「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2002/05/02 15:52

第55回配信
お前は既に死んでいる


 

3月13日連邦消滅を決定する協議の舞台になった連邦政府第1庁舎の通称は、皮肉にも「連邦宮」
   昨年のマケドニア紛争、現在も混迷する中東情勢などの調停に、欧州連合(EU)のJ・ソラナ上級代表(共通外交安保政策担当)は休む暇がありません。中東を含むヨーロッパ発のニュースで一番よく出てくる政治家は、最近までは米国務長官(クリストファー、オルブライト)というのが相場でしたが、このところこの位置を「EU外相兼防相」が米パウエル国務長官と激しく争っている感があります。3月13日午後早くのソラナ代表のベオグラード訪問は、ユーゴ連邦=セルビア+モンテネグロの連邦体制見直しが話題になった昨夏以降もう数えて何度目なのか私にもよく分かりませんでした。が、とにかく「3月15日までに決着を付ける」と2月にブリュッセルで宣言した同代表は、15日のEUサミットに新連邦案の合意を取り付けて持って行くまでは帰らない、という決然とした態度で連邦政府第1庁舎に入って行ったといいます。13日夕方に予定されていたベオグラード空港での記者会見は、同日の帰国便とともにキャンセル。連邦側=コシュトゥニッツァ大統領、ラブス副首相、セルビア共和国側=ジンジッチ首相、モンテネグロ側=ジュカノヴィッチ大統領、ヴヤノヴィッチ首相の3サイドとソラナ代表の会談は同日深夜まで延々と続きました。地元テレビのカメラマンを務めたわが悪友ボグダンは「終わったのは夜中の3時。みんなシケた顔をして出てきたよ」と翌日語ってくれました。
   翌14日の11時に調印式、そしてマスコミにも新しい連邦体制・・・というより共同国家体制の内容が明らかになりました。まずは出来るだけ原文の用語を尊重しながら協定を要約してみます。

共同国家枠内でのセルビアとモンテネグロの関係に関する原則協定(要旨)


(国名)セルビア=モンテネグロ(Srbija i Crna Gora)とする。
(制度)共同議会、大統領、閣僚会議、裁判所を置く。一部省庁はポドゴリツァに置くことが出来る。閣僚や在外公館等各ポストについては、両共和国の数の平等と輪番制などを加味する。
(離脱)新国家からの離脱は3年後から可能とする。国連安保理決議1244など現ユーゴ連邦の国際法上の継承権は、セルビアが持つものとする。
(議会)共同議会は一院制、選挙を前提とするが選出方法は各共和国議会に委ねる。モンテネグロには実際の対セルビア人口比より優遇した議席枠を設ける他、多数決による不利を招かないような何らかの制度を定める。
(大統領、政府)大統領は共同議会が選出する。大統領が閣僚人事を選定する。閣僚会議は外務、国防、対外経済関係、対内経済関係、人権・少数民族権の5省庁を置く。
(国防)共同国家大統領と両共和国大統領の3名から成る最高防衛評議会がコマンドする。原則として徴兵期間は各兵士の出身共和国領内でこれを務めることが出来る。
(経済)両共和国間の共通市場が機能し、人間、物品、サービス、資本の移動の自由が保証されなければならない。両共和国間の現在の貿易・関税規定の差異は、規定をEUレベルに接近させる努力によって乗り越えを図るものとする。EUはこの方向への努力を援助し監督する。
(手続き)現連邦ならびに両共和国議会でこの協定に関する討議と承認を経て、3サイド代表による新憲法制定委員会を設ける。新憲法草案は今年6月末までに両共和国議会、続いて現連邦議会の討議に提出された後、批准を受ける。各共和国は新国家の発足に伴う共和国憲法改正を今年末までに行う。

