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第42回配信
V prirodni lepoti 自然美のなかに 昨年8月末から9月上旬、11月の2度にわたって日本のテレビ局の文学関係のドキュメンタリー取材で滞在したのですが、何しろ旧ユーゴでも一番端の地域ですから、12年近く旧ユーゴ各国を動き回っている私にとっても初めてのソチャ上流域でした。最寄りの空港はリュブリャーナではなく、イタリアのトリエステ空港(この空港はトリエステ市からはかなり離れたモンファルコーネ市の西、ロンキ町にあります)。アリタリアのローマ乗り換え国内線で到着した取材班と合流した私は、ソチャ川沿いの町モーストに住むラドヴァンさんの運転で北へ向かいます。かつては「鉄のカーテン」として旅行者にも厳しい取り調べと緊張が待っていたイタリア・旧ユーゴ(=現スロヴェニア)国境は、全く問題なくすんなり通過。何しろスロヴェニアも次回欧州連合(EU)入りの最有力候補ですからねえ。
素晴らしきかな、山々の澄んだ娘よ 自然美の中に際立つ透き通った深みは 暗い嵐の怒りにも濁ることはない 素晴らしきかな、山々の娘よ その流れは軽やかに躍る山村の乙女の歩み 明るさは丘の空気 通る声は活発な若者の歌 素晴らしきかな、山々の娘よ 元気なその波を眺めるのが好きな私 緑と青のその波を 深緑は山の草地、群青は空の高み 美しく溶かし込んだものだ 今回の滞在は仕事ですが、文学のドキュメンタリーということで、トルミンに住む文学者、ディミタル・アナキエフさんと一緒に山歩きをする機会に恵まれました。ソチャの支流、トルミンカ川を遡ってポロク地区までは車で細い道を30分。ここから歩き出してさらに山の中へどんどん入って行きます。山の清水を集めたトルミンカの清流が、ゴウゴウ音を立てながら谷間を流れます。道はくねって、その音が近づいたり、遠ざかったり。他には砂利や枯れ葉を踏みしめる私たちの足音しか聞こえません。心が清められるような所に、久し振りに来た気がしました。ついでに肺も清めればいいのに、軽い一汗の後の一服がまた美味いんですよねえ・・・。ふと見上げると、私たちの前にそびえる山に沿って、雲が微妙に渦の形を変えながら流れていました。 navzocna je zgodovina 歴史は現前する 「はるか下に、敵味方をへだてている河の流れが日に光っているのが見えた。尾根づたいに走っている、まだよくならしていない新軍用道路を進んでいった。北のほうの二つの山脈をながめると、雪線までは緑色にかげり、そこから上は陽光をうけて真っ白に美しく輝いていた。やがて道路が山の尾根づたいに登っていくにつれて、また別の山脈があらわれた。さらに高い山々で、白堊のように白く、しかも襞があり、奇妙な平面がいくつかついていた。すると、それらの山々のはるかかなたに、また山々が望まれたが、もうそれは、あるかなきかくらいにしか見えなかった。それらは、ことごとくオーストリア側の山だった。」(「武器よさらば」第一編第8章、新潮文庫版 大久保康雄訳)
戦乱に満ちた20世紀が終わった現在から見ると、特に日本人の私たちにとっては、第一次世界大戦はそれほどのインパクトをもって実感され得ません。しかし、1914年サライェヴォの「号砲一発」に始まった戦争は、歴史上なかったほど多くの国と、非戦闘員を含む多くの人々を巻き込みました。各戦域で塹壕戦のにらみ合いになったことから戦争は長期化し、これを打開するため迫撃砲、毒ガス、さらには地雷など、歴史の浅い兵器が本格的に使われることになりました。今でこそ静かなソチャ上流域は、この未曾有の戦争の中で「イゾンツォの戦い」として長く記憶される激戦地の一つになったのです。 1915年5月、イタリア国王ヴィットリオ=エマヌエーレ3世はオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告、ここにヨーロッパ戦線はイタリア・オーストリア・スイス国境600キロ分拡大することになりました。ソチャ沿岸地域は、トリエステなどと同様、開戦前夜はオーストリアに属していました。この戦線では当初イタリア側が優勢で、6月にはコバリド、クルヌ山を占領。これから12次にわたって繰り広げられたイゾンツォの戦いの中で、山岳地帯に無数の塹壕やトンネルが掘られ、トーチカが作られていきました。史上初めての2000mを越える山岳での戦争では、一進一退の膠着状況が長く続きました。トンネルを掘っているうちに敵のトンネルに行き当たってしまったり、敵のトンネルを真下から爆破するようなケースもあったと言います。クルヌ山中のバトグニッツァ峠は4200キロのダイナマイトの爆発によって形を変えてしまいました。しかし多くの弾薬が使われ、多くの兵士が倒れても、険しいこの地域の戦況は1917年秋まで大きく変化することはありませんでした。
10月24日、オーストリア・ドイツ合同第14軍は総攻撃を仕掛けます。北からオーストリア=ハンガリー第22師団、トルミン方面から第12射撃師団が前進しコバリド近くで合流、最初の数日でオーストリア側の優勢は決定的なものになりました。これがオーストリア側が「カールフライトの奇跡」、イタリア側が「カポレットの退却」と呼んで大戦後も記憶されることになった第12次イゾンツォの戦いです。イタリア軍はイゾンツォ、すなわちソチャ沿岸からの総撤退を決定、道には何万人もの兵士や難民があふれたと言います。兵士だった「武器よさらば」の主人公ヘンリーが脱走を図るのも、この「カポレットの退却」のどさくさだったことになっています。 上に書いたような戦史を語ってくれたのは、コバリド博物館のジェリコ・ツィンプリッチさんです。「17年秋以降、オーストリア・イタリア戦線はずっと西のイタリア北部、ピアーヴェ河畔に移動しました。なおもオーストリア側の優勢が続き、ヴェネーツィアまで攻め上る勢いでした。しかし19年1月のヴェルサイユ講和会議で第一次大戦は終結し、戦敗国となったドイツ・オーストリアは、北イタリアはもちろん、ソチャ川上流域も手放さざるを得なくなりました。多くの兵士の戦いが全くの無駄になったのです」。
