「(旧)ユーゴ便り」改め
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2003/02/09

第65回配信
政治家のための新国家


ベオグラード・冬(03年1月、共和国広場)
   セルビアクロアチア語の i は英語の and に相当するので、新国家 Srbija i Crna Gora は文字通りには「セルビアとモンテネグロ」の意味になります。「私はセルビア=モンテネグロに住んでいます」と(日本語で)言った時にどこかで感じる違和感、齟齬感は、セルビア語で Zivim u Srbiji i Crnoj Gori. と言ってみるとさらに大きくなります。「私はセルビアとモンテネグロに住んでいる」(正確にはu Srbiji i u Crnoj Goriですが)という語感になるからです。この「私」はセルビアに家を持ち、モンテネグロに別荘を構えているのかも知れませんが、「私A」がセルビアにいて、同時に「私B」がモンテネグロにいるような精神分裂症的言説にも似た不気味さを筆者は感じてしまうのです。
   あるいはオーストリアかドイツでセルビア人なりモンテネグロ人なりの出稼ぎ氏が「お前はどこの出身だ?」と聞かれて「セルビア=モンテネグロから来ました= Ja sam iz Srbije i Crne Gore =セルビアとモンテネグロから来ました」と言ったら、いよいよ珍妙に聞こえてしまうでしょう。一つだけはっきりしていることは、これからそういう名前で自分の国の名を語る人がぐっと少なくなるだろうということです。「私はセルビアから来ました。彼はモンテネグロに住んでいます」の方がはるかに自然です。読者のお知り合いにイギリス人の方がいたとしても、「私はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国から来ました」とは言っていないでしょう?

   2月4日、最後のユーゴ連邦議会は新国家憲法と憲法施行法を採択、セルビア=モンテネグロ憲法が自動発効しました。これでこの11年間、その正統性に問題はあるにしても、モンテネグロとセルビア(+ヴォイヴォディナ、コソヴォ)を、いや91年以前はスロヴェニアからマケドニアまでをも一つにくくっていた国名ユーゴスラヴィアが消滅しました。
(左)議会のある日は連邦議会前に必ずはためいていた連邦旗も見納め (右)最後の連邦議会を開くべく議長席に着いたミチューノヴィッチ下院議長
この日の連邦議会は地元マスコミこそかなりの数が集まりましたが、外国プレスはAP、AFPなど国際大通信社の地元記者以外は数える程度で、邦人はベオグラード在住のジャーナリスト吉田正則氏と半分冷やかしでユーゴ消滅の瞬間を見に来た筆者の2人だけ。他には日本のマスコミの姿は全くありませんでした。
   議会傍聴の合い間に一人の老カメラマン、ミリサヴリェヴィッチさんと話す機会がありました。今年で83才、パルティザンとして第2次大戦を戦ったのち、写真ひと筋50年以上という彼は、この10年間連邦議会の記録カメラマンを務めています。「セルビアに住んでいてセルビア人であることは否定しませんよ。でもユーゴの名前がこうして消えてしまうのは、あまりいいことだとは思えませんね」。筆者のようなよそ者の在住14年(それもこの11年は「偽ユーゴ」に住んでいたわけですが)の「感傷」などとは比較にならない重みを感じさせる一言でした。
   上院に続いて下院も賛成多数で採択、引き続いて行われた上下院合同議会で「憲法の採択を宣言します!」というミチューノヴィッチ下院議長の宣言(公布)で新国家が形式的に誕生。要人、外交関係者らを集めてセレモニーらしきものはこの直後に行われましたが、新議会議員が揃い大統領が選出されるのは今月下旬にも予定される第一回の議会待ち、国旗や国歌の決定は先送り(下の日程表参照)。新国家スタートと言うにはちょっと寂しい感を残しました。

