「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 99/08/02 2:38

第23回配信<筆者日本に一時帰省中>
祭典の町で話したこと


筆者撮影
   皆さん、今日は。今の紹介にもありましたが、私たちが三本柳小学校に来るのは、去年の長野オリンピックの時以来2度目です。あの時は皆さんが応援しているボスニアヘルツェゴヴィナの選手団と、皆さんの交流会の通訳でお手伝いをさせて頂きました。ボスニア・オリンピック委員会のボギチェヴィッチ会長は、この学校でこんなことを言いました。「『平和の祭典』と言われるオリンピックに、戦争が終わったボスニアから参加できるのは本当に嬉しいことです。みんなナガノから友情のメダルを持って帰りたいんです」。ボスニアの選手たちは本当のメダルは取れませんでしたけど、でも「友情のメダル」は持ち帰れたと思うんです。そしてそれは三本柳小の皆さんとの交流を通じて、ここで受取った「友情のメダル」だったと思うんですよ。皆さんの笑顔、ボスニア選手団の晴れやかな顔を見られて、私たちにとっても通訳としてとても思い出に残るいい仕事だったと思っています。
   で私たちはボスニアの隣のユーゴに住んでいます。去年は「平和の祭典」オリンピックをここで見られたのに、今年の春私たちは、そして私たちの住んでいる町は戦争に巻き込まれてしまいました。皆さんはボスニアとの交流を続けていますし、6年生の皆さんはこの春からユーゴやコソヴォの難民について勉強していると聞きました。どうしてそうなったか、とか誰が悪いのか、ということについては大人たちがいろいろ話を続けています。でも今日はそういう難しい話は抜きにして、私たちがベオグラードで体験したことを中心にお話したいと思います。
長野市立三本柳小学校

筆者撮影
長野市内の小中学校が長野五輪参加各国を学校ごとに応援する「一校一国運動」で、三本柳小学校のパートナー国がボスニアに決まったのはボスニア(デイトン)和平成立直後の96年1月でした。以来同校はボスニアの戦争被害と難民・地雷問題、84サライェヴォ五輪などをテーマに積極的な国際化教育を開始。地雷除去を目的とした校内募金などの活動を続けている他、長崎宏子氏(元五輪水泳代表)、ヤドランカ氏(ストヤコヴィッチ、ボスニア出身の歌手)、柳瀬房子氏(難民を助ける会)など多くの人が同校に招かれています。96年夏以降はサライェヴォ市ナフィヤ・サライリッチ小学校との交流が始まり、メッセージレター・ピアノ贈呈、栗林和雄校長のサライェヴォ訪問などが今までに行われました。今春も2教諭がサライリッチ小を訪問し、地雷被災児童のために三本柳小が行った校内募金が渡される予定でしたが、ユーゴ空爆開始による日本外務省のボスニア向け渡航危険度アップに伴い中止となりました。しかしこれを契機に新6年生はコソヴォ情勢をテーマとした勉強を始めています。五輪から1年半が経ち、「一校一国運動」を何らかの形で続ける学校も少なくなる中、同校はパートナー国との厚い交流を今も行っている貴重なケースだと言えるでしょう。Jと私は三本柳・ナフィヤ両小学校交流の周辺取材通訳などを通して、一昨年以降同小学校とのお付き合いを続けています。


