ここでは、比較的参考となりうる書籍を中心に紹介します。紹介に値するものをご存じの方は、コーナーの作者までメイルでご連絡ください。
大学教授 -そのあまりに日本的な
桜井邦朋著 地人書館
1991年8月10日初版1刷
同年9月10日初版2刷
ISBN4-8052-0392-7著者は、自身の経験を豊富におりまぜながら、「大学の教員」というものがどれだけゆがんだものか、社会の常識からはずれたものかを説いている。ただし、一研究者としてのあるべき姿、という視点が強い。以下は表紙からの抜粋。
「教授」とよばれる称号を持つだけで学者であるという錯覚に陥り自分の研究能力や研究業績についても、それがあるかのような発言をする人がいる。「教授」には、研究に対するノルマや規制は何もない。したがって、研究しない自由も享受できることになる。また市民としてり常識に欠けるところがあっても、誰も批判してくれる人はいない。堕落する気なら、とんてせもない深みにまで落ちこんでいくことができる。だが、それは大学の内部に限られているので、大学外の人には見えない。教授としては無能力であっても、社会に向かっては「大学教授」としての立派な資格があり、それを体現しているかのように振る舞うことができる。大学という存在が、その人の無能力を隠してくれるからである。
続大学教授 -日々是好日
桜井邦朋著 地人書館
1992年10月10日初版1刷
1994年4月20日初版3刷
ISBN4-8052-0420-6 C0037前著、「大学教授 -そのあまりに日本的な」の続編。前著でいいきれなかった部分を補記したものである。その内容は、基本的に教授職にある人間の無能についてであり、特にその英語力、論理能力、国語力の欠落について、具体例をあげながらしめしている。学生がいれかわっても、教員が入れ代わらない限り、大学改革などいつまでも実現できないのだという所にも強調点がある。自分の周囲の「大学教授」と照らして読んでみると興味深いであろう。
日本の大学どこがダメか
安原顕 編 株式会社メタローグ
1994年12月1日第1刷
ISBN4-8398-2004-X C0095各界の46名の著名人がそれぞれの立場、経験から現在の日本の大学の問題点を指摘する。そのほとんどすべてが教員の立場かのものなのだが、中には大学の教員に採用された経緯や、やめた経緯についてふれたものもあり、有用である。本の構成の形式上、大学の問題というものをシステマティックにまとめたものとはなっておらず、その点では読者の読み方が必要になる。ざっくばらんな本音を見ることができる、というのが本書のメリットであろう。その中で、天沢退二郎の言葉は重要だろう。
「大学」の正体は学生にしか見えない。いま声高に「大学」を論じている教師達も、私も、等しく無知である。
これが、現在多数出版されているいわゆる大学本がこのページで紹介するような事例についてはあまりポイントをおさえていない理由だろう。弱者としての学生の立場からの声が欠けているのである。
現代の大学院教育
市川昭午・喜多村和之 編 玉川大学出版部
1995年9月1日第1刷
ISBN4-472-10651-5 C3037日本における大学院の成立の経緯と、その背景、そして問題点を論じている。旧帝大での研究科から、戦後新設大学での大学院まで、実は日本の大学院は現場の実体にあわせてシステムがきめられたことがない、というがわかる。また、各国の大学院のあり方と比べることで日本の大学院の位置というものも見える。驚くべきは、大学院が「教育」の場であるこが明文化されたのが昭和49年てあり、また、その教育の結果として学位を発行することが大学にとってはおまけの手間ではなくその本務であることがはっきりさせられたのが平成3年である、ということだ。つまり、現在の大学院で教鞭をとる人間が「自分は教育をおこなっている」と主張したところで、彼等は「教育としての大学院」に接したこはなく、教員採用の基準に教育能力という条件がない以上、その自覚としての「教育」はそのまま日本語として額面どおりに受け取るわけにはいかない、ということになる。
