか、ええ? 冗談じゃねえ! 人をこんなわけのわかんないことに巻きこんどいてどうしてくれるんだ!?」
 ツトムは浮かせた足で床を思いっきり踏みつけた。店全体が不安げに揺れた。
 鎧博士は必死になってこわばる顔に笑顔を浮かべた。頬のあたりにいやーな汗が一筋流れた。
「き、君ぃ、いかんな、そ、そんなことでは。ヒーローがそんな細かいことにこだわっていてはいかんぞ。君はなによりもまず正義のために戦うべきではないか。ほれ見ろ、悪の手先どもはまだ戦うつもりだぞ」
 鎧博士は目であたりを示した。博士の言うとおりツトムに跳ねのけられ机や椅子を巻きこんで床に倒れた戦闘員たちはいままたふたたび立ちあがろうとしているところだった。
 その様子を横目で一瞥するとツトムはふんと鼻を鳴らした。
「あんただって世界制服をもくろんでるんだろ? だったら同じじゃねーか」
 吐き捨てるように言い、ゆらりと一歩足を前に踏みこんだ。
 鎧博士は背中をドアに押しつけ手探りでノブを探した。うまくつかめなかった。ツトムは剣呑な目つきでさらに一歩近づく。あまりの迫力に気圧された博士はカニのように横歩きをしてツトムの正面から逃れると猫のようにひとっとびしてハイネケンのでっかい体の陰に隠れた。
「なんとかせんか、こら。お主らの敵じゃぞ」
 ハイネケンは肩越しにふりかえりあっけにとられた目で博士を見た。
「元はといえば博士が作り出したものじゃないですか! ご自分で責任をお取りなさい!」
 前へ引きずりだそうとハイネケンは太い腕で博士の首をひっかける。そうはされじと鎧博士はハイネケンの腰に必死でしがみつく。そのまま二人はその場でもみあった。
「だいたいなんで博士があいつを恐れるんですか!? ご自分が生みだされたのですからご自分がいちばんよくご存知のはず! 弱点もよく存じておられるのでは!?」
「馬鹿者、わしの完璧な研究に弱点の入る余地などあるものか! それに本当ならヒーローになったら崇高な正義の使命に目覚めるはずじゃったんじゃ! 生みの親であるわしに口ごたえするなんて、そんな馬鹿なことが――」
「それのどこが完璧なんですか!」
 声をあげ、鎧博士の表情にハイネケンははっとして視線を転じた。
 その顔をすぐ目の前に立ったツトムは両手を腰にあてて見あげた。
「あんた、こいつをかばう気か?」
「馬鹿な! こんな迷惑な老人を庇護する気など毛頭ないわ!」
「――隠しだてするならおんなじことだっ!」
 ツトムはハイネケンの制服の喉元をつかんで持ちあげた。ハイネケンの体は首根っこをつかまれたままの鎧博士ごと数センチ宙に浮いた。
 それを合図に制服連中がふたたび一斉にツトムに襲いかかった。
 ツトムは空いてるほうの手を無造作にふりはらう。はじきとばされぶつかったカウンターにもたれかかる者、巻きこんだ机といっしょに床に転がる者。ハイネケンは手に持つ鞭でツトムを乱暴に打ちすえる。しかしツトムは平然としていてつかむ手の力をゆるめない。引きはがそうとする戦闘員たちの腕もツトムを動かすことはできない。さすがにハイネケンも鎧博士を捕まえた腕の力をゆるめはじめる。これ幸いとばかりに鎧博士はその場から離れようとするがまわりを戦闘員たちに囲まれて身動きとれない。そのあいだにも戦闘員たちは果敢にツトムに襲いかかる。ツトムはそれを手や足や頭で撃退する……
 椅子や机は共倒れ、白い砂糖の吹雪散り、阿鼻叫喚の声乱れ――まさに大乱闘に大騒動であった。
 あまりに混乱していたのでいつ近づかれたのかツトムはまったくわからなかった。