   前回配信でもお知らせした通り、
「妨害するくらいなら家に帰って寝てろ!」セルビア議会での憲法討議は人気回復を図るジンジッチ首相の独壇場に(写真=FoNet)
当初の昨年6月末予定を大きく遅れて12月に完成した憲法草案は今年1月11日に各議会審議に送られることが決定、さらに新憲法の各制度が定まるまでの「穴埋め」のための憲法施行法案が1月16日に定められました。この間27名から成る制憲委員会の主導権を握っていたのはセルビアのジンジッチ、モンテネグロのジュカノヴィッチ両首相派でした。それぞれの共和国での政敵、特にコシュトゥニツァ連邦大統領が率いるセルビア民主党が委員会への欠席戦術を取るなど妨害を続けたことが、国家成立がここまで長引いたことの一因となりました。大統領から首相にシフトしたモンテネグロの「永遠の権力者」ジュカノヴィッチが「3年後の独立に向けて全力を」と新首相としての抱負を語りましたが、この発言に対しセルビア民主党副党首のシャミ制憲委員は「3年後に離婚するのが目的で結婚しようというヤツがどこにいるか、バカバカしい」と怒ります。しかし一般市民にとってはモンテネグロが3年後に独立するのは分かり切った話ですから、空疎に響いたのはむしろ政治家のキレイゴトしか言わないシャミの方でした。
セルビア大統領になり損ね、連邦大統領職は消滅。ジンジッチの政敵コシュトゥニツァは当分「ただの(?)」野党党首
シャミの親分(セ民主党党首)であるコシュトゥニツァ連邦大統領も「セルビアとモンテネグロがそれぞれ独立しても明るい将来にはならない。変則的な共同国家だが存続できるだろう」とモンテネグロ独立に「呪い」をかけますが、当の本人が新国家発足を定め、3年後のモンテネグロ独立に青信号を出したベオグラード協定(昨年3月、第55回配信参照)の調印者なのですから歯切れは悪いものでした。
   1月27日にはセルビア共和国議会で憲法草案と施行法が討議されました。国家の枠組みを決める重要審議のため、共和国政府閣僚も全員出席の下での議会となりました。従来はジンジッチ派の提案にセルビア民主党が反対するというのがお決まりのパターンでしたが、こと憲法草案に関しては調印者を党首とするセ民主党が反対に回るわけには行きません。議会の結論は誰にも明らかな中、秋までは人気急落で苦境に立たされていたジンジッチ首相が人気のセ民主党に逆襲する政治ショーの場となりました。セ民主党の幹部ミハイロフ議員が、採決になれば憲法に自ら賛成票を投ずるのは承知の上であえて政敵ジンジッチ首相に「われわれに必要なのは消える国家ではなく機能する国家だ。モンテネグロ独立準備のためにセルビア国民がカネを出すのか」と迫りますが、首相は「長引く審議に疲れた、とか言って制憲委員会をサボっていた人たちがいるが、もう欧州評議会はシビレを切らして新国家の成立を待っている。疲れているんだったらウチに帰って寝ていてくれ!」と暴言スレスレの反論、これがジンジッチ派から大喝采を受けました。
憲法施行法による日程
1月27日(済)セルビア共和国議会で憲法、憲法施行法採択
1月29日(済)モンテネグロ共和国議会で憲法、憲法施行法採択
2月4日(済)ユーゴ連邦議会で憲法、憲法施行法を採択し新国家成立
2月14日両加盟国議会はセルビア=モンテネグロ議会議員選出法を採択
2月19日ユーゴ連邦大統領はセルビア=モンテネグロ議会議員間接選挙を(日付Aとして)告示
セルビア=モンテネグロ議会議員選出
B=A+5第一回セルビア=モンテネグロ議会:議長・副議長選出、大統領選出
