「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2003/04/01

第67回配信
帝王のいない三月


 

故ジンジッチ・セルビア共和国首相(写真提供:吉田正則氏)
   3月12日12時25分頃、セルビア共和国(共同国家セルビア=モンテネグロ加盟国)政府に到着したゾラン・ジンジッチ同共和国首相が自動車から降りた直後に狙撃され、胸部と背中に2発銃弾を受けました。首相は急ぎ近くの救急医療センターに運ばれましたが13時30分に死亡。首都ベオグラードが騒然となりました。
   自宅にいた筆者はテレビ、ラジオを付けておらず、「撃たれた」の第一報(英ロイター電は13時30分頃)を日本の報道関係者から電話で受けて慌ててテレビを付けると、既に地元各局が臨時特番体制に入るところでした。まだ安否については不明、とのことです。報道の臨戦態勢を整えるべくボグダンカメラマンやバーネ運転手に連絡を図りましたが、携帯電話網がダウン寸前の状態(恐らくマスコミ他関係者の電話が集中したためと思われます)。市中心部の交通は事件直後に展開した警察の大検問網のため混乱し、筆者自宅までバーネがなかなか到着できず、イライラしながらのニュースのフォローになりました。14時過ぎに英スカイTVが「首相死亡」を報じました。同TVは従来旧ユーゴ報道ではかなり正確なニュースを発表していますが、一昨年春のミロシェヴィッチ逮捕劇(第44回配信参照)では実際に逮捕される前に逮捕報道をした前科(?)もありますので、こちらは慎重に構えました。首相の状態について政府、警察、救急センターからの発表がなく、救急センターは報道関係者の立ち入りが厳禁されたため憶測報道が飛び交う中、英ロイター、同BBCなど世界の大メディアが死亡説を報じ、これを再引用する地元各局も「どうもダメだったらしい」という雰囲気になって行きました(大ニュースが発生する時は往々にしてこういうものです)。15時の緊急共和国政府閣議を前にチョーヴィッチ副首相が首相死亡を事実上認める発言をし、一般市民の知るところとなりました。
   共和国政府は同日夜、犯行は構成員数200を越える国内最大の犯罪組織「ゼムン・グループ」(ゼムンはベオグラード北西部の地域名)によるものと断定、首謀者を指名手配しました。またミチッチ共和国大統領代行(議会議長)は政府提案を受ける形で共和国全土に非常事態を宣言、これは「組織犯罪の完全摘発まで続く」と発表しました。ジフコヴィッチ新首相(18日議会選出、後述)は「4月末くらいには解除出来るだろう」と非公式の見通しを語っています。
   非常事態宣言については、一部報道で夜間外出禁止、検閲などの戒厳状態、戦争状態と混同があるようですので、まずこれを説明しておきます。同日政府発表によれば、この状態が続いている間は、
ミチッチ共和国大統領代行は暗殺同日夜、非常事態を宣言した
1.憲法に規定された人権・市民権の一部が制限される。
2.内務省は治安を損なうとみなされる市民を30日以内留置出来る。
3.内務大臣は公共機関、一定地域での市民の移動を制限・禁止できる。特定の市民に対し自宅からの外出禁止を申し渡せる。特定司法執行担当者(=一部警察官)は組織犯罪捜査、摘発等を目的として裁判所の許可なく家宅その他に入ることができる。治安情報局長には特定の市民・法人の郵便物開封、通信傍受などが裁判所の許可なしに認められる。
4.スト権、市民の集会は停止される。非常事態を妨害する目的の政治・組合等活動は禁止される。
5.公的機関声明の引用を除き、非常事態宣言導入の理由に関する広報・報道活動は禁止される、
ことになります(以上は大塚による要約で必ずしも原文の字句通りの訳ではありません)。
   お世辞にも威張れる状態ではありませんが、2、3などに明らかなように公安関係者に通常時よりも大きな権限を持たせ、組織犯罪の大摘発作戦を行いやすくするというのが趣旨ですから、99年ユーゴ空爆当時の戦争状態(恐怖政治のイメージ?)とは異なります。従って筆者の素人考えではありますが、この間の日本からの商用などについては直接の影響はそれほど生じ得ないように思われます。ただし警察のプレゼンスが大変高くなっていますので、一般の旅行をご予定の方は、公的機関近くでの写真・ビデオ撮影はご注意下さい。警察官、軍人などの撮影は通常時でも禁止されています。なお日本国外務省はコソヴォ、南部地域を除くセルビア本国に関しては現在のところ渡航危険レベルを引き上げていませんが、非常事態宣言などについてスポット情報を出しています(外務省サイト参照)。本稿執筆現在(3月第4週)、ベオグラード中心部の交通状態は一部規制、検問が見られますが、次第に平常に戻りつつあり「混乱」と呼ぶほどではありません。


