蟻
【プロローグ】
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「あっ、ええもん落ちてる...」
父親の部屋で遊んでいた少年は、午後の暖かい日差しにキラリと光る物を見つけた。
見たこともない不思議な形をしたガラス瓶を拾いあげると、大切そうに小脇に抱えて部屋の外に出て行く。
「ただいまぁ〜」
「おかえり、また おとうちゃんのお部屋へ入ったんでしょ。大切なお仕事のモノ が沢山あるから、勝手にいじったらあかんよ。」
「おかあちゃん ちょっと用事あるから出かけるね。ご飯までには帰るけど遅なるかもしれへんから、お腹減ったら おやつ食べとき」
「やったぁ、ゆっくりしてきてええよ。」
「ちゃんと宿題先に済ますんやで。もうおとうちゃんの部屋に行ったらあかんよ。 行ってくるね。」
少年は返事もせずに2階の自分の部屋へ駆け上がり、さっき拾った瓶を机に置き、楽しそうに眺めていた。いつ入り込んだのか、1匹の蟻が瓶の中を歩きまわっていたが、見ているうちに瓶の外に出てきた。その瓶は不思議な事に所謂「入り口」がない。いや出口と言うべきか、その出口もない。外に出てきた蟻は瓶の上を歩いていると、気がつくとまた瓶の内側にいる。
「ねえ、おとうちゃん。見て、これ変な恰好してるでしょ」
久しぶりの家族全員が揃った夕食。少年は少し自慢げに、父親に拾った瓶を見せる。
「なんや、また勝手に部屋はいったんか。これはな、クラインの壷とゆうて、 瓶の外側と内側が繋がっているや。ほら蟻を見てみ。歩いていきよるうちに、 外に出てきたやろ。そのまま見とってみ。また中へはいりよるから...」
「僕知ってるよ。さっき蟻が出たり入ったりしとったもん」
「あなた、何ですのん? その何んとかの壷 言うの? また妙なモンつくらはったん?」
「昔、クラインと言う数学の先生が、こんな恰好の壷を作れば、壷の内壁と 外壁が繋がった不思議な形ができる事を発見したんや。」
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【反物質推進装置実証実験室】
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「教授、やっと学会用のデータが取れました。」
「そうか、それで反粒子密度はどうやった?」
「測定誤差以上の値を観測出来ています。」
「ついにやったな。で、再現性は?」
「間違いないです。」
「それで、気密容器はリークしていないだろうね。アレは僅かでも漏れると 大変な事になる。念には念を入れてチェックしておきなさい。」
「はい、判りました。でも今度の学会発表は大変な騒ぎになりますね。 これで恒星間ロケットのAMTエンジン理論が実証できたわけですから。」
「やっと苦労が報われるわけやね。ついでにエネルギ変換効率の計算も しておきなさい。理論値とのフィティングの結果を明日議論しよう。」
翌日......
「先生、どうも理論値よりも高いエネルギが出ているようなんです。」
「何回かチェックしたの?」
「はい、あれから何度も実験をして、理論値との比較をしたのですが、どうして も、余分のエネルギがどこからか入り込んでいるようです。」
「まずいな、リークの可能性があるな。物質収支の計算にとりかからなあかんな。 反応容器自体か外部物質との反応の可能性を調べよう。 スグにパワーを落すようにしなさい」
「今から取り掛かって、プラズマが冷えるのに半日、それから反物質を回収 するのに、1週間はかかります。そうすると学会には間に合いません。」
「気にするな、学会には昨日のデータをまとめて発表するしかないな。 それよりも安全確保が優先やと、思って諦めよう。」
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【晩餐(2)】
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「孝則、昨日拾った瓶、もう一度見せてくれへんか?」
「うん、ちょっとまってて」
父親は、手に取った瓶を眺めながら、なにやら考え込んでいる。
「なあ、おとうちゃん、それそんなに面白いの?」
「今な、研究所でやってる実験で、これのもっとデカイのを作って、やってるん やけどね.......ちょっと昨日リークがあって.....」
「孝則、おとうちゃん また考え込んでしまわはった。もう何ゆうてもあかんから 今日は寝なさい」
お茶を持って来た母親が、またかと言う顔で言った。
「ねえ、おとうちゃん、おとうちゃんってばぁ...リークって何?」
「ん? ああ、リークゆうんは、漏れる、ゆうこと.....」
「なあ、これ中と外が繋がってるんでしょ。そやったらザザモレやんか。」
「あはは、そうやね。うまく漏らして反応させるのに、これ使こてるんや。 今日はもう遅いから、寝なさい。」
しぶしぶと、少年は2階に上がってゆく。