|
富士川といふは、富士の山より落ちたる水なり。
その国の人の出でて語るやう、
一年ごろ、物にまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水のつらに休みつつ見れば、川上の方より黄なる物流れ来て、物につきてとどまりたるを見れば、反故なり。取りあげて見れば、黄なる紙に丹して濃くうるはしく書かれたり。
あやしくて見れば、来年なるべき国どもを、除目のごとみな書きて、この国来年空くべきにも、守なして、また添へて、二人をなしたり。あやし、あさましと思ひて、取りあげて、乾して、をさめたりしを、かへる年の司召に、この文に書かれたりし、一つたがはず、この国の守とありしままなるを、三月のうちに亡くなりて、またなりかはりたるも、このかたはらに書きつけられたりし人なり。
かかることなむありし。来年の司召などは、今年、この山に、そこばくの神々あつまりてない給ふなりけりと見たまへし。めづらかなることにさぶらふ、
と語る。
「その国の人の出でて」:
どんな人なのだろう。長い髭を生やした老人ではないだろうか。世捨て人の風ではない。この国の役人とも交わりがあり、知恵袋のような存在である、と少なくとも本人はそう思っている。かつては駿河の国の公の行事として、疫病退散の儀式を執り行ったこともある、と言うことなのだが、近頃では、不思議な話を聞かせて、人の驚いた顔を見るのが、ただ一つの楽しみとなっている。孝標一行を待ち構えていたかのように、どこからともなくこの老人が姿を現した。
【一年(ひととせ)ごろ】あるとき。いつのことであったか。漠然と述べる言い方。
【物】詳細に言う必要のないことを漠然と示す。何かの用事。
【まかる】「行く」の聞き手に対する謙譲語。丁重表現。
基本的には、動作を命じる主体やその場所を敬って用いる謙譲語。
中古以降の用法として、聞き手に対しへりくだるように変化したもの。
【つら】ほとり。あたり。竹芝伝説に「高欄のつら」とあった。
「この水のつら」:
作者たちはどこにいるにか。富士川のほとりで話をしているのであれば、さらに「この水のつら」と言うのは不自然ではないか。だが、これも直接話法の中に作者が介入していることも考えられる。映画を撮影するとしたら、川のほとりで話を聞いている場面にしたいところである。やはり川のほとりであるべきだろう。
【うるはし】端正である。外見的な立派さ、しかつめらしい、儀式ばって面白みに欠ける感じにも用いられた。
【あさまし】基本的には、びっくり。
「守なして、また添へて、二人をなしたり」:
守の名を記して、それに添えてもう一人の名前が記されていた。守は一人のはずなのに、二人の名前が記されていたのだ。「二人をなしたり」はこの不思議を表すもの。
「この国の守とありしまま」:
黄なる紙にこの国の守と書かれていた、そのとおりに。
【そこばくの】いくらかの。数量をあえて明示しない言い方で、「数えきれない」にも繋がるのか。たくさんの。多くの。
「ない給ふ」:なし給ふのイ音便。
「たまへし」:下二段活用の【給ふ】は謙譲語。聞き手に対しへりくだった丁重表現。この「給ふ」は直接話法の中でのみ使われる。なお、「思ひ」に付く場合は、ウ音便、長音化して「思うたまへ」となる。
【めづらか】あやしく、不可思議なさま。
源氏が生まれたときの様子、「めづらかなる稚児の御容貌なり」
大納言の姫君の生まれ変わりの猫についての父の言葉、「めづらかにあはれなることなり」
「富士川といふは、富士の山より落ちたる水なり」:
こう言われると、素直にそうなのだろうと思うのだが、実際は違っているらしい。作者も、黄なる紙の話をした人か誰かの言葉をそのまま信じたのだろう。だが、執筆時に、それが間違いだと気づいていたとしたら、どうだろうか。可能性としては、たとしえようもなく低いが、前置きとして、「これから語るのはすべて嘘ですよ」と暗喩的に宣言していると考えられなくもない。ただ、更級作者はこのような書き方はしない。
反故(ほぐ) 丹(に)
今日の名文
「富士川といふは、富士の山より落ちたる水なり。 嘘だけど 」
|