ちょっと堅い本なのでとりつきにくいという向きもあるかもしれないが、大学院で問題に直面したときにぜひひもといて欲しい一冊である。
キャンパス性差別事情 ストップ・ザ・アカハラ
上野千鶴子編 三省堂
1997年7月30日初版1刷
同年10月30日初版3刷
ISBN4-385-35731-5様々な調査、具体例をあげながら「最高学府」のはずの大学という環境で平然と常識のようにまかりとおっている差別の実態に触れ、現状分析と対策を論じている。私は、不覚にもこの本の存在を自分では発見できず、こちらに取材にきたある雑誌の記者の方に教えてもらった。朝日新聞や毎日新聞、いろいろな雑誌などが、こぞって大学という環境に隠された様々な人権侵害をとりあげつつある現状は、おくればせながらようやく大学というものを社会の一部としてきちんと認識する作業となっている点が大切なのだと思う。特に、公務員法に守られた「教員」達の無自覚な人権侵害の数々は、ここの「事例」ページの内容が決して誇張でも特殊でもなく、「大学というところで日常的に、ごくあたりまえに行われていること」でしかないことを再認識させてくれる。「机を外にだされた」等、事象としてまで酷似しているものまである。問題は、実に根深いのである。
また、京都大学でのセクハラ事件に関る裁判の結果や、京都大学でのアンケート例など、資料としても大変に有意義な一面をもっている。
大学教授調書 -手抜きが横行する大学教育
C.J.サイクス著 化学同人
長沢光男訳
1993年4月1日 第1刷発行
ISBN4-7598-0243-6アメリカの事例だが、いかに大学という場で教育が軽視され、腐敗しているかを赤裸々に告発している。教育を嫌い、無関心である教員が、しかし、その研究においても同様にいいかげんで無責任であることを、一つ一つの事例をあげながらあきらかにしていっている。日米の違いによる違和感も多少はあるが、それでもここに出てくる実例の多くは、日本でも寸分違わぬシチュエーションを容易に発見できるようなものばかりである。特に、第15章にある「象牙の塔襲撃作戦」は必読である。大学教育を現在の危機から救うための提言がここにはならんでいる。項目だけあげてみると、
- 研究神話の打破(教員は皆オリジナルの研究をしているなどと信じてはいけない)
- 終身在職権の廃止(教員の責任感は終身在職の保証のために稀薄となっている。日本でも、任期制への奇妙な抵抗は根強い。何をやってもやめさせられない、という甘えが教員の無茶苦茶な言動をうみだしている)
- 授業の義務化(「研究活動なしには授業はありえないという主張は、大学文化の独断的意見でしかない」。最も、授業をもっていてもその内容は風化したノートのままだったり、という場合もあるのだが)
- 入学案内での真実の伝達(研究室における実際の教育と指導にどれくらいコミットしているか明らかにする度胸はあるだろうか)
- カリキュラムと基準の復活(教育、教養といえる基準を教員の評価系として設定すべきだろう。「業績」という名の下に研究室の管理も学生の教育もできないような教員が許されているうちは駄目ということ)
- 理事(日本の国公立大学ではこれに相当するポジションはないが、基本的に教員の暴走に歯止めをかけられるのはこの立場だけなのだ。そこには、それなりの責任がある)
- 州議会(日本では、文部省だろうか。上位組織は下位組織に対する責任があるものだ。大学が今ある現実も、その責任から独立なのではない)
- 国会、財団、研究助成金(いうまでもなく、「研究」に対する評価が大学というものをとてつもなくあまやかしてきたのだ。そして、専門の研究についての正しい評価が困難である、と思い込まされることで、あまやかしは大学側から正当化されている)
- 学生(「彼らが教授のペテンに気づいたころには都合よく社会へ送りだされている」。学生は、立場の弱さによって我慢し、辛抱し、自分を責めている。しかし、学生にはそんな我慢をすべき義理などないのだ。)
