鎮 魂 譜
宮井英明会員
5期 昭和60年4月8日没 |
宮さん、病との壮絶な闘いの末力尽く |
遺 稿 |
突 風 夕方から吹きまくって居た風も、どうやら落ち着いて来たと思ったら何時の間にか氷雨に変り、それもとうとう雪になって吹きつけて来る様になった。 「晩めしはパンだよ」 「一個かあ」 「馬鹿云へ、二個さ」 物足りない様な顔をしたが、それでもコッペの顔を見てしごくうれしさうな顔をして居た。Hは一心に鍋をかきまわして居る。温たかいシチューに舌つゞみを打つと、晝のつかれが出たのか何時しか瞼が仲良くなっていった。 ビューウ、風の唸り、天幕のはためきにふと眼がさめる。大分風が強い。雪がつもったのだらう天幕が大分弛んで来た。雪を掻き落として又横になる。寝つかれないのか、しきりにごそごそやって居るSが気になって仕様がなかったが、其の中何時とはなしに眠りに落ちてしまった。 傾斜地に立てた為次第に上部の者からおしつけられて、眼がさめた時には、もうすっかり明るくなって居た。風は相変らず猛れつに吹き荒んで外へ出る事も出来ない。 マイナス一度、大して寒さも感じない。吹きまくる斜面に用達しもすませ、朝食も終へればもうする事もなくなってしまった。籠城ときまれば気も軽く、午前中に記録を整理して置く。午后風は益々強くもう二十米突以上にもなるだらう。雪が氷りついて天幕のタルミも益々ひどくなって来たが、猛吹雪に辟易して除雪もせず横着をきめこんで、たゞ徒らに天幕の狭さをかこって居る。 午后四時、風も少し落ちた様だ。吹き付ける雪も次第に矛を収め、突風も来なくなり、天幕の唸りもいつかきけなくなってしまった。 谷から谷へ、峯より峯へ。 五時、今迄此の山嶺を我が物顔に馳けづり廻って暴れほうだい暴れて居た風も、流石に疲れてか、はたっとばかり急に静かになって、唯微風に雪がちらほらと舞って居るばかりである。 チャンス、機会! 活動開始! キヂ打ち、除雪、天幕補強と、中々忙しく、Sは鍋の蓋を振り廻して雪と大立ちまわりを、Hはバイルを振って天幕のはりなほしに、Mは中の大掃除に大童である。敢闘三十分、きれいになった天幕の中で、湯気をふくコッフェルの上に明るい顔が並んで居た。 風もすっかり止んで、たゞちらほらと落ちるぼた雪に白一色にぬりつぶされた山々も次第に黒のベールに包まれ様として居る。 先程から風の合間を制して用達しに出たMを、天幕の内からひやかして居ると、突然Mの声がとんで来た。 「半ちゃん、大変だぞ」 「何だい」 「おい、吹き返へしだ」 「何っ、そいつは大変だ、吹き返へしが来さうか」 「来さうかどころぢゃないよ、まだ大した事は無いが風がすっかり変って越後側から吹き上げて来てるぞ」 云い乍ら天幕のすそをあげてMが這ひ込んで来た。 こう暗くなってからではもう移動も出来ず、 「もし来ればでかいのがくるぞ」 弱ったなあ、弱ったなあと云ひ乍ら、さのみ弱った様な顔もせずにHは頻りに鍋を掻きまわして居る。 夕食も済んだ。後はもう寝るばかりである。じいっとして居ると、夜の静けさがひしひしと身に迫って、何となく無気味な、天幕の上から押し潰ぶされる様な感じに捕はれて来る。 六時半、風が出て来た故か、天幕がハタハタ鳴り出した。次第に風が強くなって、吹きつける雪も砂が飛んで来るのかと思わせる様になって来た。もう十五米突は吹いて居るだらう。夜も更けるに従ひいよいよ荒れて来たが、いつかS一人を残して、荒れ狂ふ吹雪もよそにMもHも遠雷の如きイビキを、外の吹雪と競って居る。 二十九日、五時、猛烈な突風が間断なく襲ってくる。たった一枚の天幕を境に外は相も変らずもの凄く吹雪いて居る。風は恐らく四十米突ぐらいに吹いて居るのだらう。今にも天幕ごと上側へ持って行かれさうだ。 寒暖計はマイナス二度を示して居る。熱い葛湯につらつら云ひ乍らやっと身体も暖まった。毛皮を背負って、天幕の支柱がわりに風上の方にもたれて居ると、襲いくる突風に突きとばされて、HとMはしきりにおじぎを繰返して居る。身体は大きいが気を使ふSは頻りに、軋しむ支柱を心配して気の落付く時もないが、神経質のMはいとも落付いたもので、閑暇さへあればねむって居る。 六時、朝食も済ませたが、吹雪は一向静まりさうもない。日数もあます処あと一日だ。晝迄に天候回復の見込みがなければ、いよいよ退却しなければならない。 Mは相変らずねて居るし、Hは頻りにパンを頬張って居る。Sは一人大きな声で歌って居た。 曰く「ウィンドヤッケにゃ袖がない」「ツエルトザックにゃ底がない」と。 十二時、吹雪も今朝程ではなく幾分衰へた様だ。晝食も鱈腹詰め込んだ。風も衰へたとは云へ今だ相当なものである。天候回復の徴も見えずいよいよ退却だ。ルックも詰めた。アイゼンも履いた。 天幕を飛び出したとたんに猛烈な突風を叩きつけられた。 陽春五月、最早や里では櫻が咲き、東京では散らうといふのに、此處國境の岸では、連日の猛吹雪に氷雪と化した一ノ肩を、アルペンに背負ったゾンメルが三つ、襲いくる突風に立ち止まり立ち止まり谷の方へ消えていった。 (鵬翔第71号昭和22年発行より 原文のまま 編者注 文中のイニシアルはS=関清薫、H=半田峰二、M=宮井英明) |