鎮 魂 譜

柴田昌亮会員

柴田昌亮会員

5期・永久会員

平成12年4月30日没

ショーサン、国鉄から大井川鉄道へ

名物のSLを走らす


追 悼

柴田昌亮氏を訪ねて

齋藤正明

  三月二十七日、熱海で開かれたF紡績入社同期会出席の帰途、金谷の柴田昌亮氏を訪問するため、東海道線午後1時55分浜松行に乗車しました。

  久しぶりの鈍行列車だったせいか、「ガッツン」という発車時の衝撃や、時々起きる大きな横揺れに懐かしさを感じたのは妙なことでした。

  春霞の向こうに薄墨で描いたような富士山がボーッと浮かんでいました。

  金谷までは旧東海道の宿場町を縫うように走って二時間足らずです。JR金谷駅前は綺麗に整備されており、駅舎も新しく建てられたようで、大井川鉄道始発駅の小さな駅舎と対照的な風景でした。

  「大鉄タクシーで島の柴田さん、と言えばすぐ分かる」と、三竹会長から聞いていましたが、到着時刻が予定よりかなり遅くなってしまいましたので、そのお詫びをしようとお宅へ電話しますと、夫人が「すぐ車で迎えに行きます」と言われます。「運転大丈夫ですか?」と聞きますと、「大丈夫ですよ」と言われます。八十四歳の柴田さんからすると、夫人は多分八十歳前後と思われますから、運転は大丈夫なのかな……、道を教えて貰って私が運転しようかな……、などと思い巡らせながら待っていますと、十五分ほどして女性二人が乗ったミニカーが到着し、助手席から老婦人が降りてきて、「鵬翔の齋藤さんですか?」と声を掛けてきました。柴田夫人でした。車を運転してきたのは、長男の奥さんということでした。

  江戸時代はさぞかし賑わっていたであろう東海道金谷宿名残りの中心街を通り、町役場を過ぎ、田園の中の閑静な住宅街に入ると、まもなく柴田さんのお宅へ到着しました。

  玄関脇の応接間に案内されますと、柴田さんは安楽椅子に身を委ねながらテレビで相撲を見ていました。

  「お久しぶりです」と声を掛けましたが、耳が遠いらしく、こちらを振り向かれません。夫人がやや大きな声で、「おとうさん、鵬翔の齋藤さんが見えましたよ」と言われると、ようやくこちらを振り返えられました。

  そこには、私の記憶の中にある、眼光鋭く、酒を飲むといつでも一言も二言もあった、往年の柴田先輩の姿はなく、ひっそりと余生を送っているひとりの老人の柔和な顔がありました。

  昨年五月に開かれた創立六十周年記念集会の集合写真を見せ、「関根さんはここ、ここに中野さん、犬塚、野崎さん。それに向後さん、水上さんなども来てくれましたよ」と、古い会員の顔を指し示して説明すると、柴田さんは相好を崩して「懐かしいなあ、懐かしいなあ」と言いながら、何度も繰り返し見ておられました。

  突然「森田はいないのか?」と言われたので、夫人が「森田さんは亡くなりましたよ、お葬式に行けなかったので、お香典を送ったでしょう」と言われますと、「そうだったな。モリちゃんは死んじゃったんだ。藤さんはどうしてるの?」と言われます。そこで私が「水上さんは記念集会に出てこられましたよ。ほら、ここですよ」と話しますと、「おー、懐かしいなあ」と繰り返されていました。

  往年丹沢や上越の山々を駆け回った柴田先輩も、いまではひとりで外を歩くことはほとんど無理なようでした。

  「鮪のヅケ」をあしらったチラシ寿司などの昼食を用意してくれていました。車中で駅弁を食べた後でしたが、折角のもてなしと思い箸をつけたものの、食べきれず残してしまったのは申し訳ないことでした。

  「お酒でもお出しすればよいのですが。おとうさんは今は一滴も飲まず、家にはお酒を置いていないので……」と夫人が言われました。酒豪の柴田さんが今や一滴も飲まないとは、とても信じられないと思いつつ、健康を気遣う夫人の心情が暖かく伝わってきました。

  「折角来たんだから、泊まって行け」と、柴田さんは何度も何度も繰り返し言われましたが、翌日大阪で予定があるので、こちらも何回も何回も固辞し、記念写真を何枚か撮った後、呼んでもらったタクシーで、五時過ぎにお宅を辞去しました。