   本業は通訳。だからヒト前に出ることはあっても、誰かの話したことを別の言葉に変えるだけで、自分のアタマで考えて話すなんてのは大の苦手・・・というのもあるし、ユーゴ空爆が始まってからベオグラードの状況ならともかくコソヴォ難民のことはきちんとフォローしていたとは言えないし・・・。三本柳小側から今回のミニ講演会について初めて打診があった時は正直言ってあまり乗り気ではありませんでした。
   「でもコソヴォじゃなくて、ベオグラードの空爆の経験でも、今の平和な、恵まれた環境で育っている日本の子どもたちにとっては貴重な話になると思います」と、三本柳小の先生に説得されてJと一緒に長野へ行くことになりました。難しい政治の話、空爆が始まって以来あまりちゃんと把握していないコソヴォとボスニアの状況についてはお話しできないので、ベオグラードでの生活経験をベースに一般論を話す、ということをこちら側の条件として承諾して頂きました。きちんと小学生の熱意に応えられる自信はないという不安と、何か自分の経験から還元できるものがあるかも知れない、という漠然とした気持ちの両方がありましたが。
   「(旧)ユーゴ便り」第23回配信は、余計なコメントは控えて、7月16日に私が長野の小学生(5・6年生全員プラス3年生1クラス)の前で話したこと、特にその後半、偉そうにハッタリをカマシたと、あるいは偽善的だと批判を受けるかも知れない部分をほぼ話した通りに書いてみようと思います。ただそれは自慢をタラタラしたいからではなく、結局何が話せて何が話せなかったのか、をこのページの読者の皆さんと一緒に再検討してみたいからです。「落書き帳」(掲示板)で皆さんの忌憚ないご意見をお待ちしています。前半の内容は爆音の恐怖や度重なる停電・断水による生活の変化ですが、それについては<ユーゴ戦争便り>という副題で第13回以降書いてきましたので思い切って割愛します。

   と言うわけで、戦争になって「ヒュー、ドーン」の恐い思いをしたり、モノがなくなったり停電や断水で困ったということはありましたけれども、一番イヤだな、と思ったことはそれではなくて、友だちと会えなくなったことです。私たちもこれから空爆になるぞ、という時にモノがなくなったりすることはある程度予想できたんですが、そういう淋しさがつらいことなんだ、っていうのは考えても見ませんでした。
三本柳小撮影
   ユーゴに限らずヨーロッパの大抵の国では、18才になった男の人は軍に1年間行かないといけません。これは徴兵制と言うんですが、でこの軍で初めて銃の扱い方を教わるんですね。それからもっと専門的なこと、つまり行けと言われた部署によって戦車の動かし方とか、大砲の撃ち方とかも教わるわけです。で平和な時ならそれだけで終わりなんですが、一旦自分の国が戦争になってしまうと、そういうことを教わった人は狩り出されるわけです。みんながみんな、ってわけではありませんが、18才から60才の男の人はいつ軍から呼び出しが来てもおかしくない、ってことになるわけです。で私たちの友だちの中にも軍に行かなくてはならなくなった人が3、4人出ました。やっぱり軍は厳しいところですから、そうするとそう簡単に電話で呼び出したり、普段半分ふざけて喋るようなわけにはいかないんです。じゃあ逃げちゃえばいいか、って言うと、やっぱりそんなことをすれば指名手配みたいになって捕まってしまいますし、18才から60才の男の人は勝手に外国に行ってはいけないことになりました。
   女の人はそういうことはありませんから外国に出られることは出られるのですが、ユーゴは日本みたいに豊かな国ではありませんし、外国で何ヶ月も暮らせるお金を持っている人はそんなにいません。私たちの一番仲良しの女の友だちがいるのですが、この人は5才になる女の子を連れて幸いギリシアに出ることが出来ました。ただこの子のお父さん、つまり友だちのご主人は警察官なんですが、やっぱり外国に出ることは出来ません。でご主人をベオグラードに置いて、娘と二人で、飛行機は止まってしまいましたからバスでユーゴから脱出しました。空爆されるかも知れない町を越えたりして大変だったみたいです。
   そんなことで私たちは仲良しの友だちなしでベオグラードに残ることになってしまいました。セルビア人って、週末になると友だちどうしで家に集まったりしていろんなことを喋ったり、大人だとお酒が入って大騒ぎになったり、ととても楽しい人たちなんですけど、そんなわけで空爆中は私たちも友だちと会えませんし、ベオグラードにいる友だちとも夜はさっき言ったように空襲警報が出ますから集まれないですよね、で淋しい思いをしました。
三本柳小撮影
   一番親しい友だち達がいなくなったら淋しいのは大人も同じです。そういう思いはJだけじゃなくて他のユーゴ人も同じだと思うんです。死ぬかもしれないっていう怖さプラスそういう淋しさですね。幸い先月で空爆は終わったからいいんですが、もっと長引いてもっとモノ不足が深刻になって、もっとお金がなくなったりしたら、まして身近に死んだりケガする人が出たら、もっとみんな心が荒んじゃったと思います。ココロガスサブ、っていうのはどういうことか、私もうまく説明できないんですけど、ただ私も空爆が続く中の生活でJと、どうでもいいようなことでイライラしたり、つまらないことでケンカしたり、って別に殴り合いするわけじゃありませんけど、口ゲンカですね、あと筋道立てて何をやるべきか、なかなか落ち着いて話が出来なかったりしました。戦争の中で、だから一番大変なのはモノがなくなる、とか電気や水がなくて困るとかじゃなくて、心の辛さに耐えなきゃならないっていう問題なんだな、と実感したわけです。

