鎮 魂 譜

春日俊吉会員と茨木猪之吉画伯

春日俊吉氏(左)と茨木猪之吉氏(右)

(昭和18年8月涸沢にて撮影)

昭和18年6月名誉会員推挙

昭和50年7月7日病没

* 山岳画家茨木猪之吉氏は撮影の翌年穂高白出沢で行方不明となる

数々の著作を通して山岳遭難に

警鐘を鳴らし続けた作家逝く

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著作一覧 

書      名

出 版 社 出 版 年 月
日本山岳遭難史 三省堂 昭和8年5月
山に逝ける人々 朋文堂 昭和12年9月
山岳漫歩 昭和12年12月
山の遭難生還者 昭和13年12月
山と雪の受難者 昭和15年2月
山の初登攀物語 昭和15年7月
山の犠牲者物語 昭和17年8月
登山遭難の実相と対策 昭和刊行会 昭和19年4月
山に逝ける人々 朋文堂 昭和23年7月
山の受難者物語 昭和24年8月
帰らざる登攀者 昭和30年6月
山の生還者 昭和30年8月
処女峰に挑む 昭和30年9月
山岳遭難記 全6冊  昭和34〜35年
山狂 池田書店 昭和34年9月
黒いケルン 朋文堂 昭和38年1月
悲しみのケルン あかね書房 昭和41年3月
山の遭難譜

昭和50年

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登山遭難の実相と対策

 

挿入写真(森田達雄撮影)

「登山遭難の実相と対策」表紙

挿入写真(森田達雄会員撮影)

  一個人一個人の努力でも、その個人の腹の底に、何としても現下の登山界から、痛ましい遭難を根絶せしめようといふ熱意と誠意とがあれば、早い話が、五人出るところの山の遭難者を一人か二人の程度にまで、極限することが出来た筈である。だから、山の古参者乃至は老兵と呼ばれるほどの人々は、能ふ限りの機會を活用して、猪突・猛進する若人たちの駒のたづなを引締めてかかるに越したことはない。一つの山岳團體に、せめて二人か三人のかうした老實なる古参兵がゐたとすれば、その團體からは決して、不見識なる山の遭難問題などを出しはしなかつたであらう。あらゆる方面から観察して、相當の難行路を登らうとする意圖を有つ登山者は、山は單獨行に限る、單獨行ならば第一「氣が合つていい」などと氣分本位なこと言はず、まづ定評あつて十分信頼の置ける、やはり相當に看板の古い山岳團體に加入することである。

  すべての登山者が、みなさうした相當の登山團體の會員であり、その團體に前記のやうな老練なる指導者がゐたならば、わが國の「登山遭難史」のページページはもつと明朗で純化されたものとなつたに相違ない。古い團體には、必ずその團體固有の指導精神がある。次に、他の團體に對して、斷じて負けまい劣るまいといふ誇負がある。誇負のあるところには精進があり、向上がある。さうした有能な團體が、せめて五つか六つも加盟してゐるとすれば、府なら府、縣なら縣の山岳聯盟の業績たるや、けだし期して待つべきものがあるであらう。

 とはいふもののである。ここでまた谷川岳の話になるが、本年九月の十八日、マチガ澤をやるつもりでふと氣が變り、一の倉澤を登って本谷も第五ルンゼも判らず、行きづりの他團體(横濱蝸牛山岳會)二者に、せつかく第五ルンゼの草付近くまで引つぱりあげて貰ひながら一者墜死、二者不明、一者生存の遭難者一行中には、リーダーにして、今なほ行方不明の一者のみが府の岳聯加盟の一團體に屬してゐた。わたくしが、身を寄せるならば「古い老舗(かんばん)」の團體に、と特に強調したのもここのことである。生憎と歴史も淺い、ただ岳聯に席を置くといふだけ? のこの一團體は、急報によつてともかく救援の爲に、どやどやと十名近くの隊員が出動したのは大いによかつたが、正直に書くと、遭難が一の倉の本谷上部と聞いただけで早くも震へあがり、ただ肩の小屋と一の倉岳間の主稜を往復したのみで更に成すところを知らず、とど一同谷川温泉につかつてそのまま歸京して終わつたといふ。