   ミハイロヴィッチ内相ら警察関係者は事件の翌13日記者会見を開き、政府通用門のすぐ裏手のゲプラット提督通り14番地3階から発砲されたこと、実行犯は3人で一人がライフルを、2人がピストルを所持していたことを確認していると発表。
狙撃事件から約4時間後の12日17時頃、ものものしい雰囲気のセ共和国政府通用門周辺。首相は×印付近で車から降りた直後、直線で約200m離れた建物の3階(○印)から狙撃された(内務省発表による)
この時点までに40人を拘留したとしましたが、このうち実際のゼムン・グループ構成員は8人に過ぎないことも明らかになりました。「捕まえていないなら言わない方が賢明なのに」と報道陣の間から嘆息が洩れましたが、その後も警察は捜査・摘発を続け、14日にミロシェヴィッチ政権時代の秘密警察長官スタニシッチ、同幹部シマトヴィッチ両容疑者を逮捕。また不法建築を理由にゼムン地区にある主犯格「アルバニア人」ことスパソイェヴィッチ容疑者の豪邸の破壊作業に入りました。16日には主犯格の一人「ネズミ」ことM・ミチッチ容疑者を逮捕。さらに17日にはかつての民兵のボス「アルカン」こと故Z・ラジュナトヴィッチの未亡人で人気歌手のツェッツァことS・ラジュナトヴィッチ容疑者を逮捕し、アルカン御殿と言われた大邸宅から大量の武器を押収しました。16日夜の内務省発表時点で逮捕者は318名に上っていますが、本稿執筆現在、首謀者ウレメク、スパソイェヴィッチら大半の主犯格容疑者は逃走中です。

