『 細野晴臣 VS 中沢新一 対談の感想 』
>>> 当事者としての20周年・細野さんの場合 <<<

( 第1稿 2/5 '99脱稿 )
前からなんとなく気になっていたdasiy worldに転載されている細野さんと中沢新一氏の対談を読んでみたら、これがなかなか面白かった。それで何か感想を言ってみたくなった。実は、前々から時系列式に順々に話を展開するのとは、別にYMOやその周辺について書き留めておきたいことが結構あった。これまでは、本筋の方がおろそかにならないように自粛していたが、時系列に整理された形で思考が進む方が返って不自然でもあるので、今後は自分なりに”これは大事だ!”と感じたことは、軽いエッセイのようなノリで気ままにしゃべろうと思う。

昨年98年は、YMO結成20周年ということで、様々な特別企画が目白押しで、アルファレコードやYMO評論家(?)を含めたYMOフリークは、誠に呑気なもので、大いに懐古趣味に浸けらせてもらった。無論、僕もそのひとりに違いない。ところが当事者としての生身の元YMOメンバーの意識は随分違う。DasiyWorldの対談は、そのことを間接的にも僕に改めて痛感させずにおかなかった。

さて、座談の場の雰囲気はくだけたようでありながら、その内容ははっきり言ってかなり暗い。98年の12/25のsiteSakamotoのDialyも暗かったが、この対談の内容もまたそれに劣らず暗い。いや、しかし、今のような時代にあって、ひたすらステージで自分をカッコよく見せることしか頭にないミュージシャンは、ホンモノのばか野郎である。さらに、その脳天気な陽気さは、背後に深い暗闇が控えていることを一層きわだたせるかもしれない。

対談による限り、細野さんは絶望し、疲労しているという印象受けた。もっとも対談は中沢新一氏が巧み導引していく形で進行しているので、あれがそのまま細野さんの現在の心境ということにはならないだろう。むしろ、細野さんはあくまで聞き役である。細野さんはいつものように相手に対して肯定的に、ヨーダのように構えている、そのようななかで中沢氏は、実にストレートに彼独特のある種の二元論を展開した。たぶん同業者との対談では、中沢氏もあれほど強引な(従ってわかりやすい)二元論を展開しなかっただろう。たちまちつっこまれるからだ。

最初、細野さんがアメリカ・インディアンのイニシエーションを体験した模様を取材したテレビ番組について触れられた。僕も再放送だったが偶然その番組を観た。(たしか教育テレビの「未来潮流」あたりだったと思う。)要は、そのイニシエーションというのが、いわば今流行の自己啓発セミナーのアメリカ・インディアン版みたいなものである。僕は正直なところ「細野さんもいい年してだらしないなぁ」と少々軽蔑の念をもよおした。細野さんと同世代の一般人ならともかく、中年にさしかかったアーティストがそんなことでは情けないではないか。しかしながら、細野さんは自分を偽らずに自身のこころの空虚について告白した。(これは現代日本人全体の問題でもある。)ついには早朝、指導にあたったインディアンに導かれるままひょろひょろと小高い丘に登って、朝日をおがみ感涙したようであった。ところが、対談を読めばわかるが、当の細野さんは、内心はかなりシビアで客観的であった。

ところで、番組での細野さんを少し軽蔑したとはいえ、僕を冷笑家だと誤解しないでもらいたい。むしろ、僕は自己啓発セミナー的なものならなんでも冷笑する小賢しい知識人を全然好まないのだから。むしろ僕は心に確たる信念をもたない人間を信じないし、信念をもたない者は、人間らしい振る舞いを貫けないと思っている。但し、その自己啓発セミナー的なものの中には、かなりインチキなものが多く、ビジネス以上のものでないケースが多いこともまた事実である。そうして、この対談でも近年見直されているインディアンの知恵なぞも単なるパフォーマンスに過ぎない場合が多いことが指摘されている。多くのインディアンは普段は西欧化近代化された、つまり、我々と同じような消費生活を送っている。

