「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 99/04/04 1:50

第14回配信<ユーゴ戦争便り・第1弾>
ベオグラード(非)中立宣言


私は日本でもひとつの町に10年住んだことはない。本格的空爆の危機に瀕して、今まで以上にベオグラードへの愛情を感じている(2月、市中心部の共和国広場にて)
 3月31日の夜、北大西洋条約機構(NATO)軍のユーゴ攻撃がいよいよ「第三段階」に入り、私たちの住むベオグラードへの空爆本格化が噂された3月31日の夜、公安当局から盗聴されるのは覚悟の上で「旧敵国」サライェヴォの友人(クロアチア人)に電話しました。
 「『戦争』と言っても7年前のサライェヴォに比べたら笑っちゃうようなものだろうけどね、地響きがして揺れたりするとやっぱり恐いぜ」
 友人「近くに落ちると爆風でガラスがやられるからな、ブラインドを下げて窓は開けておくんだぜ、これはオレの経験から言ってるんだから信じろよ。気を付けてな、オレもすぐに終わることを願ってるよ。また落ち着いたら電話くれよな」
 日本人である私の親友とは言え、セルビア人からあれだけひどい目に遭わされたサライェヴォの人から励ましと教えを受けて、何か涙がこぼれそうになりました。

3月16日、マケドニア北部に展開するNATO軍の演習。まだこの時は本当にユーゴと交戦状態になるとは思ってもいなかった
 3月24日、NATO軍はユーゴへの空爆を開始、これを受けてユーゴ連邦政府は前日の「非常事態宣言」を「戦争宣言」に格上げ、ベオグラードは戦争状態に突入しました。NATO諸国側は宣戦布告を行っておらず(米の公式見解は「必要な軍事行動」)、この一方的な「戦争宣言」が国際法的に戦争と言えるのかどうかは私にはよく分かりませんが、25日には米英独仏4カ国と国交断絶を決定、ユーゴでは全てが戦時体制に移りつつあります。

 最悪の事態に陥る直前から、私は昨年から同居しているユーゴ人のガールフレンドJと一緒に日本のテレビ局の取材を通訳していました。時差の関係で深夜の仕事も多いため、空爆前夜からはベオグラード中心部に近い高級ホテルで記者と一緒に泊まり込み、自宅に帰ってきたのは取材班がいったん出国した30日のことです。
 一部の報道ではベオグラードには空爆がまだ及んでいないような伝わり方をしているようですが、
「空爆決行か、回避か?」ミロシェヴィッチ大統領との協議を終えてホテルに帰った米ホルブルック特使(スーツ姿の代表団右から二人め)に殺到する報道陣(3月22日)
実際には郊外の中心部から8キロ以内の軍事施設にもミサイルが落ちていますし、ホテルの7階から轟音とともに昼は煙が、夜は火の手が上がるのも数回見ています。26日夜にはホテルからやはりそれほど遠くない工場にミサイルが当たり、低い地響きとともに日本でいう軽震のような揺れを感じました。
 91年のスロヴェニア以来、クロアチアでもボスニアでも報道関係の仕事をしてきましたので、私にとって戦争、そして砲撃は初めての経験ではありません(経験は、生きる知恵と常に同じであることをここでは強く感じます)。しかし近くで大きな音がして揺れるのは何度経験しても気分のいいものではありませんし、正直に言ってパニックにならないように自分を制するので精一杯の時がほとんどです。空襲警報が発令されている時に、衛星電送のために標的とも噂される国営テレビ局にいる時も同じです。
 ともあれ、マケドニアでNATOの演習を見、ベオグラードに帰って空爆決行か回避かを決める米ホルブルック特使を待ち、ステルス戦闘機撃墜の現場の取材に同行し・・・と元気に
マケドニア・ユーゴ(コソヴォ)国境のアルバニア人村の子どもたち。アルバニア語の出来ない私にイヤな顔もせずマケドニア語で話してくれた
通訳の仕事をしていましたし、今も自宅に戻って情報のフォローをしているところです。