「新国家誕生の父」になったソラナEU上級代表(写真提供:吉田正則氏)
   気の早い日本のマスコミの一部は「ユーゴが消滅し、セルビア=モンテネグロが誕生した」と発表してしまったようですが、上の「手続き」に明らかなように、3議会での憲法草案批准を受けて(6月)、第1回共同議会が(恐らく直接選挙で)選出され、この議会で大統領が選ばれメデタク「旗揚げ」となるのが早くて秋口ですから、現時点では「誕生する」が正解ですね。
   そもそも連邦体制の見直し討議は、モンテネグロの独立要求との妥協点が見出せないか、という発想から続けられていたものでした。昨春のモンテネグロ共和国議会選では独立反対派が予想外の善戦、独立強硬派(モ自由連合)が組閣工作の不調から閣外協力にとどまり、ジュカノヴィッチ独立推進政権は少数内閣という不安定な立場に置かれました(第45回配信参照)。一方セルビアでは、保守系マスコミが昨春、秋などに独立反対キャンペーンを張ったものの、世論は意外なほど冷ややかで、既に第45回配信執筆当時には「セルビアでユーゴ離脱の住民投票をやって、モンテネグロだけユーゴという名前で残ってもらったら」というジョークが聞こえていたほどです。政治家レベルの話し合いは平行線を辿り、「出て行きたきゃ出てけ」とは言えない立場のはずのコシュトゥニツァ連邦大統領でさえ、昨年10月には独立を問うモンテネグロ住民投票の実施容認を示唆する発言をするようになりました。
   ところがこの頃からEU側から「待った」が掛かり始めました。当初は非公式に、12月のシラク仏大統領訪ユの頃からはオープンに「モンテネグロ独立は(バルカン)地域の安定には望ましくない」という発言が欧州先進国要人の発言として出てくるようになり、EUのテコ入れによる連邦体制見直し討議が年末から繰り返し開かれて来たのです。先進国側としては、この10年間悩みの種だった旧ユーゴ問題にそろそろ一線を画したいという意図があるでしょうし、何よりモンテネグロが独立することで、形式的にはセルビア共和国内の自治州でありながら事実上独立した地域として機能しているコソヴォの独立要求が強まることへの不安が大きかったのだと思われます。

   「これは連邦でも国家連合でもない、オリジナルな解決策だ」。コシュトゥニッツァ連邦大統領は調印後の記者会見でこう述べ、両共和国がEUへ接近する近道だと積極的に評価しました。しかし筆者には「独創的」という意味より「奇妙な、奇抜な」という意味のオリジナルに思えて仕方がありません。
「オリジナルな解決策」を肯定的に評価する「最後の」連邦大統領コシュトゥニッツァ(写真提供:吉田正則氏)
モンテネグロ独立派は悲願の住民投票を3年間「阻止」された格好になりました。もうモンテネグロ独立阻止にそれほどこだわっていないセルビアにとってメリットがあるかと言えば、答えは「?」です。ご存知の通りセルビアとモンテネグロの人口比は94対6。もちろん議会が数でモンテネグロの声を押しつぶすようなミロシェヴィッチ前政権の愚は繰り返されるべきではありませんが、かと言って大臣や大使、国際機関の代表枠ではるかに小さい共和国が同等以上の待遇を受けるのはどうでしょうか。セルビアの論客は憲法草案が発表されていない現在、政治面での評価は控え気味ですが、ベオグラード大学経済学部のマジャール教授は「結局3年後のモンテネグロ独立=共同国家の解体へ向けて両共和国の距離が広がるだけだろう」と悲観的な見通しを語っています(月刊プリズマ誌4月号)。
   また経済問題では現状維持に留まり、通貨(セルビアはディナール、モンテネグロはユーロ)、関税(セルビアが高い)など2つのシステムが並行している現在の「連邦内の外国」制度は継続されることになります。関税率が異なるため、モンテネグロ・セルビア共和国境には(国内なのに!)税関が置かれています。これがなくなるためには高邁にして深遠な(?)EUレベル規定に3年以内に到達するしかありません。連邦税関ベゴヴィッチ長官は「この数年モンテネグロ側税関が独自に関税を徴収し自共和国政府だけに収めるという状態が続いていた。今後とも対コソヴォ州境も含め、国内税関は存続するしかない」(日刊紙ポリティカ3月23日付)としています。ディンキッチ連邦中銀総裁は「(地域への分権の度合いが強いという意味で理想的な)スイス型の国家連合だと言うかも知れないが、スイスだって通貨は一つだ」と協定が「一国2通貨」を容認したことに不満の意を表明しています(なお連邦中銀は共和国中銀に改組される方向が検討されています)。ベオグラード大学大学院で南東欧の政治経済を研究する宮崎泰徳さんは、「経済制度がこんなに違う現状を容認したわけで、これからはセルビアとモンテネグロ双方を同時に対象とした有償援助や投資は減ってしまうだろう。3年後に2つの別々の国になることを見越した苦しい移行措置と言わざるを得ない」と結論します。
   結局喜んだのはモンテネグロの独立反対派だけ、それも3年後にはぬか喜びに終わる可能性大、というのでは、ソラナ以外の調印当事者がシケた顔だったのは致し方ないところでしょう。大小比が極端にアンバランスな2地域で2つの制度が存続し、変わるのは名前だけ。現連邦が完全消滅することを見込んで、なおかつ3年間それを凍結した、まさに「奇妙な」協定でした。

