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第36回配信 <ユーゴ政変特集・1>
9月24日(日)、リュブリャーナ スロヴェニアの首都のホテルでは米CNN、英BBCも受信できたが英語やスロヴェニア語よりよく分かるクロアチアTVのニュースでユーゴ選挙事情を夕方フォロー。ミロシェヴィッチ夫妻の投票する様子などが流れ、体制側はベオグラード中心部の共和国広場で、野党側はテラジエ地区でそれぞれ「勝利集会」を開くという。選挙前から外国報道機関に対する当局の締め付けが厳しくなっており、B社のウィーン特派員K記者は金曜に在京ユーゴ大使館のレターが出てようやく入国できたばかりの状態。私に代わって通訳をやっている妻イェレナと電話したら、「情報省からの取材許可は何とかなりそうだが警察=入管の許可がとても下りなさそうで『取材はいいが滞在はダメ』という不条理なステータスだ」と言う。K記者も「ホテルにガサ入れがあったら終わりかも知れません」とビビっている。私のA社の仕事はようやく木曜28日か金曜で終わりのメドが立ったが、6月に婚姻での滞在許可を取る前の私のパスポートには「報道」の滞在許可のハンコが捺してあるので、すんなりクロアチアからユーゴに帰れないかも知れない。イェレナとはK記者国外退去の最悪の場合を想定し、ブダペストで合流、婚姻届のコピーを国境で見せて一緒にベオグラードに帰る案で合意。
9月29日(金)、ベオグラード ザグレブからのベオグラード行きバスは1日1本しかないとのことで、A社取材班のザグレブ空港見送りは断念、逆にホテル前でチーム全員の見送りを受け1ヶ月にわたるA社の仕事を終える。クロアチア・ユーゴ国境でバスを乗り換え、ユーゴ国境の旅券審査は30秒ほど、意外なほどあっさりと終わり無事ユーゴ再入国を果たす。ベオグラードに向かうバスのラジオでシドニー五輪男子バレー決勝、ユーゴが金メダル、の報を聞く。バスターミナルまで迎えに来てくれたゴラン運転手「27日はコシュトゥニツァの勝利集会、すごかったぜ」。「コシュトゥニツァが52%取った」というDOSの新しいポスターを目にする。勝者につきたいのが群集心理というものなんだから、どうせ数字を膨らますんだったら60%ぐらい取ったことを言っておけばいいのに。久しぶりの自宅でネコと休んでいたらイェレナから電話。B社と市東部のレストラン・シンジェリッチで昼食にしないか、と言うので、何でそんなヘンなレストランなんだ、と聞いたら「唯一の独立系ラジオ、インデックスがまともに受信できる所が他にないから」とのこと。まだ頭の中はドキュメンタリーで報道になっていない。
10月3日(火)、ベオグラード ゼネスト取材2日目。道路封鎖はスカスカ、企業のストも混乱を起こすというほどではなく、どうもこのゼネスト、作戦としては失敗に向かっていると言わざるを得ない。コシュトゥニツァとDOSは第2回投票には応じず徹底抗戦を表明するが、そのブレインの経済学者グループG17PLUS内部には「第2回投票に行ってもいいのでは」と西側通信社に対し発言もあったようで、今一つ結束に欠ける感。学生運動オトポール(「抵抗」、最近は「国民運動オトポール」に改名したらしい)だけは元気だが。体制系マスコミがストに入っている、という報も、イェレナに確認してもらうとどうも技術系職員だけで記者は相変わらずミロシェヴィッチ御用報道に全力を傾注しているらしい。
10月4日(水)、コルバラ ベオグラードのゼネストは元気がない、勝つつもりがあるのか。そんな声はセルビア中部の野党関係者からも上がっているらしい。DOS関係の記者会見は予定なし。K記者を待ちながらホテルでバーネ、ボグダンと「今日はどうしようか」と相談。真面目なバーネは「全面ストに入っているのは清掃公社だから、ゴミ関係のストーリーなんかKさんに提案しようか」と言っているが、明日木曜日は野党の大集会が首都で予定されているし、取りあえず今日は息抜きでもいいんじゃないか、というのがサボリ好きの私の意見。電話でイェレナにコシュトゥニツァの予定を調べてもらったがニシュに向かっているらしい。「ニシュじゃ遠いからコルバラくらいまで行ってきたら?」。そうこうしているうちにK記者が来て、「今日はコルバラ行ってみませんか?」
