定 方 良 輔

14期・上越支部

定方良輔

横尾にて(昭和34年3月29日)

  前穂北尾根四峰東壁北条・新村ルート登攀の帰路、横尾で出会った高島誠会員が撮影したもの。

  パートナーの新井登吉郎会員(写真右)、岡部勇会員、この写真を撮影した高島会員は、いずれも故人となってしまった。

随想

   穂高岳の夜

  一瞬、体が宙に浮いた。もがく足が何百米もの空間を泳いで、胸と腹をザイルがしめつける。幸い小さな滑落だったので、突き飛ばされた岩壁に振子のように戻り得たのは<落ちた>と気付いてからほんの数秒後であった。

  狼狽している私をラストで確保したが、「定方さん、今日はここでビバアーク(夜明し)しましょう」と怒鳴る。<そうだ、の云うとおりだ。それが最善の手段である>やや落ち着きを取り戻しながら、私は垂直な壁を10米程戻り始めた。

  登攀の最中は、岩と氷に真昼の明るさが躍って手招きしていたが、時計をみると既に午後6時に近く、タべの帳りが恐ろしい迅さで私達を呑みにかかっていた。 一刻の猶予もならない。視界の効く内に、ビバアークの準備を終えなくては……。

  夕闇のなかで、トップのと応答がつづく。

  は私達より30米上部、このルートの最悪場を切り抜けて、オバアーハング(庇)した岩の上に出ている。勿論の姿は見えない。

  「おーい、登さん、なんとか一人でビバアーク出来ないか?」

  「仕方ない、やってみる。俺の防寒着と食糧をスペアーザイルにたくしてくれ」

  返事にかくせない淋しさがあった。

  三人の頭をかすめる不安、それは天幕代用の、ツェルト(ナイロン布の大きな袋)が一つしかないことだ。私とがツェルトを使用すれば、は身に着けた防寒具だけの一夜となる。夜半猛吹雪に襲われたら凍死の可能性が強い。ではどうするか?。

  三人が一個所でビバアークするのが最善だが、ここから迄の登攀は最悪場だけに時間がかかる。事実、は30米の登攀に四時間半の苦闘を強いられた。夕闇から夜半にかけての登攀は無謀に近いのだ。

  9ミリのナイロンザイルに、ビスケット、チーズ、羊羹等、更に私の野良用のゴムカッパを入れた小さなザックが結ばれた。重くかぶさった岩壁を徐々にザックがずりあがり、迫る闇と競争していった。

  「到着した」

  の返答は、殆んど夜の中からだった。

  私とは垂直な壁に岩が凸に出た、所謂尖岩テラスと呼ばれる小さな岩柵に尻半分を分ちあい、一本のハーケン(一本しか打てなかった)に二つの体と一切の用具をたくしてツェルトを覆った。に「頑張らうぜ、登さん」と声をかけたが、重い闇は返事を消してしまった。

  テルモスからお茶をとり、羊羹を口に入れたが、ローソクを食べているようで味が分らない。激しい登攀の連続で、口の中は勿論、体全体が乾き切っているのだ。二、三枚のビスケットとチーズを無理に押しこんで、長い長い夜が始まった。

  この氷と岩からなるルートは、前穂高の四峰、新村ルートと呼ばれ、困難なルートとして有名である。積雪期の登攀は難しく、私達の前に二パアティしか完登を許されていない。初登攀は激しい先陣あらそいの果て、一九五七年三月一五日、名古屋山岳会と、東京のアルムクラブの精鋭によって二泊三日の激闘の末、凍傷の痛手のうちに勝ちとられ、山岳界に大きなセンセーションを捲きおこした。

  後日、日本人としてヨーロッパのアイガー北壁に成功した高田光政氏や、マッターホン北壁に初登頂した芳野満彦氏もそのメンバーの一員である。つづいて第二登攀は、関西登高会の主力メンバーによって、私達が登頂する二日前になしとげられた。一名凍死の悲しみにつつまれて……。

  ルートの核心は庇の岩壁と垂直に近い壁の連続で、更に上下は氷壁となってそそり立っている。その核心の一角に三つの小さな生物が夜をむかえた。ツェルトの小さな窓からのぞくと、いつしか月がのぼり、蒼い光に萬物が気を失ったように凍っている。風がときどき足元を捲くると、蒼白い氷壁がぞっとする程落ちこんでゆく。よく登ったと身ぶるいする。