   国内最大の犯罪組織ゼムン・グループを率いる「レギヤ」ことミロラド・ウレメク(ルコヴィッチ)容疑者とは何者なのか。地下組織の話題は筆者の趣味ではないこともあって「旧ユーゴ便り」では扱っていませんが、地元各紙にはたいてい詳しい記者が一人はいて、それなりのことが今までに書かれています。68年ベオグラード生まれ、ノヴィ=ベオグラードのごろつきの一人でしたがスポーツ用品店の強盗に入ったあとフランスに逃走。ディスコなどの職を経て、かの外人部隊に入隊します。しかし長くは続かず脱走し90年代初め、紛争で混乱するセルビアに戻りました。クロアチア、ボスニアの戦地では故アルカン率いる民兵が大暴れしていた時期ですが、ミロラドの親戚がアルカンに近い人物であったこともあり、彼の部隊に入隊します。ミロシェヴィッチ政権の私兵と言われた警察の精鋭部隊が、スタニシッチ、シマトヴィッチ(前述)の指揮下、秘密裡に特殊工作部隊「レッドベレー」を編成したのもこの頃。
対立派閥のボスの道路建設機械会社爆発事件後、週刊ヴレーメ誌(1月30日号)はレギヤと地下組織の特集を組んだ
ミロラドらアルカン部隊の精鋭がほどなくレッドベレーに移ったことも知られています。95年、ボスニア和平後レッドベレーは合法化されましたが、この頃からミロラドは妻の姓ルコヴィッチと仏外人部隊(セルビア語でレギヤ・ストラナツァ)にいたキャリアから来るニックネームを名乗るようになりました。98年コソヴォ紛争ではミロシェヴィッチから叙勲されています。
   2000年のユーゴ政変当時、既にレギヤは警察最大の武装組織である特殊工作部隊の司令官となっていました。連邦議会への突入事件の夜、一般市民はミロシェヴィッチ政権打倒の高揚を味わっていました(第37回配信参照)が、ジンジッチ、チョーヴィッチら 政変の立役者らは軍や警察による反撃を警戒していました。そしてジンジッチ・レギヤ密談が実現。「警察はジンジッチ派に寝返った」という言質を得、翌日のミロシェヴィッチ敗北宣言、コシュトゥニツァ大統領就任へと事態が無事進展して行くことになります。のちジンジッチは「彼が動かなかったおかげで、自分も助かったし、多くの市民の流血が避けられた」と公的に発言しています。
   この「功績」のため政変後も特殊部隊のトップだったレギヤですが、一昨年夏にラジュナトヴィッチ未亡人の誕生日パーティーで発砲事件を起こすなど不祥事が続き解任されます。しかし同年秋に特殊部隊がミハイロヴィッチ内相のハーグ戦犯容疑者(バノヴィッチ兄弟)逮捕に使われたことに抗議した行動(第53回配信)の際は、滅多に表に表れないレギヤがマスコミを通して特殊部隊を支持する声明を発表。解任後も影響力を残しているのではないか、とも言われていました。
   ベオグラード在住のフリージャーナリスト吉田正則さんは、マスコミに顔を出さないレギヤと「接触(?)」した恐らく唯一の在留邦人です。
17日に逮捕されたアルカンの未亡人、人気歌手ツェッツァことS・ラジュナトヴィッチ容疑者(写真提供:吉田正則氏)
吉田さんは昨秋ベオグラード中心部で日本レストラン「イッキ・バール」が開業された際のパーティーに出席しました。このレストランは故アルカンの息子の実業家ミハイロ・ラジュナトヴィッチ氏が経営者の一人と言われており、実際アルカンが創設したセ統一党のペレヴィッチ党首やラジュナトヴィッチ未亡人などが招かれていました。こうした有名招待客をシャッターに収めていた吉田さんは「他のボディガード級のチンピラ然とした連中には興味なかったんですが、一人だけTシャツから見えている腕が総刺青という強そうな男がいたので近くから撮影しようとしました。すると当の男が立ち上がって絶対オレは撮るな、と制止されました。大柄で屈強、怖くてとても隠し撮りも出来ませんでしたが、よく顔も覚えていました。後日タブロイド紙が顔写真をスクープした時に、あれがレギヤだったか、と分かってびっくりしました」。
   こうした言わば表の顔の他に、レギヤは犯罪組織の有力者としても活躍していたようです。いや実際には、軍に次ぐ表の武装組織である警察特殊部隊と犯罪組織は、少なくともレギヤが前者の司令官を務めていた時代には明瞭な境界がなかったと言う方が正確かも知れません。今回内務省がレギヤ一派の犯行として挙げている事件には、ミロシェヴィッチ政権末期に起こったスタンボリッチ元セルビア幹部会議長誘拐殺人事件、ドラシュコヴィッチ野党党首暗殺未遂事件など、政治目的での大胆な犯罪が含まれています。昨年以降、特殊部隊の彼の盟友でもあり、グループのもう一人のボスであるブハとの反目が深刻化しブハは国外に逃走。彼の道路建設機械会社が昨年12月に大爆発したのもレギヤのしわざとされています。ブハ派はほぼ消滅し、レギヤをトップとするグループに再編成されつつあったと見られています(以上レギヤ関連は週刊ヴレーメ誌1月30日号、英BBCなどによる)。去る2月21日にはジンジッチ首相がベオグラード空港方面へ自動車で向かう際、隣の車線からトレーラーの突入を受けました。首相本人は暗殺未遂説を否定しましたが、内務省はゼムン・グループの犯行と断定していました。今から思えばそれが「警告」だったのかも知れません。


