18.エピローグ
− YMOを聴くと血行がよくなります −

YMOの受容について− 前衛の宿命 −

『やっぱり思うんだけど、あの80年頃のYMOブームって日本の音楽業界から切り捨てられたっていう面があるんじゃないですか。やっぱりあれはなかったことにしようっていう。』(高橋幸宏;コンパクトYMOより)

『あれはなかったことにしよう』とはあまりにショッキングな言葉だ。しかし、「YMOの受容」ということを考える時、僕も全く同じ実感が迫ってくる。テクノポップとも呼ばれたYMOの音楽は、一定の様式を残さなかった。従ってYMOの音楽は、YMOによって生み出され、YMOとともに終わった。YMOの活動期の前と後ろにはポッカリと大きな溝ができた。根底的には、YMOは日本のミュージック・シーンはもとより、海外の如何なるミュージック・シーンにも依拠せず、何の脈略もなく突如として出没したバンドである。洋の東西を問わず、人々はそのように「メインの流れ」から連続性なく登場する、説明のつかない存在が苦手である。できれば無視したいのだ。しかもYMOの残した傑作群は、明らかに誰人も到達しなかったある極点を指し示している。いよいよややこしいのである。

YMOはあまりハッピーな形では受容されなかった。さりとて受け手側ばかりを非難するのは、フェアじゃない。メンバー自身にも多分に問題があったと思う。まず、彼らは大衆の反応に対して、あまりに過敏だったのではないだろうか。病気みたいになりかけたほど、思いつめたらしいことが、メンバー自身の言葉で明らかになっている今日、彼らを非難するのは心苦しい気もするが、やはり彼らには理知的なるがゆえのひ弱さみたいなものがあったと思う。

前衛家は、時代の兆候を普通の人たちより随分早く嗅ぎつけて、それを表現してみせる。無論、ごく平凡な人の集まりである社会からは、冷たくあしらわれたり、誤解に基づく調子外れな賛辞を浴びせられたりする。そこでは彼らの鋭敏さは逆にあだとなって、研ぎ澄まされた神経をさいなむ。前衛家はたちまち耐えられなくなる。それは前衛家の陥りがちな宿命だが、YMOも遂にそれを免れることができなかったと思う。

とかく前衛家は「待機」が苦手である。YMOもまた然り。メンバーが繰り返し言及した「マス」とは実は、常に大衆の反応の「第1波」に過ぎなかったと思う。それはマスの全体像ではない。しかし、彼らはその「第1波」にすっかり参ってしまったし、見切りがついたと勘違いした。自分たちの蒔いた種が芽を出すのも待たず(待つことができず)に、不確かな観念の奔放の赴くまま凄まじい速力で我々の前を通過していった。ほとんどの人はマトモに彼らの姿を確認することができなかった。それがリアルタイムでのYMOという現象の実態だ。それはまるで閃光の後に遅れて轟音がやってくる雷に似ている。ゆえに「伝説」にはなったかもしれない

80年代には全国のどんなに小さなレコード店にも、「YMO」と記されたインデックスがあって、その一角にはYMOのアルバムやソロ・アルバムが並んでいた。細野晴臣や坂本龍一や高橋幸宏の名前が見当たらなくとも、流行のアイドルやサザンやユーミンのそれと共に「YMO」のアルバムが配置される空間が設けられていた。それが大事なのだ。解散以降のメンバーの発言には、しばらくの間、日本のミュージック・シーンの現状への幻滅やら苦言の類が多かったが、機の熟するのも待たずにYMOというビックネームを手放してしまった後では、正直言ってむなしかった。傍観者の戯言と言われてもしょうがない。そういう意味では、80年代の時点での彼らが、最後のところで日本のミュージック・シーンの一層の成熟に寄与しうるだけの人物でなかったことは、しぶしぶ認めざるをえない。結局、冷たいんだよね。で、そういうのって相手に伝わっちゃうから、YMOも冷たくされたという面がある。

僕らの立っている地平

YMOは、2回にわたるワールド・ツアーを成功させた。これは快挙だ。で、ヨーロッパやアメリカの「大衆」の記憶に残ったか?言うまでもなく答えは、ノーである。試しに、80年代に活躍した、いわゆるSymth Popやニューウェーヴを取り扱っている海外のサイトを探索してみるといい。そこには、おらが村の - 欧米の − 偶像達が並んでいるばかりである。たとえYMOを知っていたとしても、ニューウェーヴの亜流と頑固に信じている。ごく普通の欧米の大衆の「常識」からみれば、80年代初頭の日本という最果ての音楽後進国に、ポップな電子音楽の領域で、彼らの偶像を遥かに凌ぐバンドが存在したなど、絶対ありえないことなのである。いや、あってはならないことなのである。YMOは昔の話だし、欧米のティーン・エイジャーが知らないのは当たり前である。しかし、80年代の音楽に精通していると自認する欧米人までが、あまりにYMOについて無知なのは、ちょっと困ったことだ。