  かふいふ山岳團體では、世上に幾ら存在したところでどうにも仕様がない。そこへゆくとわたくしの屬する一團體(鵬翔山岳會、實はこの三月、その例會に一席の講演を依頼された事よりして、忽ちこの會の幹部と肝膽相照し、四月、名譽會員といふ嚴しい肩書を頂戴した)などは、それとも知らず翌週二十六日、用具感謝祭(ザイルまつり)を頂上肩の小屋前の廣場で催すにつき、全員合して五十三名(うち十四名の主として婦人部隊は西黒澤經由)擧つて、一氣にマチガ澤、一の倉澤、幽の澤のいはゆる谷川岳東面集中登攀を決行、他の三名の優秀部員と共に、たまたま一の倉の第四ルンゼを登ったわたくし達が、すでに前掲の如く五體完全に粉碎され盡くした問題の墜落者(東京千住の人、山本昭一君・十七歳)に、ばったりと初對面を遂げた次第である。

  一の倉澤第四ルンゼ第三の瀧壺附近に在るこの遺骸に對しては、遺族たちの頓首哀願がいくたび繰り返されても、第一、地元の人夫衆が嫌がつて動かない。山の家の中島喜代志君が間に立つて、鵬翔さんが連れて行ってさへ呉れれば、人夫衆にも死體の始末をさせませうといふ。義をみてせざるは勇なきなり、十月の三日、われわれは起ちあがつた。前記、同じ第四ルンゼ第三の瀧附近より生還した増田匡治氏の際と同様、人夫、生存者を加へて同勢これは十八名、二週間をすでに經過して臭氣ふんぷんたる遺骸を、途中、筵包が岩にひつかかつて破れ、中からちぎれた頭部がハミ出すなどの騒ぎがかづかづあつて、同日午後三時、をりからの五體胴ぶるひの出る冷雨の中を、とにもかくにも一の倉稜線まて引揚げて、その父なる人の前に手交した。

  と、これは全くの餘談かも知れないが、わたくし達の會員はみた若い。親のスネをかぢつて學校へ通つてゐる者などは一人もない。みなそれぞれの職場を持つてゐる。それが實に山の有難さ、登山道の仁義を思へばこそ、めいめい會社や銀行を休む證明書を貰つてまで、言葉を重ねて勧誘するまでもなく、何れも二つ返事でかかる厄介至極な仕事に、欣然出動してくれたものである。

 本文には直接の関係がない、全くの餘談ではあらうけれど、わたくしは老兵の身としてただこれに同行、殆ど全部隊の推進と聲援とに當つたほか、ろくなお手傅ひもしなかつただけに、會の代表者森田達雄氏ほか關根庄壽氏、藤田新三氏、柴田昌亮氏、宮井英明氏以下の献身と努力とを、この機會にここに書き留めて置かずには居られない。讀者もわたくしの氣持を汲んで、この一挿話を鷹揚に見のがして呉れるであらう。

  なににしても、組織の力ほど大きなものはない。一本の矢だと容易にこれを打折ることも出来るけれど、矢が三本集まれば人間の膂力では折れぬといふ、毛利元就公の訓戒は千古の金言である。日本の登山界は殆ど最近に至るまで、この組織の偉力を十分に用ひるときを持たなかつた。

  これを學生登山界の事績に引證してみても、曾つて昭和七・八年の頃、關東學生山岳聯盟なるものが誕生して、一時はなかなか華やかに活躍した。が、個人本意の登山行事に、聯盟結成でもあるまいではないかといふ、一方の宿老慶應山岳部の不参加が大きな暗翳を投じたりして、僅か滿三年に至らずして、ウヤムヤのうちに解消して終つことをいま思ひ出す。友邦ドイツ民族などに比べると、わが國人は確かに、先天的に、この組織力において及ばざるところが遠いとは、すでに國を憂ふる識者の言のぴたりと一致する評語である。

(引用原典 春日俊吉著「登山遭難の実相と対策」拾遺 あとがき 3 原文のまま収録) 

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