「――いいかげんに、しろっ!」
 騒動をうわまわる大声で叫び、天野はツトムの背中に蹴りを入れた。
 ツトムはまだ胸倉をつかんだままだったハイネケンもろとも前のめりに倒れた。
 両手両膝をついて体を起こし、ニ、三度ぱちぱちとまばたいた。われに返った気分だった。しばらくあっけに取られたままぼうっとし、はっと気がついて肩越しにふりかえった。
 どっしりと腕組みをした天野が険しい顔つきでツトムを見おろしていた。
 どういうわけかそのまわりには隙間がいくらか生まれていた。あたりはいつのまにかすっかり静まりかえっていた。誰もがすこしおびえた目で天野を見つめていた。
 と、天野はぎろっと視線をハイネケンに転じた。意味ありげにしばらく見つめてから今度は横に来ていた鎧博士に目を向ける。おとなしくなっていた二人は視線に射すくめられて蛇ににらまれたカエルのように体をちぢこまらせた。
 しばらくそうしてから天野は視線をツトムに戻した。
 そしていかめしかったその顔を不意に愛想笑いに変えた。
「……あんたたち、ここがどこだかわかってる?」
 薄気味悪い猫なで声は不気味な雰囲気に満ちていた。つりこまれるようにツトムはあたりを見まわした。
 そこはもう店の中とは言えなかった。
 床や壁にはいたるところに傷がついていた。無秩序にころがる机や椅子はそのほとんどがどこかしら壊れている。きれいに磨かれていたカウンターのあたりはもはや見る影もない。やってきたときの落ちついた雰囲気は完全に失われていた。
 ツトムはおそるおそる視線を天野に戻した。
 天野はまだ愛想笑いを浮かべたままでツトムを見おろしていた。
 ひきつった笑みを浮かべ、ツトムは乾いた笑い声を力なく漏らした。さっきまでのやけくそ気味の強気一本の勢いはすっかりどこかに消えてしまっていた。
 天野は何も言わずただじっとツトムを見つめた。
 ツトムはしかたなくおずおずと口を開いた。
「……喫茶店……だった……よね?」
 天野はにっこりとしてこくんとちいさくうなずいた。
「そうね。あんたたちが来る前はね。それがいまはこんなんなっちゃってるわけ。どうしてかしら?」
「われわれのせいではないぞ!」
 声をあげたのはハイネケンだった。「むしろ被害者はわれわれのほうだ! 見ろ、手下どもの哀れな姿を! そもそもこのくそじじいがおとなしくしていれば何の問題もなかったのだ! それにこのあやしげなインスタント・ヒーローなどというガキが――」
 天野は真顔に戻ると横目でぎろっとハイネケンをにらみつけた。
「言いたいことはそれだけ?」
 バシリスクみたいな目つきだった。ハイネケンはメデューサににらまれたみたいに身を硬くした。
 その様子にふんと鼻を鳴し、天野はあらためてあたりを見まわした。
「誰のせいだとかあんたたちが何者かなんてことはこの際どうでもいいのよ。問題なのは営業中の店に入ってきて人の迷惑をかえりみずに馬鹿騒ぎをはじめ挙句の果てに中をめちゃくちゃにしたっていう事実なんだから。
 本当はこういうことは警察に対応をお願いするべきだとは思うんだ。けどあんたたちみたいな非常識な連中が相手じゃ何がどうこじれて混乱したりうやむやになったりするかわからないでしょ? だから、しかたないけど法の裁きはあきらめるわ。ただこれだけはどうしても声を大にして主張したいの」
 言葉を切り、すこし顔をうわむかせて天野は深く息を吸いこんだ。
 そして両目をかっとおおきく見開くとあらんかぎりの大声で叫んだ。

