うっちいの音楽箱!特別企画『もっと!MOZART』

晩年〜 早すぎた晩年

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モーツァルト墓標

ウィーン聖マルクス墓地に立てられたモーツァルトの墓標。モーツァルトは共同墓地に埋められたため、どこに埋められたのか正確にはわからないままである。

「コシ・ファン・トゥッテ」は、そんな中でも数回上演され、一応の成功を収めた。しかし、しばらくしてヨーゼフ2世が死去する。 ヨーゼフ2世は、モーツァルトの才能を愛し、彼のオペラは必ず観に行く皇帝であった。その彼の死により、モーツァルトの生活はますます苦しくなっていく。

「あなたの音楽を、大衆は待ち望んでいる!」
エマヌエル・シカネーダーがモーツァルトに「魔笛」の制作を持ちかけたのは、モーツァルトの死の年、1791年であった。 もはや、モーツァルトはウィーンの貴族たちには受けなかった。しかし、それでもモーツァルトには2つの味方があった。 大衆とプラハ市民である。モーツァルトは「魔笛」を作曲しつつ、プラハから頼まれたオペラ「皇帝ティートの慈悲」の制作にも取りかかる。 そしてもう1曲、最後の曲にもとりかかった。「死者のための鎮魂ミサ」、いわゆる「レクイエム」である。

レクイエムは、ヴァルゼック・シュトゥパッハ伯爵が亡き妻に捧げる自作のレクイエムとして発表するべく、モーツァルトに名を明かさずに依頼したものであった。 モーツァルトは不審に思いながらも、金のために作曲にとりかかる。はじめて書く「レクイエム」。 そのレクイエムの筆を進めるにつれ、モーツァルトから魂が少しずつ抜けていくように、体調が悪化し始めた。

「死は人間にとって最良の友である。」 かつて、父の死の際にモーツァルトが言った言葉。この言葉の通り、モーツァルトは死に際して安らかな気持ちで臨んだのであろうか? 10月に書いたクラリネット協奏曲のやさしさは、諦念の境地であろうか?


「魔笛」は空前の大ヒットであった。これは、それまでのヒットとは違った意味があった。大衆を巻き込んでの大ヒットだったのだ。 それまで音楽は、上流階級のものであった。しかし魔笛は、しっかりと大衆の心を捉えて離さなかったのである。

空前の大ヒットを部屋の外で感じながら、モーツァルトはついに病に倒れ、床に伏したままとなる。 友人達に、作り途中の「レクイエム」を試唱してもらい、「ラクリモサ「涙の日)」のところで激しく泣き出した。

「”魔笛”をもう一度みたい。」

モーツァルトは力無く言う。友人がパパゲーノのアリアを歌った。

「”俺は鳥刺しパパゲーノ・・・”」

そのうちにモーツァルトは昏睡状態に陥る。そして1791年12月5日。日付が変わってまもなく、モーツァルトは息を引き取った。 まだ35歳であった。

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