B+5大統領は議会に閣僚候補名簿を提案
B+25全制度の法的基盤議会採択完了、裁判所判事選出
3月6日全制度成立
B+60国旗採択
2003年末国章・国歌採択
(注)日付は「この日までに」の期限を示す。制度構成についてはこちらをクリック
結局憲法は定数250のセルビア共和国議会で賛成166、反対47で問題なく可決。憲法施行法案は「国家解体を最初から前提としている」としてセ民主党が反対に回りましたが、ジンジッチ派も与党内部のセルビア独立派やセルビア社会党から分離した野党票などを集めることに成功し賛成130で通過しました。セルビア大統領になり損ねた政敵コシュトゥニツァは、新国家が成立すれば左表の間接選挙告示という形式的国務を最後に連邦大統領職は消滅していきますから、当分の間はただの野党党首です。ジンジッチは自らが主導権を握っての議会通過で、(セルビア共和国=共同国家加盟国内政面での)失地回復へ向けて足場を固めた格好です。
   モンテネグロにしても状況は似たり寄ったりでした。1月28日から29日に掛けて行われた討議では、ジュカノヴィッチ首相派の与党・社会主義者民主党とその仇敵、独立反対派の社会国民党がともに憲法に賛成の意を表明、97年の分裂後初めて同じ投票行動を取るという「歴史的」な採決になりました。その一方で与党連合にありながら独立を強硬に唱える社民党が反対に回り、また独立反対派でも小政党が憲法施行法に反対するなど、対立陣営がともに「仲間割れ」するという事態にも至っています。社会国民党のブラトヴィッチ党首は「私にもユーゴの名前がなくなるのは残念だが、この数年冷え切っていたセルビアとモンテネグロの関係をもう一度作り直し、改めて共同国家としての歩みを進めることが名前以上に大事だ」と新国家推進の理由を述べています。
モンテネグロ独立反対派の領袖ブラトヴィッチ議員。憲法には賛意を示し、新体制下で巻き返しを狙う
しかし昨秋の議会選で伸び悩んだ独立反対派としては、ここでこれ以上内政を混乱させるのは得策ではない、それよりも『3年間の独立凍結に成功した』と強弁を続けながら新国家議会で仕切り直し、セルビア側各勢力と独立阻止のための多数工作を図った方が賢明だという計算は見え見えです。
   この新国家成立は欧州連合(EU)の仲裁によりモンテネグロ独立を3年間凍結し、猶予(準備)期間を設けた、というのが唯一のポイントであって、それ以上でもそれ以下でもありません。「ユーゴスラヴィア」へのノスタルジーを抱える人は多くとも(ストラテジック・マーケティング社実施のアンケートによれば71%が「何らかの意味でユーゴ消滅を残念に思う」)、連邦と名の付くのは実際はセルビアだけが管轄の役所の名前だけ、セルビアはセルビアの、モンテネグロはモンテネグロの歩みを始めているのがこの数年の現実でした。共同国家には最小限の機能だけ持たせ、これからは「ユーゴ連邦〜庁」の役所の大半は「セルビア共和国〜庁」に看板を変えて、形と名前を現実に合わせていこうというのが趣旨だと言っていいと思います。当の共同国家も3年と少し後には消滅することを一般市民は誰もが承知しています。従って市民の生活にはほとんど影響しませんが、新憲法討議が加盟国内政の力関係を誇示する政治ショーにすり替えられ、新国家成立が条件とされた欧州評議会への加盟がまた政治家の「手柄」として使われることになります。セルビア=モンテネグロ国民に幸あれ、などと本気で思っている政治家は恐らく誰もいないでしょう。政治家の、政治家による、政治家のための新国家スタートです。

