1998年10,11月

京都大学農学部のカドミウム混入事件

 怖れていた、あるいは、半ば予測していたことが起きてしまった、というべきか。砒素カレーの時にかすかに感じた危険性は、アジ化ナトリウムの事件で増強されて今回の出来事を予見させていた。薬物は、ほんのわずかな手間で対象に被害を与えうる手口である。そこに必要なものは、怨恨と試薬だけだ。害虫駆除、農薬、検査試薬といった試薬にくらべて格段に杜撰な管理故に入手しやすく、怨恨うずまく環境、それが大学の研究室である。そこには、数量管理もされていなければ、戸棚に鍵もかかっていない状態で、多種多様な試薬が存在している。毒性の強いもの、弱いもの、いろいろある試薬だが、実際には研究教育の現場で試用する薬物の毒性をきちんと指導し、管理している、ということは意外なほど少ない。たとえば、アジ化ナトリウムなどは生物系の研究室ではごく日常的に使用するもののひとつにすぎず、今回の事件までこれが危険なものであるということすら知らなかった、という話もある。もっと危険な例では、「NaN3」とか「アザイド」という名前でしか認識していなかったために、今自分が計り取っているアジ化ナトリウムが「あの」アジ化ナトリウムである、ということにすら気付かない、という話もある。要は、知識の問題なのである。

 日常的に使用しているものについては、その危険性について鈍感になっていく、ということがある。さらに、指導する側が鈍感になった状態であれば、教わる学生もまたその危険性についての鈍感さをあたりまえのこととして受け継ぐことにもなる。その結果、危険と隣り合わせでありながら、極めて平穏で安穏とした日常を送る、ということもおきる。危機管理の問題だけとってみても、ここには大きな落とし穴があるわけだ。

 大学というところは、実にアバウトな側面を持っている。最近、どこの大学でも「盗難があいついでいるので気をつけましょう」という掲示を見ることができるが、施錠、物品の管理、という点でも大学ほどおおらかなところはない。一応受け付けはあるものの、訪問者もほぼノーチェックで校舎に入れるし、研究室は朝から晩まで戸が開いていて、食事やゼミなどで一時的に誰も中にいない状態になることも頻繁におきる。せいぜいで教授室に鍵をかけるくらい、だろうか。試薬の棚もよほどのもの以外は鍵などなく、そのまま自由に手に取れるようになっていたりする。毒性の強い試薬だからといって厳重に保管されているは限らない。さらに、それが毒性の強い試薬かどうかの知識なく実験に用いている、ということすらままある。知識と悪意のある人間がそこにいた場合、犯罪も事件も容易に実現できる環境なのだ。事実、盗難については学校専門の泥棒がいるという。確かに、鍵は24時間あいている、物の管理はいいかげん、とくればこんなラクチンなフィールドはないだろう。

 事件に必要な知識は、報道が与えてくれた。事件をおこすに至るための悪意・怨恨は、大学という構造が簡単にはぐくみうるものである、ということを忘れてはならない。国立大学で昇進の恨みがもたらして殺人事件、放射性物質を部屋にまき散らした事件、教員によるセクハラや剽窃等の出来事は頻繁に新聞を賑わせている。教員と学生の関係がゆがんだり、こじれていると、そこには様々な怨恨が沈潜することになる。往々にして、教員による一方的な抑圧が学生の心理的負担を増大させる、という展開となり、学生はある場合は退学し、ある場合は大学をうつり、そして、多くの場合は泣き寝入りを余儀なくさせられている。学生は、自分のおかれた境遇について相談する場がなく、また、問題を解決できる組織も機関もないまま、絶対君主をふるまう教員に虐げられる、という状況を耐えている。

 事件と報道が与えた知識は、もしかすると晴天の霹靂かもしれない。教員がその学生に対する絶対的な立場の強さをもって君臨し続ける以上、ゲリラ的に怨恨をはらそうとする人間が登場することは容易に想像できる。それが、正しい対応かどうかを論じる以前に、自分の人生をひきかえにさしだしてでも報いを、という考えは人類の歴史をひもとくまでもなく「十分に有り得ること」なのだ、という現実から目をそむけるわけにはいかない。