  柴田さんは玄関先に立って、静かに手を振って別れを惜しんでおられました。

  帰りの大鉄タクシーの運転手は、「柴田さんは、仕事に厳しく、大変有能な人だったと聞いています」と言っていました。金谷町では地元の振興に功績のあった人として知られているようです。

  昭和二十四年、大井川鉄道の新金谷〜千頭間の電化工事にあたって、電気技術者として国鉄から招かれたそうで、四十年にはバス部門に移り、取締役総務部長で定年を迎え、その後寸又峡温泉の系列ホテルの経営不振を立て直し、現役を引退したという経歴をうかがい、第二のふるさとを愛し、そこで悠々自適の人生を送っている姿を目の当たりにし、これまでにない深い敬愛の念を感じつつ金谷を後にしました。

(平成十二年三月二十九日記)

  追記

  私が訪問してからひと月後に、柴田さんは山の彼方へ旅立たれました。 私が生前最後にお目に掛かった鵬翔の会員となりました。苦しまず安らかに八十四年の生涯を終えられたとのことでした。合掌


遺 稿

回想の断片

柴田昌亮

  大井川の平凡な流れと、周囲の登高の対象にならないような起伏の山波を窓辺に見つつ毎日繰り返す生活は、長閑な環境を通り越していたたまれない気持だ。上越の山懐に抱かれて、岩にスキーに明け暮れた六年間の生活を思い出すと、何ともいえない淋しを現在の生活に感ずる事もある。

  ハイカー時代、谷川岳の頂きでチロルハットに破れたニッカーボッカーで、ザイルを肩に這い上がって来るクライマーを見て、よく好んで生命を賭けてまでこんな所を登るものだと、自分はその岳人の心理を不可解に感じ、岩登りなどは死ぬまでやる心算のないと思っていたが、二年の歳月を経た時、その不可解な心理の持ち主となり、チロルハットに破れたニッカーボッカーでザイルを担いで一ノ倉を這い上がっている自分を発見した。

  確か昭和十四年頃、丹沢唯一の山小屋が札掛に出来た初夏の頃、沢の水音に誘われてオバケ沢へ、次の日曜日にはキウハ沢へ入り、沢歩きのよさを覚え、滝の高巻きは次第に直登に変わり、安易な沢から難しい沢へ、西丹へ一睡もせず夜の雨山峠越えなどと、何時も気の合った自分独りの沢歩きが続いていった。一ケ月に十五日も山行をしていた当時の記録を、今余暇に手帖を開いて見入るとき、よくあれで勤務が出来たものだと感心してしまう。

  上越の山に魅せられて、やっと念願叶い、昭和十八年秋に谷川岳の山麓に生活出来る自分になったときは、愉快の絶頂だった。

  谷川岳の岩と心中しても一生何の悔いはない、人生の最大の幸福だなどと、猪突猛進的闘争意欲に燃えていたあの頃。冬は勤務の余暇に休日に、天気のよい日も吹雪の日でも、毎日スキーを穿いて転がって歩いた、あの懐かしいチョンガの時代。

  岩壁で落石にやられて片手でぶら下がったこと、雪渓の飛び移りにスリップしてやっと止まったこと、その時はたいした恐怖は感じていなかったのだが、静かに過去を回想する今、急に恐さを強く感ずるようになったのはどうしてだろうか

  今でも岩場を登れといえば二十才の青年に負けずに登るだろう。然し、五年のブランクと年令は果たして気力だけで補えるだろうか。登ってみなければ自分でも解らない事だ。

  何れ古き者は過去の先蹤者として、その道を誤りなく後進者が進む事が出来るよう指導して、自己を乗り越えて行く若い人々を愉しく見守ってやらねばならないだろう。

  山を歩きつつ山の愛情に心ゆくまで抱かれつつある自分を発見するときも、そう遠い事ではないと思っている。

  ところで、現在南アルプスの赤石山系とその周辺の開発の準備を進めている。今年会社に山岳部を設立し、天幕、シュラフ、アノラック、ランタンなど山の道具も大分購入した。 光岳頂上に山小屋を六十万円かけて完成した。指導標もそのうちに完備することにしている。山小屋をあと二ケ所設立する計画もあり、二十九年度に完成する予定だ。

  然し、赤石山系には夏山の雪渓と岩場がないのが残念だ。今秋光岳小屋へ冬期登攀の準備に登り、積雪期登攀と稜線のスキーに、愉しかりし上越生活の思い出を雪に埋まった新設の山小屋で回想にふける事も可能になった。

  静岡の地で再び愉しい山の生活が始まりつつある。

(『鵬翔』第百号 昭和二十八年十一月発行より)


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