「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
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最終更新 7:31 98/08/02
第5回配信
戦争犯罪を裁く

  さる7月18日、ローマで行われた国際外交会議の結果、国際刑事裁判所(ICC)が発足することが決まりました。大量虐殺や戦争犯罪を裁くための司法組織が、初めて常設されることになります。旧ユーゴ紛争に関しては既にハーグに「旧ユーゴスラヴィア戦争犯罪法廷」(ICTY)があり、ICCのモデルケースとして活動しています。そこで今回は、クロアチアで現在進行中の第二次世界大戦中の戦争犯罪に関する裁判を紹介しながら、戦争犯罪を裁くことの意義と難しさ(いつも旧ユーゴのことを書くと話が「難しく」なってしまいますが)を皆さんと一緒に考えたいと思います。私は国際法の専門家ではありませんから、書き方が至らなかったり、私自身にも分からない点がいろいろと出てくると思いますが、皆さんのご教唆をお願いします。なお今回は別の仕事のためクロアチアでの現地取材が出来ず、下に「参考リンク」として書く地元メディアなどの情報を基に構成していることをお断りしておきます。

  第二次世界大戦が始まるとユーゴスラヴィアは枢軸国に占領され解体、現在のクロアチアとボスニアはナチスの傀儡国家「独立クロアチア国」の支配下となり、ドイツ同様クロアチア極右(ウスタシャ)政府によって強制収容所が作られました。そこではユダヤ人、セルビア人、ジプシーの他クロアチア人でも共産党員など反政府分子が大量に処刑されたと言われています。
  その中でももっとも悪名高いヤセノヴァッツ収容所は「バルカンのアウシュヴィッツ」とも言われています。が、そこでの死者数ははっきりしていません。多くのセルビア人が処刑されたことからセルビアの学者はよく70万という数字を挙げていますし、セルビア右翼の中には数百万という人もいます。一方クロアチア側は当然のことながら少なく見積もる傾向があり、6万5千というのが公式に近い見解です。世界最大のユダヤ人団体ブナイ・ブリス(本部=ニューヨーク)は死者60万、うちユダヤ人が2万5千と、セルビア側に近い大きな数字を挙げていますが、これも確証があってのこととは思えません。

  ところがこのヤセノヴァッツ収容所の元所長ディンコ・シャキッチ(76)がことし4月7日にアルゼンチンの潜伏先で逮捕され、6月18日身柄をクロアチアに送られました(写真)。戦後ユーゴ共産党政権は主な親ナチを戦犯として粛清していますが、これを逃れてカナダや南米などに渡ったウスタシャも多く、傀儡政府の元首パヴェリッチは亡命先フランコ独裁政権下のスペインで死んでいます。シャキッチも大戦後ユーゴ政府から戦犯として訴追されましたがアルゼンチンに逃れ、大西洋岸のサンタ・テレシータに住んでいました。アルゼンチンとクロアチアの二重国籍を持っています。妻のナーダ(アルゼンチン名エスペランツァ)もヤセノヴァッツ女性収容所の元看守で、この原稿を執筆中の7月24日アルゼンチン当局によって逮捕され、クロアチア政府が身柄の引き渡しを要求しています。
  6月29日、ザグレブ地裁でシャキッチ被告の審理が早速始められました。現時点では20人ほど予定されている証人のうちの8人が証言を終えましたが、何せ50年以上も前の話なので、シャキッチ被告が直接大量処刑に関与していたことを立証するのは非常に困難な見通しです。しかし、ともあれクロアチアはシャキッチ裁判を通して、過去の暗部と直面することになったのです。そしてトゥジュマン大統領も難しい問題を突きつけられる形になりました。

  青年時代のトゥジュマン大統領はティトーの指揮下でナチスやウスタシャと戦うパルチザンの兵士で、戦後もしばらくはユーゴ連邦軍の将軍を務めていました。やがて歴史統計研究所の所長となるのですが、この時「ヤセノヴァッツでは言われているほどの死者は出していない」など、クロアチア民族主義に偏向した発言が糾弾されて投獄されます。出獄後の90年、共産党一党独裁の崩壊とともにクロアチア民主同盟を結党、民族主義とティトー批判を売りに選挙で大勝し大統領の座に就きました。それ以来独裁色が濃いと内外から批判されながらも、トゥジュマンとクロアチア民主同盟の一枚岩体制が現在まで続いています。