 怨恨の対象は指導教官かもしれないし、間に入る中間管理職的な立場の助手かもしれない。あるいは、その環境でもうまくいっていて、沈んでいる学生に対して無遠慮に心無い態度、言葉をさしむける同僚や先輩かもしれない。無力感は、精神のたがを超えるほどふくれあがってしまった時に、とんでもない弾け方をする、ということは、学生を教育指導する立場の人間は常識としてわきまえていなくてはならないことだ。そして、そこにルーズな管理と日常の一部に埋没している毒性試薬が同時に揃っているのだから。

 最低限、今必要なことは、研究室に保有している試薬の管理強化。いつ購入した、何が、どれくらいあるのか、そして、それがちゃんとしかるべきところにあるかどうか。アジ化ナトリウム、あったはずだけど瓶ごとなくなっちゃった、誰かに貸したかなあ、程度では問題なのだ(え? これ毒だったんですか? などという事もないようにしなくてはならない。お茶を飲んだり食事をしたりもする机のそばで試薬がこぼれている、などという背筋の寒い思いをしないように0)。そして、毒性の強い試薬はきちんと施錠の上保管すること。研究者養成の日常では、比較的容易に「慣れ」が生じ、自分の使っている試薬の素性や危険性について無知なままでいる、ということになりやすいため、学生、教員向けにこういった危機管理、危険性のレクチャーを行う、ということも必要だろう。

 今回の京都大学での出来事は、大学の研究室は、実はとても危険なところである、という自覚を持つ、という初歩的なところから始め、研究現場の危機管理を高めていく強い必要性を痛感した事件である。ただ、「教員」達が研究者としての自覚ばかり肥大している限り、学生は結局のところテクニシャンの延長でしかなく、こういった危機管理に関連する教育がなされる可能性が低い、という点が高等教育のかかえるもうひとつの問題なのだろう。なにしろ、教育者ならたもかく、研究者には「わからない人間」が一体なにをどうわからないのか、を類推する程度の想像力すらない場合が多いのだから…

 

三重大のアジ化ナトリウム事件

 京大のカドミウム事件で危惧していたことがやはりまたしても起こってしまった。三重大学でのアジ化ナトリウム混入事件。アジ化ナトリウムは毒性のある試薬であるにもかかわらず、生物系では日常的に使うものなので、その危険性についての麻痺感が著しい。「管理しろといわれても、しきれないよ」というのが現場の教員の正直な感想かもしれない。それは、「ここにいるひとはみんなイイヒト」という、なんの根拠もないナカヨシ集団的安寧にいだかれた傲慢と無知のひきだす結論であるともいえる。

 たとえば、ある首都圏の公立大学では、日中扉に鍵もかからずだれでもはいれる実習室にちゃんとアジ化ナトリウムがおいてある。それは、特に鍵のかかった棚にはいってるわけでもなく、そのつもりさえあれば学外の人間であっても容易に「おもちかえり」のできる環境である。そして、その状況についての教員の態度が「日常的な試薬だから管理しきれない」なのだ。棚に鍵かけるだけでいいのに、それすらやりたがらないのは、「大学にいるのはみーんな善人」という意味不明な自己保身の結末なのだろう。

 自覚のない教員にはなにを言っても無駄なのかもかもしれないが、大学という環境は、そういう「善人イシキ」をふりまわす非常識な教員たちのわがままのおかげで在校生や卒業生からたくさんの恨みを買っている組織なのだ。それは、「そこに使える毒がある」という知識ひとつでいくらでも犯罪を産み出しうる温床でもある。怨恨と無防備とがセットになって、事故のおきないはずはない。

 加えて、「大学院生」のことを実は学生だと思っていない教員は結構おおく、彼らの頭の中では大学院生は「一人前の責任ある研究者」ということになっている。にもかかわらず、奴隷に対するような理不尽な扱いをしたり、あるいは、逆に完全に無責任に放っておいたり、ということをくりかえすため、たとえば、教員が誰一人残っていない大学の研究室に深夜からあけがたまで、特定の大学院生が教授にせっつかれている結果をだすために実験している、とか、危険をともなう場所への調査に教員をともなわずに学生だけでいってくる、ということがあたりまえにおきる。どちらも、事故があった場合には当然教員の監督指導責任がとわれるべきなのだが、「学生は研究者」という思い込みがあると、教員に対する責任追求の手は甘く、学生に対する責めばかりがきつくなりがち、ということになる。さらに、深夜大学に残って実験しないような学生はやる気がない無能力者だ、などということをいってのける著名教授などもいたりするため、さらにさらに事故の確率は高くなるわけだ。