「出てけ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」

 圧倒的な迫力にただちに立ちあがらされたツトムは一目散にドアに向かった。同じようにハイネケンも鎧博士も手下たちもいっせいに殺到する。その背中めがけて天野は手近のものを手あたり次第に投げつけた。手で頭をかばい押しあいへしあいしながらツトムは押しだされるように店の外に出た。
 最後の一人が店を出てドアを閉めた瞬間、ガラスのコップが壁にぶちあたって砕ける音がくぐもって響いた。
 息を切らしながらツトムはふりかえってドアを見た。それからふと近くにいたハイネケンをなんとなく見やる。茫然とした様子のハイネケンは視線に気づいて横目でツトムを見た。
 二人は力なくうつろに笑い、同時にうつむいてため息をついた。
 気がつくとツトムの服はあの白いヘンなヒラヒラから元の制服に戻っていた。効力もインスタントにしか持たないのかもしれないな、そうツトムはぼんやりと思った。
「――ああっ! 博士め、どさくさにまぎれて逃げやがった!」
 突然のハイネケンの素っ頓狂な叫び声にツトムは顔をあげあたりを見まわした。たしかにあの特徴ある白髪頭はどこにも見あたらなかった。抜け目のなさは天下一品らしい。ツトムはほっとしたような気の抜けたようないわく言いがたい気分を味わった。
 と、がらん、と音をたてて店のドアが開いた。
 その場にいた全員が反射的に身をこわばらせた。
 隙間からそっとあらわれたのは上品な中年の女性の顔だった。なんとなくその場にほっとした雰囲気がただよった。
「あの……あなたたち、愛される秘密結社なんでしょう?」
 ハイネケンに目を向け、小首をかしげて天野(母)は聞いた。あんなことがあったにもかかわらず口調はおだやかでぼうっとしたものだった。ツトムは感心しかつあきれた。
 ハイネケンは目に見えて居ずまいを正した。
「そのとおりです、奥さん。地域住民の支持は重要ですからな」
 その言葉に天野(母)はほっとした笑顔を浮かべた。
「じゃあお願いしてもいいかしら。店の中の片づけを手伝ってほしいんですけど……」
「なんだ、そんなことですか。もちろん喜んで。今回の件についてはわれわれにもいくらか責任はありますからな。遠慮せずにお申しつけください」
 天野(母)の表情はぱっと明るくなった。
「まあ、助かるわ。そうだ、ついでに思いきって改装もしちゃおうかしら。いままでふんぎりがつかなかったけどこんなにたくさんの人が力を貸してくれるのなら業者さんに頼まなくても結構いけるんじゃないかしら。そう、きっとそうよ。そうと決まったら昔描いてもらった設計図探さなきゃ。どこにしまったかしらねえ――」
「あ、いや、その、奥さん、われわれにも他にやることがあるのでこの店にかかりっきりというわけにはいかないのですが……」
 とたんに言い訳がましくなったハイネケンの言葉を尻目に天野(母)はドアを開け放したままいそいそと店の中に戻っていく。ヘルエンペラーご一行様は所在なげに立ちつくした。
「どうしたの? 早く入ってらして!」
 店の奥から聞こえてきた声にハイネケンはやれやれという感じで首を振ってドアをくぐった。互いに顔を見あわせていた制服組もしかたないという感じでそのうしろに続く。最後に店に入った一人がおっと忘れてたという感じでドアノブに手を伸ばし、がらがらと音をたてて閉じた。
 そしてツトムは店の外にたった一人となった。
 と、乱暴におおきな鐘の音をたててふたたびドアが開いた。
 陰からあらわれたのは仁王立ちの天野だった。ツトムは思わず体をこわばらせた。
 その様子を天野はむっとした目でしばらく見つめた。
 それから何も言わずに右手をぐっと突きだした。
 ぶらさがっているのはツトムのカバンだった。
 中に入ってるテストのことを思いだし、ツトムはあわてて近づくとひったくるようにしてカバンを受け取った。ついへらへらとした愛想笑いが顔に浮かぶ。
「あ、あの、……どうも、ありがとう」
 表情を変えないままぷいと顔をそむけると天野は無言のまま背を向けて店の中に戻った。乱暴に閉められたドアがおおきな鐘の音を鳴らす。
 そしてまたツトムは店の外にたった一人となった。
 肩を落としうなだれて、ツトムはぐっと落ちこんだ。
 ――きらわれたあぁぁぁぁぁ。
 しばらくそのまま立ちつくした。
 それから深く重いため息をつき、とぼとぼと家路をたどりはじめた。学校から帰るときよりもずっと重い足どりで。

         *

 改装にかかったのは二週間。今度はすこし明るい感じなり、近所の奥さま方にも好評とのこと。
 ヘルエンペラーの野望は町内会の役員を占めるところまで達成された。いざというとき頼りになる秘密結社という評判にハイネケンはまんざらでもなさそうだ。
 鎧博士の行方? さあ、どうしたものやら。あんがい近くにいるのかも。あの特徴的な白髪頭には注意しておいたほうがいいかもね。

 さて、冴島ツトムはといえば……
 やっぱりテストの成績があだとなって合宿には行かせてもらえなかった。そのせいかどうかはわからないけど、その後ツトムの成績は天野唯と同じくらいまでよくなった。そのせいで、だけじゃないけど、天野はツトムを目の敵にするようになり、ツトムの学校生活はちょっとつらいものになった。
 この先二人は同じ高校に進学し、平凡な人生の範囲の紆余曲折を経て結婚することになるのだけど、それはまた別の話。

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