- 両親(授業料、学生である子供の権利を守るための戦い、親にできること、親にしかできないこともたくさんある。特に、事例ページの例が示すような、恥知らずな教員が親を大学に呼びつけるというシチュエーションなどは、実はカウンターのための絶好の機会でもある。必要なのは、動きやすくなるための一種の組合だろう。)
- 教授(「彼らのほとんどは、真の知的活動を維持し続けられるほど強い人たちではない。しかしそのことはあまり世間に知られていないのだ」。しかし、本当に、一千億の針ではないが本当にごく稀に、こういう問題についてきちんとした認識と能力を持つ人もいる。彼らが、そして、彼らになる予備軍が、大学という世界の中のかすかな希望なのである)
という具合である。
大学の事情
別冊宝島90 宝島社
1989年3月25日発行すでに入手は困難かもしれないけれど興味深い内容が含まれている。東京大学内ででまわった「東京大学における大学院制度について」からの抜粋なんかも紹介されている。東大の大学院大学化にあたって、内部でどういう展開があったのかがほのみえておもしろい。職員組合にとどけられた誰がかいたかわからない文書、ということだけれど当然学内では「犯人探し」もやされたのだろう。トクメイクンはどこにでもいる、という話だけれど、その内容がエリート大学に重点的に予算をあてていくという重点化のことだった、というあたりがいかにもトーダイ的というべきか。
このほかにも、研究者をめざす学生へのアドバイスなども有用で、たとえば指導教官は「専門分野よりも人格で選んだほうがいい」等と具体的である。図書館などでみかけたら一度手にとってみるとよい。ここでいわれたいろいろな問題が、20年後にどうなっているのか、ということも含めて。
大学の醜聞 大学も「永田町」だ!
別冊宝島199 宝島社
1994年6月13日発行週刊誌的なスキャンダルを中心に据えているため、必ずしも有用な内容ばかりではない。それでも、赤裸々な事例と、その取材は一読に値しよう。特に、大学の外にいる人に現実をみつめてもらうためには適度なきっかけとなるかもしれない。また、フリーライターの丸山貴未子による「非常勤の一コマをもらうために」は、アカデミックハラスメントに至る学の実態をかいまみることのできる秀作である。教員の立場の中の階層制を理解することによって、初めて、問題教員がどうしてえげつない、非人道的なふるまいに至るのかを知ることができるのかもしれない。それは、まそしく「永田町」にも似た、ねばつくようななにかなのだ。
キャンパス・セクシュアル・ハラスメント
-調査・分析・対策
渡辺和子・女性学教育ネットワーク 編著 啓文社
1997年11月16日 第1版第1刷発行
ISBN4-7729-1556-7 C0036大学におけるセクシュアルハラスメントについての大規模なアンケート調査を元に、日本のキャンパスセクシュアルハラスメントの実態をあきらかにしている。キャンパスセクシュアルハラスメントとは何か、それは一体どういう構造によってもたらされているのか、それに対する女性、男性の意識はどうか。非常によくまとまった文献である。また、資料的な側面もあわせもっており、海外の大学でのセクシュアルハラスメントのガイドラインの紹介や、国内の様々な活動、ネットワーク等についても言及し、紹介されている。巻末には、セクシュアルハラスメント関係の連絡先、ネットワークアドレス、カウンセリング組織の紹介の他、関連の文献の書誌情報も詳しい。
本webページ、「学生の人権」は必ずしもセクシュアルハラスメントにその内容を限定してはいないが、ここには、確かに大きな根のひとつが埋まっている。本コーナーの「事例」にも相当するものがあることもあり、これは総合的な弱者救済の運動の一環となるべきものなのであろう。
大学を学ぶ 知への招待
高等教育研究会編 青木書店
ISBN4-250-96015-3