 残念ながら、この三重大の事件が最後だとは到底おもえない事情がある。上にあげた某首都圏の公立大学だって、いつこういう事故がおきてもおかしくない事情がある。大学の先生達も、いいかげん少しは教育指導とそれに関する社会的責任というものを真摯に考えてもよい時期だと思うのだが。

 そういえば、研究調査中に事故死した京都大学の大学院生については、指導者の監督責任は追求されたのだろうか。まさかあれも「学生は一人前の研究者なんだから不幸な事故でした」ですまされていたりするのだろうか。続報がないのが気にかかって仕方がない。

 

 

そして、基礎生物学研究所

 なんたること。三重大学での事件から一週間もたったのだろうか。今度は、岡崎の基礎生物学研究所(基生研)でアジ化ナトリウム混入事件。ポットのお湯に混入、助教授を含めて四人が病院へ(NHKより)。基生研はいわゆる総研大、総合研究大学院大学の一部、独立大学院の一部。大学院大学であるため、研究室の学生は当然大学院以上、という環境である。とはいっても、建物の容積や設備に対して常駐する人間は少なく、共同研究の場や特定設備の利用の提供としての性質もある。また、研究室は何年、という期限付きのものもあり、期限時には解散する、ということもある。以前、都立大の助手のある人は、その解散時に余剰の試薬や機具をわけてもらう、と車を走らせたこともあった(そういえば、その時もらってきた試薬の中にはアジ化ナトリウムの500g瓶が一本あり、「こんなに大量にどうするんですか? 一生かかっても使いきれないでしょうに」とその人に聞いた覚えがある。その助手はにたにた笑いながら「まあ、なんかに使うだろ」といっただけ。そういえば、あの大きな瓶はその助手がどこかにしまいこんだのか、今どこにあるかわからない…まあ、大学の試薬の管理などこんなものだ。その助手が、たとえば自宅にその瓶をもちかえっていたとしても誰にもわからないのだ)。今回、基生研で被害にあったのは助教授、大学院生、そして職員。助教授は、基生研では数少ない専任の教員であった。背景や犯行理由、といったものはこれから明らかになるのかどうかわからないが、生物系の研究の現場はおそらく全国あまねくひろくこのような犯行と紙一重のトラブルがたくさん埋蔵されていると考えて間違いあるまい。もしかして、まだまだ、続くのだろうか。たしかに、試薬の管理のずさんさと甘え、大学という環境に大量に含有される構造的問題と、研究者という一種禁治産者的な社会の脱落者の非常識ぶり、ともいうべき問題が温存される限り、残念ながらこの種の事故はまだまだ続くと考えざるをえない。

 基生研も、今回がトラブルの最初ではなく、今年の三月の時点でポットにアンモニアが混入されたり、コーヒーを飲んだ研究員が気分が悪くなって病院にはこばれたり、ということが繰り返されていたという。つまり、和歌山や新潟の事件がもしなかったとしても、今回の事件はもしかすると「起きるべくして起こった」ものかもしれない、ということである。その意味では、和歌山や新潟の事件のおかげで研究室での毒物混入がようやく「事件」になった、とすらいえる。事実、昨年も同一の研究室で二度、飲み物に異物が混入されたということがあったが、通報していなかった、という。常態と化していたのだとすれば問題としても背筋が寒い。

#これまで、報道されなかった「毒物事件」がどれくらいあったのか、
#考えたくもない。
 
 学部自治を問題視し、第三者機関による大学評価を提言した大学審議会答申がでたのと機を一にして起きたこの事件、事態ははげしく切迫しているということだ。もし、余裕があれば、大学人たちが今回の大学審議会答申に対してどのような態度をとるかを注視していると興味深い事実がみえてくるだろう。つまり、毒物混入事件が起きるような環境を懸命に維持しようとしているのはほかならぬ大学人当人たち、彼らがいごごちのよいぬるま湯の守りたさ故に、事態を悪化させている、ということが。