   というのが大体私たちが経験したことだったんです。皆さんに少しも戦争になるとどうなるのか、っていうことが分かって頂けたらいいんですが。で皆さんは戦争があったボスニアと交流を続けています。コソヴォやユーゴのことを勉強しています。困っている人たちを助けたい、という気持ちで募金をしたりしていますね。そんな皆さんですから終わりに少し難しい話をします。
   今までお話したように、戦争になれば困ったことがいろいろ出てきますね。で世界には日本人が観光で海外旅行に行くアメリカとかフランスとかイギリスとかいう国だけじゃなくて、250ぐらい国の数はありますがその大半は困っている国です。アジアやアフリカには戦争がなくても貧しくって困ってる国もあります。そんな国に対して日本の政府はいろいろな援助をしています。お金だけでなくて、例えば工場や道路や橋を作る援助もあります。ただそういうのは何千万とか何億とかいうお金で、とても皆さん一人一人や三本柳小だけで出来ることではありません。それに・・・そういうのはいいことなんですよ、いいことなんですが、ただお金やモノをあげる、という助け方はどうしてもあげる人がもらう人よりエラくなってしまいがち、ですよね。じゃあ皆さんは、あるいは三本柳小学校としては何が出来るでしょうか。
三本柳小撮影
   私はね、皆さんがボスニアと、ナフィヤ・サライリッチ小と交流を続けているのは素晴らしいヒントだと思うんですね。ピアノやメッセージレターを届けるところに私たちもいましたけれど、それって皆さんの心、皆さんの気持ちが伝わったとてもいいケースだったと思います。あるいは皆さんの中でナフィヤ小の子と文通を個人的に始めた人もいますよね。そういう文通にはどっちがあげるから偉い、とかどっちが貰うから小さくなる、とかないじゃないですか。ボスニアがどちらかと言えば貧しい、日本は平和で豊かだから、とか言うのとも違いますよね。皆さんの心、皆さんの気持ちが他の国の人の心、気持ちのレベルで交流できる、とても立派な例だと思います。