強制収容所で

ヤコヴ・フィンチ証人(75、ユダヤ人)の証言。
  フィンチ証人は42年2月サライェヴォで逮捕され10月にヤセノヴァッツに収容された。その後45年の終戦直前までスターラ・グラディシュカの別の収容所とヤセノヴァッツの間を行き来することになった。
  「シャキッチは44年10月、3人の処刑に立ち会い、その際に演説を行った。彼が看守長だった時代、ユダヤ人1人を含む2人が絞首刑になった。
  42年にはスターラ・グラディシュカのユダヤ人400人が処刑されている。スターラ・グラディシュカから30キロ離れたヤセノヴァッツまで歩かされたことがあったが、この時に身体の弱っていた人が200人以上殺された。ヤセノヴァッツに着くとすぐに金品を没収され虐待された。同収容所では44年秋から大量処刑が始まった。連合軍による陥落直前の時期には800人の女性が一度に殺されている他、700人の収容者が殺されて列車で運ばれることがあった。スターラ・グラディシュカの墓場から死体が証拠隠滅のために掘り出され処分された。」


  問題は犠牲者の数ではなく、トゥジュマンと彼の民族主義政党が、この独立クロアチア国という明らかにナチに加担した過去を正当化しようとし続けていることです。トゥジュマン大統領は、「大戦中のクロアチア独立国家は確かにファシスト国家という側面はあるにしても、まずクロアチア人の独立の意志が実現したもの」という自分自身の解釈を繰り返し発表しています。新政権が誕生してすぐに、ザグレブにあった「ファシズムの犠牲者広場」は「クロアチアの偉人広場」に名前が変えられてしまいましたし、独立を果たして導入した通貨の名前は、親ナチ国家時代と同じ「クーナ」です。クロアチア軍の制服もウスタシャ時代のものによく似ていると言われています。クロアチア民主同盟の中でトゥジュマンに近いとされる右派はネオ・ウスタシャに親近感を抱いていると思しき言動を続けています。またトゥジュマン自身が95年にアルゼンチンを訪問した際、短時間ながらシャキッチと会っていることが明らかになっていますし、シャキッチの言によれば「再会を約束した」とのことです。この時トゥジュマンはメネム・アルゼンチン大統領に「戦争に敗れ祖国を失ったクロアチア人(つまり戦犯ウスタシャではなく「愛国者」です)に亡命先を提供してくれたこと」に対する謝意を述べています。

  歴史の修正が、なかば堂々とまかり通っているのです。まるでファシズム国家は正しかった、強制収容所はなかった、とでも言うかのように。

  今回もシャキッチ逮捕に向けてアルゼンチン当局が動くように働きかけたのはクロアチア政府ではなく、ユダヤ人の団体シモン・ヴィーゼンタールセンター(本部=エルサレム)でした。同センターのズロフ会長は7月上旬クロアチアを訪れ、「われわれはシャキッチ有罪の決定的な証拠を握っている。もし彼が無罪になるようならクロアチアの司法もクロアチアという国家もただの茶番に過ぎないことになる」とまで言っています。
  しかし、シャキッチ裁判がドタバタ喜劇に終わる可能性は高い、と言わざるを得ません。中立系マスコミに比べ圧倒的に強い体制系のメディアは、様々な形でシャキッチに対する「判官びいき」の国民世論を形成しようと懸命です。
  「シャキッチは笑顔の似合う、人生の酸いも甘いも知り尽くした好々爺。サッカーW杯のアルゼンチンークロアチア戦をテレビで見ると言っている。」(体制系テレビに引用された刑務官のコメント)
  「シャキッチは誰も殺していない」(ある証人が「被告本人の手で誰かが殺されているかどうかは、見ていないので分からない」という証言をした翌日の与党系新聞の見出し)
  また間もなく国選弁護人の任期が切れ、新たな弁護団が選出される運びですが、主任弁護士の候補者の名前として挙げられているのは、明らかに与党の息のかかった元司法高官や現副首相の夫などです。
  AIMなど中立系のメディアは鋭い批判を続け、人権監視団体「ヘルシンキ人道委員会」クロアチア支部も警告を発していますが、大衆の声となる可能性は少なく、トゥジュマン政権がこれで大きく揺らぐというところまでは行かない見通しです。今後も私はシャキッチ裁判のウォッチを続けますので、大きな動きがあった場合はここに続報を伝えようと思っています。

