* 小さい時から何時か行ってみたい聖地の1つに、今回巡礼できました。
   こんなに早く行けるとは思ってもいませんでした。たくさんの巡礼の人々が滞在した2日間、
   絶えることがありませんでした。少しでもこの感動を伝えることが出来ればと思います。
   左側の写真をクリックすると大きな写真になります。

ルルドの大聖堂正面 ルルドの大聖堂正面 洞穴の中の聖母像
グロット(洞穴)の上に立つ 大聖堂の正面 洞穴の中の聖母像
グロット(洞穴)から見上た聖堂の側面 グロット(洞穴)から見上た聖堂の後方
グロット(洞穴)から見上た 聖堂の側面と後方
グロット(洞穴)の前の広場
グロット(洞穴)の 前の広場

大聖堂のモザイク画一部 大聖堂のモザイク画の一部 大聖堂のモザイク画の一部
大聖堂のモザイク画の一部

   フランスのパリの空港から国内線を乗り継いで、トゥルーズ空港へそれから高速バスで3時間
   近くでルルドに到着します。この村は中央にガブ川が流れ、一方に岩山があってその上に城が聳
   える小さな町です。ルルドの青少年の中で、最も無知で最も貧しかったベルナデッタ・スビルー
   当時14才のこの少女に、1858年2月11日〜7月16まで、18回にわたり聖母マリアが出現し、
   9回目の出現の際、「水を飲み顔を洗いなさい」の言葉に従い、地面をベルナデッタが手で掘ると
   そこからこんこんと水が湧き出で、その水によって奇跡的に治癒した病気の事例がいくつも医学
   的に認定されていることで有名です。
グロット(洞穴) 湧き出るルルドの霊水(洞穴の中)
グロット(洞穴) 湧き出るルルドの霊水(洞穴の中)

   ベルナデッタの生家の前に小さな修道院があり、その修道院のシスターが今も大事に
   守っていてくれていました。閉館する5時ぎりぎりに私は訪ねることが出来ましたが
   気持ちよく閉館を待ってくれました。その当時使っていた道具もそのままありました。
    ベルナデッタは1844年1月7日粉挽き屋のフランソワ・スビルーとルイズ・カステロの
   第一子として生まれる。ベルナデッタの家庭は失業、疎外、悲惨な生活を余儀なくされ、
   社会の底辺に追いやられ、疎外されていた人々の中に数えられていました。1月9日洗礼。
   洗礼名はベルナルド・マリー。
    1856年フランソワ・スビルーは相次ぐ失敗のために失業し、住む家も無くなりました。
   従兄弟のアンドレ・サジューがフランソワとその妻、4人の子供たちを狭く、非衛生的な昔の
   牢獄跡の部屋、「カッショ(Cachot)」に迎えましたが、それは極貧の状態でした。現在、その
   「カッショ(Cachot)」も見ることが出来ます。
    1866年7月7日、ベルナデッタ(22才)はヌヴェールにあるサン・ジルダール修道院
   入り、7月29日修道服を受けることになります。1879年4月16日、ベルナデッタ 修道名
   スール・マリー・ベルナールはサン・ジルダール修道院の聖十字架病室で静かに息を引き取り
   ました。享年35才の若さでした。
ベルナデッタの生家
ベルナデッタの生家

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