   ジンジッチの人気について、第59回配信第64回配信などで筆者は「?」印を付けました。
国葬に参列した市民は数十万人、涙を流す人も少なくなかった(写真提供:吉田正則氏)
ユーゴ政変の盟友から政敵に転じたコシュトゥニツァ元ユ連邦大統領派の議会除名を図るなど、昨夏以降、豪腕の勢い余って傲慢と映る政策が続いていたからです。大統領選では支持したラブス候補(現在は所属するG17を政党として登録し同党党首)はコシュトゥニツァ当選を阻止するのが精一杯。選挙不成立の場合60日以内に再選挙を告示するという憲法規定があるのですが、大統領代行となったミチッチ共和国議会議長(セ市民連合=親欧左派)は2月上旬これを「60日以内に告示するかどうか発表する」と読み替え、「新共同国家が成立した折でもあり、セルビア共和国憲法を改正しなければならない。十分な議論をした上で改正が終わるまで大統領選は凍結する」としました。これも相当メチャクチャな話ですが、大統領選をしてもコシュトゥニツァへの対抗馬が立てられないジンジッチ民主党の帝王政策であろうと考えられていました。
   しかし民主党と首相個人の都市部での人気を反映してか、非業の死は政党人気とは無関係ということか、事件のあった12日夜には既に共和国政府前を訪れ、献花したりロウソクを立てて弔意を示す市民の姿が多数見られました。13日からは政府庁舎での弔問記帳に大行列、15日の共和国葬には推定50万(警察発表80万!)の人々が参加。首相の死をいたみました。
   国葬には国家元首級こそボスニアのシャロヴィッチ幹部会議長のみだったものの、パパンドレウ欧州連合議長国(ギリシア)外相をはじめ多くの国賓が参列しました。旧ユーゴ圏からもロップ(スロヴェニア)、ラーチャン(クロアチア)、ツルヴェンコフスキ(マケドニア)各首相らが訪れ、80年のティトー国葬に次ぐ大規模な葬儀となりました。セルビア内政でジンジッチの政敵だったコシュトゥニツァ党首らセルビア民主党関係者も参列。この国葬までの3日間、共和国全土が喪に服し、15日はモンテネグロ共和国も喪に服しました。セルビアの公共施設のみならず各国大使館も自国国旗を半旗で掲げました。演劇、スポーツイベントなどは中止。
首相死亡が明らかになった12日夜刻、共和国政府正面入り口には献花やろうそくで弔意を示す一般市民が多数訪れた
テレビは特番体制でどの局もジンジッチ追悼特集と関連ニュースばかり、娯楽映画やクイズ・歌番組はなく、ニュース等の合間はほとんどクラシック音楽でした(現在はほぼ通常の放送に戻っています)。