そこで、細野さん自身が今回の体験も含めて、到達した考え、絶望というのは、80年代以降探し求めてきた『自分がまだ知らない、英知の体系がこの世界には存在して』いないし、そもそも当の古代の英知の体現者自体(インディアンやチベットの修行者など)が内心その復活を信じていないということだった。(なんという深い闇だろう・・・・・・)そして細野さんは、中沢氏が引用したレヴィ=ストロースの言葉を受けて、『やっとね。僕も同じように敗北者です。絶望から出発し直しましたから。』と宣言してみる。

すると自ずからYMO散開後、細野さんが活発に日本やアジアの伝統音楽の大家達とセッションを試みてきた理由が了解されてくるというものだ。僕にはそのアプローチの仕方が、安直に伝統を自分の中に取り込んで安心定位しようとしているように感じられて不満だったが、細野さんの内界の事情を知るにつけ、今は彼の苦闘に胸が締めつけられる。その道のりは長く苦しいものだったのだ。

対談は、さらに脱人類学的思考の指導的思想家、カスタネダによって紹介された「集合点の移動」という視点に言及。それに敷延して、中沢氏は独自の二元論を展開する。中沢氏によれば現代の世界は二つのパワーがせめぎあっている状況にあるという。すなわち、一方は、『隠れているものを外側へ引っ張りだして、挑発して、それを高エネルギーとして利用していく』パワー(おそらく還元主義みたいなものだろう。)であり、他方は『表にさらした瞬間に、ぱっと消えて、みえなくなっていくようなもので』、『きわめて微妙繊細な表現を可能にする』パワーであるという。

前者の代表がテクノロジーであったり、音楽でいえばロックだと。やっぱりYMOも前者ということになるでしょう。殊に初期のYMOは、明確に世界的な成功を大きな目標としてきた。そういう意味でも前者であろう。後者の代表としては、インディアン文明やそれと対比しながら西欧文明を批判するカスタネダやドゥルーズの模索だと。(教授が現在熱中しているものでいえば、「気」や「合気道の発想」というところか。)

細野さん自身の身の振り方については、中沢氏の提示した枠組みに沿った形でいえば、『繊細なものを一方で持ちつつ、二十一世紀を予感しながらも、自ら分裂状態をつくり出し、混沌受け入れているような感じ』であり、『今は、行き着くところまで行くのを待っている状態』だそうである。(ちなみに中沢氏は20世紀的な思考を完全に捨てたと言っている)そうすると、現在、細野さんの向かっている方向というのは、思想的には(つまり、言葉のうえでは)、結果としてはアンチYMOも含むのではないだろうか。細野さんは最終的には、自力で『微妙微細な表現を可能にする』パワーへ移行するつもりなのだから。

アーティストというものは、一般に、過去に自身の才能のピークがあると思ったままでは、創作できないものであるから、しばしば過去の自身の業績を否定する。しかし、この時の細野さんはそうしたものを超絶したところで発言している。 もっとも言葉は世界を裁断するが、音楽は異物と異物をいともたやすく結びつける、おそるべき懐の深さをもっていることも、また否定できない真理であろう。

ここで、YMO散開後はすっかり時間が止まってしまった感じのあの人達の”これはヒドすぎる”と唖然としてしまうような、細野さんへの質問を引用してファンとしての戒めとしたい。それは、e-mailによってやりとりされ、「コンパクトYMO」に収録されている。このYMO本は、データベースとしてなかかな充実しており、ハンディで便利なのだが・・・・・

(以下転載)
>高橋さんは「YMOの精神を引き継いで活動しているのは細野さん」
>とおっしゃってます。一方、その高橋さんはYMO散開後も日本のポ
>ップスの世界に一人残って闘い続けている印象がありますし、坂本さ
>んもまたYMOがやり残したインターナショナルな成功という課題を
>引き受けて活動なさっています。三人それぞれが、それぞれのやり方
>で、それぞれのYMOを継続しているという見方に対しては、どのよ
>うな印象をお持ちになりますか?
(以上。 コンパクトYMO収録。4/20 '98発刊)

・・・・・・・・これを受け取った細野さんの複雑な気持ちは、察してあまりある。なんでこんな馬鹿げた詭弁を弄してまで、他ならぬ自分たちのYMO幻想存続のために生身のミュージシャン達を無理に動員する必要があるのか。もの凄いギャップだ!

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