*参考リンク

  • クロアチアテレビ(HRT) 英語版ホームページ
    国営テレビのサイトなので内容に疑問はありますが、シャキッチ裁判に関する情報量では一番です。シャキッチのザグレブ空港到着を報ずるニュース(クロアチア語、このページの写真2葉もここから借りました)は右の写真をクリック。
  • AIM(Alternativna Informativna Mreza)
    旧ユーゴの各地の情報を中立の立場から伝え続ける通信社。セルビアクロアチア語版に比べやや情報量は落ちますが、主なニュース、解説記事は英語で読むことが出来ます。
  • ヘルシンキ人道委員会クロアチア支部
    各地で人権・人道問題を監視する団体のクロアチア支部。

  •   世界各地で今も紛争が続いていますし、今後も悲しいかな、戦争はどこかで起こるでしょう(2度の大戦と今回の紛争で、バルカンの人々は一生に一回は戦争を経験してきたのだから、また次の世代にはバルカンで戦争が起こる、という悲観論も当地では時々聞かれます)。そして前線の後方では非戦闘員の大量虐殺や集団レイプといった、陰湿な戦争犯罪が起こります。その意味で平和や人道に対する罪を裁くICC創設は意義の深いことだと思いますが、シャキッチ裁判は「戦争犯罪に時効はない」という意味での積極的意義と、50年余が経ってから、しかも上に書いたような政治的文脈の中で裁くことの困難の両方を教えてくれるものではないでしょうか。
      それにICCが機能するかどうかという疑問も、条約採択によって消えたわけではありません。ローマで行われた五週間にわたるケンケンガクガクの議論の要点は、大きくまとめて次の二点に集約できるでしょう。

  • 中立・独立は保てるのか。国際政治や戦争当事国の政治の影響を免れられるか、また逆に国益や国家主権の侵害を招かないか。
  • 誰(どういう機関)がどこまで捜査し逮捕できるのか。どの罪までが対象になるのか。
      この国際会議が開かれる契機ともなったのが、旧ユーゴスラヴィアの戦犯を裁くICTYの活動でした。既に法廷が設けられてから5年が経ちますが、まだ大物の逮捕には至っていません。特にボスニアのセルビア人指導者カラジッチを逮捕できるかどうかが、今後ICTYそしてICCの行方を占う試金石だと言えるでしょう。周知のようにボスニア紛争では民間人の大量虐殺や集団レイプが行われましたが、カラジッチ自身が自分の支配地域でなされたこの戦争犯罪を承知していたのではないかと見られています。しかしボスニアに駐留する多国籍軍和平安定化部隊(SFOR)がなかなかカラジッチを逮捕できず、公式のSFORの立場とは別に、報道関係者の間では「まだカラジッチの人気が地元セルビア人の間で高く、逮捕劇になれば住民が騒動を起こすから、SFORに参加しているどの国の軍も恐くて手が出せないのだ」という見解が広まっています。まさに誰がどこまで捜査できるのか、の問題です。またカラジッチがハーグの法廷で証言すれば、ユーゴのミロシェヴィッチ大統領はおろかクロアチアのトゥジュマン大統領もこの戦争に深くコミットしていたことが分かってしまうし、そうなれば彼らの訴追も免れ得ないだろう、とも言われています。
      9月にはボスニアで総選挙が予定されていますが、戦犯の処理がない限りは和平は前進しないという見方もあります。では逆に戦犯が逮捕されて裁かれれば(それには大変な時間が掛かるはずですが)、敵対し合っていた各サイドの市民がまた「多民族共存」を実現できるのでしょうか。私にはそれほど物事は単純ではないと思えるのですが、いずれにしても今後の動向を注目して行きたいと思っています。(98年7月下旬)

    LJUBAZNOSCU KOLEGA IZ HRT-A; SVA AUTORSKA PRAVA NA OBJE FOTOGRAFIJE ZADRZAVA HRT. STROGO SE ZABRANJUJE SVAKA UPORABA BEZ OVLASCENJA HRT-A.
    このページの写真2葉の権利はクロアチアテレビ(HRT)に属します。無断転載をかたくお断りします。掲載を許可いただいたHRTに謝意を表します。

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