問題はどうやって生じていくのか

 キャンパス・ハラスメントとなる問題は、実際のところどのような経緯で発生するのでしょう。また、どのようにして問題はエスカレートし、複雑化していくのでしょう。もちろん、それぞれの事態、それぞれの事例は、プライベートとしての個人たる教員と、さらに個人たる学生との関りにおいて発生するものである以上、そのそれぞれにおいて必ず通用するような一般解はありません。でも、その中には、個人の特質や性癖を越えてキャンパスという独特の環境に依存した共通側面があることもまた確かです。ここでは、そういった共通側面とおぼしき点に着目し、問題発生時のシチュエーションを再現してみます。

基本的な感覚における齟齬

 研究室の配属を控えて、教員の前に立った学生のうち、近い将来なにがしかの問題に遭遇する学生は比較的高い割合で「うまくいえないけれど、なんだかへんな感じ」を教員に対していだいています。それは、「ちょっと気持ちが悪い」とか「なんだか嫌だ」であることもありますが、多くの場合、こういう印象をいだいた学生は、「でも自分の誤解だろう。なにも根拠はないのだし」、と自らを説得してその教員の下に配属されることになります。教員の側も、やはり同様の感覚を特定の学生に対して抱くことがあり、この場合は問題が生じた「後」で「君がきたときからちょっと問題があるなと思ったんだ」というようなことを言ったりします。極端な場合には、「まえなんか所詮は追加募集できた学生、いわばいらない学生なんだ」とか、「別に私があなたにたのんできてもらっているわけではないんだからいつでも国へ帰ってもらっていいんだぞ」というような物言いにもなります。

 学問といえども、現実には「師」を選びその「下」について学ぶという意味では封建的な徒弟制度なのです。どんなに近代民主主義をよそおってみても現状ではこの現実は避けられません。したがって、初見での第一印象は、学生にとっても、教員にとっても大切なものです。研究室での勉強・研究にあたって、日常的に最も
大切なものは、研究内容でもなければテーマでもありません。日常を共にする者
同士のいわば「相性」です。本来ならば、指導する教員はこの相性をのみこんだ上で教育・指導をすすめるべきなのですが、残念ながら教育者としてではなく研究者として人生をつんできた大学教員には、このような教育的配慮能力が欠けている
場合が少なくありません。結果、双方の抱いている「違和感」がやがて大きなトラブルに発展いていくことになるのです。

齟齬からトラブルへの発展

 研究室やゼミに配属された学生は通常、教員から「研究者」としての扱いをうけます。逆に、まだ研究者としての定収入もなく、確定した立場もない勉強中の学生にとってその「場」は学ぶためのものであり、そこに属するためのハードルを乗り越え、授業料を支払い、学ぶ権利を獲得できた環境にほかなりません。大学もまた「教育機関」ですから当然のことです。ここに、学生と教員の間の認識のずれが育って行きます。「ずれ」は、本当にささいなボタンのかけちがいから発達していきます。

 たとえば、研究室が汚い、教員の思う場所にものがしまわれていない、教員の思惑通りの結果がでてこない、教員が大学にまだ残っているのに学生は帰ってしまった、教員は休みの日にも大学にきているのに学生は休んでいる、よかれと思って指導してやったのに学生が口答えする、などというのが教員からの視点でありがちな「ずれ」です。

 実験に追われていてなかなかかたづける暇ができない、いわれたとおり何年も続けているのに先生の希望する結果がだせない・自分ではもう何がよくないのかも見当がつかない、そんなに連日深夜まで研究室で実験ばかりしていると身体をこわしてしまう、休日くらい身体を休めたい、今までの自分の結果と経験からとてもではないけれど納得できないようなことを指示される、などというのが学生からの視点です。学生は、休む予定をちゃんと口頭で伝えたはずなのに教員は聞いた覚えがない、とか、教員は学生のためを思ってとった行動が学生にとっては迷惑になった、とか、双方のほんのちょっとした思い違いや思い込みに由来するものも少なくありません。

 結局は、十分に対話がなされていないことによる「ずれ」なのです。

距離の増幅

 ひとたび気持ちが離れてしまい、学生、教員それぞれの頭の中に固定イメージができてしまうと、それを修復することは困難となり、さらに、なにもかもがその距離をおしひろげるように働くことになってきます。一度「こいつはやる気のないだめ学生だ」と思い込んでしまった教員は、その後のその学生ががんばって結果をだしたとしても、それ以上に些細な失敗のほうばかりが鮮明に記憶されて「やっぱりだめだ」という結論にむすびつけることらになりますし、学生の方も一度「この先生はいってもだめ」と思うと教員のほうがいろいろと歩み寄りを見せたり、アドバイスをしてくれたとしても、何か裏があるのではないか、という不信感をぬぐえません。当然、相手もその不信感や「こいつはだめ」という気持ちの動きはいろいろな所作の断片から感じ取りますから、さらに「うまがあわない」ことになります。

 最終的には、学生は教員の指導やテーマ、扱いのすべてを信じられなくなり、研究も順調にすすまなくなったり、ということになっていきます。当然、そうなってくる学生を目にした教員も、自分のその学生に対するネガティブな心証に裏付けを与えられたかのような気持ちになり、さらにきつくあたる、ということになっていくわけで、あとは、泥沼に沈み込んで行くしかありません。

 一番必要なものは、「一歩ひいて冷静に考え直す」ことと、「相手に対して気持ちの余裕をもつ」ことです。教員は学生の言動についてあまり一本道の受け止め方をせず、自分にはちょっと了解しにくいけれどなにか辛い事情があるのでは、と考えてみる。学生は、教員もまたいろいろとプレッシャーや仕事があってあまりこまやかな目配りができないために極端な言動をしているのではないかな、とちょっと下がってみてみる。それでもだめな場合は、問題の根本がすれ違いではなく、もっと憂慮すべき資質の部分にある場合ですから、研究室の外に相談をもちこむほうがよいでしょう。


1998.10.21