  梓川を挟んで対岸に、霞沢山系、更に左手は常念山脈の雪嶺が長々と横たわり、白々と暗黒界から浮き出ている。人間の息づきなど風になびく枯葉の一片にすぎないのだろう。

  今朝から動きつづけ、今やっと動かないでいられると思った。起床はAM三時半、五峰と六峰のコル(鞍部)の雪洞を出発したのが五時だった。夜の明け染めぬ尾根筋を辿りルートの基部八時、登攀開始八時半、昼に這松テラスと呼ばれるたたみ一畳程の雪のテラスで三十分休んだだけで、十時間以上氷と岩と空間との闘いであった。

  しかも今尚緊張から解放されていない。二人のうち一人が寝ぼけて足を滑べらせたら大変。恐らく一本のハーケンでは支えられない。若いを休ませて、私は寝られないと思った。時計の針は遅々として重く、時の瀬はただのしかかっているようだ。それに引きかえツェルトを通す寒気は刻を追う毎に体をしめつける。氷壁のビバアークが苛酷なことは今迄の登山を通して覚悟しているものの、刻一刻の忍耐はくるしいことおびただしい。

  窓からまた外を覗く、月が冴々とうごいている。怪しげな雲が無いから急に吹雪になる心配は先ず無さそうだが、明朝一気に風雪の奈落に突き落されるかわからない。はどうしているだろうか?。

  積雪期の新村ルート登攀は、昨年と約束したのだった。私は昨年の春に結婚し、既に食うための責任を負わされていたし、も社会人として独立すべき峠にさしかかっていた。一口にいって、いつ迄も良い機嫌で山登りをしていられない環境に追い込まれていたのだ。

  青春の最後に二人の素晴らしい想い出を作ろうと、このルートが選ばれた。最初井上靖の「氷壁」の舞台である前穂高の東壁を予定したが、より困難を求めて変更した。

  は八重州口の運動具店に勤め、私の属する山岳会は勿論、都岳連のうちにあって、クライマーとして名は光っていた。二年後の日本山岳会のヒマラヤ遠征の有力な候補員でもある。幼年のは虚弱児で、小学六年迄体操の時間は校庭の隅でうづくまっていたとか。母親が、ハイキングでもさせたら丈夫になるだろうと山を勧めたのが病みつきのもと。岩と氷にかけて確実なテクニシャンで、落ち着きと粘りが彼の登山の信条である。は山岳会の若手の中で岩登りにすぐれた腕を持ち、物事に屈託しない快活な男である。と私は若手の精鋭群から一緒に生活して、楽しい男として彼を選んだ。

  私は三人の姉弟の末弟である。農地解放と云う歴史のなかで、私が農業を継ぐことに同情したのか、父母は健康的な山登りをなんの躊躇もなく許してくれた。ややもすれば、平凡な農業の中で我儘な私の血は農業計画よりも、登山計画を追っていた。

  父母が大変なことになったと気付いた時はすでにおそく<遭難したらどうする>そんな忠告に耳をかさぬ程の重症におちこんでいた。心配する周囲をよそに、二十代の私は、正月を家で送ったことは珍らしいくらいだった。三千米の雪嶺の懐にいだかれて一週間以上眠った者は、山の美しさから遠のくことが出来ないという、定石通りの青春を送ってきた。

  両親は、嫁を貰ったら山から遠ざかり、一生懸命に農業をしてくれるという錯覚を持ち始めた。私は<山登りより好きな女が現れたらね>と、軽くあしらっていたが、予想外に早く一人の女性が現われたので、私自身も驚いた。驚いたというより夢中であった。私よりも更に驚いたのは両親であった。ということは、彼女が農家の娘ではなかったからだ。激流の中で色々な苦悶があったが、意志のあるかぎり道は通ずると、あらゆる反対を押し切って私達は結婚した。大騒ぎの結婚だった。あの日から丁度一年の月日が流れている。

  <彼女と結婚出来たら、もう山ともお別れだ。一生懸命農業して、生活を大切にしなくては> と思った男が、山よりも大事な女性を家において、また雪の穂高に夜をむかえている。考えると我ながら妙な気持になるが、私には私なりの理由があった。青春の最後、単なる甘い感傷だけでこの山行きに出かけてきたのではない。男がうちこんできた一つの道が結婚によってどれ程左右されるものか。即ち自分が育てたアルビニズムの比重価値を知りたかったのだ。

  と約束してから、私は妻に新村ルート登攀計画を話した。彼女は「行っていらっしゃい」と賛成して呉れた。反対しても無駄なことは百も承知なのだ。が、父母と違って、生命の危険を伴う大変なスポーツである登山を、彼女は彼女なりに知っている。北アルプスの縦走から穂高の滝谷、そして谷川岳の一ノ倉の岩峰を、私達と共によく登った。賛成した胸のうちは、複雑な雲が去来していたことだろう。