1997年9月15日 第一版第二刷「参考にならない」、あるいは、「批判的に読むならば参考になる」、という意味で、本書をこのコーナーで紹介するのには少し躊躇させられる内容である。それをあえてあげたのは、この中には学生が大学で遭遇する問題の根源の一つがしっかりと根付いているからだ。本書は「学生が大学を使うため」に必要な案内という位置付けであり、著者らの自己認識によれば「学生の側に立って問題提起する」本のつもりなのである。しかし、そこにあるのは旧態とした建て前としての大学、きれいごととしての大学であり、それ以上のものではない。現実認識の甘さと天使爛漫といえる傍若無人ぶりは例えば「学生が大学改革に参加しなくてはならない」と一つ覚えのようにくり返すという点の他にも、方々ににじみでている。例えば、批判から逃げるように「別に居直っているわけではない」と前置きをわざわざしておいて、教員の講議がだめなのは、教員は教育について一般に未熟なものだからであり、講議はうまくなく、つまらない、ということの責任は学生にある、としてしまう。そして、「「わかりにくい」ならば「わかりにくい」、「説明が早すぎる」ならば「早すぎる」と指摘することは当然」とした上で「学生が教員を鍛える」必要を解く。それが「学生の参加」なのだそうだ。そこには、教育についての職業上の責任意識もなければ、向上心もない。また、教員の現状、大学の自治の現実といった真の問題点についての言及も無く、いわば「美しい大学の自治」というところで内容も止まっている。だからこそ、「教育が下手なのはあたりまえ、学生には指摘の義務と責任がある」ということにもるのだ。現実に、成績と単位、卒業を握られている学生が、「あなたの講議はわかりにくい」といえるものか、著者らは学生の立場というものをまった御存じないとしか考えようがない。それ以前に、指摘されなければ授業のできふできがわからない、というだけでも十分に情けないはなしなのであり、「そういう人間」がまた一体どうして大学で教育に携わったりしているのか、ということこそが問題であろうに。居直り以前に、これでは責任転嫁もはなはだしい。
そのほかにも、ここには実に青臭い理念や理想が大量にうずまいていて、そういう意味では壮観である。どうしてこんな本が世にでてくるのか。その答えは出版社の専門分野がある程度あきらかにしている。著者らはみないわゆる紛争世代、大学紛争の時代に学生時代を過ごした面々であり、いまだにそこに対するノスタルジアがさめやらぬのである。この郷愁は文中にもそしかしこにあらわれているほか、丁寧に大学紛争に付いて一章をあててもいる。紛争についての反省点といえばかすかに暴力についてのみ。学生達が現実よりも抽象的な思想と信念にふりまわされてただ徒に昂揚し、その結果もたらした数々の「改革」が現実には大学運営の足をひっぱっていった事実についての反省はない。(大学紛争と、先のオウム事件とを対比させると実に興味深い上、戦後日本の問題の多くを読み解くの有効なキーワードがみえてくるのだが、それは別稿に譲る) それは、著者らが度々引用している「大学を問う」にも再三にわたって指摘されていたことなのだが。つまり、著者らは大学改革にかこつけていまひとたびの精神的な昂揚を得ようとしているのではないか。そう考えると大学が現実にかかえている問題についての指摘を一切欠いたまま、ひたすらに精神世界と建て前の美しさ、きれいごとに執着している理由もみえてくる。おそるべきは、この著者ら自身がそれそれどこぞの大学の教授である、という点である。本書に目をとおしたら、ぜひ、このコーナーで紹介している他の本もあわせて御覧いただきたい。特に、「だけど教授は辞めたくない」、「大学教授になる方法」、等は絶対にあわせて読んでいただきたい。
本書を単体で読むのはおすすめできない。
高等教育研究会という名称も、ちょっとわかりにくいが、これは文部省の高等教育研究会のことではない。誤解をうみそうな危険を感じるところである。事実、私も最初に本書を見たときは文部省からこういうスタイルの本がでたのだとばかりおもって手にとってしまった。ぱらぱらとみていくと内容があまりにもあやしいので奥付を確認して気がついた次第。作為的なものだとすれば問題かもしれない。