しかし、僕ら日本人リスナーの中には、彼らの偶像についてもよく知っている人が多い。日本も含めて、この音楽業界というやつはつくづく欧米主導なのである。東洋の、日本に出現したYMOは、欧米にあっては、その知名度はごく低い。音楽業界という幻想世界の第一義は、知名度=才能である。これは、ほとんどマインドコントロールの域に達している。従って、嘆かわしいことに皇帝が使用人のような扱いを受けることもしばしばである。しかし、僕らは、YMOがその時代のシンセ・バンドにおけるエベレストのようなひとつの頂点であったことを知っている。僕らの立っているのは、そうした地平である。僕らは怠惰な欧米人より公平な評価を下す資格があり、その気になれば、音楽の世界地図をより正確なものに書き換えることも可能なのだ。

YMOは「脱構築」だったのかも・・・・

ニューミュージックの評論家連中は、飽きもせず彼らの古びた役立たずの系図を持ち出してくる。彼らによって、YMOの音楽の成り立ちについて、説明が試みられる時、今更耳にタコって感じだが、クラフトワークやニューウェーヴの影響云々が言われる。で、何か少しでもYMOがYMOたる所以が解明されただろうか?勿論YMOは同時代のミュージシャンからの影響も受けたのである。しかし、それは日本が鎖国状態ではなかったという以上の意味はない。そもそもYMO自体が、いわば歩くフレーズ集みたいなもので、西洋の古典音楽やジャズから世界中の民族音楽に到る無数の音楽的要素を含んでいる。彼らがその作品に組み込こんだ音楽のジャンルの種類を数えだしたら、いいかげん同時代のミュージック・シーンの影響のみを挙げてYMOを論ずることそれ自体が滑稽になってくる。

『それまでのPOPS、ROCKのあらゆるスタイルを脱構築しながら利用する、という姿勢でしょう。(中略)あの時代もう自然に盲目的に音楽をする時代ではなくなった、という意識はとても強かった。「自然」には何も生まれてこず、批評的精神だけが創造を促がす。』(坂本龍一;コンパクトYMOよtり。)

90年代以降、すべて出尽くした、新曲はいつも何かに似ている、そんな一種の閉塞感がつきまとうようになって久しい。『「自然」には何も生まれてこず、』なんてことは、80年代初頭に既に行き詰まり感みたいなものはあったんだねぇ。それはともかく、YMOの音楽のやり方が「脱構築」だという坂本の着想は、クラフトワークやらディーボを引き合いに出してくる評論家連中の説明よりずっと説得力があるように僕には思える。YMOの音楽は、様々なスタイルの音楽を、それの背負っているルーツに支配されることなく、しかし完全にそれを無視せずに組み込んでいくことによって、時空が不連続に錯綜するような独特の陶酔を生み出した。組み込むことで、各々のスタイルに新しい生命を吹き込み、またそれゆえにそのスタイルの背負っていたものを解体することにもなった。

そうした光景は、デリダなどポスト構造主義の思想家の「脱=構築」と呼ばれる批評的方法とその気分に親近している気がしないでもない。僕はずっと、フランスの現代思想なんか時代精神と呼べるわけないじゃん、と思っていたが、最近では割と符号する点が多いように感じている。方法上の厳密な一致というものはないだろうけど、行き詰まりを乗り越えるやり方と特にその気分が似てると思う。YMOは、その行動においても、「大御所ミュージシャン」を解体し、「アイドル」を解体してみせた。それらは当時、完全に無視されたから、その後のミュージック・シーンにはなんの波紋も残さなかったけどね。ちなみに浅田彰の「構造と力」が世に上梓されたのが、奇しくもYMO散開の年、83年9月10日。この著作によって、デリダやドゥルーズらポスト構造主義と呼ばれる思想家が広く一般に知られるようになった。やっぱり「脱構築」は当時の時代精神の一角を担っていたのだろうか。

そこいくとYMO以外の当時のシンセ・バンドって、シンセサイザーの使用そのものの新鮮さが売りで、多かれ少なかれ科学万能主義の近未来音楽という呑気なノリだったと思う。テクノの神様などと 祭り上げられちゃってるクラフトワークにしてからが、初期のスタイルや発想は、少年漫画の「近未来像」と変わらないじゃん、と思っちゃう。一方、YMOは、深い陰影をもった芸術表現に達している。無論、クラフトワークの後続たるYMOは一層進化(深化)するべく使命を帯びていたわけだけどさ。それに先輩にはちゃんと敬意を払わなくちゃね。

YMOは終わったか?