   モンテネグロ情勢はこの協定を契機に流動化し始めています。協定調印直後、ジュカノヴィッチ大統領は「確かに大成功ではなかったが、3年後の住民投票には青信号が出た。その結果はもう分かっているはずだ」と自分の成果を強調し、「性急な住民投票よりも政治と国家を安定させることが大事だ」として独立強硬・反対両派をけん制しました。
ジュカノヴィッチ・モンテネグロ大統領は協定調印を「成功」と強弁したが、独立強硬派からは「裏切り」と非難を浴びている
しかし4月4日の議会で独立強硬派・自由連合のぺロヴィッチ議員は「独立の可能性は遠ざかってしまった。それなのにジュカノヴィッチ大統領ら与党は自分たちの政治的成功だと強弁する気か」と強く反論、同党の閣外協力を取り消す姿勢を示しました。議会は紛糾しましたが、結局9日にジュカノヴィッチ自身が党首を務める社会主義者民主党(DPS)と、その政敵に当たるはずの独立反対派(社会民族党=SNP)が一致して協定をごり押し承認。議会のぺロヴィッチ議長は自由連合出身ということもあって、承認決定のサインを拒否する一幕もありました。連立政権に加わっているものの独立強行を支持する社民党も採択では反対に回り、ラクチェヴィッチ副首相ら同党出身の閣僚が辞表を提出し連立離脱の見通しです。ジュカノヴィッチ大統領とヴヤノヴィッチ首相の現少数政権はさらに苦しい立場に追い込まれました。
   セルビアではこれまでの配信でも書いてきたように、ジンジッチ共和国首相率いるセルビア民主野党連合(DOS)政権内の対立が激化し、コシュトゥニッツァ連邦大統領が党首を務めるセルビア民主党はDOSを事実上離脱してしまいました。とは言え新国家協定に関しては、ジンジッチとコシュトゥニツァがともに調印する側でしたので、250のうち45議席を単独で確保しているセルビア民主党の「嫌がらせ」は最小限にとどまりました。しかし4月4日の共和国議会では、野党 ・セルビア統一党(民族系右派)のペレヴィッチ党首が「コソヴォなどの分離主義を刺激するもので、協定には賛同できない」とし、ミロシェヴィッチ党首を欠きながら最大野党の座を守るセルビア社会党も「協定には経済主権のかけらも見られない。両共和国の経済が不安定なままでは政治の不安定にもつながりやすい」(イフコヴィッチ議員)と政治・経済双方から協定への理解を求めるジンジッチ首相を攻撃。またDOS内部でも逆にセルビア独立を支持する政党が協定承認反対に回るなど、モンテネグロほどの混乱はなかったものの、9日の承認に至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。
   上記協定要約に明らかなように、憲法草案制定委員の選定から草案の議会提出が定められた6月末まではもうそれほど時間がありません。今秋はセルビアのミルティノヴィッチ、モンテネグロのジュカノヴィッチ両共和国大統領の任期満了に当たり大統領選が予定されています。モンテネグロ独立反対派は昨春以来の勢いを活かし、大統領選とともに共和国議会選、さらには新国家の共同議会選まで実施させ勢力を出来るだけ拡大したい思惑です。また新国家成立に伴い共和国憲法を改訂する必要が生じますが、セルビアでは現行憲法を改訂するためには住民投票か制憲議会の成立が必要という規定があるため、政治家にも有権者にも忙しい夏・秋になりそうな気配です。