 日本大使館からは25日に「退避するなら大使館で援助できる最後のチャンス」という通告を受けましたが、お断りしました。私一人ならば、確かに今回ばかりは深刻に考えたと思うのですが、私には一緒に暮らしているJがいます。ベオグラード育ちのJには両親や親戚や友人がこの町にいます。市役所に駆け込んで形の上で結婚すれば、大使館のオーガナイズするブダペスト行きの退避バスに二人で一緒に乗ることも出来たでしょう。でもそれで、日本かどこか第三国でニュースを聞きながら彼女の親しい人々のことを心配しているのが正しい判断だとは私には思えません。私が、自分の選んだ国、10年住んでいる町にとどまるのは、だから、決して「恐いもの見たさ」の野次馬根性や「英雄気取り」の変なヒロイズムからではないのです(因みにNATO諸国と異なり日本大使館は5人の館員を現地に残していますし、まだ30人ほどの在留邦人がユーゴ国内に残っているようです)。

 昨秋の空爆騒動以来、セルビアでの情報統制と政治の大政翼賛化が進んだことは前にもこのページで書きました。戦争宣言以来、いよいよ警察国家セルビアの本性がむき出しになって現れてきました。空爆前夜の24日未明には唯一の反体制系ラジオB92が放送停止処分になりました。空爆が始まると西側メディアに対する警察の管理も非常に厳しくなり、「敵国」米英の報道陣を中心に取材中の一時身柄拘束、機材没収、ホテルでの強制捜索、国外退去指導、国営テレビでの電送の事実上の禁止などが行われています。私たちが泊まっていた最高級ホテルのことを、普段は「冴えないベオグラードの中でここだけは別世界」と言っていましたが、そのホテルにも自動小銃を下げた公安が入ってきたのを見て思わずゾッとしました。空爆を恐れて空を見ていたら後ろから刺された気分、とでも言えばいいでしょうか。携帯電話は当局の気分次第で妨害電波を流されますし、トーン回線だったホテルの電話は一夜にして盗聴しやすいパルス回線に切り替えられました。日本の報道各社はまだ「親セルビア国」待遇ですが、それでも日本に送る衛星電送の前には国営テレビで検閲を受けますし、とても自由な取材が出来るムードではありません。ミサイルの轟音よりもこうした公安の対応に戦争を実感します。

「オレも標的か?」 ベオグラードの反空爆キャンペーンのシンボルマーク
 4日間「やられっ放し」だったベオグラード市民が、5日連続で発せられた空襲警報をものともせず市の中心部共和国広場に集まったのは28日のことでした。ベオグラード市の主催で開かれたコンサートでは体制支持者も反体制派も一緒になって1万人以上のベオグラードっ子の明るい表情が見られて私もホッとしたのですが、この後に不要なオマケがついてしまいました。一部の暴徒化した人々が米独、カナダ、アルバニア大使館に投石、さらにマクドナルドや米仏文化センターなども激しく破壊されました。
 怒りはよく分かるのだけれど、自分たちの文化を貶めるようなことまでやっていいのか。さすがに眉をひそめる人も少なくありませんでした。

 ジャーナリスムが批判されて然るべきなのは国内だけではないと思います。昨日1日、国営セルビアテレビはコソヴォから列車で逃れてきた人々を取材、「空爆が恐くて逃れてきた」というインタビューを放送しました。一方英国でBBCに次いで影響力の大きいスカイTVは同じような列車の映像を流しながら「アルバニア住民に対する民族浄化が続いている」という文脈のコメントを付けました。NATOは攻撃の手をゆるめてはならない、という世論の形成にどれほどこのような映像が影響するかご想像下さい。戦争になると、どちらの報道も「大本営発表」で信じることが出来なくなります。
軍需産業の町クラグイェヴァッツでは兵舎が空爆されたが、現在まで工場への攻撃はない
これもスロヴェニア以来の教訓です。

 幸いセルビア北部での現在までのNATOの攻撃は正確で、軍事施設の近くで爆風による損害が出た以外は大きな市民の死傷は伝えられていません。しかしプリシュティナを中心にコソヴォでは「第二段階」の集中的空爆でかなりの被害を出しました。プリシュティナの都市機能は完全に麻痺していますし、国営系報道はアルバニア系住民の死傷も伝えています。またセルビア中部ではチャチャクの(軍需産業への転用は考えにくい)掃除機工場が完全に破壊される一方、軍需工場の町として知られているクラグイェヴァッツの武器工場は現在まで無傷という矛盾も起こっています。