   「新シイ年号ハ、『ヘーセー』デス」。小渕官房長官(当時)の宇宙人のような無機質な声を曇り空のベオグラードで思い出しています。ユーゴに渡る直前の89年1月、私は氷雨の東京にいました。大葬翼賛体制に誰も異を唱える者がいなかった、笑う者もいなかったあの日に感じた恐怖に近い孤独感を、私は悪夢としてのみ記憶しています。ジンジッチの死に涙する人々の気持ちを傷付ける意図は毛頭ありません。しかし私は「皆が皆」というあの雰囲気がイヤなのです。
   非常事態でマスコミに対する規定は「宣言導入の理由について憶測を禁ずる」点(上記5)だけですが、喪が明けた本稿執筆現在も報道は独自取材や独自論調が全く出ておらず、少なくともテレビ、高級紙誌に関しては各社が空爆時同様の自己規制をかけているように思われます(18日大衆紙の日刊ナツィオナル紙が発禁処分、同ヴェチェルニー・ノーヴォスティ紙が罰金を科せられました)。私もオチョクるつもりはありませんが、涙を流す市民の姿が、民主党ほか与党連合関係者のこわばった表情が、各国の首相、外相級が参じたところが何度も映し出されるのをテレビで見ると14年前のあの日を思い出してしまうのです。民主党と当局のプロパガンダというところはないか?英雄としてジンジッチをまつり上げることに違和感はないのか?・・・実際、ジフコヴィッチ新首相も就任直前に「今選挙をやる方向で動くつもりはないが、やったら絶対民主党が勝てると思うくらいだね」とマスコミの作るムードをコメントしているほどですが、これを(自己)批判する声は地元メディアからはほとんど聞こえてきません。


   ポスト冷戦時代の申し子のようなキャリアを持ち、先週の水曜まで首相として動いていたゾラン・ジンジッチ(1952−2003)という人物を、現時点で簡潔に評価するのはなかなか難しい作業です。
ゾラン・ジンジッチ略歴

1952 旧ユーゴ(現ボスニア)、ボサンスキ=シャマツに生まれる
   ベオグラード大学時代は学生運動のリーダーとしてティトー体制に改革を求めるが逮捕され有罪判決(禁錮1年)を受ける。以後共産主義者同盟には一度も入党せず
1974 ベオグラード大学哲学部卒
1979 ハバーマスの論文審査を通過し独コンスタンツ大学で博士号取得、ノヴィサド大学講師などを経て
1990 民主党創設メンバーとなる。共和国議会選当選。翌年、党執行委員長に就任
1994 民主党第2代党首に就任
1996 88日間の反体制デモを率い翌年初めベオグラード市長に。反ミロシェヴィッチのリーダーの地位を固める
1999 ユーゴ空爆中は脅迫もありモンテネグロに避難するが、空爆終了後すぐ他野党と「改革のための連合」(セルビア民主野党連合の前身)を組織
2000 セ野党連合のリーダーとして大統領選でコシュトゥニツァの作戦参謀に。ユーゴ政変を実現後、共和国首相に就任
   共産主義者同盟(共産党)の一党独裁が 放棄された90年、ティトー時代に異端分子として収容所送りになった経験を持つD・ミチューノヴィッチを初代党首として民主党が創設されました。当時の民主党は共産党→セルビア社会党(ミロシェヴィッチ)路線の異端分子や改革派から、V・コシュトゥニツァなど後により右派色を鮮明にして党から去っていった知識人までを包含する「極右ではない穏健反共」寄せ集めの色彩が濃いものでした。セ社会党が左派を自称しながら民族主義に迎合して第一党となると、民主党は有力中道野党の位置を占めます。しかし古風な「意見集団」としての同党の政治スタイルをモダンでスマートな「利権集団」へ変えて行ったのは、94年に党首に就任したジンジッチでした。
   青年部が強化され、さらにパソコン・インターネット時代の夜明けとともに、 若手実業家など次世代のセルビアを担うとみなされる層との関係を強めて行きました。日刊ナーシャ・ボルバ紙、週刊ヴレーメ誌などの反ミロシェヴィッチ論調をうまく味方に取り付けました。社会党の票田の「年配・農村部」対野党の「若年層・都市部」の対立構図はさらに深まりますが、その中で民主党は議会をボイコットし続けたにも関わらず後者を代表する勢力となって行ったのです。親欧左派と見られていたジンジッチはボスニア紛争中セルビア人勢力を擁護する「カラジッチ寄り」の発言をしウォッチャーを驚かせますが、96年の反体制デモなどを率いる彼の基本方針は「難航不落のミロシェヴィッチ政権打倒には大衆を味方に付けるしかない」という点では一貫していたように思われます。この間、ジンジッチの強引な党拡大の手法に批判的な勢力と党内抗争が続き、ミチューノヴィッチ初代党首(現セルビア=モンテネグロ議会議長)はたもとを分かち民主中道党を創設。ペリシッチ現・在カナダ大使、ラブス現G17党首など、解任された副党首も多数に上りました。
   政変ではコシュトゥニツァの反ミロシェヴィッチ選挙戦を仕切り、後にセルビア首相となってからも、ジンジッチは野党時代そのままの豪腕ぶりを見せ続けたと言えるでしょう。ミロシェヴィッチ逮捕・移送劇では慎重論のコシュトゥニツァ連邦大統領との対立が深刻化することを覚悟で強行。この時はミロシェヴィッチの身柄引渡しがない場合、米など先進国の援助が大幅削減ないし停止する危機だったのですが、「セルビアの政治的スジ道」を通そうとするコシュトゥニツァに対し、ジンジッチは南東欧最低水準の経済力を引き上げなければならないという「経済の論理」を優先させました。今年に入ってからはコソヴォ自治州のステータス見直しの可能性を発言するなど、大衆迎合と経済(=利権)優先の「?」印を多少匂わせながらも、各方面で自分が先頭を切って発言し行動する実行力のある政治家でした。
   しかしそれだけに政府・議会庁舎の外にも敵が多かったことは確かです。支持基盤となったニューリッチ層どうしの利害関係にはさまざまな噂が出ていますし、事件後内務省の発表があるまでは各メディアでアルバニア人マフィアの犯行の可能性が言われました。実際に凶行に及んだゼムン・グループとの背後関係が指摘されているスタニシッチ元秘密警察長官らはミロシェヴィッチ元大統領の側近、故アルカン派は武闘派民族主義者で、いずれもオランダ・ハーグ戦犯法廷の追及を逃れたい勢力です。