   付記:コソヴォに関しても若干の動きがありました。前回配信にも書いたようにモンテネグロが独立しセルビア=モンテネグロが解消された際、コソヴォ(現在形式的にはセルビア共和国内の自治州だが、事実上国連統治下の独立地域)独立には僅かな法形式論上のチャンスが残されています。しかし国際社会の多数の声が独立に反対している現状では、新国家成立に伴う政治的枠組み強化は独立論者には大きなマイナスです。1月末コソヴォ政府は国連安保理に対し、「新憲法はコソヴォの平和と民主化に対する挑発である。既にコソヴォ議会はセルビアとの共存を否定する宣言書を採択しており、われわれは民意に従って最終的ステータスを独自討議中である」とする抗議書簡を送り、新憲法の破棄を求めました。主要政党代表者もこれに先立つ1月29日、コソヴォの将来は「コソヴォ住民が決める問題だ」(コ民主連合ゼイネリ広報)、「早期独立を実現した上でEU統合プロセスに向かうことである」(コ未来連合ドゥゴリ広報)と述べています。

   旧社会主義連邦の時代から、各共和国はそれぞれの旗があって、そのうちスロヴェニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロは連邦旗同様の三色旗でした。スロヴェニアは上から白青赤、クロアチアは赤白青、それぞれ共産主義のシンボルである赤い星があったのですが、これを削除し紋章を付けて現在の独立国の旗としています。
モンテネグロとセルビアの旗、どちらがどちらでしょう??
92年のユーゴ連邦は旧連邦旗から星を抜いた青白赤の三色だったわけですが、ユーゴの名もなくなり、新国家はセルビアとモンテネグロの伝統の赤青白の旗にすれば問題はないはずです。で、筆者はモンテネグロとセルビアの旗は最近まで同じ三色だとばかり思っていました。モンテネグロ独立反対派に言わせればそれで構わないのですが、独立推進政権(ジュカノヴィッチ派)によれば、モンテネグロの旗はセルビアの旗とは違うのです!
   両加盟国は国旗が憲法に明記されているフランスなどと異なり、詳細を法律レベルで定めています。セルビアは上から赤、青(PLAV)、白。モンテネグロは赤、青(PLAVETAN)、白。ジュカノヴィッチ派に言わせれば左上に並べて示した旗のうち左側の青の淡い方がモンテネグロの旗だということになるのです。少なくともセルビアでは「公認」の辞書を使って筆者も慌てて調べてみたのですが、PLAVETANという言葉はPLAVの意味である、としか書いておらず、セルビア語を母語とする人の間でもPLAVETANは青であってPLAVと変わらないと考えるのが一般的なようです。しかし独立推進政権としてはセルビアと何でも少しずつ違わないと都合が悪いらしく、モンテネグロのある与党幹部は「ニコラ国王の定めた旗はPLAVETANだったのが根拠だ」と言い、この言葉が指す色は淡い青だと主張します。第一次大戦前ニコラ王時代のモンテネグロ王国憲法の言葉の使い方はそれで間違いないようですが、実は実際にニコラの時代に使われた旗の現物がベオグラードの博物館には残っていて、これは現在のセルビア国旗と同じ濃い青だそうです。紋章学者ポポヴィッチ氏は「本来同じものを違うと言うのはモンテネグロの権利かも知れないが、歴史をそれで捏造してしまうことを危惧する」と言います(週刊ニン誌1月16日付)。
青にグラデーションをかけて両加盟国が満足の国旗、という驚くべきモンテネグロ与党案
   しかしモンテネグロ側は止まりません。彼らに言わせればとにかくセルビアとモンテネグロの旗は違うのだから、折衷案として両加盟国が一応満足できるような新国家の旗を定めよう。というわけで出てきたのが、右図に示したように青の部分で淡い青から濃い青にグラデーション(デザイン用語で段階的にある色を違う色に変化させること)をかけた旗です。世界の国々の中には色数の多い国旗や複雑な紋章の入った国旗があるのは知っていますが、恐らくグラデーションのかかった印刷屋泣かせの国旗というのは前代未聞でしょう。「昨年3月のベオグラード協定では国のシンボルについて何も定められなかったが、この案で前進したと言えるだろう」と前出の与党幹部は自画自賛しています。
   もう一つ珍案も登場しています。紋章学者アツォヴィッチ氏によればパラグアイの国旗は裏と表が違うデザインなのだそうで(筆者は確認できませんでしたが、ご存知の方のご教唆をお待ちします)、これと同じように表が淡い青、裏は濃い青(または裏表逆)にしたらどうかというものです。もちろん当のアツォヴィッチ氏も「失笑を買うだけだろうし、出来れば止めた方がいい案」だとは言っていますが(日刊ポリティカ紙2月4日付)。
   でもグラデーションをかけたり、裏表が別の青だったり、という旗が大真面目に新国家議会の審議対象となるのでしょうか。一般論として、国旗は(たとえその国と旗が3年間しか続かないにしても)国民から愛されるデザインであるべきだと思いますが、この旗を有難く思う人が果たして何人いるでしょうか?まったく政治家の、政治家による政治家のための国家と言わざるを得ないと、改めて筆者は思うわけです。