80年代的なYMOが終わったことは明白な事実なのだが、それにもかかわらず、この問いは、これまでもにも何度となく発せられてきた。それは、今でもYMOの傑作群が聴く人を魅了してやまないので、なんだかYMO自身がまだ現存しているような気がしてならないからだ。以前、僕はこうしたことを未練がましい懐古趣味だと思って、嫌忌していたが、今は違う考えをもっている。なぜ、この問いが繰り返されたのか、その謎のこたえは、次の坂本龍一の発言に端的に示されている。

『80年代のYMOの曲のなかには、現在でも聴けるに耐える曲、古くならない曲がいくつかある。そういうのをClassicというんだけど。』(坂本龍一;コンパクトYMOより)

YMOの名曲達は、既に古典化したのだ。「古典」というのは時代が移り変わっても、それに触れた人にいつも新鮮な感動を与えてくれる。YMOの名曲達は、これからもずっと聴く人をワクワクさせずにはおかないだろう。ちなみにYMOをいち早く客観的に評価したのは、坂本龍一だと思う。細野も高橋も随分長い間、YMOに対して煮え切らない発言を繰り返していた。どちらの気持ちもよくわかる。あと、性格の違いかな。坂本龍一はもともとYMOへの帰属意識みたいなものが稀薄。細野晴臣にとっては、なんといっても自分で構想して、立ち上げたバンドだし、執着が強かった。それで、なかなかYMOに対するアンビバレントな感情から解放されなかったんだと思う。

バンドとしての具体的な再結成の可能性はどうだろうか。パーマネント・グループとしての復活については、いくらなんでもリアリティがない。それなら3人のセッション的な集いは?3人の個性的な一流ミュージシャンのセッションがエキサイティングじゃないと断言することは誰にもできないだろう。東風やCUEも3人で演奏すれば、ソロでやるのとはまた違った味わいが醸し出されるというもの。

ただ、僕は散開後は専ら坂本龍一をフォロー・アップしているが、そういう立場から推測するれば、「DISCORD」以来の一種の「回心」のような彼の心境の劇的な変化と決意を察するとセッションにすら全く興味がなさそう・・・・。もっとも坂本龍一は孤高に徹するという柄ではないから、一方でポップなことも続けていく柔軟性は保ち続けるだろう。そこに一縷の望みがあるかもしれない。

最後に・・・・

最後まで、こんな拙文を読んでくださって、本当にありがとう。有名人でもない者の、このような長ったらしいおしゃべりにつきあってくれる人が少ないことは、僕自身が重々承知している。そもそも日本人一般の気質からいって、他人が自分の考えをべらべら述べること自体に抵抗をおぼえがちだ。僕自身も単なる自己顕示欲にしか感じないような主張は好まない。だからこそ、なるべく「中庸」を得るように心掛けたつもりである。

YMOについて考えることは、僕にとってとても楽しい作業だ。当初、あまり深く考えずに『YMOhistory』などというだいそれたタイトルをつけた。しかし、書き進めていく度、そして読み返す度に『history』などという重い言葉を軽はずみにつけたことを悔い、恥じる思いが次第に募っていく始末だった。そう、これはやはり、せいぜい『story』と呼ばれるべき類のものだ。

僕は、事跡の単なる羅列には全く興味がない。僕の関心は常にその舞台裏に向けられている。それぞれのイベントへYMOを駆り立てたものやら、それがその後のYMOや社会に及ぼした波紋などを想像するほうがずっと楽しい。歴史の教科書の年表を暗記するようなことはまっぴら御免だ。勿論、これは僕の発見ではない。まともな評伝ならば、みんなそういう視点を持っている。僕はそれにちょっと習ってみたに過ぎない。

ともかく、こいつはまだまだ不充分すぎる。文体には統一性がないし、いくら全体像をスケッチするのが目的とは言え、あまりに不備が多すぎる。とりあえず、全体の骨格みたいなものができたので、これからゆっくりと推敲していきたい。ああ、あと、あなたも自分なりのYMO像を描いてみてはいかが。結構楽しいよ(^^)

現在の僕は、それほど頻繁にYMOは聴かない。80年代にさんざん聴いた人は、普通みんなそういうもんでしょう。それでも時折お気に入りのYMOの曲をかけると、体の細胞が少年時代の高揚感を覚えているのか、純粋に音楽的な感動とともになんだか血行までよくなるような気がして、思わず苦笑してしまう。
..........なんかヤバイよなぁ−(笑)


(99/06/10 第一稿 脱稿)


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