   セルビアは舵を失ってしまいました。大統領不在に加え首相も不在、16日民主党は臨時執行委員会を開きましたが、新党首の選出は来年の定時党大会まで凍結すると発表。これでミロシェヴィッチ(セ社会党)、シェシェリ(セ急進党)と党首をハーグに送り出した主要野党に続き、最大与党の党首も不在という状況が発生しました。
当初共同国家防衛相に就任が予定されていたジフコヴィッチ民主党副党首が急遽セルビア共和国首相に就任。ほぼ同じ内閣でジンジッチ路線の継承を図る
政治の不安定と治安悪化の悪イメージで、今後の対セルビア外国援助・直接投資に悪影響が出ることが当局の最大の懸念です。
   「セルビア経済が発展し、欧州連合(EU)の一員になることは故首相の夢だった。われわれは政府がその夢の実現のために今後とも努力することを期待し支持する」と、暗殺翌日にベオグラードを訪れたソラナEU上級代表(共通外交・安全保障政策)は述べました。ジェリッチ蔵相ら経済関係者も「経済政策の方向に変化はない」「EUは今後も援助継続の方針の報告を受けている」と強調。また国葬に参列したスロヴェニア・ロップ首相はセルビアで事業を営むスロヴェニア企業関係者に対し「今後とも二国間関係に変化はない」と述べています。しかし独・オーストリアの大手銀行HVBグループのグロイシング・ベオグラード支部総頭取は「投資が手控えられ、経済改革のスピードダウンにつながる可能性は否定できない」としています(日刊ポリティカ紙3月14日付)。またEU論が専門のテオカレヴィッチ・ベオグラード大学教授も悲観論一辺倒ではないものの、「先進国では官民とも、治安が悪いのは『遅れた国』だという印象を強く持っている。司法関係者が出来るだけ早く組織犯罪を摘発し、セルビアが法治国家であることを示さないとEU接近政策にも経済政策にも支障が出るだろう」と警告します。
   セルビア内政面で最も危機感を強く持ったのは、当然のことながら民主党内部だったと思われます。党事情通によれば「ジンジッチのリードに今までは任され続け、強力なナンバー2を故首相自身が育てていなかった」のですが、ジフコヴィッチ副党首の下に結束を再確認しました。18日セルビア共和国議会ではジフコヴィッチ首班が賛成多数で成立。ただし首相本人及び同じ民主党の若手、ヨヴァノヴィッチ議員が副首相となった他はジンジッチ政権の閣僚と全く同じメンバーです。新首相の第一声は「犯罪者の逮捕追及が第一の課題」でした。
   2月に発足した新共同国家セルビア=モンテネグロは、既に3月6日にモンテネグロ・ジュカノヴィッチ政権のナンバー3であるマロヴィッチ元モ共和国議会議長を大統領に選出していましたが、暗殺事件で遅れていた閣僚選出(大統領が閣僚の長を兼ねる)は17日に議会採決。初代政府が成立しました。当初防衛相に名乗りを挙げていたジフコヴィッチがセルビア共和国首相に内定していたため、同じ民主党副党首のタディッチ元連邦通信相が防衛相に、外務はスヴィラノヴィッチ連邦外相(セ市民連合)が「留任」しました。
故イギッチ元ユーゴ連邦議会議員(第44回配信から再掲載)
第64回配信でも詳説しているように、新憲法では同じセルビアから外務・防衛の正大臣が出ないはずだったのですが、ジュカノヴィッチ派とセルビアの与党連合が申し合わせてこれをクリアしてしまいました。ちょっと最初から違憲の匂いがする新国家のスタートですが、早く外ヅラを整えないと経済状況が良くならないことは確かです。