   「あら、意外にユーゴ人は健在じゃないの」。昨年実施された国勢調査の結果が先頃新聞で発表された時の、ユーゴ人である筆者の妻の第一声です。
セルビア・ヴォイヴォディナ国勢調査結果抜粋 (単位・万)
カテゴリー91年 02年
総人口759750
セルビア人606621
ハンガリー人34 29
ボスニア人+イスラム教徒1816
ロマ人11
回答回避11
ユーゴスラヴィア人31
不明
クロアチア人
注:ボスニア人は昨年調査から新たに設けられたカテゴリーで、02年の項では旧来のカテゴリーであるイスラム教徒(ムスリム人)1・9万とボスニア人13・6万を併せた数字を示した。
第55回配信で取り上げた話題のその後ということで最後に報告しておきます。11年ぶりにセルビア(コソヴォを除く)で行われたこの国勢調査は、ユーゴスラヴィアの名前が消滅することが確定したベオグラード協定直後のタイミング。ティトー死去直後の81年には旧ユーゴ連邦全体で120万(セルビアで44万)だったこの「民族」は、社会主義退潮と民族主義台頭を受けた連邦解体前夜の91年には70万(セルビアで31万)に激減し、ユーゴの名前が消えることになった昨年調査では大幅減が既に予想されていました。
   今回の調査値発表に関連する各紙の記事でも、セルビア全体の人口減とともにユーゴ人の減少がニュースになっていました。都市部に多かったはずのユーゴ人は、首都ベオグラードでも8・8万(91年)から2・2万になっています。
2月5日付ヴェチェルニー・ノーヴォスティ紙1面見出しは「さらばユーゴスラヴィア!」
多くが民族出自に関して「回答回避」または「不明」、一部はセルビア人(首都で前回調査より4万人増加)他の民族のカテゴリーに流れたことは明らかで、私にはセルビアとベオグラードの「セルビア化」はちょっとショックなほどでした。ユーゴ人はこの10年で4分の1になってしまったことになります。しかしさらなるユーゴ人大敗走を予期していた妻イェレナ(両親はセルビア人)は「確かに150万都市のベオグラードで2万しかいないのはがっかりだし、中には旧多民族連邦軍の子弟とか筋金入りの共産主義者とか、ちょっと私と違うユーゴ人も少なくはないのでしょうけれど、ユーゴの名前がなくなると分かっていてなおユーゴ人を名乗り続ける人がこの国にはまだ私の他に80720人いるんだから。クロアチア人、モンテネグロ人(7万弱)よりは多いのよ」と逆に元気付けられた様子でした。もちろん、セルビア国民イコール「セルビア人」である、セルビア国民であることが大事であって民族出自なんかどうでもいい、という市民国家の発想が定着すればこんなことを話題にする必要もなくなるわけですが、それはバルカンでは何十年、百何十年先の話と考えるのが現実的でしょう。80721人のユーゴ人は「回答回避人」に次ぐセルビア第6の「民族」ということで、今回は妻とともに満足しておきましょう。

   ともあれ、旧ユーゴ社会主義連邦から成立した全ての国が「旧ユーゴ」になってしまいましたので、HPのタイトル「(旧)ユーゴ便り」からカッコを削除することにします。貴乃花が貴ノ花に改名するような、些細な、というかインチキ改名なのは承知の上ですが。あ、そう言えばこの名前も次の春場所からは消滅しちゃうんでしたっけ?

(2003年2月上旬)


ジンジッチ・セルビア首相の画像の版権はFoNet通信に属します。写真の一部は2002年9月に筆者が日本のテレビ局取材の関連業務中に撮影したものですが、このページへの掲載に当たってはクライアントの承諾を得ています。本文、画像とも無断転載はご遠慮下さい。

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