  秋の収獲が終ると、私は日課にマラソンを組み入れた。山行計画の一駒で珍らしいことではない。体を鍛えて、最良のコンディションで山行きにのぞむのは登山者の義務である。マージャンなど夜更かしして山へ行くことは、私の属する山岳会では断じて許されなかった。耐寒訓練と称し、冬がきても手袋を着用せず、寒風をついて走りながらこのルートの完登を夢みてきた。

  出発の日、妻は駅迄見送りにこなかった。山用の衣類のほかは新しい下着をそろえてくれた。私自身珍らしく氏神様に祈って家を出た。前橋の駅で汽車を待ちながら、沼田の親しい山の友に、はがきをかいた。

  「これから新村ルートの登攀に出かけます。決して無理はしませんが、萬一、事故が起きた時はよろしく。妻のよき相談相手になって欲しい」

  心にのしかかる負担は次第々々に拡ってきたが、慎重に最善をつくそうと、自分を励まして出発してきた。

  省りみて何一つ不備なものは無いと思える。それなのに、氷壁の鏡に映る己はなんと弱虫なのだろう。落ち着き得ない複雑な気持が次々とおそってくる。いつ訪れるかわからない遭難、そして死の恐怖にふるえおののいているのだろうか。確かに天候次弟ですぐ死と隣りあわせになるし、夕暮の滑落が大きなものだったら、私自身戻り得られなかったろう。死は恐しい。どんな理由をつけても、敗北の一語につきるのだろう。

  萬一事故が起きたらー。あんなはがきもロマンチックすぎたではないか。要するに弱虫なんだ。ここへ来てしまったことを心のどこかで後悔している。五、六のコルの雪洞で三日吹雪に閉じこめられた時、予定日が無くなって、ここから帰宅出来れば、と早くも弱虫がすみついた。一つの試練を通して、と覚悟してきたのに、いざとなるとどうしてこんなに弱虫なのだろうか。

  それというのも、今迄にない困難なルートであり、アクシデントが恐ろしいからだ。もう自分が敗北したら、妻や父母はどうするだろう。父母は姉や兄が面倒みてくれるからいいようなものの、妻はいったいどうなるのだろう。周囲の人々は「あの馬鹿野郎が大騒ぎして結婚して、未だ一年しかたたないのに山で死んでしまった」 と云うに違いない。何を云われても仕方がないが、幸福にしてやると云った妻に申訳ないと思う。たとえ甘いささやきであるにしろ、言葉の貴任をもたなくてはならない。

  妻は幼年にして父母を失い、妹と二人で生活してきた。結婚したいま、私だけが頼りなのだ。その妻を家に残して、こんなにも厳しい山行をどうして決行したのだろう。アルピニズムへの道と、愛の責任に私はたたきのめされた。

  いつだったろう。ある山岳雑誌に氷壁の夜、灯下に悠々と文芸春秋のマンガ読本を読んだと云う文章が載っていた。家の炬燵にいるようなゆとりに私は驚いた。同じ人間でありながら、今の私には心の余裕などない。月に合掌して祈りをささげる気持でいっばいだ。

  田舎の炊事場で、カッポウ着をかけてこまめに働いている妻の姿がうかぶ。静寂がますます拡げる孤独の中で、淋しそうに微笑みかける妻の顔は、私にどうしても生きて帰らねばと、泉のような力を分けてくれた。そして私の雑念は次第次第に感謝の念に変っていった。我儘だった己の不幸を父母に詫び、この登攀を許してくれた妻の信頼を裏切ってはならぬ。そうだ、どんな吹雪にたたかれようと、自分の力と生きることを信じ、たとえ這っても家に辿りつかなくてはならないー。

  は静な眠りに落ちこんでいる。上部で時どきカチカチと氷をたたくような音がする。眠れないままに、が凍傷予防にピッケルをもてあそんでいるのだろう。

  私も多少はうとうとしたが、身を切る寒気にふるえながら目を醒ました。山々は朝日にバラ色の肌を輝かせ、歓喜の歌声が谷間から湧きあがるようだ。昨夜は悪夢の一夜だったのだろうか。いや、私にはたしかな一夜だったのだ。

  焦ってはならないぞ。朝日に少しでも凍った体を温め、ゆっくり一歩を踏みださなくては……。垂直な壁に昨夕私を突き放したアブミ六個がぷらさがっている。最初のアブミに、私は静に体重をのせた。

(鵬翔第114号、昭和48年11月掲載)

(編集者注:文中のは新井登吉郎会員、は岡部勇会員のことで、両会員とも今は故人となっている)

icon382.gif 追悼集「滝沢リッジ−亡き岳友へ捧ぐ」へ寄せて

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