   大ニュースのかげで新聞の扱いも小さなものでしたが、首相暗殺の翌日にZ・イギッチ元ユ連邦下院議員(セルビア社会党、享年60)逝去の報を読みました。90年春コソヴォで戒厳令が発令された際、私の当時の語学力では斜め読みも出来ない新聞を辞書を引き引き読みつつ、総白髪(当時はまだ40代後半だったことになります)、精悍な面持ちのコソヴォ州共産党幹部の顔を眺めながら「なかなか怖そうな、悪役の顔だな」と思ったものでした。しかしミロシェヴィッチ逮捕劇で日本のTV取材と本HP第44回配信執筆のためにお世話になった時の実物のイギッチ議員は、とても面持ちからは想像の付かないような好々爺という感じの人でした。2月4日の最後のユーゴ連邦議会の時は審議の直前に目で挨拶を交わしたのでしたが、それからひと月少ししか経たぬうちのことで私も少し驚いています。ミロシェヴィッチとセルビア社会党は嫌いでしたし、故ジンジッチ首相と現政権を何かオトシメようという気持ちはありませんが、ここでイギッチ元議員のことを扱わないのはアンフェアであるように思い、またここに書くことで私のささやかな大葬翼賛ムードへの抵抗とさせて頂きます。

(2003年3月下旬)


画像を提供して頂いた吉田正則氏に謝意を表します。写真は筆者が2001年4月、2002年9月、2003年3月に日本のテレビ局取材に同行した際、通訳業務の前後に撮影したものを含みますが、このページへの掲載に当たっては各クライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


前回配信の訂正

   前回第66回配信の末尾(脚注)で、東長崎機関へのリンク先を誤って張ってしまいました。正しいリンク先はこちらになります。加藤健二郎氏ほか関係者と読者の皆様に訂正してお詫び申し上げます。なおスロヴェニア共和国政府情報局は同情報センターに改組のため、前回配信に張ったリンクが無効となりました。現在有効なサイトはこちらです。

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