   というわけで、今後皆さんにいろいろな交流を続けて行ってほしい、その中で考えてほしい、という意味で最後にお願い、というか提案が3つあります。
   一つはボスニアとの友情、ナフィヤ・サライリッチ小との交流を続けて行ってほしいということです。一校一国運動を続けている学校も少なくなった、と校長先生から聞きました。それだけじゃなくて、皆さんのような形で他の国のことを勉強し、交流をしている学校は日本でも三本柳だけだといってもいい、素晴らしいことなんだと思います。だからぜひ皆さんの心が伝わるような交流を続けて下さい。文通をしている人は文通を続けてください。皆さんがサライェヴォからの手紙を楽しみにしているように、ナフィヤの子も皆さんのお手紙を楽しみにしているはずです。
三本柳小撮影
   二つめは、勉強を続けてほしいということです。6年生の皆さんは来年、5年生の皆さんも再来年には中学に進みますね。中学、高校、あるいは大学へ行く中で、じゃあさっき言ったように世界には戦争したり貧しくって食べるものにも困っている国がある、それはどうしてなのか、そういう中で日本という国が何が出来るのか、皆さんの一人一人には何が出来るのか。三本柳でこんなことをやったな、というのをヒントに一人一人がいろいろなことを勉強して行ってほしいんです。
   三つ目は、三本柳小としては何が出来るのか、もちろん皆さんもあと半年、1年半この学校にいるわけですから、今後三本柳がナフィヤと、あるいはボスニアと、あるいはユーゴなりコソヴォなりとどう付き合っていったらいいのか。皆さんの一人一人がどんどんアイディアを出してほしいということです。皆さんの中にいろいろな素晴らしいアイディアがあると思うし、それは一人では出来ないけど三本柳小としては出来ることとか、一つの小学校だけでは出来ないことも出てきちゃうと思うんですが、とにかくアイディアを出すのは校長先生ではありません。国際委員会の千葉先生でもありません。そうではなくて皆さんです。だから皆さんの一人一人がぜひ「こんなことが出来る」を考えて行ってほしいと思うんです。
   私とJはまた8月に遠いユーゴのベオグラードに帰りますが、皆さんの今後の交流がどうなっていくか楽しみにしていますし、出来ることは僅かですけれども、お手伝いが出来ることがあれば喜んでお手伝いしたいと思っています。最後にちょっと難しい話も入りましたが、これで私たちの話を終わります。最後まで聞いて下さってどうも有り難うございました。

児童の反応

  • でん気の輪っかみたいのがくらくなったりあかるくなるのはていでんというんですか。(3年、二木くん)
  • なぜ、同じ人間どうしで、ころしあったり、けがをさせたりするのか、人をころしている人が、どういう気持ちでころしているのか、わたしには理解できません。わたしは、ボスニアとの友情を、すごくすごく大事にしたいです。(5年、斉藤さん)
  • わたしが一番考えたのは、あげた人はえらい、もらった人はえらくない。わたしたちはこういうのを考えたことがないし、ましてしりませんでした。でもこういう気もちでいるのでしょうか。わたしは、たぶんみんなもだけど、そういう気もちじゃなくて、本当にたすけたいという気もちでやってると思います。わたしたちがそんな気もちでやっていたら、もらった人はうれしくもないし、もらいたくもない、くやしいと思います。(5年、丸山さん)
  • 一番心にのこったことは、中学生の子どもが「早く学校に行きたい」と言っていた。ということです。「ふつうは、学校が休みになるとうれしいのに」と私は思ったけど、ミサイルなどがいつおちてくるかわからなくて、外で遊べなくなっていると聞いて、「やっぱりたいくつなんだな」とかわいそうに思いました。(6年、徳永さん)
  • 一人一人がアイディアを出して、しえんや交流をつづけたいと思います。8月にベオグラードへ帰えられたらよければ、そちらの様子やボスニアの様子を教えてください。(6年、篠田くん)

  •    あっという間に日本での2ヶ月が経ってしまいました。前回配信で触れた石垣島でいい休養をし、長野では三本柳の皆さんの歓迎を受けて素晴らしい経験が出来ました。その他にもいろいろな方にお世話になりました。また日本滞在中もメールや落書き帳でいろいろな方からお励ましを頂きました。本当に皆さん有り難うございました。今回滞在でお会いできなかった方、連絡を差し上げられなかった方もたくさんありますがどうぞ次回の帰省までご容赦ください。ベオグラードに戻ってこれからも旧ユーゴ情勢を精力的にウォッチングしていきたいと思っています。(99年8月上旬)
    栗林和雄校長、千葉節子教諭、深水伸一教諭をはじめ長野市立三本柳小学校の皆さんに謝意を表します。画像は最初の2葉を除き三本柳小の撮影によるものです。無断転載をお断りいたします。

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