12時半頃コルバラ炭鉱タムナヴァ西採鉱所に到着。もちろん操業はしていないのでスト委員会の建物で数名が連絡を取っている以外は静かで、警察のプレゼンスもない。ではステーポと呼ばれる代表者にインタビューしようか、という段取りになった時、急にスト委員会が騒然となった。「警察がスト排除のためベオグラード、チャチャク方面からこっちに向かって動いている!」。急遽ステーポが西採鉱所のメンバー25人ほどを委員会の前に集めた。「警察の動きをDOSシンパが止めている。一方こちらの交替要員は警察からブロックされている模様。我々はあくまで非暴力で行こう、冷静に対応し話し合えるなら話し合うつもりだ。これから東採鉱所に全員移動しよう」。当然のことながらインタビューは中止、サッと撮って警察が来る前に逃げようという我々の予定も変更になった。 東採鉱所に歩いて移動すると既に200人ほどがこちらのスト委員会の建物の前にいて、ブルドーザーなどでバリケードを張る準備をしている。日本のCテレビやD新聞などのマスコミも来ていた。ラザレヴァッツ市の議員が話す。「市民は皆さんに協力する。賢明な戦略を取ってほしい。それは屈服ではない。頑張ってくれ」。ステーポがまたマイクの前に来て言う。「警察が近づいている。こちらは非暴力で徹底抗戦しよう。警察が入ってきたら座り込め」。
2時過ぎに話し合いの途中経過を警察代表者が話した時点では、警察はまだスト隊実力排除の方針だったが、その後ステーポが「警察のバリケードが市民によって撤去され、交替要員とシンパの市民が各地からこっちに向かっている。DOS幹部ミチューノヴィッチらも来る予定」と報告してスト隊が沸いた。やがて続々と「援軍」が拍手に迎えられながら駆け付け、4時頃には500人以上が建物前の広場を埋めた。イェレナから電話「DOSがベオグラード市民に『コルバラに向かえ』と呼びかけている。コシュトゥニツァもニシュへ向かうのを止めてコルバラに向かっている。世界のニュースの中心にいるのよ、今朝コルバラ行ったら、って言ったでしょう」。
マイクの前、脚立に立ったボグダンの左右をバーネと私、後ろをKさんが守る。押し合い、圧し合いで私の腕は柔道の腕ひしぎを掛けられたように激痛。暗くなる頃にコシュトゥニツァ登場。「コルバラの皆さんと共に我々は勝ったのです!」 コシュトゥニツァ演説を撮り終えて私たちは抜け出す。外電は2万人と言っているらしいが、1万人は少なくともいたか。ベオグラードに向かう夜道、対向車線をたくさんの車がまだコルバラ方面へ向かっていた。K記者「コルバラの戦いでしたね」。私「ははは、第一次大戦で『コルバラの戦い』ってのがあって、勝ったセルビア側がベオグラードをオーストリアから解放することになったんですよ」。K記者「数さえいれば警察が手出し出来ない、っていう実績が出来ちゃいましたね」。私「ええ、これで明日以降の見通しがよく分からなくなりました」。 衛星伝送前の編集で、25人から1万人に膨れ上がった今日の長い午後をもう一回振り返った。強い陽射しと炭鉱の埃、人ごみと腕ひしぎ。疲れていたが、冴えないゼネスト取材で表情の冴えなかったB社取材班もようやく満足できる仕事をした、という気持ち。テレビ局での伝送の直前、イェレナから電話。「憲法裁が大統領選を取り消す決定を出したらしいわよ」。「つまりこの騒ぎはなかったことになるわけ?そりゃ明日野党が収まらないだろう」。「新・コルバラの戦い」は今日のところは野党が警察に勝ったようだが、明日15時にDOSシンパがセルビア中から来る予定の大集会はどうなるかこれで分からなくなった。いよいよ先行きは不透明になってしまった。(ユーゴ政変特集・2に続く) (2000年10月中旬) コシュトゥニツァ大統領の写真を提供頂いた伊藤健治氏に謝意を表します。特記のない写真の大半は2000年9月から10月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。 |
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