一般市民の間での感情的な議論もあまり起こらないまま、連邦は解体前最後の3年に入って行くようだ(ベオグラード中心部にて)
   協定の実質的な内容が「現状維持」だったため、新国家旗揚げは一般の生活には大きな影響は与えそうにありません。ユーゴスラヴィアの名前がなくなることについても、筆者はもう少し一般市民の間で感情的な議論が起こることを予想していたのですが、意外に冷ややかな受け止め方が大勢を占めています。
   商工会議所はユーゴ、セルビア、モンテネグロの3つがありますが、この数年はモンテネグロが「ユーゴ」レベルを無視していたこともあって、ユーゴ商工会議所とセルビア商工会議所が同じセルビア共和国の企業・企業人を対象として業務を続ける二重状態でした。ユーゴ商工会議所は改組のいい機会ととらえ、「従来の具体的な業務はセルビア側に任せ、既存の情報センター部門をビジネス育成援助センターとして拡充し主業務とする」方向を打ち出しています(ポリティカ3月23日付)。
   しかしスポーツ界はちょっと対応に困りました。アンドリッチ連邦体育相は「ユーゴの名前がセルビア=モンテネグロに変わるだけ」と各競技協会に今後とも統一チームでの参加することを呼びかけ、五輪委なども同調しています。「国内リーグの分裂はない」(サッカー協会)、「2004年アテネ五輪は一つのチームで」(バスケット協会)。しかしスポーツに詳しい方ならすぐに思い当たるように、サッカー(やラグビー)の世界ではイングランド、スコットランド、ウェールズなどが、またハンドボールではデンマークとグリーンランドがそれぞれ別の国として国際大会に参加している例があります。競技とクラブによっては「モンテネグロ代表でいいではないか」(男子バスケットのブドゥチノスト=ポドゴリッツァ、ヴクチェヴィッチ主将)という思惑もあるようです(クロアチアのスポルツケ・ノヴィネ紙3月16日付ほか)。
   頭を抱えているのは(筆者も含めた)報道関係者です。何しろ新国名が「セルビアとモンテネグロ」を意味する現地語になってしまったので、例えば「ボスニアとヘルツェゴヴィナ」を意味する隣国と要人の会談があった場合、セルビア語を直訳すると「セルビアとモンテネグロ、ボスニアとヘルツェゴヴィナの外相は・・・」(一体外相は何人だ?)となってしまいます。
ユーゴの名前が変わるだけで実生活には大きな影響はないと思われるが、替えなければならないものは少なくなさそうだ
これを回避するためには、of Japan の替わりにJapanese Ministerとするように形容詞を使う手があります。モンテネグロ(現地語ツルナゴーラ)なら「ツルノゴルスキ」、ユーゴスラヴィアなら「ユーゴスロヴェンスキ」とすぐに形容詞が造れるわけです。ところが、セルビア=モンテネグロで「セルボツルノゴルスキ」だと「相当フレクシブルな耳の人でも引っ掛かる」(ミロイェヴィッチ・ベオグラード大学法学部教授=日刊ポリティカ紙3月25日付)。またベオグラードにいて「セルビア=モンテネグロに住んでいることになる、とは如何なものか」(同)という声は聞かれます。同教授によれば第1次大戦後に成立した「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の時代も、1929年にユーゴスラヴィア王国に改名するまでは似たような言語・表記上の問題があったとか。成立した最初と解体直前の最後で同じ問題に遭遇しているわけですね。筆者の暮らしている町はベオグラードで変わらないのに、ユ社会主義連邦共和国、ユ連邦共和国、そしてセルビア=モンテネグロと、在住たった13年で「3つの国に住む」稀有な経験をさせてくれることになりました。

