このコーナーの趣旨


 学生であった頃の記憶は、その半分が苦いものでした。いろいろなことをし、いろいろな人を見て、当時いたった結論は「二度と学生にはなるまい」でした。学生とは学ぶ立場です。しかし、学ぶ立場でありながら、そのおかれる環境は必ずしも学びうるものではありません。偶然、基礎科学の世界に身をおいたのも「学ぶ」のに災いしたといえるでしょう。ここ、基礎科学の世界の一部ではいまだに旧日本軍のような精神主義が幅をきかせています。いわく、サイエンスする喜び、いわく、カネモーケよりもサイエンス等など。きれいごとの内側には、社会に対する教員の未成熟、不適応と、教育能力の欠落という揺るがし難い現実が横たわっています。学生は、学ぶために学舎にはいるのです。それは、学生にとってはその後の人生をおおきく方向づける一大事です。学びの門をくぐった学生には、研究者になる、ならないとはまったく別に、自分の人生を切り開くという目標と目的があるのです。従って、教員には自分が一人の人間の将来と人生に関与しているのだ、という責任を少しは感じてほしいものですが、「科学者」とか「研究者」という空疎な言葉に幻想を抱いた人間には、そういった社会性は求めるべくもない、のが現実なのです。その結果、学生は「これから学ぶ」立場である以上、何か問題があったとしても自分が悪い、自分の勉強不足、自分の経験不足、と一人できめつけてしまいがちです。また、教員のほうも、たいした根拠もないまま、自分は教員だから正しいのだ、という高圧的な態度をとりがちです。ひどい場合には、単位や学位をネタに学生を恐喝したりゆすったりまでするわけです。それでも、学生は立場の弱さから、何もできぬままに傷つき、未来をあきらめていきます。そういうことが、今の大学には多すぎるのです。ある国立大学では、学生が就職活動をするからということで。「ふまじめ」ときめつけ、卒業させないという恫喝にでる、という例もあります。就職も卒業もどちらもできなくても、アルバイトでもしながら研究室に残ってボスの納得するような結果を出すことが唯一の正しい結末だ、というわけです。

 ここでは、そういった事例の数々を紹介すること、そして、潜在的、顕在的にそういった問題に直面してしまった際に学生がとれる対策、抱えておくべきこころがまえといったものをとりあげます。もし、自分も同様な体験をした、あるいは、自分の知人が同様の境遇にある、あるいはあった、という方は、ぜひ、メイルでその内容をお教えください。今の日本では、「こういうことがあるのだ」という事実をできるだけきちんとつけてアピールするところからはじめない限り、学生の人間としての尊厳も人権も蹂躪させるままです。世間一般では、青臭い学生の言葉よりも、いわゆるダイガクキョージュの言葉のほうを根拠もなく重視してしまいます。たとえ、その教授がどんなに虚偽の発言を繰り返していたとしても。


 上のような「趣旨」をかかげて随分時間が経過しました。その間、全世界からこのコーナーへの訪問があり、数多くの「実体験」報告のメイルをいただき、また、数え切れないほどの声援と賛同をいただきました。また、このコーナーをきっかけとした取材の申し込みもいくつもあり、それぞれ、「大学をといなおす」、「大学でのセクハラを考える」といったようなテーマに基づいて、大学という社会の一断面を正しく捉えようというものでした。また、事例コーナーに上がった教員も大きく二つのタイプに別れました。一つは、ここでとりあげらたことによって問題を認識し、どうすれば学生と教員とのすれ違いや距離を最小限にできるか、という困難な問題に着手しようとする人であり、もう一つは、自分のやってきたことについて一切の罪悪感を抱かないどころか、私に対する陰口や誹謗、中傷を言い歩く不埒なタイプです。後者の人間の中には、「アクセスログに残るから、あえて自分のではないコンピューターからコーナーを読んでいた」などと知り合いに広言してはばからない実に明々白々たる確信犯もいました。

 いろいろな取材を受け、また、個人的に関った事例をきっかけとして携わることになった各種の活動を通じて、「大学」という環境は実は「人権」という観点から見た場合には近代日本における最後の未開拓地帯である、ということに気がつきました。女性学生への差別、女性教員への差別、留学生への人種差別、そして、「学生」という立場に対する差別。これらは、大学に独特のものなのではなく、一般社会でも同様に現れるものなのですが、ただ、大学という場が奇妙な閉じ方をしているがために、まともな社会であれば決しておこりようもないほど低レベルな展開になっていく。困ったことに、この元となる閉鎖性は「研究者としての評価」が上がるような立場であればあるほど極端になっていくため、結果、差別のヒエラルキーが完成されることになります。また、このヒエラルキーの実態は、「研究者、専門家、大学教員」といった「肩書き」に対して社会の抱く根拠の内ない評価によってさらに奥深くに隠蔽されています。常識からいって、大学の先生がそんなことをするはずがない、という気持ちが、低級な人権侵害を長々とキャンパスの中で生き長らえさせてきたわけです。しかし、実際の問題として、研究者の世界でも様々な問題は噴出しています。その犠牲となっているのは学生ばかりではなく、教員ですら、階層と専門集団の論理にまきこまれて自殺に追い込まれたりもしているのです。ただ、そういった問題はいつも巧妙に隠され、さらに隠蔽されて、社会の目のとどかないところにかくしこまれているのですが。


 研究の内容と、その結果自体は、確かに科学の産物でしょうし、その専門家集団によって導かれるものでしょう。しかし、そういった研究を行う研究者自身や、そこに参加する個々人、または学生、そして、そういった研究者が組織の中でどのようにふるまい、それは何故なのか、といった側面となると、これは「研究者を材料」とした社会学の範疇に入るものです。研究をなすものは、また、自らが研究されることを拒絶した瞬間に、その行いが学問ではなく、ただのいびつな宗教モドキにすぎないことを告白したようなものなのだということを、そろそろ自覚すべきでしょう。素朴なポパー主義に習って言うならば、研究の過程や研究者育成システムそのものが「反証可能」でなくてはならない、少なくとも、反証するに十分なまな板の上になくてはならない、ということです。専門家の自己満足で社会から大金をかすめとっていた時代はようやく終焉に近づきつつある、そう考えてもいいのかもしれません。


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