「私の祖父もこの戦いで従軍しています。スロヴェニア人は両国軍の兵士として戦わなければならなかったのです。いずれにしても、この博物館はオーストリア、イタリアと分け隔てることなく、あるいはスロヴェニア人だけの犠牲を強調することなく、戦争の空しさを後世に伝えるために1990年に建てられました。これを語り継いで行くことが私たちの務めだと思っています」。イゾンツォの戦いをメインテーマとするコバリド博物館は93年、「ミュージアム・オブ・ヨーロッパ」に指定されました。
第一次大戦後、ソチャ川上流域は「戦敗国」オーストリアから「戦勝国」イタリアに編入されました。新生国家セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人連合王国(ユーゴスラヴィアの原型)はコバリド、トルミンより10キロほど東方を国境としており、この地域がユーゴスラヴィアに入るのは第二次大戦後のことです。1991年にはスロヴェニアが独立(国際承認は92年)しましたから、ソチャ上流域は20世紀の間に4つの国に帰属したことになります。 ampak, korak naprej されど、一歩前進 第二次大戦と91年の独立紛争時、幸いこの地域は第一次大戦時のような規模で戦火に巻き込まれることはありませんでした。今ソチャ上流域は、若い国家スロヴェニアの他の地域同様、いやそれ以上に観光の発展に努力しています。
なるほど、本格的な登山が好きな方にはトリグラウ国立公園はすぐですし(国立公園内は環境保護のため自動車の乗り入れ、キャンプ設営、騒音などに厳しい制限を設けていますのでご注意下さい)、それほど体力派でない方にもサイクリングコースは難度別に推薦コースが設定されています。太公望にはソチャ流域独自種と言われているマス(ポソシュキ・パシュトゥルヴ)釣りもお奨めです。 ルタル会長は、「今後は民泊施設や農家での滞在を楽しむアグロトゥーリズムを整備して行く方針です。しかし正直に言って、この地域の観光は始まったばかりですから、ホテルは5つしかないなど、まだ観光インフラが乏しいことは認めざるを得ません。」と言います。
オーナーのウラディミール・フヴァーラさんに話を聞いてみました。「高校を出て最初はトルミンのホテルで修業した後、スロヴェニア海岸のポルトロージュのホテルで働きました。その時にシーフードに開眼しちゃったんですね。25年前の当時、こちら地元では魚と言えば川魚で、シーフードなんてとてもとても、という雰囲気でした。でも海の珍味もソチャのマスも同じ場所で楽しめる方がいいじゃないですか。地元に帰ってきて最初は喫茶店を開業するのがやっとでしたけど、やがてはシーフードレストランをやるぞ、と心に決めていたわけです」。 念願かなってレストラン「トプリ・ヴァル」を開業、たちまち評判の店になり地元はもちろん、スロヴェニア中から客が来るようになりました。96年に旅行代理店コンパス社が経営していたホテルを融資を受けて買収、70日間で改装し現在のホテル・フヴァーラが出来ました。「今でも前の『トプリ・ヴァル』があった場所に最初に間違えて行ってしまうお客さんがいるんですよ。昔ここでおいしい魚を食べた、というのを覚えて頂いていて。コバリドは小さい町ですからすぐ今の場所も見つかりますけどね」。 因みにフヴァーラはスロヴェニア語で「有難う」の意味です。サービス業をするために生まれてきたような名字ですが、ソチャ上流域には多い姓だとのこと。伝統のない海の味をコバリドに定着させた気骨と、ボーイから鍛え上げて経営者になったフヴァーラさんのサービス業に対するしっかりした考え方。旧ユーゴには社会主義の旧態依然でダメなホテルはまだいくらもありますが、このホテルとレストランの滞在を気持ちのいいものにしているのはフヴァーラさんの半生が投影されているからであることは間違いない、と思いました。 「サマースポーツは10月いっぱいまで可能です。イタリアとオーストリアのお客さんが多いですね。それからフランスとスイスの方。でもアメリカ、カナダ、オーストラリアからも来てますよ。コバリド博物館が出来てからは歴史散策をされるご年配の方も増えました。ぜひ日本の皆さんにもマス釣りや山歩きをしながらソチャの自然や歴史を楽しんで頂きたいですね」とフヴァーラさん。ルタル観光協会長の言うように、若い国スロヴェニアの中でも、本格的な観光による地域振興が始まったばかりというソチャ上流域ですが、こうしたしっかりした人々が支えている限り心配はないな、と思いながらコバリドを後にしました。
(2001年2月下旬) 以下の各氏に謝意を表します:D・アナキエフ、Z・ツィンプリッチ(コバリド博物館)、M・ルタル(ソチャ上流域観光協会)、V・フヴァーラ(ホテル・フヴァーラ)、特記のない写真の大半は2000年8月、9月、11月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。 Hvala za sodelovanje: D.Anakiev, Z.Cimpric (Kobariski Muzej), M.Rutar(Turisticna zveza Gornjega Posocja), V.Hvala (Hotel Hvala/Topli Val). Vsaka uporaba teksta in slik brez dovoljenja je prepovedna. |
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