 NATOは力ではあっても、正義であるとは私には思えません。ミロシェヴィッチ政権のコソヴォでの圧政は悪であることは間違いないでしょう。しかしそれを空爆という悪で制することが正しいのかどうか。また空爆でユーゴ政権が譲る姿勢を見せていない以上、この空爆自体に意味があるのかを問い続けなければならないと思います。

 世界最強のNATO軍にタテツくユーゴ=セルビアは時代錯誤でアホウな国かも知れません。ミロシェヴィッチの圧制を支持する大半のセルビア人はアホウかも知れません。しかし強大だからNATOが正義なのではないし、セルビア人がみな悪いのではないと私(大塚)は思っています。今日2日は放送停止処分になった後インターネットでのみニュースを流していたベオグラードの反体制系ラジオB92が当局によって完全に潰されたというニュースが流されましたが、その前夜の昨夜、ネット版B92でV・マティッチ主幹が西側メディア宛に送った書簡を発表していますので抜粋を紹介します。 

 NATOのユーゴ空爆はミロシェヴィッチの好戦オプションを止め、コソヴォの住民を、しいてはミロシェヴィッチの体制の犠牲となっている人々を助けなければならないはずです。しかし実際の空爆は1500万人の住民の生命を脅かし、コソヴォとセルビアの民主主義に対する攻撃にもなっています。またモンテネグロやボスニア・セルビア人共和国の民主改革をさえ後退させかねないものです。圧制を受けている住民の保護は貴重な義務ではありましょう。しかしそのためには明確な戦略と目的が樹ち立てられていなければならないはずです。残念ながら空爆が重ねられれば重ねられるほど、そういった目的が分からなくなっているのが現実です。NATO諸国には空爆を停止して、その効果を検討して頂きたいと思います。
 96年、民主主義と人権を求めてデモを続けた人々はどこへ行ってしまったのでしょうか。ニシュ市市長はこう言っています。「20分前に私たちの町は爆撃された。ここに暮らしている人々は96年に民主主義を求めて選挙に参加したのと同じ人々だ。不正選挙の結果訂正を求めて3ヶ月間デモを続けたのと同じ人々だ。ヨーロッパやアメリカと同じような民主主義をニシュにも求めて頑張った人々だ。だが今日ニシュを爆撃しているのはその『民主主義世界』の米英独仏カナダではないか?何と言う無意味だろう!」
 セルビアの中立系報道機関は民族主義と憎悪、戦争にずっと反対し続けてきました。そうした機関の代表として私はクリントン米大統領にわが国への攻撃中止をお願いしたいと思います。民族的に何人であるかに関わりなく、ユーゴ住民みなの平和と民主主義を発展させるために、政治交渉再開に努力していただきたいと思います。

タバコとガソリンの状況は危機的。まだ食料品は大丈夫だがいつまでもつか。本格的空爆になれば電気や水も不安
 
セルビア=ユーゴ当局、NATO、報道の3つを主なターゲットに、悪いものは悪い、誉められないものは誉められない、と私は書き続けていこうと思います。この日本語のページを読んでくれる奇特なユーゴ政府関係者やNATO関係者がいたとしたら、「セルビア寄り」「NATO寄り」の批判を受けるかもしれません。それは本当の中立ではないと言われるかも知れません。しかし自分の見聞きしたこと、自分の思ったことを柱に皆さんにお伝えしたいと思っています。これからしばらく「(旧)ユーゴ便り」も戦時体制に入ります。警察のウロウロしている時にデジタルカメラも下手に使えませんが、電気と電話事情の許す限りは頑張っていくつもりです。

サライェヴォの人々の教訓
自分の住んでいる町が壊されていく時、その町がさらに好きになること。そして辛い状況の中で自分がどれだけフェアーに(仕事でも、生活でも)振舞えるかどうか、つまりその人の高潔が試されること。

(99年4月2日)


  ベオグラード中心部以外の写真は、今回の日本のテレビ局の取材に通訳として同行した際私が撮影したものです。本ページへの掲載に当たっては私の通訳上のクライアントの許可を得ていますが、無断転載はご遠慮下さいますようお願いいたします。


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