   4月1日からセルビア共和国内で11年ぶりの国勢調査が始まりました。第40回配信などでも書いたように、筆者の妻イェレナはこれまで、「セルビア人」の彼女の両親と異なり「ユーゴ人」として申告しています(この国では全ての民族出自は自己申告=自分がナニ人であると思っているか、であって、両親がクロアチア人でも自分はマケドニア人、あるいはフランス人と名乗ることが理論的には可能です)。しかし「ユーゴ人」の数が、今回の国勢調査では大幅に減るのではないか、と社会学者のスルチュリヤ氏は言います。ティトー死去直後の81年、この「民族」は旧ユーゴ全土でマケドニア人と大差ない120万(セルビア共和国で44万)を数えました。しかしユーゴ人と名乗ること自体が、ティトーの民族共存+社会主義プロパガンダ臭を感じさせることもあって、共産党独裁体制の崩壊と民族主義の伸張を受けた前回91年調査では70万に激減。小さくなったユーゴの、その名前も消えることが確定したことが氏の予想の理由です(ポリティカ紙2月27日付)。
「母国語は?」「セルビアクロアチア語」「宗教は?」「無宗教」 イェレナは共産主義者ではないが国勢調査では最後のティトー世代の心意気を見せた
   それとは別に、私たち夫婦の間で議論の種になった雑誌コラムがありました。週刊ヴレーメ誌3月21日号で、毒舌で知られるT・パンチッチ氏がユーゴの名前をめぐる考察を行ったものです。「既に11年前、ユーゴスラヴィアの名を称するに相応しい国は死んでしまった。この11年ユーゴの名を語りながらセルビアとモンテネグロのことを示してきた人々は現実を忘れていたのだ。今後はセルビア=モンテネグロという名前が示す通りのものになるのだから、嘘ハッタリがなくてすっきりする」というのが論旨です。
   パンチッチ氏はこの「現実を忘れていた人々」について、ヒッチコックの映画「サイコ」の主人公(母の不在という現実に堪えられず、女性を殺し続け自分の想像の世界で母を再構成しようとする)というグロテスクな比喩を使います。一義的には、92年以降ユーゴでないものを「ユーゴだ」と言い張ってきた、そしてボスニアやクロアチアの一部を切り裂いてまで「自称ユーゴ」をフランケンシュタイン的に組み立てようとしてきたミロシェヴィッチ前政権に氏の揶揄は向けられています。しかし、現実を見ずに自分の想像の世界にこもっている、という意味での比喩の矛先は、私の妻のようにミロシェヴィッチ政権は支持しなかったがティトーの旧ユーゴを(架空の)祖国だと思っている人々の郷愁と幻想に実は向けられているのではないか、というのが妻の感想です。私の妻(と私)の「ユーゴ信条告白」は第40回にも書きましたのでくどくどとは繰り返しませんが、私たちはそんなに後ろ向きでしょうか?

   余計なお世話ですよ、パンチッチさん。11年前に「実」が死んだ妻の祖国の、「名」も今消えようとしている、そのことは言われなくてもよく分かっています。世話になった人が死んでも、私を世話してくれた事実、そして私の中の記憶が残ることは否定できないのと同じで、妻が生まれ育った国の、歴史と記憶の中に残るその名は変えることは出来ません。記憶は現実を生きていく上で邪魔になることもあるけれど、糧にもなり得るでしょう?
   今年の国勢調査でもイェレナはユーゴ人です。

(2002年4月下旬)


画像を提供して頂いた吉田正則氏に謝意を表します。ジュカノヴィッチ大統領の写真は2000年6月に日本のテレビ局取材に同行した際筆者が撮影したものです。その掲載に当たっては、同取材関係者から許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


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