大学・研究機関と毒物事件との蜜月

 1998年10,11月分の「近況」でふれたことではあるが、大学という環境の無防備さと天真爛漫さ、自身の抱え込んでいる問題への幼児的な無自覚というものはようやく社会現象になったといえるのかもしれない。どうころんでも、ネガティブな話題でしかないこれが、しかし、毒物という劇的なシチュエーションによってスポットライトをあびたという点については、不幸であったというべきか。いや、これにしても、ただ単に大学で毒物混入発生、何名入院、程度では従来の社会の壁はこえられなかったのであり、和歌山や新潟の事件によってマスコミの感受性が毒物に対して敏感であったことでかろうじて脚光を浴びたともいえよう。従来、「先生とは実は馬鹿」という認識や、「大学というのも実はどろどろでどうしようもないところ」という知識だけは一部のメディアを通じて報じられていた。ただ、それでもなお、多くの人間にとってそれはあくまでもマスコミの世界観であり、権威をわざとゆがめてみせる一種のお笑いとしてしか認識されてこなかったふしがある。あるいは、そこに出てくる「大学」や「教授」は、文字だけは似ているが自分の認識世界での「大学」や「教授」とは別物のことだ、という逃避的安寧に抱かれていた、といってもよい。

 オウム真理教があり、サリン事件があり、和歌山、新潟の事件があって初めてそこにある「毒物」が日常の中にすでにしずみこんで隠れていることにきがついたのかもしれない。特に、今回の一連の流れでは報道に携わる人間よりも先に、大学の中にいる当事者達が自分たちの日常と、テレビや新聞にでてくる派手な日常とが決して断絶したものではなく、一本の線できっちりとつながっている、まさにリアルそのものであることに気づいたのかもしれない。「これで人を殴れば殺せる」と知った野球少年のように、あるいは「ここからとびおりれば死ねる」と理解したアイドルのファンのように、ある日突然、自分の埋没していた日常の中で、あたりまえに手に取り、あたりまえに利用していた白く細かい粉体が「あの」アジ化ナトリウムであることをリアライズしてしまった人間がはたしてどれくらい存在したのだろうか。いや、ここで一度整理する必要がある。

 まず、研究室は平等な人間関係の成立している近代民主主義世界ではない、ということ。そこは、教授や主任研究員がトップに君臨する小さな小さな箱庭であり、今に日本の社会の常識や通念の通用しない治外法権の領域であるということ。

 そして、そこには、サル山のランキング以上に苛烈できびしい身分差が存在し、さらに、下のものほど過酷なプレッシャーと不安定な身分、上からの理不尽な処遇に日々堪え忍んでいる「日常」がある、ということ。一般社会では問題になるような行為、犯罪にあたる行為、始末書にあたる行為、懲戒免職に相当するような行為であっても、研究室という個々のサル山の支配者がそこのボスだけである上、上位組織も「自治」と「ことなかれ」を看板にかかげて不介入をきめこむために、ごくごくあたりまえのように日々繰り返されている。もちろん、サル山において劣位にある存在にあたるものが集中的にそのような処遇に逢う。学生、事務員、助手、さらにその上女性であったり、留学生であれば、もう「上」はやりたい放題である。

 そして、彼らの居場所が「小さなサル山」である以上、世間のあたりまえは通用していない。つまり、大事なものや危険なものはちゃんとしまいましょう、とか、人が誰もいなくなる時は鍵をかけましょう、とか、見知らぬ人間が中にいたら問い質す、あるいは通報しましょう、とか、不審な事件があり人間の生命健康が危険にさらされたような兆候があれば警察に通報しましょう、とか、そういった常識のまったく存在しない世界である。

 さらに、そこには食事用の食塩や食器、机ふき用の洗剤なんかと同じように、ようするに「ごくごくあたりまえの日用品」として、アジ化ナトリウムをはじめとする多種多様な劇物、毒物が満載されている。また、そういう場での飲食についても清潔など考慮していない無頓着ぶりなので、毒物の棚と、それを使って実験する実験台のすぐとなりに食事用の食器やポットがおいてあったりする。

 さて、ここで分岐が発生する。

 最初、私が一連の報道で危惧したのは、後者の増加であった。つまり、報道によって「知識」をえてしまい、禁断の木の実を齧ってしまう研究者、学生が生じることを怖れた。

 しかし、その後の基礎生物学研究所の事件によって前者について考えざるをえなくなった。つまり、類似の事件は過去に数え切れないほど発生していたのではないか、数多くの人間が病院に送られているのではないか、もしかすると命を失った例すらあったのではないか。以前は、大学は治外法権であったから、たとえ学内の問題で入院患者や死亡者がでても対外的には「不幸な事故」ですまされてしまっていた可能性は極めて高い。事件が発生しても、それがダイガクジンにとっては「あたりまえ」だったり、彼らが「しられたくないなあこれ」とか思った場合は警察に通報もせずにごまかしてしまえる。事実、そうやってごまかされた事件は実はたくさんある。今回も、基礎生物学研究所では過去にも複数回、飲み物への異物混入やそれによるって病院にかつぎこまれた事故があったにもかかわらず、その時点では警察への通報をしていなかったという。これも組織とサル山の保身であろう。だとすえと、マスコミの報道ぶりと毒物への敏感さが、この点についてはプラスに機能したということになる。

 こういう例がある。数年前に、東京都立大学の理学部から近隣一帯に激しい異臭がまきちらされた。幸いにも大学裏の保育園では園児の帰宅後であったため被害者は少なかったが、残っていた保育園の先生が救急車ではこばれ、ガス会社、消防と警察がかけつけるという騒ぎとなった。結果的には、化学の研究室の排気システムからの異臭であった「らしい」ということにおちついたが、その関連で、当時の理学部長が自分のwebページに「理学部であれはあたりまえのことでもシロウトはさわぎたてるから気をつけよう」という内容の記述を行い、大学当局から「大学としてふさわしくない」と指摘を受ける、ということになったのである。社会の一部としての大学、という現実は、研究者を自認する教員ドモにはまったく自覚されていない。彼らの頭にあるのは「オレタチ専門家」と「おまえらモノを知らないトウシロドモ」である。大阪にJTが研究所をつくる、という時に、遺伝子組み替え実験について近隣住民から質問と抗議があがったとき(「近隣住民」には大阪大学の理学部の教員もふくまれていた)、現在JTのその敷地内にある研究館の副館長をしている中村桂子は「なにもしらないシロウトはすぐにヒステリックにさわぐから困る」ともらした。「だから専門家が啓蒙する場が必要なのだ」という主張が例の「生命誌」には含まれていると私は感じている。

 専門家を放置していてはいけない。彼らは「いちいち日常的な試薬まで棚に鍵をかけていたら研究なんかできはしない」と文句をいうだろうけれど、それでも、管理をきちんとする、というのは人間の常識と良識において「あたりまえ」なのだということを彼らにはたたきこまなければならない。社会は、いままで専門家をあまやかしすぎたのだ。自治という隠れ蓑の中で、実は彼らは犯罪の温床となり、かつ、その犯罪を隠蔽する「専門家」となりさがっていたのである。


1998.10.30.