「チビチリガマ」の紹介


 「ガマ」沖縄では鍾乳洞のことをこう呼びます。戦時中は、ガマは格好の
   避難所として使われたので、ガマはしばしば壕とも呼ばれた。
   「チビチリガマ」
もその壕の一つです。
    ガマは南部一帯に特に多く、規模も大きいため、住民だけでなく軍隊 まで、
   長くそこにかくれひそみ、生活もした。
    そして戦線が南部に移ると、軍による壕追い出しが頻発し、軍民が雑 居した
   ガマでは、食料強奪、幼児虐殺、スパイ容疑・処刑などの惨劇がくりひ ろげら
   れるようになった。
    また、アメリカ軍は、ガマの中の日本軍を全滅するため、馬乗り攻撃 をかけ、
   火炎放射器、爆雷、黄燐弾などを、無差別に穴口からしかけたため、多 数の住
   民がガマの中で死んでいった。
    沖縄戦が終わったころの最後の二週間で、およそ八万人の避難民が喜 屋武(
   きやん)半島のガマの中からはい出てきた。その半数は負傷者だった。
                          (平和への証言より )



私たちが「チビチリガマ」を訪ねた日の新聞に「チビチリガマに貴重証言」と いう記事
が52年経ったにもかかわらず新たな証言の記事が掲載されていました。下記 を参照。
 この写真で説明された方も、よく一般に「集団自決」と言われているが、決 して「集団
自決」ではない、「集団死」だと語気を強くして、説明してくださいました。

<新聞記事の一部より>
「 米軍上陸直後の1945年4月2日、読谷村波平のチビチリガマで住民8 3人が命を
絶った「集団死」から半世紀以上が過ぎたが、沖縄国際大学文学部の石原昌家 教授がこの
ほど、ハワイに在住するガマ」の生存者から貴重な体験談を聞き取ることに成 功した。住
民が集団死まで追いつめられる様子を克明に記憶したその証言から、同教授は 「投降を絶
対に許さない日本軍の存在と”鬼畜”といわれた米軍に挟まれ、絶望的状況か ら集団死に
至るまでの、これまで不透明だった部分を結び付けるものだ」と説明している 」


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